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序章

人生とはままならない物ですね。

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「ポコッ」

 齢30を超え年甲斐も無く力いっぱい壁に投げつけたスマホが、予想していた100倍はしょっぱい音を立てて床に落下していく。
 

 思ったより小さく空いた壁の穴すら、今は腹立たしい。こんな安アパートの修繕費を計算する気力すら起きない。

 今までの自分の人生、生きていて良かった事などあっただろうか。


―――情に負けて父の借金を肩代わりした途端、両親が蒸発した。


―――仕事で体を壊した。もちろん保障など無かった。


―――唯一の心の支えだった飼い猫のユッカが、先週他界した。


……そして先ほど届いた父からのメール。


「明けましておめでとう!体壊してないかな?心配です」の一文。


 体は壊れているし、何もおめでたくない。

 今更心配したふりは止めて欲しい。アンタが心配してるのは金だろう。ちなみにあんたの借金、まだまだ残ってるぞ。渡した金、支払に当ててないだろう?10年たった今でもアンタ宛に集金に来るんだぜ。





「……生きて居たくない」



 そうだ。死にたくはない。でももう、疲れたな。

 今なら、ユッカと一緒に逝ける気がする。

 



 冷蔵庫からすぐ酔えるって事でお気に入りの強めの缶チューハイを取り出し、浴びるように喉を潤していく。

 ひりつく喉の感覚のお陰で、少しだけ気分が良い。

 用意していたネジを数本、ロープを吊れるように壁に打ち込んだ。思いのほか酔いが回るのが速かったらしく、壁が穴だらけになってしまった。


 趣味だったDIYがこんな形で役立つなんて皮肉だと思う。


 画面の割れたスマホを拾い上げ、お気に入りのクラシックを流す。
 

 静かなピアノが、眠るのにちょうどいいから。


 壁にかけたロープで輪を作り、頭を通すと、急に大粒の涙が零れ出した。

 
 これが未練なのかと思うと、不思議と笑えた。


 全身が熱を持ったようにひりついて、何も考えが纏まらない。思い出すのは幼少の幸せだった思い出ばかりだ。


 スマホから流れる音楽が、耳障りなくらいに盛り上がっていく。


「ピンポーン」


………………借金取りでも来たのだろうか。


 どうせなら鍵開けておけばよかったかな。普段の暴言のお返しに首吊り死体とご対面だ。その顔を見られないのが少し心残りだ。


「―――ピンポーン――――――ピンポーン!!!」


 嗚呼、どうしてこうも色々と上手くいかない物なのか。

 どうしようもなく悲しかったはずが、今度は邪魔された怒りが湧き上がってきた。最後ぐらい、好きに逝かせてほしい物なのだけど。唯一のチャンスを逃したような、夢から覚めたような、どうしようもない焦燥感。


 多分、もう二度と死ぬ勇気は起きない気がする。

 
 どうせならこの邪魔者の顔を拝んでおこうか。涙でぐしゃぐしゃ今の顔を見せたら、きっと引くぞ。今日はその顔を見るだけで勘弁してやろうじゃないか。

  


「親父なら居ないといつも言って『?』……………………は?」

 三日ぶりに浴びる日の光が網膜を焼く。



 目を細めると、到底地毛とは思えない紅い短髪の女の子がスーツを着込み、カバンを抱えつま先立ちで見上げていた。


 二度見した頭には、これまた自前とは思えない赤黒い角が生えていた。



 意味が分からない。


「……復讐に興味はありませんか?誰かに聞かれると面倒なのでお邪魔しますね!」








 固まった俺の脇を無理やりすり抜け、「ソイツ」は勝手に家に入ってきた。

 なんて強引なセールスマンなんだろう。

 
 どうしよう、生まれて初めて女の子を家に上げてしまった。



*†*:..。..。..:*†*:..。..。..:*†*:..。..。..:*†*


 我が家に春が来た。

 
 来るはずが無いと思いながらも期待していた春がきた。


 会社と自宅を往復するだけの毎日。稼ぎも悪い上に借金持ち、おまけにイケメンではない身の上の自分にはとうてい出来ないと思って居た彼女という存在。それでもいつか女の子を自宅に呼ぶことを夢見て買った中古のワイドソファ。
 


