龍の檻と青年

はる

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カスミソウ

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朝から、どこか身体が重かった。

目を覚ました瞬間から、身体に熱がこもっているのがわかる。

冬の朝の空気は冷たいはずなのに、額にじっとりと汗が滲んでいた。

(……熱か……?)

奏多はゆっくりと上体を起こした。

シーツの擦れる音さえ、耳に刺さるほど眩暈がする。

視界の端が少し霞んで、天井の白が滲んだ。

しばらく呼吸を整えようとしたが、喉の奥が乾いていて、うまく息が入らない。

昨日から少し倦怠感はあったが、少しふらつくだけだった。
 
でも今日は、体の奥で何かがずっと燃えているような感覚があった。

(寒い…トイレ…行こうかな、)

(看護師さん呼んだほうが……いや、トイレくらい、自分で……)

ベッドの脇に手をつき、足を床に下ろす。

冷たいはずの床が、妙に遠く感じた。

立ち上がると同時に、ふらりと身体が傾く。

壁に手をついて、なんとか体勢を保った。

病室の外はまだ暗い。

点滴スタンドの影が床に伸びて、視界がゆらりと歪んだ。

一歩。

また一歩。

トイレまでの短い距離が、永遠のように長い。

(大丈夫……これくらい……)

唇を噛んで踏み出した瞬間、
足の感覚が途切れた。

床が斜めに傾き、
世界が一瞬、逆さまになったような感覚。

目の前の景色が、スローモーションのように揺れていく。

冷たい空気が頬を掠め、

手から落ちた点滴のチューブが、かすかな音を立てて引きちぎれた。

一瞬腕に鋭い痛みが走り、ポタポタと抜けた針から血が落ちる。

(あ……桐谷さん……)

その名前が、反射のように心の中で浮かぶ。

唇が震え、言葉にならないまま空気を吸い込もうとする。

けれど、肺が動かない。

喉が締めつけられるように痛い。

次の瞬間、視界の端が真っ白に弾けた。

そして倒れた瞬間、
何かが遠くで割れるような音がした。

点滴スタンドが倒れ、金属が床を叩く鋭い響き。

その音が、静まり返った病棟に小さく反響した。

ほんの数分ー。

だが、その数分が永遠に思えるほど長かった。

次の瞬間、
「――橋本さん!?」
と、焦った声が響いた。

ドアが開く音。
白衣の袖が翻る。
看護師たちが一斉に駆け込んでくる。
足音が床を打ち、
倒れた点滴スタンドを避けるように動く気配。

「脈、弱い……体温が高い、すぐに◯◯先生呼んで!」
「酸素、持ってきて! 早く!」

その声たちは現実なのに、
どこか水の底で聞こえるように遠かった。

視界の端で、白い靴が動くのが見えた。

何人かの手が、自分の身体に触れている。

頬に冷たい手のひら。

首筋に当てられる指。

点滴のチューブが揺れ、床をすべって音を立てた。

「奏多さん、聞こえますか?」
「返事して――」

(……聞こえてるよ……)

そう言いたかった。

でも、声にならない。
 
喉が焼けるように熱く、呼吸が掠れる。

まぶたの奥で、光が明滅する。
誰かがライトで瞳孔を確認している。
それでも、目は焦点を結ばない。

(冷たい……)

体温は高いはずなのに、
頬に触れる手の温度が、なぜか遠く感じた。

「血圧、急降下してます!」
「意識レベルGCS……反応弱いです!」

専門用語が飛び交う。
それらの音がどれも現実感を失っていく。
世界が少しずつ遠ざかり、
音が薄膜の向こうへと消えていく。

(桐谷、さん……)

また、その名前だけが、意識の底から浮かんだ。
掠れた呼吸の間に、
微かに唇がその形を作る。

「……き……り……や……」

それを誰かが聞き取ったのか、
看護師のひとりが息を呑んだような気配がした。

「名前……誰か呼んでます」
「誰?」
「桐谷、って……」

一瞬、動きが止まる。
 
だが、次の瞬間には再び慌ただしく手が動き出す。

ストレッチャーが運ばれてくる音、
モニターのスイッチが入る電子音、
遠くで鳴るナースコールの音。

そして――
そのすべての音が、急に遠のいた。

視界の中で、
白い天井がゆっくりと流れていく。
ストレッチャーに乗せられて、
廊下を運ばれているのだと気づいたときには、
もう身体の重さを感じなかった。

誰かが名前を呼ぶ声がしても、
その声に返事をする力は残っていなかった。

(……あの人の声が、聞こえた気がした)

耳の奥で、
桐谷の低い声が確かに響いた。

現実なのか、記憶なのか分からない。
でも、それだけが確かで、
他のすべての音が遠ざかっていく中、
その声だけが、優しく彼を包み込んでいた。

やがて光が薄れ、
意識の底に落ちていく。

(桐谷さん――また、会えるよね)

その言葉が胸の奥に浮かんだ瞬間、
心拍モニターの音が小さく鳴り、
世界は完全に白く、静かになった。



身体の感覚が薄れていく中で、ただ一つ、頭の奥に残っていたのは――

桐谷が置いていったカスミソウの花の香り。

(……綺麗だったな)

その淡い香りを思い出した瞬間、意識がふっと闇に沈んだ。


窓の外では、薄い雲の切れ間から冬の陽が滲み、

まるで誰かの涙のように、白い光がゆらいでいた。
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