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2.心に傷
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そうだ――大した悩みなんかじゃない、大した愚痴なんかじゃない。
世の中にはもっと苦しんでいる人だっているし、もっと辛い気持ちを抱えている人がいるんだから。そう思えば自分の悩みなんて地球のゴミくずも同然じゃないか。
――そうも思ったけれど。
でも、心が千切れそうだった。
心が死ぬということは、こういうことなのだろうと思った。
『ごめん、夕。もう会えないんだ。俺のことは―――今日限りで忘れてくれ』
『え…?』
その話を打ち明けられたのは、自分一人では絶対に入れないような銀座の洒落たバーのカウンターでのことだった。
バイト上がり、目をやった携帯電話に「会いたい」という一言を見つけて、夕は喜び勇んでこの場所までやってきた。
会いたいといわれるときには、必ずすぐにタクシーで飛んでいく。これが二人の間にあったルールだった。
タクシー代は相手が払うから夕は一切気にしなくても良い。どこかに飲みにいくときにも食事をするときにも全ての支払いは相手が受け持っており、夕はただ相手に会い、それに付き合えば良い状態だった。
とはいえ、これは援助交際の類ではない。
夕はその相手を本当に好きだったし、食事や何かにかかる金銭だって出せといわれれば出すくらいの気持ちは持っていたのである。
本気だった。
何を疑うでもなく、その気持ちは本物だったのである。
『嘘だろ、逸見?だって、そんな…』
『嘘じゃないんだ。本当に今日限りでお終いだ。お前だって分かっていただろう、夕?いつか――こうなることくらいは』
見開かれた夕の目には、しっかりと逸見の姿が映し出されていた。最早、高級シャンパンを手にしていることすらどうでも良い。
問題なのはただ一つ、目の前にいる逸見が自分に別れを切り出し、その上その表情に微塵も悲しみを浮かべていないということだった。
『どうして?奥さんにばれた?』
『いや、そうじゃない』
『じゃあどうして?他に好きな奴ができたのかよ?』
『いや、そうじゃない』
『じゃあどうして!おかしいよ、こんなの!』
焦りと興奮が入り混じり自分がコントロールできなくなっていた夕はガン、とテーブルを叩くと、早くも充血し始めた目でじっと逸見を見つめた。
見つめた先の逸見はまるで動じておらず、それどころかいつも通りの涼しい顔をして、まるで他人事のように薄い笑いすら浮かべている。
理解できない。
どうしてそんなに涼しい顔をしていられるのか?
『夕には本当に悪いと思ってるんだよ。だけどね、お互い大人だし引き際は心得ていないといけないと思うんだ』
『引き際…?――じゃあ逸見は最初から別れるつもりでいたのかよ?』
『あのね、夕。この世には別れのない付き合いなんて存在しないんだよ?』
『―――』
言葉が出なかった。
反論したいのにできなかった。
オートクチュールの洋服に身を包み、甘いマスクに長い髪を軽く流している逸見は、誰が見ても二枚目の男である。プレイボーイとの呼び名が高いことは重々理解していた夕だったが、今まで一番近くにいた自分に対してはそういう嘘はつかないと絶対の自信を持っていた。
だって逸見とは小学校の頃からの友達だったし、逸見がマスコミ系の業界人として活躍するようになってからだって常に付き合いを保ってきたのだ。
その間逸見は、慣れない業界についての愚痴や悩みを打ち明けてくれたし、だから夕だって真剣にそれに付き合ってきたのである。
逸見がニュースキャスターの女性と結婚してからだって、それは変わらなかった。
それだけじゃない、体の関係だって夕が中学三年の頃からずっと続けてきたのである。
それなのに。
『夕、俺たちは幼い頃から友達だったし、今だってそれは変わらない。仮にこれから先一生会うことがないとして、やっぱりそれは変わらないんだ。分かるか?』
『分かるかよ…そんな理屈』
悔しくて思わず目を逸らす。
今からでも遅くは無いから嘘だと言ってほしいと思ったが、そんな夕の願いなど叶うはずがなかった。
