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四章 スーパーバイザーとして

62話 ほっこりフレンチトースト

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  三

キャルキャルと、きゅーちゃんが騒ぐので、朝は目が覚めた。

希美は、寝覚めのいい方ではない。ぐずって毛布に潜り込んでいたら、二度寝は許さないとばかり、豊潤な香りが鼻腔をくすぐった。薄茶色に焦げた小麦が恋しくなるこの匂いは、

「……バター?」

はっとして、希美は布団を跳ね除けた。

「おう。起きたかー、眠り姫」

鴨志田が、こちらを見下ろし立っていた。その両手がパンの乗った皿で埋まっている。

そういえば、昨日は彼を泊めたのだった。おかげで深夜になるまで寝られなかったのを思い出す。

だが、眠気はもう立ち消えていた。

「それ、フレンチトーストですか」
「あぁ。そこのコンビニで揃えられるものだけ使った、即席だけどな。勝手に使っていいって言ってたから用意したけど、食べるかどうかは好きにしろよ。後輩の1/90000にふさわしいかまでは保証できかねるけど」
「食べます! むしろ、食べたいです!」

没収されたくない。希美は、犬のごとくベッドから飛び降りる。机の前に正座でつくがが、

「先に顔洗って歯磨き、だろ。洗面所行ってこいよ。髪、すごい寝癖ついてんぞ」

もっともなご意見をもらってしまった。

鴨志田こそ畝り放題じゃないか、と思いつつも支度をしていく。

二本になった歯ブラシに、心拍数が上がった。

久しぶりに食べる、まともな朝ごはんだった。基本的に外食オンリーで生きている希美にとって、朝だけはやっている店が少なく、おざなりになることが多かったのだ。

「……ふわふわ、とろとろ、ふわとろ!」

そこへきて、この手料理である。香りの時点で強者の予感はしていたが、期待を上回ってきた。

「材料は単純だけどな。バターと卵、それに牛乳、砂糖があれば大体にして美味くなる」
「そんな話じゃないですよ! 単純だから作るのが難しいんですもん」

希美が興奮していると、鴨志田が言う。

「もう一枚食べるか? 車だからいつもより時間あるだろ」

もちろん頷いて、ぺろりと平らげた。

もう慣れてきた助手席に座って、店舗予定地へと向かう。都内に入ったあたりから、不安が希美の心を侵食しはじめた。

ずっと言えずにいた話を聞いてもらって、迎えた素敵な朝だが、トラウマが拭えたわけではない。希美が思い詰めていたら、

「……え?」

車がインターチェンジへ入り、高速道路に乗る。鴨志田が平気な顔でハンドルを握っていたので、近道でもするつもりかと思えば、皇居を回って、有楽町横を過ぎていった。

「ちょっと、鴨志田さんどこに向かってるんですか!」
「どこだか当ててみろよ」

そんな子供騙しのゲームを楽しめる状況ではない。

Gショックを見れば、出社時間が刻一刻と迫っていた。だが、車は加速し新店舗から遠ざかっていく。

「間違ったんですか? あーえっと、とにかく会社へ連絡しますね」
「もう会社には連絡してあるよ」
「いつのまに? 嘘ですよね、私今日は起きてましたよ?」

車を停めている間にスマホを操作したのさえ見ていない。

「寝てたよ、後輩は。ぐっすりな。朝のこと、思い出せないのか」
「朝……? そんな早くに?」
「馬鹿みたいに早く来てる社員がいるからな。ちなみに今日一日、俺も後輩も休むって言ってあるから」

驚きすぎると人は適応できないらしい。
希美が言葉にならぬ声をあげたのは、約一分後だった。まるで無関係に、アクセルが踏まれる。

「仕事は!? 人手足りてないんですよね」
「……あー、まぁちょっとアテが見つかってな。心配いらねぇよ」
「いやいや、心配しかないですよっ!」

高速道路は、全くつっかえないほどに空いていた。だが希美の思考回路は大渋滞だ。一瞬降りようかとも思うのだが、さすがに正気ではない。

後部座席を振り返り、遠ざかる東京の街を見つめるしかできなかった。

「ん。これやるから、落ち着けよ。こぼすなよ」
「クッキーで済む話じゃないです!!」

食べても食べても、もちろん当惑は治まらない。なんだか不安定になって、泣きそうになってきた。

「もしかしてクビですか、私。使えないから……」
「ただの休みだっつの。特別休暇だ。有給も減らない」
「退職前の有給消化じゃなくて?」

鴨志田は答える代わりに、左折のウインカーを出した。パーキングエリアへ入ると、停車する。

「実家の住所、入れてくれよ」

鴨志田がなにをしようとしているかが、やっと理解できた。
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