地球温暖ガールと絶滅フレンズ

Halo

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第二章

11℃

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 軽やかな小鳥のさえずりが耳に優しい。二人は疲労が極限に達し、いつか眠りに落ちていた。昨晩の猛り狂う強風や豪雨はとっくに止んでいた。木々の隙間から、清々しい朝の光が差し込む。

「嵐は去ったみたいだよ」

 ダイゴはちゃまの手をとり、安全地帯から外世界へと一歩を踏み出した。道路は水浸し、道路灯や街路樹は無残になぎ倒されていた。信号機は首からぽきりと折れ、乗ってきたタクシーは横転したまま、五十メートル以上押し流されていた。

「ちゃま、怪我はないよね」

「私、デスティニー」

「あ、交代したのか」

 デスティニーは心配そうにあたりを窺っている。

「あのまま乗っていたら、命はなかったかもな……」
 タクシーの車両はゴジラに踏みつぶされたかのごとく、原型をとどめていない。デスティニーは信じられない、という表情をしている。

「にじ……」

 デスティニーは独り言のようにつぶやく。

 見上げると、西の空一杯に大きな七色の橋がかかっていた。

「本当だ。綺麗だなあ。虹の彼方には魔法の国があると言うよね」

「うん」

 澄んだ瞳には赤、橙、黄、緑、青、藍、紫色のスペクトラムが鮮やかに映り込んでいる。デスティニーの表情は、朝焼けの空のように晴れやかだ。

「なないろ」

 デスティニーは少しずつ心を開き始めた。

 ダイゴは全神経を耳に集中させた。誰にも心を開かない、と言われたデスティニーが言葉を発している。

「私のラッキーナンバーは『七』なの」

「本当? 実は僕もなんだ」

 もっとしゃべってほしい、ダイゴは会話をつなげようと必死だ。

「そうなの?」

「うん、僕七月七日生まれだから」

「うそ! 私もなのよ!」

「少し、元気出てきたみたいだね」

「同じ誕生日なんて不思議!」

 にこやかに語るデスティニーを見て、ダイゴは嬉しくなった。

 海の彼方には水平線から黄金色の朝日が昇る。ふと見るとシャツもジーンズもトレーニングウェアもビリビリ、両手は擦り傷で血だらけだ。

「君も僕もひどい有様だね」

 デスティニーは全身を眺め、唖然としている。

「あ~あ」

 デスティニーの表情が変わった。左右の眉が逆八の字で左の口角が上がっている。ダイゴの頭に昨夜のつっけんどんな気象スペシャリストの顔が思い浮かんだ。気の強い女性はどうにも苦手だ。

「もしかして、テルミさん?」

 デスティニーは小さくかぶりを振った。

「エレナ?」

「ちゃま?」

 頭の振りは徐々に大きくなった。

「エレナでもちゃまでもテルミでもない? ラッキィ?」

「わかんないの?」

 デスティニーは不服そうに口先をとがらせている。

「いや、君、いままでずっと無言だったからさ」

 デスティニーとの最初の出会いは異様だった。WEB会議では一言も発せず、唯一の反応はスマイルとアングリーの絵文字だけ。顔もわからず、変質者のような気味悪さが記憶に残った。

