君が望む幸福を

nonnbirihimawari

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第1章 碧柱石(ベリル)

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 うっすらと、閉じている瞼に透けて光が見える。陽の光――ではなく、これは月の光だ。自分の今いるところは温かくて、心地よい。確か、宿に着いたはずだ。朦朧とした意識の中、ルークの顔を見たのを覚えている。
 ゆっくりと瞼を開く。
 横を見て、スタンドに付いている時計を見た。時刻は深夜二時。あれからもう十時間ほど眠っていたということが分かった。
 さあっと髪が靡く。
――風?
 そう思って、バルコニーに目を走らせると、その縦長の窓は半分ほど開かれていた。そこから入ってくる風に乗って、カーテンはふわふわと揺れていた。
 隣のベッドを見る。そこに、ルークの姿はなかった。フィオレはベッドから滑り降りた。
 バルコニーの方まで歩いていき、そこをのぞく。カーテンの影に人の姿があった。フィオレはその後ろ姿がルークだと、すぐに分かった。
「ルーク……?」
 はっと、ルークは振り返った。フィオレを見て、少し苦しそうな表情をすると、一度目を閉じた。
「フィオレ……。起こしちゃった?」
 ううん、とフィオレは首を振った。フィオレはそのままバルコニーへ入った。
 ルークと目が合う。それだけで、フィオレは彼の気持ちがよく分かった。彼はずっと、本当に自分のことをを心配していたのだ。
――わたしは……、なんてことをしてしまったのかしら。
 フィオレは本当に後悔していた。あの時ちゃんと別れていれば、彼にこんな思いをさせずにすんだ。自分のわがままと甘い考えのせいで、彼は今、しなくてもいい心配や不安をかかえている。
 フィオレはそれを何とかしたくて、ルークに微笑んだ。
 それを見たルークは一瞬苦しそうな表情をすると、フィオレを自分のもとに引き寄せ、抱きしめた。
「フィオレ……! 俺、怖いよ」
「ルーク……」
「フィオレはいつもそうやって誤魔化すから……。もっとちゃんと言ってくれよ。俺、心配で……フィオレ……ちゃんとつかまえてないとどこか遠くに行っちゃいそうで――」
「ルーク。わたし……」
「……ごめん」
 ルークはそう言うと、フィオレを抱きしこめていた腕を緩め、彼女を自分のもとから離した。
 フィオレはルークの顔に手を伸ばす。そのままその手は伸びていき、ルークの茶の髪をなでた。
「ルーク、子どもみたい。わたしより年上なのに……」
「……うるさいなあ」
 少し拗ねたように、そっぽを向いてルークは言った。
 フィオレはくすりと笑う。そしてその頬に涙がつたった。それはフィオレにとっても不意なものだったため、彼女自身も驚いていた。それから、フィオレは堰を切ったように泣き始めた。
「ごめん……なさい……。なんだかわたし、このごろ変よね……」
 フィオレは泣きながらそう言った。ルークはフィオレの背中を優しくたたきながら、彼女が泣きやむのを待った。しばらくしてそれはすすり泣きにかわり、やがて止まった。
「寒くない?」
「……うん」
「それ、寒いってこと?」
 うん、とフィオレは頷いた。
 ルークはむっつりと返事を返してくるフィオレの頭をぽんぽんとたたくと、部屋にはいるように促した。
 バルコニーに繋がる窓を閉め、カーテンを閉めても、そこから漏れてくる月明かりに照らされ、部屋はさほど暗くなかった。
 フィオレは服の上から、胸の部分にあるネックレスとぎゅっと握る。ルークに背を向けたまま、フィオレは口を開いた。
「……聞かないの?」
 ルークはその言葉に、少し寂しそうな表情を作った。
「聞いてもいいのか?」
 フィオレはその問いに答えず、ベッドの方へ歩いて行った。そして、ベッドの上にぽすりと音を立てて座った。
 首にあるネックレスを外す。フィオレはルークに顔を向けた。
「こっち来て」
 ルークは彼女の行動の意味がよく分からなかったが、言われたとおり彼女の左隣に腰をかけた。
 フィオレはルークの首に手を伸ばす。そして、今自分が手に持っているネックレスをルークに付けた。
 どこまでも透きとおった、蒼い宝石。
 ルークはその先端に付いている大きな丸いものを見て、そう思った。
 フィオレはルークの手を握って、言った。
「〝大地よ。我に力を貸し七色を現わせ。虹〟って言ってみて」
