龍の檻と青年

はる

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届かない手の温度

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目を覚ましてから、もう三週間が経った。

奏多は病室の窓際で、ゆっくりと足を動かしている。

リハビリ用の歩行器に体を預けながら、一歩、また一歩。

筋肉は痩せ、足取りはまだ不安定だった。

それでも、前に進むことができる。

痛みで重く動かなかった体が少しずつ力を取り戻していく感覚。

痛みも、汗も、息苦しさも――生きている証のように思えた。

理学療法士が笑って言う。

「順調ですよ、奏多さん。このままなら、また杖で歩けるようになりますよ!」

奏多も、小さく頷いた。
「……はい」

けれど、心はどこか遠かった。

リハビリが終わって部屋に戻ると、
ベッドの横の花瓶に、昨日と同じ花が挿してある。

桐谷がよく持ってきていた白いカスミソウ。

けれど、それを置いた本人の姿は、もうしばらく見ていない。

(最近……来てないな)

あの人の低い声。

温かい手。

呼ばれるたびに安堵した名前の響き。

それが、この病室から消えてもう一週間。

最初は忙しいのだろうと思った。

桐谷は組の中でも上の立場。

奏多が戻ってきたことで、何か動きがあったのかもしれない。

でも――
人づてに聞いた噂が、胸の奥をざらつかせた。

「桐谷さん、最近は事務所にもあまり顔出してないらしい」
「如月の件、まだ終わってないって話だぞ」

その言葉が頭の隅にこびりついて離れない。

奏多は夜になると、窓の外を見つめる。

どこかであの人が煙草を吸っている気がして。
けれど、その煙の匂いはもう届かない。

奏多「……桐谷さん」
小さく名前を呼んでみる。

誰もいない部屋で、声はすぐに沈んで消えた。

心の奥で、何かがずっと疼いている。

あの人がいないだけで、空気の温度が違う。

リハビリの痛さよりも、
来ない夜の方が、ずっと痛い。

あの時、手を払ってしまったことー。
ただ後悔だけが頭に残る。

ベッドに身を沈め、
目を閉じると、
あの声がまた響く。

――“奏多ーー”

夢のように、遠くで。

その声に縋るように、奏多は手を伸ばした。

そこに、何もないとわかっていても。



― 桐谷side ―
夜の事務所は静まり返っていた。

デスクの上に置かれた携帯が、一度、震えた。
病院からの通知――面会時間の連絡。

桐谷は、それをただ見つめる。

指先は動かない。

通話ボタンを押す代わりに、煙草に火をつけた。

火の先が赤く光る。
吐き出した煙が天井に薄く滲む。

(……合わせる顔がねぇ)

あの目を思い出す。
泣きながら眠る奏多。
自分の声にだけ反応して、
手を震わせて、涙を流した。

そして、奏多が帰ってきた日の奏多の姿ー。

何をされたか聞かなくてもただそれが証拠のようにー。

――俺が呼ぶたびに、あいつは泣いた。

医師が言っていた。

“刺激が強すぎる。思い出すことで、また崩れるかもしれない。”

それが正しいかどうかは、わからない。

けれど、桐谷には、あの脆い心を壊してしまう恐怖があった。

桐谷「……俺がそばにいたら、また苦しむだけだろ」

誰もいない部屋で呟く声は、思ったより掠れていた。

自分でも驚くほど、弱々しい。

リハビリの時に頑張りながら笑う奏多を見たい気持ちは、喉までせり上がっている。

でも、あの細い足を、震える手を見たら――
また抱きしめたくなってしまう。

そしてきっと、同じことを繰り返して壊してしまう。

それだけは、二度と嫌だった。

桐谷は目を閉じて、煙を吐き出す。

苦い煙の中で、
静かに自分を責めるように、ひとり呟いた。

桐谷「……愛してるのに、離れなきゃいけねぇって、どんな罰だよ」

携帯の画面に映る、未読のメッセージ。

“今日もリハビリ頑張りました。
そろそろカスミソウ枯れそうです。
そして、この前はごめんなさい。
また会いたいですー。愛してます。
おやすみなさい。ー”

震える文字を、一度見て、消した。


― 奏多side ―
カーテンの隙間から、夜の街の光が見える。

病室の白い壁に、街灯の影が揺れている。

その光の向こうに、彼がいる気がして――
毎晩、同じように窓を見上げた。

奏多「……桐谷さん」

声に出してみても、返事はない。

当たり前だ。

でも、やめられなかった。

声にすれば、少しだけ心が繋がる気がした。

リハビリは順調だと医師は言う。

身体もも動くようになり、食事も取れるようになった。

それに、最近は精神的にも安定してきたのか、時々掠れてはいるもののまた声が出るようになってきた。

けれど、胸の中はずっと空っぽのままだ。

彼が来なくなってから、連絡がつかなくなってから、この病室は妙に広く感じる。

花も、音も、空気も。
全部が、彼の不在を告げているようで。

(嫌われたのかな)

そんな考えが、何度もよぎる。

頭では違うとわかっていても、
心は勝手に傷ついていく。

夜、眠れない。

夢の中で、彼の声を探す。

名前を呼ぶたび、胸の奥がきゅっと痛くなる。
目を覚ましても、その痛みだけが残る。

(あの人がいないと、世界が音をなくす)

ゆっくりと胸に手を当てた。

そこにまだ、“桐谷”の声が残っている。
それが唯一の、証だった。





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