真夏の因果律

渋川宙

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第26話 恋心

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 茶の間に全員が揃ったところで、中井からあの洞窟について教えてもらうことになった。中井はずらっと揃ったメンバーに圧倒されたようだが、あれこれ質問されているうちに、すぐに打ち解けていた。
「あの洞窟と桐山家、そしてかつてこの村でもう一つ大きな派閥を形成していた深瀬家には、とても大きな因縁があるんです」
 しかし、中井がそう切り出したところで
「深瀬だって」
 小島と柏木が反応して深瀬を見てしまう。
「えっ。私、この村のことなんて知らないわよ。深瀬って言っても、別の深瀬さんじゃないの。珍しい名字だけど、うちの一族しかいないってものじゃないし。ここと関係があるなんて聞いたことないわよ」
 深瀬は何を言っているのよと思わず大声で否定するが
「いや、可能性はゼロじゃないと思いますよ」
 中井がそんなことを言い出し、茶の間には微妙な空気が流れる。ひょっとしてこれ、凄いことが起こっていないか。そんな期待の目が桐山と深瀬の二人に集まった。しかし、当事者二人はきょとんとした顔をすることしか出来ない。
「ええっと、一体何があったんですか」
 あまりに理解を越えた話であるらしいと気づいた桐山が、順序立ててお願いしますと割って入った。
「ああ、すみません。まさか桐山と深瀬が揃っているなんて、私も年甲斐もなく運命なんてものを感じてしまったものですから。勝手な当て推量です」
 中井は申し訳ないと頭を掻きつつ
「ここの村の地下に洞窟があることは、大正の頃まで桐山と深瀬しか知らない秘密でした。しかし、桐山家のお嬢さんと深瀬家の坊ちゃんが起こした事件、いえ、二人の大恋愛によって、この洞窟は有名になったんですよ。今では村人全員が、この恋物語と洞窟を知っているほどです」
 と身を乗り出した。それに桐山以外の全員がおおっと同じように身を乗り出す。そして
「二人の恋と洞窟。なんかロマンがありますね」
 小島は面白い話が来たと喜び
「ひょっとしてあの犬ぞりみたいなやつも、その恋の時に」
 謎の四つの物体も関係があるのかと荒井は首を捻り
「でも、どうして二人の恋に洞窟が絡むんですか」
 柏木が根本的な質問を挟んだ。それに中井はこの村独特の掟が関係しているんですよと説明を始める。
「実は昔、つまり二人の恋が問題になるまで、この村では桐山と深瀬は対立構造にあったんです。その対立は村全体を二分するほどのものでした。二つの家を中心に派閥を作り、桐山はこの村の経営を、深瀬は祭事を務めることで結束していました。どちらが欠けても村は成り立たない。ゆえにその二つの家は守るべきものであり、二つの家が交わることはない。それはいわば村の不文律でした。そういう掟を作ることで、村の中に裏切り者を作らないようにしていたのだと言われています」
「裏切り者、ですか」
 桐山はどういうことですかと突っ込む。話がますますややこしくなった気がした。
「それはさらに昔、ここに村が出来た当時の事情が絡んでいるそうです。平家なのかそれより前なのか、ともかくここは落人の村でした。つまり、中央の政治を追われた人たちが作った村だった。中央との内通者を生まないため、また、ここに村があることがバレないようにするため、明確な掟が必要だったそうです。村の権力者が二つあるのも、互いを監視する意味合いがあったようですね」
 これも二人の恋が発覚してから、改めて調べて解ったことだと中井は告げる。つまり、掟を破って若い二人が恋に落ちた時、ずっと続いていた掟の意味も発覚したということだ。
「ふうむ。つまり、ここはかなり閉鎖的な村だったということですね。うちの家は製菓業をしていたというのは、村の経営を担っていたことと関係があるわけですか。この村の経営資金を得るために始めた」
 桐山はなるほどねと頷き
「そのとおりです。桐山さんが村の外に目を向けたのは、明治政府が出来た時だという話です。今までのような村営では行き詰る。それを見抜く先見の明が、桐山隆蔵さんにはありました」
 中井は桐山家は非常に責任感の強い家なのでと頷く。今もなお桐山家がここに残っているのは、大恋愛事件が起こっても村を支えると決意したからだ。
