飛翔英雄伝《三國志異聞奇譚》〜蒼天に誓う絆〜

銀星 慧

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第二章 飛躍の刻と絶望の間

第二十二話 名医 

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うっすらと雪が積もり、白くなった地面が真っ赤な血で染まる。
それを、孟徳はただ呆然と見詰めた。
目の前で、冷たい地面に倒れた虎淵は、うつぶせになったまま全く動かない。

両手を突いてひざまづいた孟徳は、震える指先で、てついた地面をいた。

「よくも…よくも、虎淵を…!」
孟徳は呻く様に言うと、血走った目を上げ、雷震を睨む。

次の瞬間、孟徳は剣を掴んで、再び雷震に斬り掛かった。

「うあああっ!!」
孟徳は激しく打ち掛かったが、打ち込む剣は全て弾き返される。

雷震は鉄鎌の柄で剣を受け止めると、今度は、勢い良く孟徳の体を後方へ押し倒した。

「大人しく、切り刻まれろ!」
力では到底敵わない。上から鎌で押し付けられ、孟徳は押し戻そうと、必死に足掻あがいた。
鉄鎌の切っ先が、孟徳の首筋に迫る。

「くっ…!」
咄嗟に、孟徳は雷震の腹部を蹴り上げ、首に迫った鎌を剣で打ち払った。

飛び退ずさった雷震は、鎌を大きく振りかぶると、今度は孟徳目掛けて勢い良く横へ薙ぎ払う。

「往生際の悪い野郎だ…!」
孟徳は迫り来る鎌を剣で受け止めたが、内側に向けて湾曲わんきょくする鎌の切っ先が、孟徳の腕を切り付けた。

「うっ…!」
袖が裂け、血が飛び散る。
「くそ…!」
息を乱しながら、孟徳は再び雷震に斬り掛かる。

「喧嘩を売る相手を間違えたな…!お前に、わしは倒せぬ!」
雷震はそう言うと、孟徳の剣を鎌の刃で受け止め、つばに引っ掛けると、そのまま跳ね上げた。
剣は孟徳の手を離れ、回転しながら地面に突き立つ。

襲い来る大鎌を、孟徳は身をひるがえしてかわしたが、やがて追い込まれ、鋭い鎌に腕や足を切られ、全身を傷だらけにされた。

「はぁ、はぁ…!」
孟徳はあえぎながら、両膝を地面に突いた。
血濡れた大鎌を肩に担ぎ、薄笑いを浮かべながら、雷震はゆっくりと孟徳の背後へ回る。

地面に鎌を立て掛ける様に置くと、素早く孟徳の頭を掴み、ぐいと前方に押し倒す。

「うっ…!」
孟徳は抗ったが、鎌の刃先に、首を強く押し付けられた。

「お前には、此処で死んで貰う!わしに盾突いた事を、後悔するが良い…!」
「くっ…!」
鎌の柄を掴み、地面に突いた手で必死に抵抗するが、鋭い鎌の刃が孟徳の首筋に触れる。

虎淵…!!
孟徳は、横目で倒れた虎淵に視線を向けた。

俺の所為せいで…!

孟徳の視界は、涙で曇った。
自分の軽率な行動が、虎淵を死に追いやってしまったのだ。
孟徳には、男に殺される事よりも、その思いによる後悔の方が余程大きい。

鎌の刃に押し付けられた孟徳の首筋から、血が流れ出す。

「死ね…!」

雷震が掴んだ孟徳の頭を、一度大きく持ち上げ、再び勢い良く鎌の刃の上に押し付けようとした時、黒い人影が人垣を飛び越して輪の中へ舞い降り、素早く二人の前に立ちはだかった。

