真理の声

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1章

やさしい声だけが残った

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目が覚めたのは、朝の6時半。
アラームは鳴っていない。
鳴る前に目が覚めてしまうのは、もう何年も前からだった。
「老化だよ」と笑った同僚の言葉が脳裏に浮かぶ。

分厚いカーテンの隙間から、外の曇天が覗いている。
フローリングの床は冷たくて、分厚い靴下を探す手が布団の中でもぞもぞと動いた。

キッチンで湯を沸かす。
シンクには、昨夜のコップと皿。
見るだけで、今日も特別なことは起こらないと知ることができる。

湯が沸いたら、いつものスティックコーヒー。
味とか香りとかはもうどうでもいい。
温度と“何かを口にするという儀式”のほうが大事だった。

テレビはつけない。
ニュースはうるさく感じるし、知りたいことなんてネットをさまよえばすぐに見つかる。

コーヒーをすすりながら、スマートフォンで昨日の配信アーカイブを再生する。

『こんばんは~っ、白音まりあですっ♡』

イヤホンから聞こえるその声は、まるで他人のもののようだった。
明るく、甘く、軽やかで、楽しそうな女の子の声。
「誰だっけ、この子」と、ふと頭に浮かぶが
すぐに「これ、私だ」と思い直して、思わず苦笑した。

「……声だけなら、まだ“若い”って、思えるよね」

ぽつりと呟いた声は、さっきの配信のそれとはまるで違っていた。
掠れて、低くて、疲れていて、どこかすり減っていた。
けれど、それが現実の彼女の“素の声”だった。

かつて真理まりは、大手家電量販店のお客様対応窓口に勤務していた。
修理、返品、初期不良、保証内容――毎日、鳴り止まない電話に対応し続ける。

怒鳴り声も日常だった。

「何回もかけてんだよ!いつになったら解決するんだよ!」
「そっちのせいだろ、バカにしてんのか」
「上のヤツに代われや!お前の名前を言え!」

どれだけ丁寧に、冷静に対応しても、「ありがとう」と言われることは、年に数回あるかないかだった。

ときには、商品とまったく関係ない“誰にもぶつけられない怒り”のゴミ箱にされた。

「声で伝える仕事」だと思っていたはずが、いつの間にか「声で押し潰される仕事」になっていた。

退職のきっかけは、はっきりしていない。
ただある日、電話の呼び出し音を聞いた瞬間、手が震え、目の前が真っ白になった。
それっきり、もう受話器を取ることはできなかった。

それでも、「声」というものに未練があった。

顔を出さなくてもいい。
年齢も、見た目も知られない。
ただ、マイクの向こうで“声”を届けるだけで、誰かに届く世界――VTuber。

最初は軽い気持ちだった。
でも、初めて投稿したボイスに「癒された」と書かれたとき、こみあげてくるものを止められなかった。

だから、始めた。
“白音まりあ”として、若い声を作って、元気に振る舞って
誰にも責められない世界で、もう一度「声」を使ってみた。

今では、“白音まりあ”は1万人のフォロワーを持つVTuberだ。
でも、それは“自分”ではない。
声だけでできた、もうひとつの自分だった。

冷めたコーヒーをシンクに流しながら、彼女は小さく吐き捨てるように言った。

「やさしい声だけが、残ったってわけね」

その言葉に、自嘲も後悔もなかった。
あるのは、ただ“今日もまた、配信をする”という静かな覚悟だけだった。
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