 かなり綺麗だったのだけど、事務所の様なデザインのせいか格安で売っていた。部屋のインテリアをソファに合わせて居たら自宅が事務所の様になってしまったけど、案外悪く無くてお気に入りだった。

 結局、自分の隣はユッカの定位置になってしまっていたのだけれど。


 その定位置に、今は見知らぬ可愛い女の子が座っている。


 当然、家にある椅子はそのソファだけだし、これは隣に座るのが礼儀というものだろう。


 胸いっぱいに女の子の香りを吸い込みたい所存。
 

「復讐って、なんの事でしょうか。」


 自然体。あくまで自然体だ。相手がセールスマンで、フツメンの自分にはチャンスなんて無い事は百も承知だ。仮に相手が真っ赤に染髪していて、頭に角を生やしたまま営業するような異常な女の子でも。

 それでも手に入れたい、年頃のガールズスメル。この思い出を糧に、これからはもっと強く生きようと思う。女の子が自宅に来たことがある男として、昨日までの自分から生まれ変わるのだ。伊達に一回死にかけてないだろ。


「憎い相手が居るのではないでしょうか?」

 自然体で腰掛けたその隣、彼女は表情一つ変えず営業トークを展開だ。大丈夫。まだ慌てる様な時間じゃ無い。その腕に鳥肌がたったのが見えて泣きたい。


「憎い相手は沢山居ますが。」

「それはさぞお辛い日々をお送りになっている事でしょう。胸中お察しいたします。どうでしょうか?一度こちらをお目通し頂きたいのですが。」


 淡々としたやりとり。体の距離はこんなに近いのに、その心は非常に遠い位置にあるに違いない。決して交わる事は無いんだろう。


 冷静に考えれば当然だと思う。泣き腫らした顔の男の家、壁には無数に穴が開き、ひと肌に温まったロープがアクセントを加えたこんな部屋で、誰が恋愛感情を抱くというのか。分かっていた事ではあるけれど、非常に寂しい気持ちになってしまう。


 渡されたチラシに目を通し、気を紛らわせる事にした。



『対象の余命を10年削る呪い。お値段寿命12年!」

 なんだそりゃ。差額の2年が彼女の取り分にでもなるのだろうか。現金な呪いもあったものだ。

『相手の予想が一生外れる呪い!お値段寿命15年!」

 予想がことごとく外れるなら、中々強力なんじゃないだろうか?15年という対価も案外頷ける気がする。ぜひギャンブル狂いに堕ちて人生破滅へと向かって欲しい。

『対象の適正睡眠時間が12時間になる呪い!お値段寿命5年!」

 これは地味に辛いやつかもしれない。8時間寝ようが9時間寝ようが常に寝不足に陥る訳だ。恐らく日常生活を送る事さえまともに出来ないだろう。寿命5年で相手を一生苦しめられるという点では、一番お買い得なんじゃないだろうか。


 目を通して一つ。呪いの訪問販売が現代で行われている事に驚いた。過去に見たことがあるのは「対象を不幸にする」といった様な曖昧な呪いの代行を行っている怪しげなサイト位だ。それもテレビで見ただけ、本当にあるのかどうかすら怪しい代物。呪いの代行証明として、五寸釘の打ち込まれた藁人形の写真が送られてくるとかなんとか。


 ここまで具体的な呪いは初めて見た。代価が寿命なのも、得体の知れない恐怖を誘ってくる。案外リーズナブルに思わせる値段設定も妙にリアルで怖い。そうなると気になるのがお値段の回収方法か。


 肉体的な接触で徴収されるのなら、こちらとしては願ったり叶ったりなのだけれど。

 チラりと彼女に目をやると、穏やかな微笑みを返された。

 胸が苦しい。可愛い。これが恋の病なのだろうか。思い出すのは中学生の頃。初恋のあの子に告白してこっぴどく振られたあの日。フツメンは自分の見た目と性格を理解した。理解してしまった。長く続く苦悩の今日まで恋愛と言う物を諦める程度には。


