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第46話 やっぱり面白いですね、椎名先生は

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 いや、誰だってそうだ。一体どこに犯罪者自らトリックが解かれることに加担する奴がいるというのか。目の前で余裕に笑う友也は、事実安西たちを殺したのか。その疑問が過って当然だ。しかし、それを否定することは難しくなりつつある。
「だとすると、水圧で開かなくなるドアは自動的に開くことになり、建物の行き来を分断していたことにはならなくなる。犯人は犯罪を成し得た後、渡り廊下からそこに行けたわけだ」
「でしょうね」
 友也はにっこりと笑って認める。
「同時に二人は亡くなったと考えるのが筋なんでしょうね。遠藤先生の遺体は隠されていたということになる。この上に」
「ええ」
「となると、今日の昼間は生活用水として活用していたわけではない」
「事件の前後で入れ替わったんですよ。水は総て排出されてしまった。つまり、水量が戻ってくるまでの間は使えないんですから」
「なるほど。今日の昼間は別のところから水が来ていた」
 その可能性を考えるべきだったのかと、今ある天井の水を思い浮かべて悔しくなった。予定よりも早く水が溜まっただけで、今この時も生活用水は別の場所から来ているはずだったわけだ。だからこそ、友也は安心して死体を天井に隠せた。ところが予定外の雨により、今、天井は満水状態になっているだけなのだ。
「地下水ですからね。別から引くことは可能ですよ」
「そうでしょうね。この辺りはかなり豊富だ。崖崩れを起こすほどに地盤が弱い」
「ええ。付近に民家がない理由の一つですね」
「つまりここはもともと、家を建てるのには向かない場所だということですか」
「ええ。だからこそ、地下水が家の中で調節されることになるんです。山の中でここだけ開けている。誰も開発していないのに。おかしいでしょ」
「湿地か、もしくは池だった」
「安西がここを手に入れた時には、すでに水はなかったですけどね」
 友也はよくできましたというように笑った。豊富にある水の正体。それは何も地下水だけではない。
「掘れば出るというのが、この場所の特徴だというわけですか」
「ええ」
「しかし、そうなると庭のオブジェは」
「不自然に思いませんでしたか」
「ええ」
 そう言えば、千春はあのオブジェがどうしても奇妙に映ったのだ。傾いていると感じた。その正体を今、気づくことになる。
「あれは正しく立っていないんですね。重みで沈んでいる」
「ええ。そういうことです。ちゃんと並んでいない理由もそれ」
「なるほど」
 ヒントは意外なほど目の前に提示されていたのか。では、わざわざ安西が重たい彫刻を買ったのは、友也の意図に気づいたからか。この家は危ない。それを安西はすでに知っていた。それでも住み続けていたのか。
「不思議ですか」
「ええ。設計者と安西の間には何かがある。苗字が同じだけではない何かがあるんですよね」
 そうだ。ここの設計者は安達友也ではないのだと、そこに妙な安堵感を覚えている自分に気づき千春は嫌になる。名前なんてどうにでもなるものではないか。そもそも、これだけ詳しく知っている友也が設計者ではないはずがない。そう思い、思わず大地を見ている自分がいた。
「そうですよ。俺は安西というペンネームを使っています。表向きの仕事ではない、個人住宅を建築する時だけ使っている名前です。ではなぜ建築家がペンネームなんてものをわざわざ使っているのか。これで必要な情報が出揃ったのではないですか」
 そして、千春の情報分別の状況を見て、友也が結論は出そうかと訊ねてくる。たしかに事件の外郭は掴めてきた。
「岡林さんは巻き添えですか」
「惚れていましたか」
「いいえ」
「なるほど。では、はっきりしていますね。彼女は同じ建物にいた。だから同じ現象が襲った」
「でしょうね。服や髪が濡れていたことも、それで説明がつきます」
 二人の間に再び冷たい空気が流れる。実際に部屋が冷たいかどうかは関係ない。それは殺気に似た何かだ。桃花に惚れているわけではないが、許せることではない。それだけだ。