 だが、今のデスティニーはまったく印象が違う。

「雨あがりの空、爽やかで好き」

 澄んだ瞳がきらきらと輝き、頬はピンク色に染まっている。

「そうだね。気持ちいいね」

 昨日までのデスティニーとは別人のようだ。修羅場を乗り越えて開放的になったのだろうか。

「じゃあ、帰ろうか」

 デスティニーはすらりと長い細腕を絡めてきた。

「あの、これは」

 朝日に輝くデスティニー。奥手男子の心臓がドキドキ脈打つ。

「だって、もう車椅子ないし」

 ぷるんと弾力があって、少し冷たい白魚のような手。

 それはそうだ、だが、いや、それにしても、自分からタッチ? 別人すぎる。嵐に遭って新しい人格が産まれたのか。

「ねえ、君、本当にデスティニー? 本当はエレナじゃないの?」

 デスティニーは、さて、と頭を傾げた。二人は既にソーシャル・ディスタンスを既に越え、恋人同士の間隔だ。ダイゴはどぎまぎ、そのことに気づいていない。

「道、わかる?」

「スマホの電池が切れてて、マップ見られない。タクシーも呼べない。困ったなあ」

「病院は海沿い。このまま南に下れば着くよ」

「きっとそんなに遠くないよね。あ、でも歩けるの?」

 視線の先に横たわるスクラップ車。車椅子は潰れたトランクの中だ。

「足に障害はないの。でも、心細くて」

 ダイゴはデスティニーの肩に腕を添えた。小鹿のような二本の足が乾いた踏み場を探す。

「デスティニーさん、聞いてもいいかな。君はどうして解離性同一性障害になったの?」

 デスティニーは頬をピクリと動かし、歩みを止めた。

 しまった、焦って踏み込みすぎたか、ダイゴは性急に核心に触れたことを強く後悔した。

「私のことは『デス』、って呼んで。皆そうしているから」

 デスティニーはしばし迷っていたが、軽く頷くと再び口を開いた。

 デスティニーだから略してデス。欧米人は親しみを込めて、お互いを愛称で呼ぶ。エリザベスならベス、キャサリンならキャシーが一般的だ。

「デス? それって縁起悪くない?」

「あなただって『ダイ』ゴでしょ。おんなじ」

「わかったよ。デスって呼ぶよ」

「うん、それでいいデス」

 したり顔でにこにこと笑っている。なんだ、この感覚は、ダイゴのハートがきゅん、と鳴った。

「私の本名はデスティニー・アユミ・ウミマチ。父はアメリカ人、母は日本人よ」

 きらきらとした朝の光の下で清楚な美しさが際立つ。肌は薄い桜色で、髪は明るい茶色のダークブロンド。ブロンドとはいえ、派手さは抑えられていて、エレガントな大人っぽさがある。

 顔の彫りは白人ほど深くなく、丸みを帯びたフェイスラインからアジアの血筋を引いていることがわかる。目の前の本人はCGではない。リアルでナチュラルな存在感が新鮮だ。

「子供の頃、藤沢の海岸近くの家に住んでいたの」

 幕張の海岸通りを歩きながら、デスティニーは自らの生い立ちについて、ぽつぽつと語り始めた。

「父は米国生まれの科学者。母も父と同じ研究者だった。父は仕事の関係で訪日したのだけれど、日本がとっても好きになって、結婚を機に母の実家に住むようになった」

 行動療法も薬物療法も、出雲教授のIT療法さえも、目立った効果はなかったのだ。なぜ急に饒舌になったのか、昨夜の嵐がショック療法となったのか、だがこの機会を逃してはいけない、ダイゴは、理由はあとだ、と必死に耳を傾けた。

「そうか、君は科学者の両親の血を引き継いでいるんだね」

 ダイゴの父親は金融業だ。夢ではなく、マネーという実利を追い求める。父曰く、マネー・メイクス・ザ・ワールド・ゴー・アラウンド。

「幼い頃は自然に親しんで育った。海や山に囲まれた環境とおじいちゃん、おばあちゃん、父と母、私と妹、六人家族。あの頃は本当に楽しい毎日だった」

 ダイゴは重要な一言を聞き逃さなかった。

「君には妹がいたんだ」

「知念マリアは私の妹」

 看護師の知念マリアはデスティニーとは苗字が違うし、顔立ちや体形は似ていない。知念はどちらかといえば太り気味で、ほっそりとしたデスティニーとは対照的だ。

「ええ? 君と知念さんはそれほど似ていないよね」

「昔は似ていたんだけど」

 デスティニーの視線は水平線の遥か彼方に向いている。

「あの台風がすべてを変えた」

 さきほどまでの明るいふるまいは陰を潜め、頬がぴくぴくと痙攣している。

「テルミさんに聞いた。災害の後、君はアメリカの叔父さんの家に引き取られたんだよね」

「私とマリアは学校と幼稚園にいて被災を免れた。父と母と祖母は、足の悪い祖父を連れて避難しようとしたけど、間に合わなかった」

 雨でぐっしょりと濡れた衣服が二人の体にまとわりつく。

「別々の親戚に引き取られたの。私は父の弟の住むアメリカへ。妹は母の姉の養女に」

 小学生で一人異国に旅立つとは、さぞかし心細かったに違いない。ダイゴにもその辛さは容易に想像ができた。

「その頃なの。心の中にちゃまが現れたのは。ちゃまはわたしの心の傷を引き受けてくれた」

 ダイゴから生い立ちを尋ねたのではない。デスティニーは誰かに話を聞いてほしいのだ。今まで溜っていた感情が堰を切って流れ出した。

「叔父一家は最初の頃は親切だったの。災害孤児の私への同情心もあったのだと思う。でも半年ほどすると、皆の態度は少しずつ変わっていった」

 デスティニーは興奮気味に早口で話し始めた。

「最初は叔母だった。私、英語がほとんど話せなかったから、意思疎通ができなかった。言葉が通じず、大きなストレスに感じたみたい。突然怒鳴られたり、物を投げつけられたり、私だけご飯を作ってもらえなかったりした。突き飛ばされもした。げんこつで何度も、何度も、なぐられた」