『夕はきっと間違ってしまったんだな。俺はね、お前とキスをしたって体を重ねたって、それはあの頃と変わらない友情の上でのものだと思ってる。だから俺はお前に弱音を吐いたり相談だってしてきた。そうだろう?でもね、これは恋愛じゃないんだよ。恋愛っていうのはね、結婚という形で終わらせなければならない関係のことをいうんだ。俺たちの関係は友情でしかない。まあそうだな、友情の中でも少しレベルの高いものかな』
『何だよ、それ…』
そんな理屈は聞いたことがないと夕は思う。大体、仮にその理屈が成り立つとしたってそれはあくまでも逸見の中だけである。世間一般からしたら、いくら最初は友情だったとしても、体の関係もありお互いが支えになるのならばそれは恋愛と同じではないかと思う。
『――この先、もう会えないんだろ?』
『ああ、そうだよ』
『逸見は……友情も終わらせるつもりなのかよ?』
『違うよ。友情は続くよ。けどね、友情っていうのは定期的に会う関係のことを言うんじゃないんだよ。仮に会えなくても友情は成り立つんだ、恋愛と違ってね』
酷い理屈だ。そう思った。
だったら、別れても二人は友情で結ばれているということになる。けれどそれでは夕には不満だったし、そもそもそんな奇麗事が通るならば体の関係は何だったのかと言いたくなる。
とにかく納得がいかない。
いかないけれど、逸見がそう口にした以上それは決定事項なのだということを、心のどこかで嫌々納得はしていた。だってこの関係に於いて、逸見はいつだって主導権を握ってきたのだから。
『…なあ、逸見』
『どうした?』
まるで罪悪感も何も無い、悲しみすらも持ちえていないその表情に、夕は突然ガッ!、とシャンパンを投げかけた。その瞬間、二枚目の男の表情がするりと険しいものに変わる。
世の中にはもっと苦しんでいる人だっているし、もっと辛い気持ちを抱えている人がいるんだから。そう思えば自分の悩みなんて地球のゴミくずも同然じゃないか。
――そうも思ったけれど。
でも、心が千切れそうだった。
心が死ぬということは、こういうことなのだろうと思った。
『ごめん、夕。もう会えないんだ。俺のことは―――今日限りで忘れてくれ』
『え…?』
その話を打ち明けられたのは、自分一人では絶対に入れないような銀座の洒落たバーのカウンターでのことだった。
バイト上がり、目をやった携帯電話に「会いたい」という一言を見つけて、夕は喜び勇んでこの場所までやってきた。
会いたいといわれるときには、必ずすぐにタクシーで飛んでいく。これが二人の間にあったルールだった。
タクシー代は相手が払うから夕は一切気にしなくても良い。どこかに飲みにいくときにも食事をするときにも全ての支払いは相手が受け持っており、夕はただ相手に会い、それに付き合えば良い状態だった。
とはいえ、これは援助交際の類ではない。
夕はその相手を本当に好きだったし、食事や何かにかかる金銭だって出せといわれれば出すくらいの気持ちは持っていたのである。
本気だった。
何を疑うでもなく、その気持ちは本物だったのである。
『嘘だろ、逸見?だって、そんな…』
『嘘じゃないんだ。本当に今日限りでお終いだ。お前だって分かっていただろう、夕?いつか――こうなることくらいは』
見開かれた夕の目には、しっかりと逸見の姿が映し出されていた。最早、高級シャンパンを手にしていることすらどうでも良い。
問題なのはただ一つ、目の前にいる逸見が自分に別れを切り出し、その上その表情に微塵も悲しみを浮かべていないということだった。
『どうして?奥さんにばれた?』
『いや、そうじゃない』
『じゃあどうして?他に好きな奴ができたのかよ?』
『いや、そうじゃない』
『じゃあどうして!おかしいよ、こんなの!』
焦りと興奮が入り混じり自分がコントロールできなくなっていた夕はガン、とテーブルを叩くと、早くも充血し始めた目でじっと逸見を見つめた。
見つめた先の逸見はまるで動じておらず、それどころかいつも通りの涼しい顔をして、まるで他人事のように薄い笑いすら浮かべている。
理解できない。
どうしてそんなに涼しい顔をしていられるのか?
