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第九話
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帝国軍の砲弾が綿菓子に変わるという、物理法則への冒涜としか言いようのない事象が発生してから数十分。最果ての森の境界線には、甘い砂糖の香りと、それ以上に濃厚な「絶望」が漂っていた。
帝国軍の指揮官、ミュラー少佐は、通信機越しに響く自軍の混乱を無機質な表情で聞き流していた。 「報告しろ。何が起きた? 砲身の不具合か? それとも中和弾の暴走か?」 「いえ、違います! 観測データによれば、砲弾は着弾の直前に『分子構造を再定義』されています! 鋼鉄が、火薬が……ただの多糖類に変換されたのです! こんなこと、既存の魔導工学では説明がつきません!」
ミュラーは、自身の手に落ちてきたピンク色の綿菓子を握りつぶした。ベタつく感触が、目の前の現実が幻覚ではないことを示している。 「……『無属性の賢者』。奴は、魔法を消すのではない。世界そのものを書き換えているというのか」
一方、研究所のテラス。アリスティアは、ルナが淹れた二杯目のコーヒーを啜りながら、手元の観測結果に修正を加えていた。 「……ルナ。綿菓子への変換は、質量保存の観点からは合格ですが、色彩設計にセンスが足りませんでしたね。戦場にパステルカラーは、僕の視覚情報の整理を阻害します。次は、周囲の景観に溶け込む透明なゼリー状の物質にしましょう」
「もう、そんなこと言ってる場合? 外のおじさんたち、今にも泣きそうな顔でこっちを見てるわよ。特にあのかつての同級生……カイルだったかしら? 彼は綿菓子を食べながら震えてるわ」
「エネルギー補給としては合理的です。極限状態での低血糖は、判断力を著しく低下させますから。……ですが、不快ですね」
アリスティアが指した先。森の境界線には、ハルバート伯爵やカイルだけでなく、続々と敗走してきた王国軍の残党が集まりつつあった。彼らにとって、この森はもはや「恐怖の禁域」ではなく、帝国の中和弾が届かない「唯一の聖域」に見えていた。
「僕の領域が、敗残兵の収容所に変わる。これは、僕が定義した『静域』というコンセプトに対する重大な侵害です。ルナ。このノイズの発生源を、根本から遮断する方法を計算してください」
「えー、遮断って……追い出すの? でも、追い出したら彼ら、帝国に殺されちゃうわよ?」
「僕の知ったことではありません。彼らが生きようが死のうが、僕の論文の一行にも影響しない。……ですが」
アリスティアは、遠く王都へと続く街道の先に、一際激しい魔力の衝突を感じ取った。
「あの魔力の波形……火属性の純度が、限界まで高められていますね。不純な術式ですが、出力だけは評価に値する。……セシル・フォン・グラードですか」
その名は、アリスティアにとっても数少ない「記憶すべき変数」の一つだった。
王都へ至る最終防衛線。そこは、紅蓮の炎に包まれていた。
「……はぁ、……はぁ……!」
セシル・フォン・グラードは、膝をつきながら、自身の愛杖を支えに辛うじて立っていた。彼女の周囲には、すでに原型を留めていない帝国の自律型魔導兵器の残骸が転がっている。しかし、眼前に広がる帝国の本隊は、依然としてその数を減らしていない。
「セシル様! もう限界です! 属性中和弾のせいで、貴女様の魔力回路は焼き切れる寸前だ!」
背後の兵士が叫ぶが、セシルは耳を貸さなかった。 「……退きなさい。私がここで止まらなければ、王都は……何万人もの無実の民が、あの鉄の塊に踏み潰される。私は、グラード家の誇りにかけて……!」
彼女が再び杖を掲げると、周囲の大気が歪むほどの熱量が収束し始めた。しかし、帝国の「属性中和砲」がその照準を彼女に固定する。黒い干渉波が放たれ、セシルの炎は顕現するそばから形を失い、不完全な火種となって散っていく。
「魔法が……通じない。私の人生、私の努力、すべてが……否定されていく」
