双子協奏曲

渋川宙

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第11話 ブラックホールと飲み会は難しい

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 定期がないというのは不便なことだな。昨日から見つからない定期入れのせいで今日も地下鉄には切符を買って乗ることになる龍翔は、回数券を買うべきかと、券売機の前で思案してしまう。
 いちいち買うのは面倒だ。しかしもし回数券を買って今日の朝に見つかったら。十一枚つづりの回数券は一枚だけ使用して後は無駄となる。出費としてはちょっとでも嫌だった。それに余った回数券をどうすればいいのだろう。金券ショップにわざわざ売りに行くのは面倒臭い。
「はあ」
 一枚ずつ買うのが無難か。まだ見つかることを信じている龍翔は、一回ずつ買うかと腹を括って券売機のボタンを押した。まったく、朝から憂鬱な話だ。
「どこに行ったのかな。電車に乗る時以外に鞄から出すことはまずないんだけど」
 昨日と同じように鞄の中をガサゴソと探ってみるも、定期入れは入っていなかった。かといって鞄のどこかに穴が開いているなんてこともない。
「ということは落としたのか。やはり駅員さんに訊いてみるべきだろうか」
 誰かが拾ってくれているならばと、駅の落とし物として届けられないかと確認すべきだろう。昨日、千佳に指摘されたところだ。しかしどうにも面倒臭い。しかも、駅では落としていないはずという妙な確信もあった。
「それよりも、浜野さんのことだ」
 定期も気になるが、あの件はどうなったのか。急に知行が絡んできたことで妙なことになっているのだった。飲み会の席はセッティングしておくと言っていたが、一体どうするつもりなのだろう。というか、知行は参加するつもりなのか。
「まさかねえ。話題に困るからと津田を引き込もうと企んでいるんだぞ。あんたが来てどうするって話だよな」
 それはないないと、龍翔は強く否定してしまう。これで参加されたら厄介なことこの上ない。確実に物理の話題で終始してしまうし、智史の入る場所がなくなる。知行は酒に酔うといつもの倍は喋るようになるのだ。普段でも話し始めると長いというのに、それこそ場を盛り上げるどころか、自分が主役状態になるだろう。
 色々と気になることばかりだ。そんなことを考えているとあっという間に大学の最寄り駅に着いてしまった。いつものように多くの人が吐き出されるのに任せて自分も降りる。そして憂鬱なまま地上へと階段で上がった。
 今日もまた猛暑日で、日差しはすでにじりじりと暑い。蝉も盛大に鳴いていた。しかし、今日も龍翔の耳にはそれが届いていない。
「はあ」
「何ですか。朝から溜め息なんか吐いて」
 せっかく背中を叩いて起こしてあげようと思ったのにと、昨日同様に元気よく挨拶をしようとしていた千佳が後ろからむすっとした声を出した。振り向くとちゃっかり手を挙げているところが怖い。
「いや、定期入れがまだ見つからなくてね」
 まさかお前のことで悩んでいたなんて言えるはずもなく、龍翔はそう答える。昨日から千佳との会話は神経を使うことばかりだ。思わず笑顔が引き攣る。
「それはまあ、諦めた方が早いかもしれないですね」
 しかも千佳がずばっ言ってくれるので、ダメージが大きい。こちらとて、定期だけだったら諦めているところだが、困るものが挟まっているのだ。それに貰い物を失くしてしまったというのも、何だか申し訳ない。
「簡単に諦めさせないでくれよ。定期は半月以上も残っているのに」
 しかしそんな色んな思いは飲み込み、龍翔はそれだけを言った。追及されるのは困る。あれとは実は二つあり、その一つがよりややこしいのだ。
「まあ、そうですよね。私も定期代をもう一度払えって言われるとショックな中途半端さです」
