龍の檻と青年

はる

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記憶の断片

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消毒液の匂いが、昨日よりも濃く感じた。

病室の扉を開けた瞬間、その空気の冷たさに、胸の奥がざらつく。

奏多は、ベッドの上にいた。

昨日と同じようにシーツを胸までかけ、


ただ、違っていたのは――その目だ。


焦点が、どこにも合っていない。


窓の外を見ているようで、見ていない。

何かを探すようでもなく、ただ“そこ”にいるだけ。

桐谷「……奏多」

声をかけても、まぶたひとつ動かない。

息をしているのかどうか、一瞬わからなかった。

桐谷はベッド脇に歩み寄る。

機械の音が一定のリズムで鳴るたびに、
現実だけがやけに規則正しく動いている気がした。

もう一度、呼んでみる。

桐谷「奏多」

反応はない。

目は開いているのに、どこにも“いない”。

昨日、あんなふうに震えて泣いて、
俺の名前を呼んだ。

その声も、涙も、
全部幻だったみたいに、今は消えている。

胸の奥が、鈍く痛む。

桐谷「……どこにいるんだ‥」

思わず呟いた声は、誰に向けたのか自分でも分からなかった。

看護師が入ってきて、淡々とカルテに記入する。

看護師「今朝から、この状態です」

桐谷「薬は?」

看護師「投与しています。ただ……刺激は与えないでください」

桐谷は無言で頷く。
けれど視線は奏多から離せなかった。

“刺激を与えるな”――
そう言われても、黙って見ていられるほど器用じゃない。

桐谷は、そっと手を伸ばした。

奏多の頬に触れる。

冷たい。

肌の下に流れる血の気が薄い。

桐谷「……聞こえてるか?」

耳元で、静かに囁く。

返事はない。

それでも、もう一度呼ぶ。

桐谷「奏多。俺だ。桐谷だ」

わずかに、瞳の奥が揺れた気がした。
けれど、すぐに沈んだ。

その“沈黙の瞬間”が、たまらなく怖かった。

目を開けているのに、
何も映していない。

“魂が抜けてる”という言葉が、
こんなにも現実に近いものだと思わなかった。

桐谷は俯き、顔を歪めた。
桐谷「……どうすりゃいいんだよ」

声が掠れる。
掴んでも掴んでも、指の隙間から零れていくような感覚。
守るって、何だ。
傍にいるって、どこまで意味があるんだ。

桐谷は、もう一度その手を握った。
冷たい手を包み込むように。

桐谷「……おまえが戻るまで、待ってる。
 何日でも、何年でもいい」

返事はなかった。
それでも、その言葉を口にしないと、自分が壊れそうだった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
病院の外は、季節の変わり目の風が吹いていた。

空は灰色で、太陽の輪郭さえ曖昧だった。

桐谷は自販機の前に立ち、ポケットから煙草を取り出した。

一本くわえて、火をつける。

肺に落とした煙が、喉の奥を焦がす。

目を閉じると、昨日の奏多の声がよみがえった。

『桐谷さんの手、あたたかい』
『夢じゃない……?』

たった一晩で、あの声も、あの目も、
どこか遠くに消えてしまった。

煙を吐き出しながら、
桐谷は無意識に拳を握る。

桐谷「……何もできねぇな」

自分でも驚くほど低い声だった。
誰に向けてでもなく、ただ風に溶かすように。

——俺は、ただのヤクザだ。
——守る力があるって、錯覚してただけだ。

病室の白い光。
あの無反応な目。
桐谷の中で、何かがゆっくりと崩れていく。

煙草の火が短くなって、指先に熱が伝わった。
慌てて落とす。
アスファルトに小さな焦げ跡が残った。

桐谷「……何が“守る”だ」

呟いたその声は、
怒りとも、悲しみともつかない音になった。

ふと見上げた空は、雲が流れていた。
どこにも答えはなかった。

それでも、
もう一度病室へ戻ろうとする足を止められなかった。
そこにしか、自分の居場所はなかった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

暗い。
どこまでも、暗い。

でも、怖くはなかった。
むしろ、この静けさが心地よかった。

足元に水のような光が揺れている。
何もない空間。
音も、時間も、痛みもない。

(……奏多)