 連日メディアでは虐待のニュースが報じられている。日本で虐待を受けた子供の数七万人に対し、アメリカは六十八万人と桁が違う。人口は二・五倍しか違わないのに、虐待件数は十倍も多いのだ。

「その内、従兄弟たちからもいじめられるようになったの。仲間外れにされたり、大事な家族の写真を破り捨てられたり、日本へ帰れと詰め寄られたり、髪を引っ張られたり、首を絞められたり、黄色いイエローピッグと罵られたり……」

 デスティニーは悲惨な過去に苛まれ、耐え切れず両手で顔を覆った。

「でも、私は、ひたすら我慢をするしかなかった。誰にも頼れず、心が張り裂けそうだった」

「デス、無理に話さなくてもいいよ」

 ダイゴにも、つらい気持ちは痛いほど伝わってきた。

「いいの。受けた仕打ちは今まで心の奥に封印してきた。別人格とだけ、分かち合ってきた。でも本当は、誰かに耳を傾けて欲しかった」

 デスティニーは絞り出すような声で、心の思いを打ち明けた。

「分身ではない誰かに」

 拭われた両目は充血し、そのまなじりは潤んでいた。

「薬師丸先生も、出雲先生も、君のことを心配していたよ」

「二人とも結局、目的は仕事だった。私を早く開発に復帰させたかっただけ。健康よりもビジネス優先。私はプロジェクトのプレッシャーで心を壊したのに」

 デスティニーは寂しかったんだ。誰かに寄り添ってほしかったんだ。ただ、相手は誰でもいいわけじゃない。その気持ちはわかる。シンパシーがダイゴの心を覆う殻に小さな穴を開けた。

「ごめんね。良く知りもしない私の身の上話なんて迷惑よね」

「そんなことない。僕をセラピストだと思って話してみて」

 静けさをパトカーのサイレンが切り裂いてゆく。デスティニーはびくりと反応した。 アスファルトに張り付いた浜砂が足元でじゃりじゃり耳障りな音を立てる。

「でも、それだけでは終わらなかった」

 虹はいつの間にか、暗雲の闇に溶けていた。魔法の国にはもう行けない。

「叔父に襲われたの」

 ダイゴの心臓がぎくりと鳴る。流れ出る悲劇の連鎖に耳を塞ぎたい思いだった。

「幸い、間一髪で、隣の家に逃げ込めた。警察を呼んで事なきを得たのだけれど」

 噛みしめた唇の皮が破れ、透き通った赤い水滴が、顎を伝ってぽとりと落ちた。

「私はあの家には二度と戻れなかった。戻りたくなかった」

 引きちぎられた新聞の切れ端が、風に吹かれてあてもなく飛んでゆく。

「この事件の後、権堂とラッキィが出てきたの。権堂は私の心を守ろうとした。ラッキィは私を励まそうとした」

 ダイゴの目の前を黒い影が横切った。影は一瞬立ち止まりダイゴを一瞥した。

「デス、ほらほら、黒猫だ」

「どこ?」

 そこには折れた枝が丸まって、回転草のように転がっていた。

「ダイゴ、私の話、もう嫌になった?」

 デスティニーはやはり迷惑なのか、と眉をひそめた。傷つきたくないのだ。聞き手の態度に非常にナーバスになっている。

「いや、良ければ最後まで聞かせてほしい。君のこと、もっと知りたい」

「私は警察に保護されて、施設に送られた。ほどなく日本人の夫婦に養子として引き取られ、その後は落ち着いた生活を送ることができた。養父母はとても優しかった」

 傍らの車線には作業車が現れて、障害物の撤去や道路の啓開準備を始めた。災害の爪痕が少しずつ修復されてゆく。

「私は勉強に打ち込んだ。それしかすることがなかったから。対人恐怖症で、養父母以外とは打ち解けることが出来なかった。台風で大切な家族を失ったから、科学を学んで災害を防ぎたいと思った。それで物理学、地球科学、環境学、コンピューター工学を勉強したの」

 ダイゴは厳格な父に育てられ、精神的に過敏な性格に育った。社会生活に支障をきたすほどではないが、時に他人との交流に不安を覚える。社交不安障害の疑いで一時は病院に通った。育ててもらった恩を否定するものではないが、父親に対し、どうしても隔たりを感じてしまう。

 それ故、ダイゴは人の心について興味を持った。相手は何を考えているのか、どうすれば理解できるのか、深く知りたくなった。大学では心理学を学び、出雲ゼミに入った。ダイゴとデス、二人は偶然にも、対人関係という同じ悩みを抱えていた。