 これがあと数日だったら即買いますけどねと、千佳の男気溢れる発言に、龍翔はそうだねと同意するに止めるしかない。どうやらそれほど物に拘りがないようだ。これはますます恋愛話から遠のくなと、智史が振られる確率が上がってしまう。プレゼントしてもすぐに捨てられそうだ。
「そういえば、昨日は岩本先生に何か訊かれなかったか」
 ここは事前に対策を立てるべきか、そう思った龍翔は不自然な質問を投げかけることになった。しかし千佳はその唐突な質問にも疑問に思った様子はない。
「ああ、飲み会するならばどういう店がいいかって訊かれましたよ。後期の講義が始まるのに合わせて飲み会を開くんでしょうね」
 それどころかあっさりと答えてくれた。しかも知行が飲み会口実に食べ物の趣味を聞き出したことも知ってしまう。さすがは女性の扱いに慣れている。まずは胃袋を掴もうというわけだ。
「で、何が食べたいって言ったの」
「ああ。焼き鳥です。安くて美味しいし、外れなし。飲み会には丁度いいですよね」
 期待外れと言うべきか予想通りと言うべきか。千佳の答えに龍翔はさらに智史が振られる確率を上げることになる。何とも学生と飲むことを主眼にした王道なメニューだ。それとも飲み会との訊き方が裏目に出たのか。
「焼き鳥、好きなんだ」
 しかし訊ねておいてそのまま放置というのは奇妙なので、龍翔は無難にそう言うしかない。本当に気を遣う場面ばかりだ。
「それより先生。あの計算のことなんですけど」
 次はどうしようと考える龍翔に、千佳はいきなり研究の話題を振ってきた。これまた無視するわけにはいかず、ちゃんと答えるしかない。
「どうだった。あの式に直したら上手くいったかい」
 昨日、千佳が必死に見ていた資料は自分の作った式にデータが合致しているかを確認するためだったのだ。そして半日を使って確認したところ、合致しないものが出て来てしまったのである。
 千佳の研究はブラックホールに関するもので、それも初期の巨大ブラックホールはどうやって出来上がったのかを数式で解き表そうとしているものだった。
 ほんのちょっと前まで、ブラックホールはせいぜい太陽質量の十倍の天体が寿命を終えた後に出来たものだと考えらえていた。というのも、ブラックホールというのは恒星が最後に取る姿の一つだからだ。
 恒星は内部で核融合を起こして輝いている。その燃料となる水素をまず使い、水素を使い切るとその後は炭素を核融合していく。しかし核融合は鉄を合成するところで終わってしまうのだ。鉄は安定的な構造をしているため、それ以上の化学変化が起こらない。
 そして、核融合できなくなった恒星は重力の影響で中心に向けて質量が集まっていく。その質量が集まり過ぎて耐えきれなくなった時、超新星爆発が起こる。そしてその後に残るものの一つがブラックホールなのだ。だから大きさは元の恒星の大きさが基準となる。ということで、巨大なものはないはずだとの結論だったのだ。
ところが、徐々に観測精度が上がりその数十倍もあるブラックホールが発見されるようになったのだ。さらに銀河の中心にも巨大ブラックホールが確認された。太陽系のあるこの天の川銀河の中心にももちろん存在している。どうやら銀河の核として巨大ブラックホールが構成されるようである。
 しかし、観測されるもののこの巨大ブラックホールをきれいに説明できる理論はまだ確立されていない。それどころか、原初の宇宙ではもっと巨大なブラックホールが作られていたのではと示唆されるようになっている。それは二〇一五年に初めて観測された重力波の発生源だ。あれは巨大なブラックホールが合体することで起こったとされている。
「ホットな話題だから、ぜひ浜野さんに理論を構築してほしいところだな。あの方程式はなかなかいいところを行っていたし」
 昨日までの成果を思い出し、龍翔はうんうんと頷く。
「でも、せっかくアドバイスをもらって変更を加えても、まだすっきりしない感じです。妙な変数になるというか、総てが一つに集約できないというか」