声がした。
柔らかい。
優しい。

「お母さん……?」

闇の中から、白い影が浮かび上がる。
髪が濡れたままの母が、そこに立っていた。
いつもと同じ服。
いつもと同じ香り。

奏多「どうして、ここにいるの」

母は微笑む。
「あなたが呼んだから」

奏多「呼んでない……」

母「本当?」

母の声は、かすかに笑う。
その笑顔が、少しずつ歪んでいく。
肌が剥がれ、瞳が黒く染まる。

母「どうして、殺したの?」

奏多「やめて……」

母「わたしたちを見殺しにしたのは、あなただよ」

胸が焼ける。
息ができない。
膝が崩れる。

白が割れる。

音が、光が、時間が、ばらばらに砕けて浮遊する感覚。

最初に戻るのは匂いだ。消毒とも違う、金属の冷たさ。

指先に伝わるべたついた感触。冷たい床。

その一片が、いきなり頭を満たす。

さっきの光景から瞬時に別の場所に変わる。

(……あの声)

如月の低い嗤いが、耳の奥で回る。

言葉ではないけれど、意味だけが刺さる。

「壊してやる」と言わんばかりの空気。

そこにいる「誰か」が笑う。冷たい、刃のような笑い。

映像は欠け欠けで、繋がらない。

足を引き摺る感覚。手首が触れられた感触。

光のせいで、顔が見えない。

けれど視界の端に映る影だけで、胸は締め付けられる。

——逃げなきゃ。

身体は動こうとするが、どうしても重い。

声が出そうで出ない。喉の奥に硝子が張り付いたみたいだ。

如月の影が近づく。手の甲で頬を払うような、その動きだけが、記憶として残る。

奏多「……やめて」

出たはずの声が、空気で砕ける。

でも、その音の裏に、別の声がある。 

低く、確かに現実を引き戻す声。

(奏多)
(俺だ)