『夕には本当に悪いと思ってるんだよ。だけどね、お互い大人だし引き際は心得ていないといけないと思うんだ』
『引き際…?――じゃあ逸見は最初から別れるつもりでいたのかよ?』
『あのね、夕。この世には別れのない付き合いなんて存在しないんだよ?』
『―――』
言葉が出なかった。
反論したいのにできなかった。
オートクチュールの洋服に身を包み、甘いマスクに長い髪を軽く流している逸見は、誰が見ても二枚目の男である。プレイボーイとの呼び名が高いことは重々理解していた夕だったが、今まで一番近くにいた自分に対してはそういう嘘はつかないと絶対の自信を持っていた。
だって逸見とは小学校の頃からの友達だったし、逸見がマスコミ系の業界人として活躍するようになってからだって常に付き合いを保ってきたのだ。
その間逸見は、慣れない業界についての愚痴や悩みを打ち明けてくれたし、だから夕だって真剣にそれに付き合ってきたのである。
逸見がニュースキャスターの女性と結婚してからだって、それは変わらなかった。
それだけじゃない、体の関係だって夕が中学三年の頃からずっと続けてきたのである。
それなのに。
『夕、俺たちは幼い頃から友達だったし、今だってそれは変わらない。仮にこれから先一生会うことがないとして、やっぱりそれは変わらないんだ。分かるか?』
『分かるかよ…そんな理屈』
悔しくて思わず目を逸らす。
今からでも遅くは無いから嘘だと言ってほしいと思ったが、そんな夕の願いなど叶うはずがなかった。
『夕はきっと間違ってしまったんだな。俺はね、お前とキスをしたって体を重ねたって、それはあの頃と変わらない友情の上でのものだと思ってる。だから俺はお前に弱音を吐いたり相談だってしてきた。そうだろう?でもね、これは恋愛じゃないんだよ。恋愛っていうのはね、結婚という形で終わらせなければならない関係のことをいうんだ。俺たちの関係は友情でしかない。まあそうだな、友情の中でも少しレベルの高いものかな』
『何だよ、それ…』
そんな理屈は聞いたことがないと夕は思う。大体、仮にその理屈が成り立つとしたってそれはあくまでも逸見の中だけである。世間一般からしたら、いくら最初は友情だったとしても、体の関係もありお互いが支えになるのならばそれは恋愛と同じではないかと思う。
『――この先、もう会えないんだろ?』
『ああ、そうだよ』
『逸見は……友情も終わらせるつもりなのかよ?』
『違うよ。友情は続くよ。けどね、友情っていうのは定期的に会う関係のことを言うんじゃないんだよ。仮に会えなくても友情は成り立つんだ、恋愛と違ってね』
酷い理屈だ。そう思った。
だったら、別れても二人は友情で結ばれているということになる。けれどそれでは夕には不満だったし、そもそもそんな奇麗事が通るならば体の関係は何だったのかと言いたくなる。
とにかく納得がいかない。
いかないけれど、逸見がそう口にした以上それは決定事項なのだということを、心のどこかで嫌々納得はしていた。だってこの関係に於いて、逸見はいつだって主導権を握ってきたのだから。
『…なあ、逸見』
『どうした?』
まるで罪悪感も何も無い、悲しみすらも持ちえていないその表情に、夕は突然ガッ!、とシャンパンを投げかけた。その瞬間、二枚目の男の表情がするりと険しいものに変わる。
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