「何者だ、貴様…?!」
雷震は孟徳の頭を掴んだまま、目の前に立つ男を睨んだ。

「そいつを放せ…もなくば、貴様の首が飛ぶ事になるぞ…!」
男は鋭い目付きで雷震を睨み返す。

「…?!」

薄らと目を開いた孟徳は、苦しげにその人物を見上げた。
長い衣をひるがえして立つその男に、孟徳は見覚えがあった。

男は、背負った長い剣身を持つ大剣たいけんを抜き放ち、雷震に向ける。

「てめぇ…!わしを誰だか知ってて、大口を叩いてんじゃあ無ぇだろうな…?!」
額に青筋を立てながら、雷震は男に怒鳴った。

「お前が誰かは知らぬ…だが、俺にも異名があってな…"剣聖師亜けんせいしあ"と言う名を知らぬか…?!」

「剣聖師亜だと…?!奴は、死んだと噂されている…!てめぇ、いい加減な事を抜かすんじゃねぇ!」
雷震は驚きを隠せない表情をしながらも、疑いを抱いた目で息巻く。

「だったら…本物かどうか、試してはどうだ?!」
男の声は冷静そのものである。

「てめぇが本物の師亜なら…その首にゃ、大金が懸かってる…!是が非でも、頂くぜ!」
雷震は孟徳の頭を強く引き寄せ、
「小僧、逃げるんじゃねぇぞ…!」
そう言うと、掴んでいた腕を放し、鉄鎌を振り回して男に向けた。
そして素早く地を蹴り、男の喉元を目掛け、唸りを上げる鎌を振るった。

放り出された孟徳の体は、倒れた虎淵の足元へ転がった。

「虎淵…!」
全身血だらけになりながら、孟徳は這う様にして虎淵に近付き、虎淵の体を抱き起こすと、その体を強く抱き締めた。

退け!退きやがれ!」

そう叫びながら、人垣を割って入って来たのは、翼徳よくとく雲長うんちょうである。
翼徳は、取り巻きの男たちを威嚇いかくする様に睨み付ける。
男たちはそのすごみに圧倒され、その場の全員が尻込みした。

雲長は素早く孟徳の前にひざまづき、虎淵の首筋に手を当てた。

「まだ息がある…助かるかも知れぬ…!」

それを聞いた孟徳は、涙で濡れた顔を上げ、雲長に哀願した。

「虎淵を…虎淵を助けてくれ…!」
雲長は頷くと、自分の着物を裂いて、虎淵の体の傷口に押し当てた。
 
鉄鎌と大剣との打ち合いは続いていた。
雷震は大きな鉄鎌を振り回し、玄徳げんとくの大剣を圧倒する。
玄徳は冷静に攻撃をかわし、重い鉄鎌の攻撃を跳ね退けた。

一瞬の隙を見て、玄徳は素早く後方へ飛び退く。
そして今度は、一瞬にして反撃に転じ、目にも止まらぬ速さで地を蹴って宙を飛び、雷震に向けて剣を突き出した。

速い…!!

そう思う間も無く、剣刃は目前に迫り、鉄鎌の柄でそれを防御するのが精一杯だった。
玄徳の大剣が鉄鎌の太い柄に激突し、激しい衝撃音を立てる。
その勢いに、雷震の体は後方へ弾かれた。

「な、何…?!」
見ると、鉄鎌の柄が真っ二つに切断されている。
雷震は額に脂汗をにじませ、激しく肩で息をした。

「どうした、もう終わりか?!次は腕だ…!掛かって来い!」

玄徳の声は冷静だが、その目には殺気を漂わせている。

「ま、待て…!わしはただ、金で雇われただけだ…そいつらに恨みは無ぇ…!」
雷震は声を振るわせながら慌てててのひらを向け、玄徳を制した。

「誰に雇われた?」
「誰かは知らねぇ…!そいつらを殺せば、金をやると言われたのだ…!」
玄徳は視線を落とし、虎淵の手当てをする雲長と、その側で涙を流して見守る孟徳の姿を見下ろす。
向き直った玄徳は声を荒げ、雷震に怒鳴り付けた。

「金の為に、少年に手を掛けるとは…下郎げろうめ…!とっとと失せろ!」

雷震は弾かれる様に人垣を掻き分け、その場から逃げ去って行った。
周りを取り囲んでいた男たちは、それを見て、皆目で合図を送り合い、散り散りに姿を消した。

玄徳は、孟徳の隣に膝を突き、虎淵を覗き込む。
「どうだ?」
「危険だ…だが、俺の師がこの近くに住んでおられるはず…そこへ運ぼう!」
雲長はそう言うと、冷たく血の気を失った虎淵の体を抱え上げる。
風雪が吹きすさぶ中、彼らは足早あしばやにその場を後にした。