「やっぱり面白いですね、椎名先生は」
 友也はにいっと、今までで見た中で一番あくどい笑みを浮かべていた。



 資料の山を見つめて、翔馬は深々と溜め息を吐いていた。安達友也という建築家があまりに有名人だという事実に驚いていた。だからこそ、個人宅を請け負う場合には名前を変える必要があったというのが実情らしい。別に今回のための布石でも何でもないのだ。
「今回の事件って、たまたまってことでしょうか」
「そうかもな。丁度いい何かが揃っただけなのかもな」
「じゃあ、どうしてうちの先生が巻き込まれているんですか」
「さあ」
 資料を見ながら、翔馬と将平は不毛な会話を繰り広げてしまう。つまり、明確な何かが掴めずにいた。安達友也が犯人だと仮定することに無理はない。しかし、何かが決定的におかしくなる気がする。彼は本当に実父である安西青龍を意識していたのだろうか。いや、安西と名乗ったことは単なる気まぐれだったとしか思えない。
「ひょっとしてさ。安西を認めていなかっただけでは。だから名前の残る作品には本名を、そして名前が残らないかもしれない個人宅では安西という偽名を使っていた。もしくは副業であるという認識を強く持つためとか」
「かもねえ」
 もはやどうでもいいのではと、将平は諦めモードだ。所詮、動機なんて後付けであることが多い。犯人が友也だと確定することが優先なのだ。
「安西が嫌いなのに、彼に認められたのかな」
「ううん。となると」
「虫唾が走るってことじゃないの」
「どうだか」
 英士の適当な推理を将平は受け流す。今の理論で行くならば、最初から安西なんて名前を使わなければいいだけの話だ。個人宅とはいえ、それが何十年も残るものだってある。京都の町家や有名人がかつて住んだ家。それだけではない。田舎の代々住み続けられている家。個人宅とはいえ総てが残らないわけではない。
「それもそうか。この安達って奴、よく解らないな。俺は千春みたいに人の心を研究しているわけではないし、他人の考えなんて読めないけど」
「いや。先生も心の研究なんて大それたことはやってないですよ。しかもそれ、心理学になるじゃないですか」
「そうだったっけ」
 英士は冗談だよと笑うが、将平が間の抜けた顔をしているので、どうしたのかと疑問になる。
「前から聞きたかったんだが」
「うん」
「あいつの研究って、結局は何なんだ?」
「そうきたか」
 ずばりの質問に英士は苦笑してしまう。そう、これこそ、千春が直面している問題だ。人工知能に人の心を理解させ、それに合わせる挙動をさせたい。端的に言えばそれだけのことなのだが、様々な憶測を呼んでいる。
「人の顔色を読み取る人工知能ってあるんだろ。あれと何が違うんだ」
「ほう。文系一本槍の将平には珍しい、いい質問だな」
 なかなかいい例えが出てきて、英士は少し真剣になる。多少の理解があるならば説明しても無駄ではないだろうという態度だ。そんな横柄な態度にむっとするも、将平は我慢して説明を求める。
「あれと心を理解するってのは別だと」
「そういうこと。将平が知っているものに利用されているのは画像分析という技術だ。つまり、人の表情をカメラで読み取ることによって、その人が今どういう気持ちなのかを分析している」
「へえ。たしかに怒っているか笑っているか。顔を見れば一発だもんな」
 将平は言いつつ、自分の顔を撫で上げた。ざりっとこの一日で伸びた髭が手に当たり、時間の経過を実感してしまう。もうすぐ四時だ。
「でも、千春がやろうとしているのは、文字や本人に関連する周辺情報から気持ちを読み取ることなんだよ。顔色じゃない」
「つまり、文章を読んでそいつがどう感じているか、それを読み取るってことか」
「それもある。しかしそれだけではない。文字だけなら自然言語解析って方法で幾分かの推察は可能なんだ。しかし、千春が目指しているのはそんな単純な物じゃない。これこそ、俺が負けたと思う最大の理由だ」
「ほう」
 英士の真剣な顔に、将平も思わず身を乗り出す。英士もまた同じく准教授という立場。それなのに負けたとまで言わせる研究。
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