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第48話 禅問答だな

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「まあね。ポチやタマに買い物を頼むことはないだろうけどな。源さんとかがいいかな。有能な好々爺って感じでうけるかも。ああでも、源さんに誕生日の歌を歌わせるのは嫌か。嬉しくないね」
「あのさ、千春の研究についてじゃないのか」
 永遠と人工知能談義をしていそうな二人に、将平は違うだろうとストップを掛ける。これもまた、研究者ならではということか。今、AIスピーカーへの呼びかけについてなんて、どうでもいい。
「千春の研究に関係あるよ。そういう些細なイライラを取り除くには、人間の感情を読み解くことが不可欠ってことだ。だから心の研究って言われるんだよ。突き詰めれば人工知能に何が不快で何が快なのか、それを理解させることでもある」
「ほう」
 そういうものなのかと、将平は納得できないものの頷く。たしかにSFの世界で、万能な人工知能は人間の感情を読み取っている気がする。ということは、そういうハイスペックな人工知能を作るためには千春の研究が必要ということか。
「そういうことだ。最も問題になるのが、人工知能が人類を滅ぼそうとしないかという、SFのような問いだ。これに関しても千春の研究ならば正しい解を得られることになる。人間は人類を滅ぼそうとは考えたことがあっても実行したいわけじゃない、っていう複雑な感情も理解できるわけだからね」
 英士はまるで自分の研究のように誇らしげに語った。それだけ千春の研究は飛び抜けて素晴らしいことなのだろうと、門外漢の将平にも納得させる響きだった。
「つまり、嫌がらせを受ける覚えはない」
「そうだよ。千春の研究はむしろ、人工知能の暴走を止めることが出来るものになるはずだ。ところが、やはり心というのは人間独特のものであり、それを総て機械に学習させるのは難しい。そこである程度の数値化と数式化が必要になるわけだ。形式化してしまうってことだね。そこを、一般の人たちは誤解してしまう」
「そうなのか」
「そうだよ。つまり、人工知能はある程度の心を持つことになったとして、果たしてそれは人間の感情を理解していることになるのか、ということだ。形式化された感情は果たして本当に感情なのか、ってことだね。些細なことはやっぱり解らないはずだ。自分たちの感情は数式では表せないはずだ。そういう反発も含まれる」
「難しいな。哲学みたいだぞ。もしくは禅問答だ」
「そう。十分に哲学だと思うね。難しい問題なんだよ。心なんて千差万別だからね。個人的な学習をさせることが可能とはいえ、完璧になる保証はない。しかし、今の人工知能は傾向を読み取っているだけなんだ。だから、さっきの俺のような不満が生まれる。つまり、千春がやろうとしていることは、解決の糸口の一つなんだよ。それが総てではないんだけど、やっぱり心というのは人間的には踏み込まれたくない領域ってことだね」
 それは解る気がすると、将平は頷いてしまった。心は人間にしか、いや、せめて動物にしか解らないものだと思いたい。その気持ちは将平にもある。だから、人工知能が自分の感情を読み解こうとすると言われると、拒否反応に似たものが出てしまうのだ。
 そこにあるのは、お前に何が解るという傲慢な気持ちなのかもしれない。それにもし心が数式化できるというのならば、様々な問題は起こらないのではないか。理不尽ともいえる殺人事件を日々相手にしている刑事からすれば、世間一般の反応が正しいと思えてくる。
「まあ、そうだろうね。千春が数式化したいのは、そういうどろどろした感情ではない。あくまで人工知能が社会で活用される際に必要な部分ってことになる。この制限を忘れると、先ほどの誤解を助長することになるわけだ」
 英士がにやりと笑ったので、ひょっとして今考えていたことが読まれたかとひやっとした気分になる。こっちの方が不気味だ。
「にしてもな。人工知能って本当に社会で役立つようになるのか」
「なるさ」
「言ってくれるね」
「そりゃあそうさ。コンピュータの発展は指数関数的なんだ。今が亀のような進歩であっても、あっという間に驚くような進化している。お前が持っているスマホ然り、普段使っているパソコン然りだな」
「そうだな」
 言われてみればと、将平は握ったままだったスマホに目を落とした。たしかにスマホも、出てきた当初は劣化PCなんて揶揄されていたものだ。それがいつしか手放せないものとなっている。しかもそれがいつだったか、もはや思い出せないほどだ。しかし、そうではない人間もいる。そう、千春だ。相変わらず連絡はない。まったく困った奴だ。
「まあ、人工知能がどうなろうと俺には関係ねえや。それより事件だ。天井に何があったんだ、つうの」
 将平はこの話題は終わりというように、友也の資料に目を戻した。どこにも欠陥のない、いや、安西の隠し子だったという事実以外に何もない資料。果たしてこいつが犯人なのか。妙に心がざわついていた。
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