市場から少し離れた通りを走り、狭い路地裏へ入る。
やがて少し入り組んだ通路を抜けた場所で、雲長は建物の扉を叩いた。

「先生!先生、いらっしゃいませんか?!」
そう叫んで、何度も激しく扉を叩く。

そこは屋敷の裏口である様だ。
雲長がその道を選んで来たのは、孟徳と虎淵が何者かに命を狙われていると判断し、用心をした為である。

やがて扉が開かれ、中から初老の男が姿を現した。

「誰だ?」
「私です…!雲長です!」
男は雲長をいぶかし気に見た後、腕に抱えられた虎淵に目を落とす。

「雲長、お主か…厄介事の様だな…入れ…!」
男は心得たという顔付きで、全員を中へ通した。

凍てつく室内で、孟徳たちは数刻すうこく待ち続けた。
やがて奥の部屋へ続く扉が開かれ、この屋敷の主と雲長が姿を現す。
「やれる事はやった…後は、彼の生命力を信じ、待つのみだ…」
初老の男はそう言うと、孟徳と玄徳たちを奥の部屋へと案内した。

奥の部屋では、虎淵がしょうの上に横たわっていた。

「虎淵…!」
孟徳は思わず叫んで、虎淵の側へ駆け寄った。

「まだ起こしては成らぬ…!」
雲長が素早く前へ出て、孟徳の体を押さえ、抱き留める。

「虎淵…!俺は…俺は、お前をこんな目に、会わせる積もりでは無かったのだ…!許してくれ…!」

孟徳は涙を流し、その場に泣き崩れた。
背後に歩み寄った玄徳は、床にひざまづき肩を振るわせて泣く孟徳を見下ろすと、その肩を強く掴んだ。

「虎淵は今、死と闘っている…お前が泣いている場合では無いぞ…!」

涙で濡れた顔を上げ、孟徳は玄徳の目を見詰める。

「虎淵を、信じろ…!」
玄徳は、鋭い眼差まなざしに力を込め、孟徳を見詰め返す。
孟徳は黙って頷き、虎淵の眠る牀へ近付くと、彼の白い手を掴んで強く握り締めた。


「あいつ、自分も怪我けがを負っている癖に…何も口にせず付き添っているが、大丈夫なのか…?」
「翼徳、孟徳殿が心配か?」
部屋の中を、うろうろと歩き回る翼徳の姿を眺めながら、雲長が問い掛けた。

「何だ、俺が心配しては可笑おかしいか?」
心外な面持ちで見下ろす翼徳に、雲長は思わず笑うと、小さく首を横に振りながら熱い茶の入った器を手に取った。

「まあ、座ってはどうだ?お前もろくに、食事に手を付けておらぬであろう…!」
そう言われ、翼徳は仕方がないといった様子で、雲長の前に敷かれたむしろに腰を降ろした。

虎淵が眠る部屋には、小さな篝火かがりびが燈されているが、室内の温度は低く、吐く息は白い。
虎淵の片手を握ったまま牀の脇に座り、孟徳は虎淵のかたわらに俯せて眠っていた。
室内へ入り、その姿を暫く眺めていた玄徳は、側へ近付くと自分の上着を取って、孟徳の肩へ掛けた。


それから、どれ程の時間が経過したのであろうか。
孟徳がふと目を覚まし、部屋の小さな窓を開け外を見ると、辺りはすっかり夜の闇に包まれていた。
雪はまだ降り続いているらしい。風に乗って、小雪が室内に流れ込んで来る。

その小さな雪の花びらが、眠っている虎淵の頬の上に舞い降りた。
雪は虎淵の肌の上で、溶けて水滴に変わる。
孟徳は寒風かんぷうに身震いして、急いで小窓を閉じた。

「…様、孟…徳さ…ま…」

かすかなその呼び声に、孟徳は驚いて振り返った。
虎淵がまぶたを重そうに開いて、孟徳を見上げている。

「虎淵…!まだ、口を聞いては成らぬ!じっとしていろ…!」
慌ててそう言うと、孟徳は虎淵の元へ走り寄り、冷たい虎淵の手を強く握った。

嗚呼ああ、良かった…!死の淵から、よく戻ったな…!」
孟徳は瞳を潤ませて、虎淵を見詰める。
虎淵も同じように、潤んだ瞳で見詰め返すと、小さく頷いて微笑した。



翌朝、夜中降り続いていた雪は既にみ、まちはすっかり白銀の光に包まれていた。
寒さで凍てついた窓が、時折りきしむ様な音を立てた。

頸動脈けいどうみゃくに損傷が無かった事と、寒さで血管が萎縮していたのが幸いであった。だが、まだ予断よだんは出来ぬ。彼は、暫く此処で預かろう…」

虎淵にせんじた薬草を飲ませながら、初老の男はそう言った。
「先生、有り難うございました。」
孟徳は男に丁寧にお辞儀をすると、懐から金子きんすを取り出し、差し出した。