「ははあ。村を支えているという意識が強いってことですね。それでなかなか老人ホームに入らなかったり、この家の片づけを渋ったりしていたのか。それで、一体何がどうなったんですか。俺が知る限り、この村に深瀬はいませんでした。つまり、いなくなってしまったんですよね。村の祭りは村にいる人たちが担う様になった経緯が、その二人の恋物語に関係しているってことですか」
「ええ、そうです。掟破りの恋ですからね。それなりの罰があったんですよ。そもそも、当初は二人の恋に周囲はいい顔をしませんでした。もちろん、同年代の男女が、こんな狭い村にいて、恋に落ちるのは自然なことでしょう。しかし、大きな責任のある立場となれば、あれこれ軋轢を生むものだったのです。それこそ、思いつめた桐山家のお嬢さんが、この村の秘密である洞窟を利用しようとするほどに」
 中井は昔は家が総てでしたからねと、溜め息を吐いてから麦茶を一口飲んでいた。



 着実に準備を進めているという報告を小島から聞く度に、深瀬の悩みは深いものへとなっていた。ふと溜め息を吐くことが多くなり、ぼんやりとすることが多くなってしまった。そして、そんな変化を傍にいる柏木が見逃すわけがなかった。
「坊ちゃん。一体何を悩んでいるんですか」
 一日の務めが終わってから、柏木はそう深瀬を問い詰めていた。その目は真剣で、どんな誤魔化しも認めないという鋭さがあった。
「桐山のことだ」
 しかし、そんな目を向けられずとも深瀬はそれに素直に答えていた。このまま会う日が近づくのが耐えられない。そんな逃げ出したい気持ちが大きくなっていたのだ。正直言えば、こうやって柏木が問い詰めてくれて良かったとさえ思っていた。
「それだけで、坊ちゃんが深刻な顔をなさることはないですよね。今までもあれこれお考えのようでしたし、桐山のお嬢さんが好きだというのは解っていましたが、真剣に悩むことはなかったはずです」
 だが、側近を務める柏木にとっては一大事の問題だ。素直に白状したこともどこか怪しいと感じてしまう。そもそも、ここ数か月はずっと桐山のことを考えていたのだ。それが突如として、その悩みが重いものに変わった理由が解らなかった。
「それは」
「まさか、桐山のお嬢さんと何かあったんですか」
「ええっと」
「あったんですね」
 まだ何もないのだが、このことをどう説明すればいいのだろう。深瀬はつい言い淀んでしまう。するとますます柏木の顔が険しくなり
「寝たんですか」
 直接的な表現で問い質される。それに、深瀬はそんなことはないと大声で否定していた。まさかそこまで勘繰られているとは思っておらず、顔が真っ赤になる。十七と多感な時期であり、そういうことになるかもと考えてしまったことがあるため、その動揺は大きなものだった。
「では、最近のその上の空の様子はどういうことですか」
 だが、それくらいで柏木の疑念が解けるわけがなかった。いや、むしろ本当は寝たのではないかと、その疑惑を強めてしまっている。じりじりと迫って来る柏木は、どうするつもりだと責任を追及するかのような顔をしている。
「ほ、本当に、寝たとか、そんなことはない。むしろ、最近は全く会えていない。それはお前も知っているだろ」
 深瀬は落ち着いて考えろと、自分が動揺している場合ではないと柏木の顔で思い知らされる。そして、ここ一か月ほどの行動を思い出してほしいと訴えていた。この頃の深瀬は、桐山への気持ちを絶たなければと思い、桐山に近付くことはなかったのだ。それは傍にいる柏木も知っているはずだ。
「それは、そうですね」
 そして柏木も、会っていないという事実は認めるしかなかった。少なくとも、柏木の目が届く範囲内で深瀬が桐山に近付いたことはない。また、二人が小島を仲介として会っていたとの話も、最近ではめっきり聞かなくなっていた。それだけ、この村では二人の行動に耳目が集まる。こっそりと会っていた可能性なんて考える必要がないほどだ。
「一体何に悩んでいるんですか」
 しかし、それならばますます悩んでいる理由が解らない。今までのように桐山家との関係に悩み、どうにか泰子と話そうとしていた頃と今の間に何があったというのか。どうして急に接触しなくなったのか。新たな疑問が浮かぶ。
「その」
 深瀬だって総てを柏木に打ち明けて楽になりたいと思っている。しかし、総てを正直に告げてしまうには、桐山がやっていることはあまりにリスクのあることだった。告げ口することは、彼女の評判に関わってしまう。もしも洞窟を伝ってやって来ようなんてしていると知られたら、桐山がどう思われるだろう。そんな心配をしてしまうのだ。