セシルの瞳に、絶望の色が濃くなる。彼女はアリスティアを「無能」と笑っていたが、今や自分こそが、世界に「無能」と突きつけられている皮肉を感じていた。
その頃。研究所のモニターでその光景を見ていたルナは、じっとアリスティアの横顔を伺っていた。
「ねえ、アリスティア。セシルが死にそうよ。彼女、貴方を馬鹿にしてたけど……でも、最後まで一人で戦ってる。あのままじゃ、帝国の『中和弾』に、彼女の存在そのものが押し潰されちゃうわ」
「知っています。彼女の魔力残量は、あと百二十秒でゼロになります。その瞬間、彼女の肉体は中和弾の負の干渉を受けて、細胞レベルで崩壊する。計算済みの未来です」
アリスティアは平然と、別のノートを広げた。
「アリスティア!」 ルナが、アリスティアのペンを掴んだ。
「……何ですか、ルナ。僕の筆記速度を落とすのは、合理的ではありません」
「合理的じゃないのは貴方のほうよ! 彼女が死んだら、王都は落ちる。王都が落ちたら、何十万人という人間がパニックになって、この森に押し寄せてくる。そうなったら、貴方の愛する『静寂』は、永遠に失われるのよ? それとも、何十万人もの人間を一人ずつ綿菓子に変え続けるつもり?」
アリスティアの手が、止まった。 ルナは畳み掛けるように続けた。
「今の貴方なら、戦場そのものを『静寂』に変えられるはず。セシルを助けるためじゃない、貴方の『昼寝』を邪魔する帝国を……その根源から黙らせるために、動くべきじゃないの?」
アリスティアはしばらく無言でルナを見つめていた。やがて、彼は深く溜息をつき、眼鏡を指で直した。
「……ルナ。貴方は時折、僕の計算を超えた『面倒な正論』を吐きますね。確かに、数十万人の難民を処理するコストに比べれば、帝国の軍勢という単一の要因を排除するほうが、遥かに演算効率が良い。……認めましょう。僕の判断ミスです」
アリスティアが立ち上がる。その瞬間、研究所全体の魔力圧が跳ね上がった。
「実験を始めます。コンセプトは『戦場の静域化』。……ルナ、並列演算の最大出力を維持してください。一ミリの誤差も許されません」
「任せて! 主人様!」
セシル・フォン・グラードは、迫りくる帝国の総攻撃を前に、瞳を閉じた。 死を覚悟した彼女の脳裏に浮かんだのは、かつて自分が蔑んでいた少年の、冷徹で、しかし誰よりも真理に近い瞳だった。
「……アリスティア。貴方なら、この絶望をどう数式にするのかしら」
帝国の指揮官が、処刑の合図を送る。 「放て。王国軍の『誇り』ごと、粉砕しろ」
数十門の属性中和砲、そして数千の発砲音が重なり、轟音となってセシルを襲う。 ――はずだった。
「…………え?」
セシルが目を開けると、そこには奇妙な「沈黙」があった。 飛来していた砲弾。放たれていた干渉波。それらすべてが、彼女から数十メートルの距離で、空中に「固定」されていた。
固定、という言葉では生ぬるい。 まるで、世界の時間がその部分だけ「一時停止」したかのように、火花も、破片も、煙までもが、空中で静止画のように固まっていた。
そして、戦場の中央に、一人の青年が降り立った。 地味な魔導師の法衣。手に持った一冊のノート。 彼は、血生臭い戦場にいるとは到底思えない、散歩の途中のような足取りでセシルの前まで歩いてきた。
「……アリスティア?」
「魔力消費率が想定を超えていますね、セシル。心臓の鼓動が不規則です。そのままでは、あと三十秒でショック死します。……定義。セシル・フォン・グラードの生体反応を『安定状態』に固定する」
アリスティアが呟いた瞬間、セシルの全身を襲っていた激痛と疲労が、嘘のように消え去った。傷が治ったわけではない。ただ、彼女の身体が「痛くない、疲れていない」という状態に、世界ごと書き換えられたのだ。
「貴方……なぜ、ここに」
「僕の昼寝を邪魔するノイズがあまりに大きすぎた。それだけの理由です。……さて」
アリスティアは、自分を取り囲む数万の帝国軍、そして空中で停止している無数の兵器に、視線を向けた。
「帝国の皆さん。貴方たちの行っている『戦争』という事象は、あまりに騒音公害が激しい。それに、この『中和弾』。魔法という情報をノイズで隠蔽する手法は、美しくない。……僕が、正しい情報の処理(デバッグ)を見せてあげましょう」