 フィオレの言葉に、ルークは表情で疑問符を投げかける。フィオレにもう一度促され、ルークは言葉を紡いだ。
「大地よ。我に力を貸し七色を現わせ。虹」
 さあっと、二人の前に美しい虹がかかった。月の明かりに照らされて、七色の虹はゆらゆらと揺れ、いろいろな色に変わった。
 フィオレは小さく言葉を紡ぐ。
「闇よ。汝の力持て深淵の扉を開け。消滅」
 その途端、虹はあとかたもなく消え去った。ルークは驚きを隠せない様子で、フィオレを見る。素質はあるが、あまりにもそれは小さすぎて引き出すことはできないと言われた自分が、呪文を紡ぐことによって術を完成させたのだ。
 フィオレはネックレスをルークから外して、再び自分に付けると、口を開いた。
「このネックレスに付いている宝石は碧柱石でできている術の増幅器なの」
「碧柱石……?」
 ルークは大きく目を見開く。フィオレは静かに頷いた。
 ルークが驚くのも無理はない、とフィオレは思う。碧柱石は北の果て、オーゼンセにある泉、それもそこは神聖の地とされ一般人が立ち入ることを許されない不可侵な場所なのだ。
「わたし、オーゼンセに行きたいの」
 ルークは黙って話を聞いていた。黙って聞く以外、ルークにはどうすることもできなかった。
 フィオレはずっと逃げてきたのだ。あの三人……いや、きっともっと多くの人から。増幅器といえば、とても稀少価値の高いものだ。それも、碧柱石となれば、なおさらだった。
「オーゼンセに行って……、どうするつもりなんだ?」
 フィオレは少し乾いた笑みを浮かべた。
「返すのよ、これを。あの泉に……。きっと怒ってるんだわ。聖なる故郷の地から離されて……。だから……わたしは……」
 フィオレは一度言葉を飲んで、再び口を開いた。
「だから、わたしはそれまでこの石を守らなきゃ。悪いことに使おうとする人が……たくさんいるから。それに、お父様とお母様とも……」
 約束したの。
 その言葉を、フィオレは口に出すことができなかった。
 破ってしまった、二人との約束。
 ルークは辛そうなフィオレの手をぎゅっと握った。それしかできない自分が悔しかった。自分は無力だ。そう思わずにはいられなかった。
 フィオレの蒼い瞳から、涙がこぼれ落ちる。
「約束……したの……」
 破ってしまった、二人との、もう一つの約束。
 絶対に、術は使ってはいけない。
 その約束を、破ってしまった。でも、あの時の自分に他の選択肢など残っていなかったのだ。
 術を使ったことは後悔していない。彼は生きているから。後悔しているのは、両親との約束を破ってしまった自分自身だった。
 ルークにだけは絶対に言えない、この約束の意味。
「フィオレ……」
「ごめんなさい……ルーク。巻き込むつもりじゃなかったの。あの時、ちゃんと別れなきゃいけないっていうことは分かっていたのに……わたしがいけないの」
 フィオレは涙を流しながら、でも、と言った。溢れてくる気持ちを抑えきれなかった。
「こんなに幸せなのは……本当に久しぶりなの」
 ルークはうん、と頷く。
「だから……だから……アストラルシティーまでは、一緒にいて。あの人たちがまた来ても、ルークのことは、わたしが……わたしが絶対守るから。だから……お願い……」
 ルークはフィオレの長い金髪を撫でた。その感触は心地よくて、ずっとそうしていたかった。
 フィオレは泣いている。今は彼女の泣き顔を見ている方が安心できた。悲しむときに悲しめなくなった人間は、もうどうしようもないから。
 フィオレ、とルークは呼びかけた。フィオレは何も言わず、ただ泣いていた。ルークは彼女をそっと自分の元に引き寄せると、優しく抱きしめた。
「フィオレ、謝らなくてもいいんだよ。フィオレのことは……俺が守るから。俺、軍じゃ優秀な方なんだぜ? だから大丈夫。大丈夫だよ」
 フィオレはこくりこくりと何度も頷いた。
 ルークは優しい。優しすぎる。だから甘えてしまう。分かっていても、自分を止められない。
――ごめんなさい……。
 フィオレは心の中で、何度もルークに謝った。もう一度この言葉を口に出したら、きっと彼は自分自身を責めてしまうから。
 優しすぎる人は、傷つきやすいから。
 たくさん泣いて、涙を枯らして、お別れのときは笑顔でいよう。幸せであった自分を覚えていてほしい。
 彼が自分を思い返してくれたとき、一番に思い出すのが自分の笑顔であるように。

 フィオレが泣き疲れて眠るまで、ルークはずっと彼女の髪を撫で続けていた。
 
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