「金の為にやった事では無い…気にするな。」
男はそう言って、差し出された孟徳の手を押し返す。

「はは、先生とはそういうお方だ。」

孟徳の話を聞いて、雲長は笑いながら、自分の顎髭あごひげを撫でた。
屋敷の門へ通ずる廊下に、薄い雪が積もっている。
雲長はほうきを持ち出し、その雪を庭へ掃き出していた。

「俺が初めて此処へ来た時…俺は役人に追われ、重傷を負っていた。だが、先生は何も聞かず、俺を手当てして下さったのだ。」

男の名は、華佗かだ、字を元化げんかと言った。
医術に精通し、薬学にも幅広い知識を持っている。
弟子は何人もいるが、看板などはかかげず、弟子たちと自給自足の生活を送り、貧しい者たちの病気を治療し、傷の手当てをする。

「商売の為にやっているのでは無い。先生は、自分にしか出来ぬ事を天から授けられ、人の命を救う事を使命としているのだ。」
先生とは、立派な方だ…!だが、虎淵を預かって頂くのに、何も礼をせぬ訳には行かぬ。必要な物があれば、これで買ってくれ。」
そう言うと、孟徳は白い息を吐きながら、雲長に金子きんすを手渡した。

「所で、何故お前たちが、雒陽らくように居るのだ?」
孟徳は、市場で彼らを見た時から、ずっと疑問に思っていた。
「俺たちは、幽州ゆうしゅうの知人の元を訪れる途中で、此処へ立ち寄ったのだ。」
その声に振り返ると、舞う粉雪の中から玄徳が姿を現した。

「あの市場へ行ったのは、悪いきざしがあったのでな…」
そう言い、玄徳は微笑した。

「そうだったのか…ともかく、お前たちのお陰で、俺も虎淵も助かった。礼を言う。」
孟徳は微笑を返しながら、玄徳と雲長に拱手した後、
「幽州へ行くのか…遠いな…」
そう小さく呟いた。

幽州は、地図上で言えば最北に位置する州である。
広陽こうよう涿郡たくぐん代郡だいぐん上谷じょうこく漁陽ぎょうよう右北平ゆうほくへい遼西りょうせい玄菟げんと楽浪らくろう遼東りょうとう遼東属国りょうとうぞっこくなど十一の郡から成っている。

「俺の出身は、涿郡なのだ。老いた母が、今も一人で暮らしている筈だ…」
玄徳は伏し目がちにそう言うと、冷たい空気を吸い込み、白い息を小さく吐き出す。

「会っておらぬのか?母親に…」
「五年程前に家を出てから、一度も帰った事が無い…母は、俺に会いたがらぬであろうしな…」
孟徳の問い掛けに、玄徳は憂いを帯びた口調で返した。

玄徳に妹が居た事は、以前砦で聞いていた。
まだ四歳だった玄徳の妹は、市場で貴人のしゃかれ、命を落とした。
その事で、母親との間に溝が生じたのであろうか。

母を亡くしたばかりの孟徳としては、少し気に掛かったが、お互いに余りその話題に触れたくない空気が漂っているのを感じ、それ以上は追求するのを止めた。

「俺は、これから一度屋敷へ戻り、父に事情を説明して来る。その後、会わねばならぬ人が居るので、虎淵の事を頼みたいのだが…良いか?」
孟徳はそう言って、話題を変えた。

「ああ、俺たちは暫く此処に居る。虎淵の事は、心配するな。」
玄徳は微笑して、頷いた。


小雪がちらつく中、孟徳は急いで屋敷へ戻り、父に昨日の出来事を話した。
父は、深く溜め息をつきながらその話を聞いていたが、孟徳を責める事はせず、ひたすらに虎淵の身を案じた。
その後、孟徳は再び屋敷を出て、冷たく凍った道を走り、やがてある屋敷の門前に辿り着いた。

「此処が…橋先生の屋敷か…?」

孟徳は、意外な物を見る様な顔でその門を見上げた。

それは、門と呼べる程立派なものでは無く、竹と藁を組んで作っただけの、粗末なものである。
屋敷も、そう呼べる代物では無い。ただの小さな草廬であった。
孟徳が戸惑いながら、門の前に立っていると、背後から声を掛けれた。

「これはこれは、"乱世の奸雄かんゆう"のお出ましか…!」

振り返ると、そこに笑いながら、橋公祖きょうこうそが立っていた。

「何です?…それは?」
孟徳はいぶかし気に公祖を見上げた。

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