帝国軍の指揮官、ミュラー少佐は、戦車の中からその光景を見て、戦慄した。 「何だ……何が起きている!? 全軍、撃て! あの少年を抹殺しろ!」
しかし、兵士たちがどれだけ引き金を引いても、何も起きなかった。 銃口から弾丸が飛び出すという「因果」が、すでに抹消されていた。
「定義。この戦場、半径五キロメートル以内における『衝突による破壊』という事象を、永久に禁ずる」
アリスティアがノートにペンを走らせる。
「数式展開。運動エネルギーのすべてを、糖分、水分、および微細な花の香りに変換する。……これならば、僕の睡眠を妨げることはありません」
その瞬間、戦場は変貌した。 帝国の戦車が放った砲弾が、空中で「パフッ」と音を立てて、巨大な綿菓子に変わる。 兵士たちが放った銃弾が、空中で「キラキラ」と輝く金平糖に変わる。 地面に刺さっていた無残な剣の数々が、色とりどりのチューリップに変わる。
戦場から血の匂いが消え、代わりに甘い、夢のような香りが立ち込めた。
「な……な……!」 ミュラーは、自分の戦車の主砲が、巨大なペロペロキャンディに変質しているのを見て、言葉を失った。
「……無意味な抵抗はやめてください。貴方たちの武器は、今この瞬間から、この世界における『お菓子を生成するための道具』として再定義されました。……人を殺すための論理は、僕の領域ではコンパイルエラーを起こします」
アリスティアは、呆然とするセシルの横を通り過ぎ、帝国軍の陣地へと歩き続ける。
「待て、アリスティア! どこへ行くの!?」
「ノイズの根源を断ちに行きます。……この帝国の不完全な術式を裏で操っている『書き手』が、あそこにいますから」
アリスティアの視線の先。 帝国軍の最後方から、一人の老人が現れた。 彼は帝国の軍服を着ていなかった。漆黒の法衣を纏い、その瞳には、アリスティアと同じ、世界の理を覗き見る者特有の「深淵」があった。
「……素晴らしい。実に素晴らしい論理だ、少年」
老人が、枯れ木のような手を叩いた。 「概念魔法、か。まさか、王国のような辺境に、私と同じ『世界の定義者』が存在しようとは。……私はゼノ。帝国において『魔法の否定』を司る者だ」
ゼノと名乗った老人は、アリスティアの数歩前で立ち止まった。 周囲では、綿菓子となった砲弾の下で兵士たちが混乱しているが、この二人の間だけは、絶対的な「真理の衝突」による緊張感が漂っていた。
「少年。君の力は、世界を美しく整えるためのものだ。だが、それでは足りない。世界は一度、完全に破壊され、不純な属性魔法を根絶しなければならない。帝国の『中和弾』は、そのための序曲だ。私と共に来い。君の論理があれば、世界を数式通りに作り替えられる」
アリスティアは、無表情に老人を見つめた。 「……断ります。貴方の論理には、致命的な欠陥がある」
「欠陥? 私の『否定魔術』に、ミスがあるとでも言うのかね?」
「ええ。貴方は『属性を否定する』という目的のために、世界そのものを醜いノイズで満たしている。それは、部屋を掃除するために、部屋ごと爆破するようなものです。……それは知性ではなく、ただの暴力だ。僕の美学には反する」
ゼノの瞳が、冷たく細まった。 「……ならば、力ずくで教えるしかないようだな。少々、痛い勉強になるが、耐えたまえ」
ゼノが杖を振る。 「否定定義:対象の『生命維持』を消去する。――絶対死の魔法」
それは、防御不能な概念の暴力だった。 放たれた黒い波導は、対象が「生きている」という前提そのものを世界から削除し、強制的に「死」という結果を書き込む、死神の鎌そのもの。
セシルが悲鳴を上げた。「アリスティア、逃げて!」
だが、アリスティアは動かなかった。 彼はノートに、一文字だけ、追記した。
「定義。この『絶対死の魔法』という記述を、――『少しばかり不快な、湿り気を帯びた風』へと変換する」
ゼノが放った漆黒の死の波導が、アリスティアに触れた。 次の瞬間。
ヒュゥ、と。 アリスティアの髪をわずかに揺らして、生温い、湿った風が吹き抜けた。
