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第53話 曖昧なままがいい

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「お前はスマホも扱えないのに工学部准教授なんだな」
「なっ、そんな言い草はないだろ」
 事件から一週間。田辺と友也の取り調べが終わったとしてやって来た将平は、千春を見るなり先ほどの一言を放っていた。だから千春は、スマホくらい扱えると憤慨した。
 あの後、明け方には雨が小降りとなり、さらに風が弱まったとしてヘリがやって来た。それにより事件は一気に解決へと向かったのだ。友也と田辺は自首し、桃花は病院へと運ばれた。やはり窒息しかけたのが原因のようで、病院での処置後も昏睡状態が続いているという。
「今回のような特異な状況でなければ殺されていたぞ。真相を暴かれて犯人がお前を殺そうとすることだって考えられたはずだからな。警察と連絡が取れる状態だというのに連絡を忘れるなんて、スマホを扱えないのと同等だ」
「なるほど、言い得て妙だ」
 そう納得したのは、今日も千春の研究室で寛ぐ英士だ。この人は自分の仕事はいいのかと、それを横で聞く翔馬は思わなくもない。千春は溜め息を吐き、反論を諦めていた。そして読んでいた論文を投げ捨てると、将平の話を聞く態度となる。
「それよりも、安達はどうなったんだ」
「送検されたよ。家の仕掛けは単なる遊びだったんだ。事件に関しては自殺教唆で落ち着いているから、刑は軽いだろうけどな」
「そうか」
 千春があの事件で気になるのはそれだけだ。友也は一体どうなるのか。果たしてどこまで手伝ったのか。あの場では、確かに自分が安西に指示したと言っていたが、それも怪しいのではというのが、千春の感触だった。
「警察でも変わらず、自分が唆したと供述しているよ。安達に関して、警察は安西の隠し子だろうと思っているから、この供述は重要視されている。そもそも、安西は何度も鎌倉を訪れているし、さらに安西の銀行口座から直接、安達の母親の口座に金が振り込まれていたからな。これは養育費を渡していたと判断されておかしくない」
「なるほどね」
 友也が揺るがずに強固に主張した理由はそれかと、千春は複雑ながらも頷く。しかし、そうなるとより一層、人物関係がややこしくならないかとも思った。一体、友也はどう思っているのだろうか。本当に田辺のことを父親だと信じたのか、疑わしくなってくる。
「安達はDNA鑑定はしないと言っているからな。実際がどっちだったか、本人にとってどうでもいい問題なのかもしれない」
「そんな。自分の問題なのに」
 それでいいのかと、翔馬は思わず声を上げていた。そんな曖昧な状況にしていていい問題ではない。
「いや。曖昧なままがいいってことなのかもしれないぞ」
「えっ」
「だって、安達の両親ってまだ生きてるんだろ」
「あっ」
 英士の指摘に、そういうことかと翔馬は納得する。ここではっきりさせることは、自分だけの問題では留まらなくなる。だからはっきりさせないということか。
「それに、何かを守りたいから嘘を吐いているわけだろ。それはどうするんだ。まあ、検察がこのまま嘘の証言を信じるかは不明だけど、何か守りたいものがあるってことさ」
「そうですね」
 いずれはっきりすることならば、自分から明かさない方がいい。それが、友也の判断だというわけだ。
「で、本当の犯人である岡林は」
「まだ入院中だ。意識が回復するか、医者は微妙だと言っている。意識が戻っても、脳に障害が残るだろうということだ」
「そうか」
 ということは、友也の嘘は有効なままということになる。千春は、翔馬とは違う意味で、はっきりさせた方がいいのではと思っていた。だから、桃花の意識が戻らないかもしれないというのは、あまり喜ばしいことではない。
 桃花はあの時、押し寄せる水から何とか逃れたものの、大量の水が肺に入り込んでいたのだ。そのために呼吸困難に陥り昏睡、誰もまさか水を飲んだとは思っていなかったため、適切な処置ができず、まだ眠ったままとなっていた。
「まあ、手伝ったという証拠はあるからな。安達の自殺教唆は揺るがないだろう」
「なるほどね」
「とはいえ、天井を通ったのは田辺の方だったけどな」
「えっ」
 証拠はそれではないのかと、今度は千春が驚くことになった。
「お前な。自分の身長を考えろよ。百八十もある大男が、高さが一メートルあるとはいえ、天井を這いずり回れると思うか」
「ああ」
 そう言えばそうかと、千春は友也が自分と同じくらいの身長だったことを思い出す。しかも天井に通じる穴はそれほど大きくなかった。あそこから入って天井を通り抜け、さらに美紅の死体を引き上げるなんてことが出来るはずない。
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