 なんと暖かな病があった物だろうか。あの頃とは比べ物にならない胸の痛みは、意外にも自分を穏やかな気持ちにさせた。


 こんな気持ちになれるのなら、生きるのも案外悪くないのかもしれない。


 手を伸ばせば届く距離にあるその微笑みに堪えられず、チラシに視線を戻す。


 心臓がバクバクとうるさい。

 
 手書きのそれにびっしりと書かれた呪いのバーゲンセールを眺めていると、最後の方に小さく描いてある商品が目に留まった。


『地獄行。お値段全寿命』



「……最後のこれは?」


「文字通り、地獄行です。売れた事はありませんが。」


「誰が地獄に行くんですか?」


「貴方です。」


 なる程、酷い商品があった物だ。

 それでも少しだけ期待してしまう。キャバクラで自分が買える中で一番高いシャンパンを入れるおっさんの気持ちが今なら分かる気がする。ワンチャンお持ち帰り出来るのでは、と。


 
 いいなあお持ち帰り。してみたいなあ。

 
 彼女は既に自宅にいる訳だけれども、プライベートな時間を一緒に過ごしてみたい。酸いも甘いも一緒に嚙分けてみたい。彼女が辛い時には傍に居てあげたい。朝目覚めたら彼女が傍に居る生活とかしてみたい。


 嗚呼それが叶うならこの命は惜しくないな。

 伊達に一回死にかけてないだろ。

 そうと決まれば交渉、アタックだ。どうせ失う物は何もない。恥ずかしさなんて、泣きっ面を見られた今となってはどうでもいい。幸い、彼女の腕の鳥肌はなりを潜めている。
 



「最後の商品、買うからアンタをくれないか」
「はい!?!?」


 あくまで平静だ、平静を装う。多分キモチワルイ顔をしているし、彼女の顔を直視したら羞恥でどうにかなってしまいそうだ。言っといてなんだけど臭すぎるセリフだ。きっと彼女が会社に戻った後笑いの種にされる。


 それでもチャンスがあるなら賭けてみたい。



 賭け金は自分の命。上等じゃないか。キャバクラの一番高いシャンパンなんて目じゃないんだぜ。



 どうやって徴収されるのだろうか。いきなり包丁を取り出してブスリ、なんて嫌だなぁ。



「アンタが一緒に来てくれるなら買いますよ。それ。」


「本当……に?」


 
 体をビクりと震わせ、くしゃりと泣きそうな顔で聞いてくる彼女。てっきり笑われるか引かれるのを想像してたんだけど。なんか思ってたんと違う。


 涙で潤んだその瞳にはポカンとしたフツメンが写り込んでいる。


「本当ですか……?」


 いつの間にか両頬に添えられた彼女の手が暖かい。伝わってくる微かな震えのせいで、思わず抱きしめたい衝動にかられる。



 包丁endを回避出来たようで一安心といったところ。


 一度捨てた命だ、最後まで賭けを続行してみようか。
 


「痛みは?」「ありません。」

「苦痛は?」「ありません。」


「恥ずかしい質問なんだけど。最後までの間、せめて、抱きしめていてくれないでしょうか。」
「ご希望とあらば最後まで」



「じゃあ、それで。」

 彼女がハッと息を飲むのが分かった。その瞬間。周囲に良く分からない魔法陣の様なものが浮かび、部屋中が青白い焔に包まれる。


「……なんですかこの光?」


「契約完了です。ありがとうございます。マイロード。」



 そっと回された両腕に、久しく忘れていた確かな温もりを感じて


 今まで生きた苦しみ、その全てが報われた気がした。

 
 嘘くさい部屋の光も、これは本当に死ぬのかもしれないという焦りも、全てがどうでもいい。


 地獄とやらも、彼女が一緒なら耐えられる気がするぞ。

 

 涙声の彼女が耳元で囁く。



「ありがとうございます。マイロード。私の真名は『ヴォーテリ・アマリリス』。
 サキュバスの系譜の悪魔。リリス、とお呼びください。」


「アマリリス……彼岸花か。――――良い名前じゃないですか。」
「はい……はい!!!」




 悪魔。

 彼女は悪魔だったらしい。なんてこった。


 それでも意識が薄れていく中見えた彼女の微笑みが、本当に綺麗で。








 嗚呼、本当に死ぬのかもしれない。でも、こんな死に方なら悪くないかな、なんて思う。









 完全に一目惚れだったんだ。今の自分は、きっと世界一幸せだろう。










 痛みも苦しみも無い。彼女と触れ合った部分を残して、
 意識が溶けだして―――いく様――――――――。





























一週間後、とある町のアパートの一室で、一人の青年の死体が発見された。










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