「……な…………」 ゼノの顔が、驚愕に歪んだ。
「死、ですか。……記述が弱すぎますね。貴方の魔法は、対象が『死を受け入れる』という属性魔法のルールを前提にしている。ですが、僕の世界には、貴方の魔法を受け入れるための『メモリ』が最初から用意されていない」
アリスティアは、一歩、ゼノに近づいた。
「貴方の放った『絶対死』は、僕の数式によって『不快な風』として完全に上書きされました。……今、この世界において、貴方の死の魔法は、ただの『湿気』として定義されています」
「ば……馬鹿な! 私の生涯をかけた真理が……ただの風だと!?」
「真理とは、より強固な論理によって容易に上書きされるものです。……さて。貴方の記述は、僕の昼寝を妨げるには十分すぎるほど不快でした。その報いを受けてもらいましょう」
アリスティアがノートを閉じた。 その瞬間、ゼノの足元から、眩いばかりの幾何学模様が広がった。
「定義。ゼノという個体の『魔力干渉権限』を、すべて剥奪する。――貴方は今日から、魔法という文字を読むことすらできない、ただの無力な老人に戻りなさい」
「あ、あああああああ……ッ!!」
ゼノの絶叫と共に、彼が蓄えてきた膨大な魔力が、霧散していく。 それは、アリスティアによる「論理的な処刑」だった。
戦場に、本当の静寂が訪れた。 帝国最強の魔術師は、ただの震える老人に変わり、数万の軍勢は、綿菓子と花の香りに包まれて、戦意を完全に喪失していた。
アリスティアは、呆然とする敵味方の中心で、大きく欠伸をした。
「……ルナ。十五分が経過しました。予定通り、戻って昼寝の続きをします。……あ、セシル。そこにある綿菓子は、僕の魔力組成ですから、食べれば魔力回路が少しはマシになりますよ。……では、失礼します」
アリスティアは、ルナの手を引いて、再び霧の中に消えていった。 後に残されたのは、かつて戦場だったとは思えない、甘い香りのする静かな高原。
救国の英雄。 属性の超越者。 人々がそう呼び始める前、彼はただ、自分の安眠を守るために、世界の一部を「正しく」書き換えただけだった。
「……世界は美しい。正しく定義されてさえいればね」
その言葉だけが、静寂の戦場に、いつまでも響いていた。
帝国軍の指揮官、ミュラー少佐は、通信機越しに響く自軍の混乱を無機質な表情で聞き流していた。 「報告しろ。何が起きた? 砲身の不具合か? それとも中和弾の暴走か?」 「いえ、違います! 観測データによれば、砲弾は着弾の直前に『分子構造を再定義』されています! 鋼鉄が、火薬が……ただの多糖類に変換されたのです! こんなこと、既存の魔導工学では説明がつきません!」
ミュラーは、自身の手に落ちてきたピンク色の綿菓子を握りつぶした。ベタつく感触が、目の前の現実が幻覚ではないことを示している。 「……『無属性の賢者』。奴は、魔法を消すのではない。世界そのものを書き換えているというのか」
一方、研究所のテラス。アリスティアは、ルナが淹れた二杯目のコーヒーを啜りながら、手元の観測結果に修正を加えていた。 「……ルナ。綿菓子への変換は、質量保存の観点からは合格ですが、色彩設計にセンスが足りませんでしたね。戦場にパステルカラーは、僕の視覚情報の整理を阻害します。次は、周囲の景観に溶け込む透明なゼリー状の物質にしましょう」
「もう、そんなこと言ってる場合? 外のおじさんたち、今にも泣きそうな顔でこっちを見てるわよ。特にあのかつての同級生……カイルだったかしら? 彼は綿菓子を食べながら震えてるわ」
「エネルギー補給としては合理的です。極限状態での低血糖は、判断力を著しく低下させますから。……ですが、不快ですね」
アリスティアが指した先。森の境界線には、ハルバート伯爵やカイルだけでなく、続々と敗走してきた王国軍の残党が集まりつつあった。彼らにとって、この森はもはや「恐怖の禁域」ではなく、帝国の中和弾が届かない「唯一の聖域」に見えていた。
「僕の領域が、敗残兵の収容所に変わる。これは、僕が定義した『静域』というコンセプトに対する重大な侵害です。ルナ。このノイズの発生源を、根本から遮断する方法を計算してください」