「坊ちゃん。はっきり言ってくれないと困ります。これは重大事案なんですよ。旦那様も、まさか間違いが起こっていないだろうなと、どれだけ気を揉んでおられるか解っているんですか。旦那様が直接言って来られないのは、もちろん坊ちゃんを信頼しておられるからです。ですが、もしも何かあったら、どうするつもりですか。深瀬は完全に桐山に負けたことになるんですよ」
 躊躇う深瀬に、柏木は懇々と言い聞かせるように訊ねてくる。確かにその通りだ。そして、そのことを懸念しているからこそ、ずっと悩んでいたのだ。
「桐山が、俺を好きだって言いたい、と小島に相談しているらしい。小島が何度か報告に来ているほどだ」
 それでも、何とか出てきた説明はこれだけだった。深瀬はそのまま俯き、これで納得してくれと拳を握り締める。
「告白しようとしてるってことですか。それにしては悩みすぎじゃありませんか。それが成就しないことを、坊ちゃんはよくご理解のことだと思いますけど」
 柏木はやはり納得できず、ううむと悩むような顔だ。それから、やれやれと溜め息を吐くと
「旦那様に報告します。桐山と万が一のことがあっては困りますからね。どのような処置を取られても、文句は言えませんよ」
 問題は深瀬家の当主に一任すると、最後通告のように告げたのだった。



「なるほど。自由恋愛が認められていない時代だったからこそ、二人の恋は洞窟を利用してやるってほどに盛り上がったんですね。素敵」
 柏木はそんなロマンがあったなんてと、それまでの洞窟に興味がないとの態度から一変して、中井の話に食いついている。
「実際に洞窟で密会していたんですか」
 小島もこれは凄い話だと食いつくが、中井は密会には使われなかったようだと苦笑して答えた。
「ええっ、使われなかったんですか」
「妙な扉があったのに」
「扉ですか。まあ、桐山の御嬢さんは真剣に準備を進めていたと言いますから、そういうものを作っていたとしても不思議じゃないですね。洞窟の中にも、いくつかお嬢様が作ろうとしていたものが残っているそうですし。しかし、二人の恋は意外な形に進んでいくんです。よって、洞窟は利用する必要はなかったんですよ」
「おや、ということは、二人の恋は成就したんですか」
 てっきりどこかでバレて終わっただろうと思っていた桐山は、意外ですねと口を挟んでしまう。
「えっ、でも、深瀬さんはここからいなくなったんですよね。罰があったんですよね。それなのに二人は結ばれたんですか」
 しかし、それじゃあ自分が巻き込まれている意味が解らなくなると、深瀬が抗議の声を上げた。何かあったからこそ、自分がその恋の果ての子孫だという話になるのではないか。それに、成就したのならば村からいなくなる必要はなかったのではないか。
「ええ。二人の恋愛は成就こそしたものの、総ては一筋縄ではいきませんでした。やはり掟がありますからね。そしてその掟を守るため、この恋物語の主人公の一人、深瀬嘉仁さんは一時期座敷牢に幽閉されることになったほどです。そして、その後は村から追い出されることにまでなってしまった」
「うわあ、壮絶」
「座敷牢って、やっぱり昔は普通にあったんですね」
 中井の言葉に、荒井と柏木が実際にあったんだとドン引きする。それに対し、中井は何とも言えない顔をすることしか出来なかった。座敷牢に関して見解を持ち合わせているわけではない様子である。
「ええっと、つまり深瀬さんが捕まってしまったために、洞窟を利用して密会することは出来なかったというわけですか」
 だから、桐山がすぐに話題を元に戻した。今、問題はこの家から繋がっている洞窟の話だったはずだ。そしてそれは利用されずに終わってしまったということである。こちらを先に説明してもらいたい。
「ええ、そうです。洞窟は利用されずじまいです。こっそり会う前に発覚してしまいましたからね。しかし、そこでお嬢様は終わりにしなかった。彼女は総てをなげうつことになると解っていながら、深瀬の元へと走ったんですよ。本当にもう大恋愛でしたからね。私も昔は祖父母からよくこの話を聞かされたものです。嘉仁さんが座敷牢に入れられてしまうところなど、この物語の山場のようなもので、何度も聞かされたものですよ。さあ、想いに駆られたお嬢様はどうなるのか、っていうわけです」
