龍の檻と青年

はる

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フラッシュバック

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病室の暗がりは深く、
窓から差し込む街灯の光だけが白い線のように床を照らしていた。

いつもの電子音が
静かに、規則正しく鳴っている。

桐谷は奏多のそばで、
椅子に座ったまま眠らずに見守っていた。

その時――

奏多の呼吸が、
急におかしくなった。

奏多「……っ、っ……は……あ……っ」

まるで、水面から必死に顔を上げた人のような、喉を引きつらせる荒い呼吸。

胸の奥が締めつけられ、
肺が十分に膨らんでいない。

桐谷の眉が一瞬で険しくなる。

桐谷「奏多、おい……?
 聞こえるか?」

しかし奏多は、
呼びかけに応えられない。

いや、“応えられない音”を聞いている。

その瞳は、
天井ではなく、
別の場所を見ていた。

瞳孔が開き、焦点が合っていない。

シーツを握る手が痙攣し、
肩が跳ねるように震え始める。

奏多「やだ……やだ……やめて……っ」

声がかすれ、
震え、
幼い子どものような訴えになる。

桐谷は即座に気づいた。

——これは、フラッシュバック。

過去に引き戻されている。

桐谷「奏多。俺だ。桐谷だ。
 落ち着け。ここは……」

その瞬間、奏多が叫ぶように被せた。

奏多「来ないで!!触らないで!!」

弾かれるように腕を振り払う。

その目には、
桐谷ではない“誰か”が映っていた。

——如月

——不気味な笑みを貼り付けている。

——追い詰められたあの古汚い部屋。

——床に散らばる血。

——そして、激痛。
 
記憶の光景が、
深夜の病室に上書きされていく。

奏多の呼吸はさらに早く、
乱れ、過呼吸に変わり始めていた。

ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ……!

胸が痛くてまともに息が吸えない。

奏多「やだ……!痛い……っ、
 ごめんなさい、ごめんなさい……っ」

小さく折れるような声。

奏多の身体が丸まり、
全身が震え、
布団を掻きむしる。

桐谷は手を伸ばす。
だが、強く掴むと余計に恐怖が刺激される。

慎重に、
手首ではなく手の甲へ優しく触れる。

桐谷「奏多、ここは病院だ。
 誰も、お前に手ぇあげねぇ。
 落ち着け……聞こえるか?」

だが奏多は、
“その声”すら過去の恐怖の一部として聞いていた。

(怖い……!
 何されるかわかんない……!
 たたかれる……!)

息が吸えず、
胸が押しつぶされるように痛い。

視界が白くチカチカと明滅し、
耳鳴りで周囲の音が遠くなる。

奏多「……っ、っあ……ぁ……!」

浅い呼吸が限界を超え、
酸素が足りず指先がしびれる。

桐谷は奏多の肩を支え、
ゆっくりと抱き寄せる。

耳元で、
低く、落ち着いた声を繰り返した。

桐谷「大丈夫だ。
 どこにも連れていかねぇ。
 俺の声だけ聞け。」

その声は
静かで、
深く、
どんな記憶よりも鮮明に――
奏多の心臓に届いた。

震える手が、
桐谷の服を弱く掴む。

奏多「……桐谷……さん……?」

今と過去の境が揺れて、
かすかに現実が戻り始める。

桐谷はその気配を逃さず、
奏多の背をゆっくり撫で続けた。

桐谷「そうだ。戻ってこい。
 お前の居場所は過去じゃねぇ。
 ここだ。
 俺のところだ。」

奏多の呼吸が、
涙と嗚咽で乱れながら
少しずつゆっくりに変わる。

だが恐怖の残り火は消えていない。

奏多「……っ、ひ……っ……
 怖い……っ
 嫌だ……っ
 また……戻された……
 あの時……っ
 ひとり……で……」

桐谷はその言葉に胸が痛んだ。

桐谷「ごめんな。もう大丈夫だからな。」

そのまましばらく抱きしめていると、
奏多の緊張が少しずつ解けていった。

涙の跡がシーツに落ち、
呼吸は不規則ながらも深くなる。

ようやく奏多は桐谷の胸に顔を埋め、
震える声でしがみつく。

奏多「……いて……
 桐谷さん……
 いなくならないで……
 怖い……」

胸がぎゅっと締めつけられるほど切ない声。

桐谷は答えた。

桐谷「離れるかよ。
 死んでも離れねぇ。」

そう言った声だけが、
夜の深さを破って確かに届いた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


パニックの最悪の波が去っても、
病室の空気はまだ張りつめていた。

奏多は桐谷の胸に顔を預けたまま、
小さな動物みたいに体を震わせている。

呼吸は浅く、
ヒュッ……ヒュッ……と時々ひっかかり、
涙は止まらない。

身体は現実に戻れても、
心だけがまだ“あの場所”に半分取り残されている。

桐谷は奏多の背を
一定のリズムで静かに撫で続けていた。

桐谷「怖かったな……もう大丈夫だ。
 息、できてる。えらいぞ。」

声は低く、小さく、
撫でる音よりも静かだった。

奏多はかすかに返事をしようとするが、
喉がひゅっと締まって声にならない。

奏多「……っ、……っ」

桐谷が耳元で囁く。

桐谷「喋らなくていい。
 とりあえず、落ち着け。」

奏多の指先はまだ冷たく、
震えが細かく続いている。

桐谷のシャツを掴む力だけが、
唯一“生きてる”とわかるほど確かなものだった。

しばらくして、
奏多がゆっくり顔を上げた。

涙で濡れた頬、
真っ赤になった目。

奏多「……ごめ……な、さ……
 また……迷惑……かけて……」

声がひどく弱くて、
自分が壊れ物だと言っているみたいだった。

桐谷は眉間に皺を寄せる。

桐谷「迷惑なんて思ったこと一回もねぇよ。
それに、もうその言葉禁止だろ?」

奏多は何度も瞬きをして、
信じられない――というように目を揺らす。

奏多「……でも……っ
 俺……また……戻って……
 あの時に……
 全部……
 “あの声”に、なって……っ」

桐谷「戻るな。
 戻らせねぇ。」

即答だった。

桐谷の瞳は暗くて深く、
そのまま奏多を飲み込むほどの強い色をしていた。

桐谷「お前はもう“あそこ”じゃないんだ。
 ここにいる。
 俺が呼べば帰ってくる。
 それで十分だ。」

奏多は堪えきれず、
また涙が溢れた。

奏多「……怖かった……
 桐谷さんの声が……
 遠くて……
 誰の声かわからなくて……
 全部……混ざっちゃって……
 死ぬかと思った……」

その言葉で、
桐谷の胸の奥に押し殺していた怒りが
音もなく燃え上がる。

(あいつらが。
 
 こんなふうにして。)

だが奏多の背を撫でる手は、
怒りとは正反対の優しい触れ方だった。

桐谷「二度とさせねぇよ。」

その言い方には、
誓いというより“宣告”に近い強さがあった。

奏多はかすかに震えながら、
視線を桐谷に縋るように向ける。

奏多「……ほんとに……?」

桐谷「支え俺が全部受け止める。」

言い切った声は低く熱く、
嘘の入る余地がなかった。

奏多の呼吸が、
ようやく少しだけ安定する。

涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔なのに、
それでも桐谷の胸元を掴み直す仕草は必死だった。

奏多「……いなく……ならないで……
 今だけは……
 離れないで……
 お願い……」

桐谷は奏多の後頭部に手を回し、
ゆっくり抱き寄せる。

桐谷「離れねぇ。
 ここにいる。」

その約束が、
夜中の病室に落ちた
唯一の確かな光だった。

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