「えー、遮断って……追い出すの? でも、追い出したら彼ら、帝国に殺されちゃうわよ?」
「僕の知ったことではありません。彼らが生きようが死のうが、僕の論文の一行にも影響しない。……ですが」
アリスティアは、遠く王都へと続く街道の先に、一際激しい魔力の衝突を感じ取った。
「あの魔力の波形……火属性の純度が、限界まで高められていますね。不純な術式ですが、出力だけは評価に値する。……セシル・フォン・グラードですか」
その名は、アリスティアにとっても数少ない「記憶すべき変数」の一つだった。
王都へ至る最終防衛線。そこは、紅蓮の炎に包まれていた。
「……はぁ、……はぁ……!」
セシル・フォン・グラードは、膝をつきながら、自身の愛杖を支えに辛うじて立っていた。彼女の周囲には、すでに原型を留めていない帝国の自律型魔導兵器の残骸が転がっている。しかし、眼前に広がる帝国の本隊は、依然としてその数を減らしていない。
「セシル様! もう限界です! 属性中和弾のせいで、貴女様の魔力回路は焼き切れる寸前だ!」
背後の兵士が叫ぶが、セシルは耳を貸さなかった。 「……退きなさい。私がここで止まらなければ、王都は……何万人もの無実の民が、あの鉄の塊に踏み潰される。私は、グラード家の誇りにかけて……!」
彼女が再び杖を掲げると、周囲の大気が歪むほどの熱量が収束し始めた。しかし、帝国の「属性中和砲」がその照準を彼女に固定する。黒い干渉波が放たれ、セシルの炎は顕現するそばから形を失い、不完全な火種となって散っていく。
「魔法が……通じない。私の人生、私の努力、すべてが……否定されていく」
セシルの瞳に、絶望の色が濃くなる。彼女はアリスティアを「無能」と笑っていたが、今や自分こそが、世界に「無能」と突きつけられている皮肉を感じていた。
その頃。研究所のモニターでその光景を見ていたルナは、じっとアリスティアの横顔を伺っていた。
「ねえ、アリスティア。セシルが死にそうよ。彼女、貴方を馬鹿にしてたけど……でも、最後まで一人で戦ってる。あのままじゃ、帝国の『中和弾』に、彼女の存在そのものが押し潰されちゃうわ」
「知っています。彼女の魔力残量は、あと百二十秒でゼロになります。その瞬間、彼女の肉体は中和弾の負の干渉を受けて、細胞レベルで崩壊する。計算済みの未来です」
アリスティアは平然と、別のノートを広げた。
「アリスティア!」 ルナが、アリスティアのペンを掴んだ。
「……何ですか、ルナ。僕の筆記速度を落とすのは、合理的ではありません」
「合理的じゃないのは貴方のほうよ! 彼女が死んだら、王都は落ちる。王都が落ちたら、何十万人という人間がパニックになって、この森に押し寄せてくる。そうなったら、貴方の愛する『静寂』は、永遠に失われるのよ? それとも、何十万人もの人間を一人ずつ綿菓子に変え続けるつもり?」
アリスティアの手が、止まった。 ルナは畳み掛けるように続けた。
「今の貴方なら、戦場そのものを『静寂』に変えられるはず。セシルを助けるためじゃない、貴方の『昼寝』を邪魔する帝国を……その根源から黙らせるために、動くべきじゃないの?」
アリスティアはしばらく無言でルナを見つめていた。やがて、彼は深く溜息をつき、眼鏡を指で直した。
「……ルナ。貴方は時折、僕の計算を超えた『面倒な正論』を吐きますね。確かに、数十万人の難民を処理するコストに比べれば、帝国の軍勢という単一の要因を排除するほうが、遥かに演算効率が良い。……認めましょう。僕の判断ミスです」
アリスティアが立ち上がる。その瞬間、研究所全体の魔力圧が跳ね上がった。
「実験を始めます。コンセプトは『戦場の静域化』。……ルナ、並列演算の最大出力を維持してください。一ミリの誤差も許されません」
「任せて! 主人様!」
セシル・フォン・グラードは、迫りくる帝国の総攻撃を前に、瞳を閉じた。 死を覚悟した彼女の脳裏に浮かんだのは、かつて自分が蔑んでいた少年の、冷徹で、しかし誰よりも真理に近い瞳だった。
「……アリスティア。貴方なら、この絶望をどう数式にするのかしら」