 中井は桐山の助け舟にほっとしつつも、二人の反応も解ると頷いていた。そしてそんなことがあっても想いを貫いた桐山泰子は、当時としては先進的な人だったと女性たちには映ったのだ。
「じゃあ、そりに関しては何も伝わっていないんですか」
 特に恋愛譚には興味のない桐山は、大事に仕舞われていたそりに関して情報はないかと訊ねる。それに、恋愛話の続きを聞きたがっている学生たちは不満そうな顔をするが、あれが何だったのか気になるのも事実だ。
「そり、ですか。ああ、それはおそらく、桐山のお嬢さんが洞窟を進むために利用しようとしたものですね。当時、桐山さんの計画を手伝っていた人がいたそうで、その人と協力して、あれこれ絡繰りを作ろうとしていたそうですからね。そりもその一つでしょう。先ほども言いましたが、洞窟にいくつか、当時の絡繰りの残骸が残されているそうですからね。あれこれ作っていたのでしょう」
「ほう」
 それは面白いと、桐山は素直に感嘆の声を上げていた。確かに密会するには、洞窟の距離が長い。それをどうにかしようと考えていたとは驚きだった。単純に通り抜ければいいとは考えなかったのは素晴らしい。
「絡繰りか。それも気になりますね。洞窟を調べた月島さんも見たんでしょうか」
 荒井も同じく、どういうものを作っていたのかと興味を示す。すると中井は
「月島って、月島恭輔のことですよね。私の友人ですよ」
 とこれまた驚くことを言ってくれる。
「ほ、本当ですか」
「ええ。ですから、洞窟のことが気になったんですよ。月島が調査した時、洞窟がこの桐山家に繋がっているようだと言っていましたからね。でも、さすがに私有地を調べるのは許可がいるからと、その時は断念したんですよ。まさか奥側に扉があったとは、月島も想像していなかったでしょうね」
「おおっ」
 洞窟に関してさらなる急展開を見せ、茶の間は熱気に包まれる。まさかこんな一石二鳥のようなことがあるとは驚きだ。
「洞窟を見つけた時、月島さんのブログを見たんですよ。蔵のことを知らせるかどうかって話していたんです。連絡を取ってもらうことは可能ですか」
「ええ、もちろん」
「それよりも恋の話の続きを教えてくださいよ。あっ、中井さん。うちでご飯を食べてくださいよ。ねえ、先生」
 盛り上がる荒井を押し退け、柏木が時間も時間ですしと言い出す。何とかして恋愛話の続きを聞き出そうとうずうずしている。
「ご飯は大丈夫ですよ。うちに用意がありますから。ええっと、お話ですね」
「焼き肉の予定ですから、食べて行ってください」
 中井はやんわりと断ろうとしたが、時刻はすでに六時になろうとしていた。このままだらだらと喋っていたら、どう考えても晩御飯の時間になる。桐山は自分たちも食べたいからと、勧めてみる。
「そうですか。では、うちのにメールだけ送っておきます」
 妻が用意しているはずだからと、中井はそう言って手早くメールを送る。なんだかんだ言いつつ、彼も学生たちが興味津々に話を聞いてくれるのが楽しいようだ。そのついでに月島にもメールを送ってくれる。
「洞窟に籠っていなければ、すぐに返信があると思います」
「ありがとうございます」
 学生に代わり、桐山は深々と頭を下げた。まさか祖父母の家の整理がこんなことになるとは思ってもみなかったが、桐山も気になっていたので助かる。
「いえいえ。私も古びた恋物語を語れる日が来るとは思ってもみませんでしたから」
 中井も楽しんでいますからと笑い、そこで一度晩御飯の支度を始めることになるのだった。



「坊ちゃんが急病だと、そう噂されています」
 小島の報告に、桐山は息を飲んだ。急病、一体どんなものなのか。心配で手に持っていたロープを落としてしまった。
 今日も地道に洞窟の中で作業をしている最中だった。荒井の目を誤魔化す必要があるため、いつも昼の二時間ほどしか作業できない。それでも、小島が手伝ってくれるようになって、本格的に進み始めたばかりだ。それなのに、深瀬が急病だなんて。
「お、落ち着いてください。それは表向きの理由ですよ」
「えっ」
 桐山を落ち着け杳として放った小島の言葉に、きょとんとしてしまう。表向き。つまり、本当は病気ではない。
「どういうこと」
 どうして動揺するようなことを言うのか。桐山は小島を睨み付ける。すると、小島は悪戯を見つかった子どものように肩を竦めた。
「ええっと、非常に申し上げにくいんですが」
