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プロローグ『邂逅』
七話
しおりを挟む「どうして……」
「ん?」
「ほんの僅かな時間しか言葉を交わしていないというのに、何故そんなことが言えるのですか? いくらこの家を守る結界が私を弾くことがなかったのだとしても、それでも不審者に変わりはない。どんな世界で、どんな生き方をしてきたかなど、隷属の首輪をして戦争に出ていたという時点である程度わかるでしょう? ……まだあなたを警戒して名乗ってさえいない男を、どうしてそこまで信用できるのです?」
そう捲し立てるように口にした青年は、微かに震えた唇を隠すように噛み締めると、さらりと降りた前髪で憂う顔を覆った。
「これだけの恩恵を受けておいて、それでも人を信じるに至らない……あなたを信じてみたいと思いながらも、信じるのが恐ろしくてたまらない。一度心を許してしまえば、きっともう、あの冷たさを許すことができなくなる。あの場所に戻れたとしても、絶望以外に目がいかなくなってしまう。……私はいつだって弱いばかりで、けっして良い子だなどと言われるような人間では……ない」
王の言葉ひとつで、操られるがまま敵も味方も関係なく屠り、悲鳴に彩られた戦場で自身の心が凍りついていく音を聞きながら、まともに涙を流すことさえ許されなかった。
完全に心が死んでさえくれれば、何を見ても、何をしたとしても痛みを感じることなど無かっただろうに。それさえも許してはもらえず、狂いそうなほどたくさんの感情を積もらせて、延々と戦場に立ち続けた。その頃にはとっくに麻痺してしまっていたのかもしれない。だからきっと、完全に狂うことができなかったのだ。
そんな自分が、良い子であるはずがない。そんなことを言ってもらえる資格など、ありはしない。
「そんなことない」
「……え?」
「君は良い子だよ」
戸惑うように見上げた視線の先。首にかかる黒髪を細い指でするりと梳いていた葵は、どこか困ったような表情を浮かべているだけで、青年が思っていた嫌悪や失望の色は一切ない。
「無責任な言い方かもしれないけど、私は君がここに来るまでの間にいったい何をしていたかなんて見てない。知っているのは目が覚めてからの君だけ。現状もまともにわからない中で、本当は不安で押し潰されそうだろうに、それでも知らない人間に気を遣って『ありがとう』『すみません』って言えるってさ、凄いことだと思うんだよね」
「しっしかし、それは……誰だって」
「お礼やお詫びくらい誰でもできるなんて言えるのは、君が相手のことを思いやれる心根をきちんと持っているからだよ? まぁ、王族という立場でありながらその腰の低さ……さすがに打算が無いとは言い切れないだろうけど」
「……」
「別に責めてるわけじゃないの。むしろ褒めたいくらい。打算の無い優しさとか、無償の優しさなんて、いかがわしいだけだもの」
そう言って忌々しそうに鼻で笑った葵は、よほど嫌なことでも思い出したのか、どこか遠い目をしているようにも感じて、青年は思わず驚きに目を瞬かせて葵を見やる。
「まぁ、信じるのが怖いならそれでもいい。私を心から信用しようとしなくてもいい。だってそんなことは押し付けてどうにかなるものでもないから。何事も警戒するくらいが丁度いいんだって、私は思ってる」
思っていたことがきちんと伝わるように、ゆっくりと丁寧に言葉にしていく。
長い間抑圧され、自分の意思ひとつまともに表現できなかった彼の心は、いまや崩壊寸前の器に注がれた水のように危うい。絶望で満たされた日常で、いつ狂気に呑まれてもおかしくはなかった。
そんな生活から逃れたいが為に、いつしか頑なになってしまった心を、陳腐な言葉だけで解くことはできないだろうとわかってはいるけれど、それでもこの胸で感じたことだけはきちんと伝えたかった。
「それに私だって君にまだ何も教えてないよ? 名前も、歳も、いったい何をしているのかもね。それなのに、こんな怪しい女と真正面から話し合おうとしてる君は、やっぱりお人よしの良い子だと思うんだよねぇ」
葵は席を立って彼の傍まで歩み寄ると、項垂れていた頭にポンと手を置いた。彼は僅かに身体を強張らせはしたものの、葵にされるがまま大人しく撫でられ続ける。
「……そんなことを言われたのは、初めてです」
よしよしと頭を撫でる葵の手をそのままに、青年は泣きそうなのを堪えるような声でそう呟く。
「話を聞いた限りじゃ、君は小さな頃から自由がなかったんでしょ? ずっと首輪で縛られてて、戦争の時以外は塔に押し込められてた。そのうえ首輪の効果で言葉や表情さえ制御されてたとしたら、君が人前で何を思っていたとしても、周りにはわからなかっただろうね。……君がどんなに優しい子であったとしても、知る術がなければ行動の結果で為人を見るしかない。たとえそこに君の意志が反映されてなくてもね」
子供は親を選べない。生れ落ちる環境を選べない。そして彼は自身の行動さえも選べなかった。それに対して周囲の人間は、操られる彼を知るよりも自身の安全と保身を選んだ。王の不興を買わないように、何より自分や家族の命を散らされないように。
ある意味それは正しいのかもしれない。彼一人を犠牲にして、大切なものを守ることができるのだから。しかしそれは一方的なものであって、青年にとってはただの不幸でしかないのだ。
そんな中を生き抜いてきた彼が、どうして狂わずに生きてこられたのか。強靭な精神力というだけではなく、ああはなりたくないという意地もあったのかもしれない。それとも、せめて心だけは自由でありたいという表れだったのか。
首輪という枷が外れたことによって、ようやく心と身体が一つになった青年は、目覚めた時とは随分と印象が違い、少しずつ思ったことが顔に出るようになってきている。悲しければ悲しい顔をして、悔しければ唇を噛み締める。ここにいるのは間違いなく一人の人間だ。もう操られるだけの傀儡ではなく、きちんと感情を持ち、自分の意志で歩くことができる。
何よりも自分のしてきた行いに後悔し、押し潰されそうになっている者に対して、さらに追い打ちをかけるような言葉をかけるなど、どうしてできようか。
「やっぱり君は優しいよ。……私と違って」
「え?」
最後の方にポツリと呟かれた言葉が聞き取れずに、青年は戸惑うように聞き返したが、葵はそれ以上は何も言わずに曖昧に微笑むだけだった。
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