「私がシニア・ステューデント、アメリカの高校で最終学年になった時、養父が仕事の関係で日本に戻ることになったの。それで私は帰国子女枠で日本の大学に入学、卒業後は院に進んで修士、博士号を取得したわ」

 輝かしい経歴を他人事のように語るデスティニー。研究本位で地位や学歴にこだわりはないのだ。

「大学の費用は奨学金で賄えたし、養父母は私の進学を応援してくれた。対人恐怖症はいくらかましにはなっていたけど、不安があったから仕事は研究職以外に考えられなかった。私は大学に残って、ただひたすら気候工学、海洋物理学、コンピューター工学を研究し続けた。その結果、一年前に政府がらみの環境プロジェクトのリーダーに選ばれた」

「逆境をバネにしたんだね」

 デスティニーは足を止めた。その姿は今にも消え入りそうな脆さを抱えている。

「だけど、今は千尋せんじんの谷の底」

 足取りが重くなった。歩き始めた時はあんなに明るく元気だったのに、これでは元の木阿弥だ。

「どうして? リーダーは大抜擢なんでしょう。底なんて」

「がんばれないのよ。怖いのよ。いつも不安なの」

 デスティニーは自己保全に精一杯で、向上心や意欲を持つことができない。自己防能本能には十二種類の分類があると言われる。それは否認、退行、置き換え、躁的防衛、投影、抑圧、逃避、反動形成、知性化、合理化、同一化、昇華である。

「ストレスが溜まると、アメリカの叔父、叔母や子供たちの幻を見る」

 デスティニーは六つの別人格を生みだし、集団防衛体制で自分自身を支えている。

 挑戦的な権堂は「否認」、子供っぽいちゃまは「退行」、男あさりのエレナは「置き換え」、明るく振舞うラッキィは「躁的防衛」、理屈屋のテルミは「合理化」、自称天才プログラマーのナカモトは「同一化」だ。

 デスティニーが健全な社会生活を取り戻すためには、内向き志向を外向きかつ、生産的な「昇華」に変えてゆかねばならない。

「出雲先生の指摘はわかっているの。もう、引きこもりは止めて前進しないとね」

 デスティニーは力なくしゃがみこんだ。両手で膝を抱え、隙間に頭を埋めている。

「でも、やっぱり、自分で自分をひっぱりあげるのは限界がある」

 デスティニーは下向きの顔を、ぐいぐい膝に押し付けている。

 ダイゴは力の抜けた細腕をそっと握り、デスティニーを優しく引き上げた。

「一人で抱え込まないでいいんだ」

 交わって一つに結ばれる二人の視線。ダイゴは、デスティニーの揺れ動く気持ちを柔らかく受けとめようとしている。

「あなたは、優しい人なのね」

 胸やおなかがむずむずする。体がぽかぽかと暖かい。幸せホルモン、セロトニンが泉のように湧き出す。ダイゴにとって、生まれて初めてかもしれない、愛しい感覚だ。

 一瞬、会話が途切れ、二人の間の静寂を天使が飛んだ。

「あ、きれいな貝殻」

 駐車場の向こう側は砂浜だ。嵐で飛ばされてきたのだろう。薄く平らなピンク色の二枚貝が足元に転がっていた。

「見て、あの建物が湾岸精神医療センターよ」

 振り向くと、斜め前の防風林から灰色の建物が頭を出している。ゆっくり歩いても五分以内には着けそうだ。

「意外と近くまで来ていたのね」

 国立湾岸精神医療センターは、千葉県千葉市磯浜区、海浜ニュータウンに位置する医療機関。正式名称は独立行政法人国立病院機構湾岸精神医療センターである。

 デスティニーは病院の入口に着くと、付き添いはここまでで良い、とダイゴに告げた。

「きっと怒られると思うんだ。夜中じゅう何してたって。あなたを巻き込みたくないの」

「いや、僕にも責任がある。一緒に行く」

 エレナのわがままが原因とはいえ、ダイゴの状況判断は間違っていた。寄り道せず、真っすぐ病院に向かっていれば、ぎりぎりセーフだったかもしれない。海沿いではなく、街中を最短距離で走っていれば、嵐の直撃は避けられただろう。

「いいから、あなたはもう帰って」

 正面入り口の自動ドアは開かなかった。時刻は午前六時、まだ受付時間ではない。二人は建物の左に回った。

「わたし、今日一日で一年分喋ったような気がする」

 寂しげな微笑み。海風で髪が乱れ、繊細で傷つきやすい素顔は隠された。

「さよなら」

 デスティニーはダイゴの手をさらりと振りほどき、一人で夜間入口の奧へと消えていった。頑なで、凛とした後ろ姿は誰の助けも必要としていなかった。

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