「早くして」
 芝居がかった言い方に、ついイライラしてしまう。桐山は何がどうなっているのと詰め寄っていた。
「坊ちゃんは深瀬の旦那からお𠮟りを受け、しばらく家から出られなくなったんですよ。謹慎処分です。しかし、それを正直に村人に告げるわけにもいかず、表向きは病気ということになっています。一か月は外には出てはならないとの命令です」
 小島はこれで解るでしょうと、座敷牢に入れられたことは伏せて、それでも極力事実を述べた。それに、桐山の顔が真っ青になる。
「お叱りって、まさか、私のせい」
「ええ、まあ。あってはならぬ恋ですから。頭を冷やせというわけです」
 本来、この措置を取られるべきは桐山だろうに。そう小島は思ったが、まさか本人に言うわけにもいかず、やれやれと首を横に振ることで誤魔化す。こういう時、仲介役というのは肩身が狭いものだ。自由に意見を述べることは許されていない。
「そんな。どうしましょう」
 しかし、桐山が想像以上に動揺を見せたので、小島の気持ちも落ち着きを見せる。そして、ここは宥めなければとの責任感が出てきた。
ここで桐山の気持ちの暴走を止めることが、深瀬のためになる。深瀬を早く牢から出してやることになるのだ。幼馴染みのことを思うのならば、今しなければならないのは、桐山を動揺させることではない。
「しばらくは静観いたしましょう。それが一番ですよ。まずは旦那様が怒りをお納めにならなければ、何も進みません」
「それは」
 桐山はそれでどうにかなるのかと、困惑の表情を浮かべている。確かに深瀬の両親にバレてしまった以上、今までにも増して二人の監視が強化されるのは間違いないだろう。いずれ桐山の父、隆蔵の耳にも入り、見合いが早められる可能性が高くなる。だが、ここで何かすれば、ますます二人の立場は拙くなるのだ。
「ともかく、今は大人しくしましょう。もう二度と深瀬の坊ちゃんに会えない、なんてことは嫌でしょう」
「そ、そうね」
 二度と会えない。その言葉が効き、桐山は大きく頷いた。しかし、すぐに溜め息が零れる。この洞窟を利用しようなんて計画を立てるほどの頭脳の持ち主だ。事態が最悪の状況になってしまったことを理解するのも早い。
「お嬢様」
「結局、この村の掟はこんなものでは打ち破れないのね。愛おしい、恋しい。そんな気持ちに決着をつけることさえ、ここでは許されていないんだわ」
「それは」
 掟を破ることは出来ない。確かにそうだ。小島はそれ以上言うべき言葉が出てこなかった。そしてその掟は、特に桐山と深瀬に大きく働く。当事者の二人がどうにもできないほどに、逃げることが出来ないほどに強固なものなのだ。
 そんな中、桐山は立ち向かおうとした。一方、深瀬は早々に諦めて掟を受け入れることにしていた。だから、この結末が訪れるのは当然のことだったのだろう。
どちらも立ち向かう方向に動いていれば、少しは違ったかもしれない。深瀬が少しでも勇気を出し、桐山に近付いていれば、何かが変わっていたかもしれない。
あるいは、桐山が想いを飲み込んでいれば、波風はなく、村は何事もないままだっただろう。
「深瀬の坊ちゃんのこと、諦めるタイミングなんですよ」
 これ以上傷つかないためには、引くしかないはずだ。小島はどちらの気持ちも知るからこそ、潮時だと思っていた。



 車に積み込んで持ってきたホットプレートと、さらに台所のガスコンロを駆使して大量の肉と野菜が焼かれた。さらに中井がここで学生たちとお喋りをしていると知り、中井の妻の幸恵もやって来たことで、焼き肉だけだったはずの晩御飯にサラダと煮物と枝豆、さらに自家製だという漬物がプラスされた。
「桐山さんのところが賑やかだと思ったら、若い子ばっかりだったのね」
 幸恵はにこにこと騒がしい学生たちに給仕をしてくれ
「煮物、美味しいです」
「漬物も美味しい。ご飯が進む」
 柏木と小島の賛辞にとても嬉しそうだった。
「すいませんね、うちのまで厄介なって」
 深瀬が中井のコップにビールを注ぐと、申し訳ないと頭を掻いた。それに深瀬はいえいえと首を振ると
「うちの先生、下戸で飲めないんです。ですから、私としても中井さんたちが来てくれたのは大助かりですよ」
 学生に無理強いをしてはアルハラで訴えられるしと苦笑する。
「ははあ。最近の若い人はあまり酒を飲まないって言いますからねえ。しかし、深瀬の子孫かもしれない方にお酌をしてもらうとは、不思議な気分ですねえ。うちの家は派閥で言うと桐山家で、深瀬とはあまり繋がりがありませんでしたから。恋愛話の中に出てくるだけの遠い存在でしたよ」