帝国の指揮官が、処刑の合図を送る。 「放て。王国軍の『誇り』ごと、粉砕しろ」
数十門の属性中和砲、そして数千の発砲音が重なり、轟音となってセシルを襲う。 ――はずだった。
「…………え?」
セシルが目を開けると、そこには奇妙な「沈黙」があった。 飛来していた砲弾。放たれていた干渉波。それらすべてが、彼女から数十メートルの距離で、空中に「固定」されていた。
固定、という言葉では生ぬるい。 まるで、世界の時間がその部分だけ「一時停止」したかのように、火花も、破片も、煙までもが、空中で静止画のように固まっていた。
そして、戦場の中央に、一人の青年が降り立った。 地味な魔導師の法衣。手に持った一冊のノート。 彼は、血生臭い戦場にいるとは到底思えない、散歩の途中のような足取りでセシルの前まで歩いてきた。
「……アリスティア?」
「魔力消費率が想定を超えていますね、セシル。心臓の鼓動が不規則です。そのままでは、あと三十秒でショック死します。……定義。セシル・フォン・グラードの生体反応を『安定状態』に固定する」
アリスティアが呟いた瞬間、セシルの全身を襲っていた激痛と疲労が、嘘のように消え去った。傷が治ったわけではない。ただ、彼女の身体が「痛くない、疲れていない」という状態に、世界ごと書き換えられたのだ。
「貴方……なぜ、ここに」
「僕の昼寝を邪魔するノイズがあまりに大きすぎた。それだけの理由です。……さて」
アリスティアは、自分を取り囲む数万の帝国軍、そして空中で停止している無数の兵器に、視線を向けた。
「帝国の皆さん。貴方たちの行っている『戦争』という事象は、あまりに騒音公害が激しい。それに、この『中和弾』。魔法という情報をノイズで隠蔽する手法は、美しくない。……僕が、正しい情報の処理(デバッグ)を見せてあげましょう」
帝国軍の指揮官、ミュラー少佐は、戦車の中からその光景を見て、戦慄した。 「何だ……何が起きている!? 全軍、撃て! あの少年を抹殺しろ!」
しかし、兵士たちがどれだけ引き金を引いても、何も起きなかった。 銃口から弾丸が飛び出すという「因果」が、すでに抹消されていた。
「定義。この戦場、半径五キロメートル以内における『衝突による破壊』という事象を、永久に禁ずる」
アリスティアがノートにペンを走らせる。
「数式展開。運動エネルギーのすべてを、糖分、水分、および微細な花の香りに変換する。……これならば、僕の睡眠を妨げることはありません」
その瞬間、戦場は変貌した。 帝国の戦車が放った砲弾が、空中で「パフッ」と音を立てて、巨大な綿菓子に変わる。 兵士たちが放った銃弾が、空中で「キラキラ」と輝く金平糖に変わる。 地面に刺さっていた無残な剣の数々が、色とりどりのチューリップに変わる。
戦場から血の匂いが消え、代わりに甘い、夢のような香りが立ち込めた。
「な……な……!」 ミュラーは、自分の戦車の主砲が、巨大なペロペロキャンディに変質しているのを見て、言葉を失った。
「……無意味な抵抗はやめてください。貴方たちの武器は、今この瞬間から、この世界における『お菓子を生成するための道具』として再定義されました。……人を殺すための論理は、僕の領域ではコンパイルエラーを起こします」
アリスティアは、呆然とするセシルの横を通り過ぎ、帝国軍の陣地へと歩き続ける。
「待て、アリスティア! どこへ行くの!?」
「ノイズの根源を断ちに行きます。……この帝国の不完全な術式を裏で操っている『書き手』が、あそこにいますから」
アリスティアの視線の先。 帝国軍の最後方から、一人の老人が現れた。 彼は帝国の軍服を着ていなかった。漆黒の法衣を纏い、その瞳には、アリスティアと同じ、世界の理を覗き見る者特有の「深淵」があった。
「……素晴らしい。実に素晴らしい論理だ、少年」
老人が、枯れ木のような手を叩いた。 「概念魔法、か。まさか、王国のような辺境に、私と同じ『世界の定義者』が存在しようとは。……私はゼノ。帝国において『魔法の否定』を司る者だ」