ーー誰かが僕を呼び止めてるー。

言葉の振動だけが、曖昧な世界に筋を引く。

その声が届くと、暗闇がいったん揺らぎ、像がひとつずつ崩れていく。

だが崩れるのは完全ではない。欠片が残り、ざらついた感情だけが肺に残る。

夢か現かの境が薄いところで、奏多の目は一点を見つめる。

窓の光でも、看護師の動きでもない。過去のある一点──如月の笑った口元、光の差す浴室のタイル、その“冷たさ”。

視線の奥で、同じ断片が反復する。

反復するほど、その感覚は現実味を帯び、身体を締め上げる。

「ここは病院だ。俺がいる」

遠くから、しかし確かに誰かの声がまた響く。

呪文のように、奏多の意識の輪郭をなぞる。

一度はふっと浮いた情景が、うすく揺れて薄れる。が、その端にまだ影が残る。

影はふいに形を取り直す。母の顔のようでもあり、如月の影のようでもある。
どちらでもない――それが一番怖い。

「あなたのせいよ」 「壊れてる方が綺麗だ」
声が重なり、その重なりが奏多の胸に塊を作る。

苦しくて、涙がこぼれる。

指先に湿り気を感じ、ふと自分の掌を見る。

そこには誰かに触れられた跡のような赤みがある気がして、視線をそらす。

頭の中で時間が反転して、楽しかった記憶と痛みの記憶が隣り合わせに差し込む。

子どもの頃のまぶしい夏の光と、暗い部屋の隅。

どちらも等しく真実のようで、どちらも嘘のようだ。

「戻ってこい」

言葉は強く、でもその強さは慈しみに溶けている。

奏多『誰ーーだっけーー。』

奏多はそれにしがみつくように、手を伸ばす。

手は震えて、掴めるものなど何もない気がする。だが、声は確かにあった。

光が寄せては返すように、幻影は波のように押し寄せた。

ある瞬間、如月の笑い声が耳を切る。

次の瞬間には、誰かの低い息遣いが耳に触れる。

その対比が、どれほど自分を引き裂くかを、奏多は痛感する。

やがて、映像の端が白く溶ける。

白の中に、淡い現実が戻ってくる。ベッドの硬さ、シーツの皺、機械音の規則。

桐谷の手が自分の手首をぎゅっと握っていることに気づき、そこに残る体温に、泣き声が混ざる。

「大丈夫だ」

言葉は簡単だが、奏多の内部で何かが小さく崩れて、また積み上がる。

壊れていく断片を、捨てるでも治すでもなく、ただ隣に置いておくような感覚。

奏多はゆっくりと目を開けた。
ぼやけた光が瞳に入る。
視界が少しずつ輪郭を持ち、白い天井が広がる。

誰かが椅子に座っていた。
スーツの袖口。見覚えのある影。
でも、その“誰か”の顔がどうしても思い出せない。

「……おはよう」

男の声。

穏やかで、低くて、耳に馴染む。

それなのに、心が反応しない。

知らない人に話しかけられたみたいに、ただ、困惑だけが残る。

「痛みは、ないか?」


奏多「……あなたは、」

言葉が喉の奥で止まる。

名前を探す。

でも、頭の中の引き出しを開けても、そこに“何も”入っていない。

桐谷は、その一瞬の沈黙で全てを悟った。
微かに息を詰め、目を伏せる。

男――桐谷は小さく息を呑んだ。

けれど、すぐに笑みを作る。

「桐谷だ。おまえの……」

言いかけて、言葉を飲み込む。

“上司”でも“雇い主”でもない。

そんな軽い言葉で説明できる関係じゃないことを、彼はよく知っていた。

桐谷「……知り合いだ」

桐谷は、少しだけ視線を逸らした。

奏多はその名を、口の中で転がすように繰り返す。

奏多「……きりや……さん……」

奏多は瞬きをした。

その名前に、何か引っかかる感覚があった。

聞いたことがある。

でも、それが“どういう関係”だったのか、思い出せない。

胸の奥がざわつく。

知らない人ではない。

けれど、知っているとも言えない。

懐かしいのに、どこか遠い。

奏多は「……ごめんなさい」

か細い声。

それしか出てこなかった。

桐谷は微笑もうとしたが、頬が震えて、うまく形にならなかった。
桐谷「謝ることなんか、何もねぇよ」

声は優しい。

けれど、その裏に混ざる痛みを、奏多は感じ取っていた。

思い出せないのが怖い。
思い出したら、もっと怖い気もする。
その両方の狭間で、息が詰まる。

奏多「……俺、何か……忘れてるんですか」

桐谷「…!…少しな」

奏多「大事なこと、ですか?」

桐谷「…どうだろうな…」

短い沈黙。

そのあとで、桐谷は静かに息を吐いた。

桐谷「でもな、無理に思い出さなくていい。今はそれでいい」

その言葉のやさしさが、なぜか胸に痛かった。

“思い出してはいけない”ことが、
どれほどの痛みを孕んでいるか、身体のどこかが覚えている。


奏多「俺は……ここに、なんで?」

桐谷「…事故に遭ったんだ」

桐谷「事故……」

桐谷「少し、体も心も疲れてる。だから、休め」

奏多は黙って視線を落とす。

右足の感覚が鈍い。
 
ベッドの脇には杖。

それを見て、胸の奥にざらついた違和感が走る。

“知っている”はずなのに、“思い出せない”。

奏多「……俺、どんな人間だったんですか」

桐谷は答えられなかった。

“まっすぐで、不器用で、痛みに慣れすぎてるやつ、けどどこか繊細で、守りたくなるようなーーー”

言葉にしようとしても、どれも足りない気がした。

代わりに、そっと椅子を引いて奏多の隣に座る。

桐谷「無理に思い出そうとするな。今は、ここにいりゃいい」

その声の低さに、なぜか涙がこぼれた。

理由がわからないのに、
その音を聞いた瞬間、胸の奥が疼いた。

奏多「……どうして泣いてるんだろ」

桐谷「泣きたいときに泣けるのは、悪くねぇことだ」

桐谷はそう言って、ゆっくりとその肩に手を置いた。

触れるか触れないかの距離。

奏多は小さく震える。

けれど、拒まなかった。

奏多「……怖い夢を見た気がする」

桐谷「夢、か」

奏多「誰かに、名前を呼ばれてた。……でも、顔が見えなかった」

桐谷は少しだけ目を細めた。

桐谷「そうか」

声が掠れる。

“それは俺だ”とは言わなかった。
言えば、彼の世界を壊す気がした。

沈黙のあと、桐谷は立ち上がる。
桐谷「しばらくは俺がそばにいる。何か思い出したら、話してくれ」

奏多「……はい」

病室を出ていく背中を、奏多は無意識に目で追った。

その姿が扉の向こうに消えるまで、ずっと。

そして、ふと気づく。

彼の名前を呼んでみたい衝動があった。

口を開く。

けれど、声にならなかった。



“呼んだら、涙が出そうな気がしたから。”




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