 解けないことはないものの、それは操作を加えたものでしかない。そう千佳は言いたいようだ。なかなか鋭い。数学的なセンスは千佳の方が上なのかもと、龍翔は危機感を覚えないでもない。
「そうだな。まあ、俺のアドバイスは急拵えで思いつきみたいなものだから捨ててくれていいよ。思いついたものが変数としてしか機能しないのも仕方ない。今日もデータと突き合わせてみるのか」
「そうですね。もう少し今の式のままで考えたいので」
 千佳は決意を新たにした目をして笑う。その芯の強さに龍翔は素直に応援しようと思ってしまった。そして、これが智史の惚れた理由だろうかなんて考えてしまう。
 そんな話題をしている間に、もう大学の中だった。理学部の建物が集まる辺りに来ると、他の学部のエリアよりも人が多い。朝早くから研究しようとやって来る龍翔たちのような奴らが多いこともあるが、夜通し研究に勤しむ者も多いためだ。
 そんな寝不足な集団を通り抜け、いつものように自分たちの研究室に踏み込んだ二人は、どういうわけか昨日と同じく入り口で立ち止まることになった。
「へえ、若い研究者の交流会ですか。いいですね」
「だろ。我ながら名案。というわけで参加してくれ」
 そう盛り上がるのは、今日も龍翔の机を勝手に使用中の悠大と、今日はいつも通りのポロシャツにジーンズ姿の知行だ。いつの間にこれほど親しくなったのか、非常に楽しそうである。
「ああ、二人とも。丁度いい。明日の夕方、若い研究者を集めての飲み会を企画したから」
 知行は入り口で入っていいのかと躊躇う二人を見つけるとそう言って親指を立てた。それはもちろん龍翔への合図で、これで食事に行くのは自然だろと言いたいらしい。
「明日ですか。俺は大丈夫ですけど」
 しかし問題は急に予定を組んで千佳は大丈夫なのかということだ。龍翔は自分の参加を表明しつつ、隣の千佳をちらりと見た。
「私も大丈夫です。って、昨日の何を食べたいかって、このためだったんですか?」
 察しのいい千佳は、それならそうと言ってくれればと溜め息だ。ひょっとして研究室の飲み会ではないと知っていれば違うメニューを提案したのだろうか。
「あれ、ひょっとして焼き鳥じゃない方がいいのか。まだ店は予約してないから変更できるけど」
 そしてその態度は知行もすぐに察知した。だからそう訊ねる。
「いえ。焼き鳥で大丈夫ですよ。若い研究者の交流って他に誰が来るんですか」
 だが、千佳はそのままでいいと首を振りメンバーを気にした。まあ、食べる相手にもよる問題なのかもしれない。
「今のところ、隣の研究室にいる新崎君にも声を掛けるつもりだよ。他は悩み中」
 知行は笑顔で平然と嘘を吐いた。そのあまりに堂々とした姿に龍翔が呆れてしまう。
「新崎さんですか。廊下でたまにお会いしますけど話したことはないですね」
 それは楽しみにしてくれるということかなと、龍翔は期待を込めて千佳の表情を窺う。が、特に変化なしであった。こちらが意識していないことは明確だ。
「あ、そうか。初めての人とだと焼き鳥って食べにくいな。これは違うメニューにしておくよ」
 しかし知行はその反応よりもどうして焼き鳥に渋い顔をしたかが気になっていたらしい。そして閃いたと嬉しそうに言う。
「あ、ありがとうございます」
 まさか気づくとはと、千佳は驚くというより呆れたという顔になった。普通、そこまで気が回る男はいないだろう。
「教授って奥さんラブだからね。女性の心をよく理解しているんだ」
 呆れられては可哀想かと、龍翔はそう説明しておく。するとなるほどと納得の顔になった。でなければ女遊びに長けた奴としか思えない気配り具合となる。
「取り敢えず、第一関門突破というところか」
 あとはどう智史と千佳の会話を弾ませることが出来るか。そこに掛かっているなと、龍翔はまだ頭を悩ませることになるのだった。
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