 中井は美味しそうにビールを飲みながら、昔だったら考えられない光景ですよとテーブルを見回す。その桐山は、小島に無理やり肉を食わされそうになっており、非常に迷惑そうな顔をしている最中だった。
「二つの家は、それだけ行き来がないものだったんですか」
 自分の家の祖先に関わるかもしれないと知り、深瀬も興味を持っていた。中井の横に座ると、どういう状況だったのかと訊ねてしまう。
「全くと言っていいほどなかったですね。それはもちろん、長い時間を二つの派閥に分かれていたというのも原因でしょう。アメリカの共和党と民主党みたいなもので、恋物語が生まれた頃には、相容れないというレベルにまでなっていたそうです」
 同じ村にありながら、敵同士のようになっていたんですよと中井は苦笑する。その実感があった世代ではないものの、親や祖父母の反応から感じるものはあったのだ。そして、それほど相容れない二つの家に起こった大恋愛だったからこそ、今でも語り継がれているのだと思う。
「それはかなりの分断ですね。じゃあ、恋愛した二人が出会うのも大変だったってことですね」
 深瀬はそれほどのものだったのかと驚き、一体何がどうなっているのだろうと首を傾げる。困難な恋愛だったことは解るが、洞窟を利用しようと思ったり、座敷牢に閉じ込めなければならないと思ったりする、その心情を理解するのは難しい。ましてや、そんな状況で二人の恋が燃え上がった理由も見えなかった。
「仲介する人がいたそうですよ。その人も深瀬の者たちがこの村を去ることになった時、一緒に出て行ってしまったので詳しくは解りませんが、村の中にはあえてどちらの派閥にも入らない人たちがいたそうです」
「へえ。なんだか複雑なんですね。でも、その人たちのことは伝わっていないんですか。深瀬がいなくなったら、必要なくなってしまったからですか」
「いえ。たぶん、大恋愛の咎をその人たちが負ったからでしょう。深瀬の追放処分だけでは、村人全員を納得させることが出来なかった。そこでスケープゴートが必要だったんじゃないでしょうか。彼らは責任を負わされ、村の伝承にすら残さない。ここにいた痕跡を残さない。そのことが、決着だったんでしょうね」
「なるほど」
 大きな家の問題を消すことは出来ない。しかし、その原因を他に求め、そちらに咎を負わせることは可能だ。そこで選ばれたのが、二人を引き合わせた人だったとしてもおかしくはない。
「名前こそ出てこないその人たちですが、一人は深瀬さんの幼馴染みだったそうです。だから、その人が桐山さんとの間を取り持ったということでしょう。本人はまさかこれほどの騒動の責任者になるとは思っていなかったでしょうけどね。同い年の友人だったというだけです」
「ははあ。学生同士の関係だったところに、大恋愛が発生してしまったというわけですか。とんだとばっちりですね」
 深瀬は頷くと、相変わらず桐山に肉を食わせようとしている小島と、それを笑っている荒井と柏木を順に見てしまう。彼ら彼女らのように気安く同年代で楽しむことは必要だ。そんな単純な思いも、この小さな村では難しかったのだろうか。それとも、そんなことさえ許されない不自由な状況だったからこそ、恋心は止まらないほど大きなものに発展したのだろうか。
 結婚に関して考えたり、桐山に関してどう思うか考えたり、そんなことをしているせいか、深瀬もこの恋愛に色々と考えを巡らせてしまう。そして、ここで桐山と恋に落ちたら、過去の大恋愛とは違う困難があるだろうなと思って苦笑してしまう。
「仲がいいですねえ」
 わいわいと焼き肉を食べている桐山たちを見て、中井がしみじみと呟く。先生であるはずの桐山を囲んで学生たちが楽しそうにしている様子は、平和そのものだ。
「仲がいいっていうか、先生に威厳がないだけですけどね。本当は凄い先生のはずなんですけど、偉そうぶったところはないし、学生の意見にはちゃんと耳を傾ける人ですから。そうじゃなきゃ、お盆に家を片付けるから手伝ってくれって言って、三人もすぐに立候補しません」
「なるほど、人徳ですね」
 この村の過去を知っている中井にとって、そんな桐山は非常に眩しい存在として映っていた。
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