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第31話 回し蹴り炸裂

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「大変です。泥棒です!」
「そうなんです。中に誰かいて」
「なんだと? って、先輩はどうしたんだ?」
 亮翔が大声を上げると、中にいる奴は動揺したらしい。さらにがたんという音を立てる。それに続いて
「ぎゃああ」
 という悲鳴が上がった。中で何やら混乱が起こっているらしい。そこにフロントから徳義が飛んできた。悲鳴を聞いてただ事ではないと気づいたのだろう。
「りょ、亮翔様。いったい何が」
「解りません。すみませんがスペアキーを」
「は、はい」
 そんな騒ぎをドアの前でやっていると、急にがちゃんとドアが開いた。そして、出てきたあの男に千鶴たちは突き飛ばされる。
「きゃあ」
「邪魔だ」
 さらに混乱している男は千鶴の手を掴んだ。千鶴の顔が美希と重なり、さらに危機的状況とあって、亮翔の中で怒りが弾ける。
「てめえ、何してやがる!」
 急にぶちギレた亮翔に、千鶴の手を掴んだ男は怯む。その隙に千鶴が男の手を逃れた。と、すかさず亮翔の上段回し蹴りが炸裂する。
「うがっ」
 容赦ない攻撃に、その場にいた全員が呆気に取られた。男はよろめき、そのまま廊下にばたんと倒れてしまう。鍵を取ってきた徳義もばっちりその様子を目撃してしまったが、男が呻いているのですぐに我に返る。
「き、救急車だ」
 こうして旅館の中はますます大騒ぎになり、他の宿泊客にもこの騒動が知れ渡ることになってしまったのだった。



「あんなに大騒ぎだったのに、途中まで爆睡してたなんて信じられない」
「いやあ、すまんすまん」
 さて、救急車で例の男が運ばれてしまった後、同じく救急隊員の世話になった八木は、腕に包帯が巻かれた状態で苦笑いを浮かべていた。
 なんと八木は泥棒が部屋に入り込み、さらには千鶴たちが大騒ぎをしていたにも関わらず、酒のせいで寝入っていたというのだ。これにはもう呆れ果ててしまう。
 しかも亮翔の声を聴いてびっくりしたあの男が、腕を踏んづけて初めて起きたのだという。さらには転がっていた瓶が手の下にあり、ごろんと転がって手首を捻挫したという、なんとも間抜けな話だった。
「先輩は昔から寝たら梃子でも起きない人でしたもんね。大学で落雷騒ぎがあって周囲がてんやわんやしている時も爆睡していたという武勇伝があって、起きたのは総てが終わった後。落雷があったことも、停電してコンピュータがストップして大騒ぎだったことも気づかなかったと言い放ったんだ」
 犯人に上段回し蹴りを食らわせてしまった亮翔も、反省するよりも先に、八木の間抜けさにそんな武勇伝を語ってしまうほどだった。まったく、危機管理能力がなさすぎると思う。相手が八木に危害を加えるつもりがなかったから良かったものの、下手したら殺されていたかもしれないのだ。ちょっとは気づけと思う。
「それにしても亮翔さんにもびっくりですよ。まさか回し蹴りを食らわせるなんて」
「そうそう。空手をやってたんですか?」
「回し蹴り? 亮翔が? 運動なんてしない主義だったのに?」
 八木はそれこそびっくりだろというので、亮翔は鼻白む。確かに大学時代は動きたくないという感じだったが、運動しない主義ではなかった。しかも毎日大学には自転車通学していたほどだ。
「えっ、いや、まあ、修行の賜物かな」
 が、それまであまり体力がなく、高野山で修行していて足腰が鍛えられたのも事実で、無茶な蹴りも難なく出来たのはそのおかげだろう。亮翔は有り難いと手を合わせることで誤魔化した。
「でも、どうしてあの人、十六夜の間に拘っていたんでしょう。いったい何が目的だったのかな」
「さあ」
「なんだろうな、俺の推理も見当違いだったんだろうか。でも、荷物はやはり触られていなかったな。ということは、この部屋にある物だろう」
 改めて部屋を確認して、亮翔は自分のカバンもがっくんのカバンも無事だと頷く。つまり、金銭が目当てでこの部屋に侵入したわけではないのだ。
「でも、この部屋も望月と一緒で花瓶があって、絵があって、変わったものってないですよね」
 千鶴は失礼して十六夜の間に入ると、別に望月の間と大差ないけどなあと首を捻った。違いは僅かにこちらの部屋が小さいということか。望月の間は角部屋なので、少し大きな造りになっているのだ。
「十六夜にヒントがあるとか。ほら、『十六夜日記』ってあるじゃん」
 がっくんの言葉になるほどと思うものの、例示が『十六夜日記』というのはどうだろう。日本史で習ったばかりだが、あれは鎌倉時代、阿仏尼という尼さんが所領問題の解決のために鎌倉へ赴いた時の紀行文だ。まあ、ちょうどよくこの部屋にはお坊さんが泊まっていたわけだが、残念ながらこっちは男である。
「確かにそれはあり得そうだな。この部屋に何かがあると思い込んで侵入した。しかし、百萌さんにも確認したが、客室に特別高価なものは飾っていないということだったが」
「ううん。なんだろう」
「それこそ犯人にしか解らないじゃない?」
「だよねえ」
 部屋の名前に月の名前が付いているのは、こちら側からだと月がよく見えるからという理由だった。犯人はその事実を知らず、十六夜という名前に惹かれてこの部屋に入った。そう推理できるものの、その先はさっぱり解らないなあと諦めるしかない。千鶴はそのままテラスへと進み、空に輝いていた満月を眺める。
「綺麗。まさか月を見に来たとか」
「まさかあ」
「それはロマンチックだけど、人の部屋に入っちゃ駄目だよ」
 すると琴実とがっくん、さらに八木も気づいてテラスへとやって来て、この月が目当てだったのかななんて話し合う。確かにそう言いたくなるくらい、今日の月は綺麗だった。しかし、そうやって月を見ていても亮翔が参加してこない。千鶴はあれっと後ろを振り向くと、自分を熱心に見つめていた亮翔と目が合う。
「っつ」
 亮翔は目が合うとふんと顔を背けてしまう。その様子にまた美希さんのことを思い出していたのかと、千鶴もふんと亮翔を無視するのだった。
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