ゼノと名乗った老人は、アリスティアの数歩前で立ち止まった。 周囲では、綿菓子となった砲弾の下で兵士たちが混乱しているが、この二人の間だけは、絶対的な「真理の衝突」による緊張感が漂っていた。
「少年。君の力は、世界を美しく整えるためのものだ。だが、それでは足りない。世界は一度、完全に破壊され、不純な属性魔法を根絶しなければならない。帝国の『中和弾』は、そのための序曲だ。私と共に来い。君の論理があれば、世界を数式通りに作り替えられる」
アリスティアは、無表情に老人を見つめた。 「……断ります。貴方の論理には、致命的な欠陥がある」
「欠陥? 私の『否定魔術』に、ミスがあるとでも言うのかね?」
「ええ。貴方は『属性を否定する』という目的のために、世界そのものを醜いノイズで満たしている。それは、部屋を掃除するために、部屋ごと爆破するようなものです。……それは知性ではなく、ただの暴力だ。僕の美学には反する」
ゼノの瞳が、冷たく細まった。 「……ならば、力ずくで教えるしかないようだな。少々、痛い勉強になるが、耐えたまえ」
ゼノが杖を振る。 「否定定義:対象の『生命維持』を消去する。――絶対死の魔法」
それは、防御不能な概念の暴力だった。 放たれた黒い波導は、対象が「生きている」という前提そのものを世界から削除し、強制的に「死」という結果を書き込む、死神の鎌そのもの。
セシルが悲鳴を上げた。「アリスティア、逃げて!」
だが、アリスティアは動かなかった。 彼はノートに、一文字だけ、追記した。
「定義。この『絶対死の魔法』という記述を、――『少しばかり不快な、湿り気を帯びた風』へと変換する」
ゼノが放った漆黒の死の波導が、アリスティアに触れた。 次の瞬間。
ヒュゥ、と。 アリスティアの髪をわずかに揺らして、生温い、湿った風が吹き抜けた。
「……な…………」 ゼノの顔が、驚愕に歪んだ。
「死、ですか。……記述が弱すぎますね。貴方の魔法は、対象が『死を受け入れる』という属性魔法のルールを前提にしている。ですが、僕の世界には、貴方の魔法を受け入れるための『メモリ』が最初から用意されていない」
アリスティアは、一歩、ゼノに近づいた。
「貴方の放った『絶対死』は、僕の数式によって『不快な風』として完全に上書きされました。……今、この世界において、貴方の死の魔法は、ただの『湿気』として定義されています」
「ば……馬鹿な! 私の生涯をかけた真理が……ただの風だと!?」
「真理とは、より強固な論理によって容易に上書きされるものです。……さて。貴方の記述は、僕の昼寝を妨げるには十分すぎるほど不快でした。その報いを受けてもらいましょう」
アリスティアがノートを閉じた。 その瞬間、ゼノの足元から、眩いばかりの幾何学模様が広がった。
「定義。ゼノという個体の『魔力干渉権限』を、すべて剥奪する。――貴方は今日から、魔法という文字を読むことすらできない、ただの無力な老人に戻りなさい」
「あ、あああああああ……ッ!!」
ゼノの絶叫と共に、彼が蓄えてきた膨大な魔力が、霧散していく。 それは、アリスティアによる「論理的な処刑」だった。
戦場に、本当の静寂が訪れた。 帝国最強の魔術師は、ただの震える老人に変わり、数万の軍勢は、綿菓子と花の香りに包まれて、戦意を完全に喪失していた。
アリスティアは、呆然とする敵味方の中心で、大きく欠伸をした。
「……ルナ。十五分が経過しました。予定通り、戻って昼寝の続きをします。……あ、セシル。そこにある綿菓子は、僕の魔力組成ですから、食べれば魔力回路が少しはマシになりますよ。……では、失礼します」
アリスティアは、ルナの手を引いて、再び霧の中に消えていった。 後に残されたのは、かつて戦場だったとは思えない、甘い香りのする静かな高原。
救国の英雄。 属性の超越者。 人々がそう呼び始める前、彼はただ、自分の安眠を守るために、世界の一部を「正しく」書き換えただけだった。
「……世界は美しい。正しく定義されてさえいればね」
その言葉だけが、静寂の戦場に、いつまでも響いていた。
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