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第二章 飛躍の刻と絶望の間

第二十三話 雒陽北部尉

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"乱世らんせ奸雄かんゆう"

世が戦乱の世であるなら、謀略ぼうりゃく奸計かんけい(悪巧み)などを駆使し、のし上がって行く英雄。といった所であろうか。
それは、許子将きょししょうが孟徳を鑑定して言った言葉である、とちまたでは既に噂が広がっているらしい。

「その様な事が…?!」

孟徳には初耳で、驚きを隠せなかったが、公祖は笑ってさとした。 
「はは、何と言われても気にしては成らぬ。思惑おもわく通り、邑民ゆうみんたちの噂の的となっている。それだけで良いのだ。」

公祖は孟徳を小さな家の中へ案内し、火鉢ひばちに火をべると、それを孟徳の側へ置いた。
室内は凍える程の寒さで、二人は火鉢に手をかざして暖を取る。
それから孟徳は姿勢を改め、両手を床に突くと、公祖の前に頭を下げた。

「先生、俺は軽率で自制心が無く、親友の虎淵を殺しかけました…どうか、先生にご教授をたまわり、師事しじさせて頂きたい。」

それを見た公祖は少し驚いたが、

「弱ったな…わしは弟子を取らぬのだ。それに、わしはあなたが考える程、大した人間では無い。こんなあばら家に暮らし、妻は愛想を尽かして、子供たちを連れて出て行った。家族を幸せにする事も出来ぬ、詰まらぬ男だ…」

そう言って、両腕を組み苦笑を浮かべた。

師匠ししょうは、高いこころざしをお持ちだ。それを理解出来る女性は、少ないでしょう。」

「それは、買い被りと言うものだ、孟徳殿。そんな事より、北部尉ほくぶいになる話は、考えてくれたか?」
「師匠が、やれとおっしゃるなら、どんな職でも致します。」

孟徳は、公祖を真っ直ぐに見詰めながら答えた。

「"師匠"と呼ぶのは、してくれないか…」
苦笑いをしながら、公祖は困った様に首をひねり、自分の顎髭をしごく。

「どうだ、師弟していでは無く…わしと親友に成らないか?」
「親友などとは、烏滸おこがましい…師匠とお呼びします。」
孟徳は再び頭を下げた。

「孟徳殿、なかなか頑固な人だ…!わかった、好きに呼んで構わぬ。しかし、わしはあなたを親友だと思う事にしよう。」
そう言って、公祖は熱い茶を器に注ぎ、孟徳へ差し出した。



それから数日、相変わらず雪のちらつく日が続き、寒さは一層増して行った。

孟徳は朝廷から、正式に"北部尉"に任命され、その職務に励む事となった。
孟徳を推挙したのは、尚書しょうしょ右丞うじょうであった、司馬防しばぼう、字を建公けんこうと言う人物である。

曹家と司馬家は昔から親交があり、孟徳の事も良く知っていた。
その為、橋公祖との会談で、直ぐに推挙の話は取りまとまった。

北部尉の仕事は、文字通り雒陽らくようの北側の、四つの門を守る仕事である。
"尉"は軍事や警察、処刑などを司る武官の称号であり、城の北門の警備隊長といった所である。

孟徳は北門にある、四つの門全てを修繕すると、夜間の通行を禁ずる等の"禁令きんれい"を掲げ、取り締まった。

「この禁令を破る者は、誰であろうと許してはならぬ。この棒で、容赦無く殴れ。」

そう言って、役人たちに作らせた"五色棒ごしきぼう"を、それぞれの門に掛けさせた。
"五色棒"とは、五色に塗られた長さ四尺(約1m)程度の棒で、罪人を処罰する為に使用するのである。


雒陽では、治安維持の為、夜間の外出は禁じられている。
その夜、冷たい風を纏いながら、千鳥足ちどりあしで歩く男と、連れの女が門の前を通り掛かった。

永光えいこう様、こんな時間に出歩いては…役人に捕まってしまいますわ…!」
女は、男の体を支えながら歩いている。

「馬鹿な事を…!誰が、この俺様を捕まえると言うのだ!心配するな、俺の屋敷はこの門を潜れば直ぐの所。今夜は、朝まで楽しもうではないか…!」

すっかり上機嫌の永光は、女とじゃれ合いながら、門を潜った。
忽ち、門衛もんえいたちが駆け付けて来て、二人は取り囲まれた。

「お前たち、こんな時間に何をしている!ここは通行禁止だ…!」
門衛たちは、手にげきを構えている。
連れの女は震え上がったが、永光は怯える様子を見せず、門衛たちを睨み返すと、腰にいた剣を抜き放つ。

「てめぇ、誰に向かって口を聞いている?!俺が誰か、知らぬのか?!」

門衛たちは松明を掲げ、その男の顔を照らすと、全員が一様に困惑した。

「こ、これは…蹇永光けんえいこう様…!」

「分かったら、さっさとそこをどきやがれ!」
永光は怒鳴ると、門衛たちを威嚇いかくし、門を通過しようとした。

「何事だ…?!」

そこへ、騒ぎを聞き付けた孟徳が、門衛の軍服ぐんふく姿で現れた。
それを見た永光は、孟徳に掴み掛からんばかりに迫り、門衛たちは慌てて孟徳の前を立ち塞ぐ。

「てめぇ…あの時の餓鬼じゃねぇか…!生意気に役人の格好なんかしやがって、俺を止められると思ってるのか?!」

「あんたか…騒ぎを起こすのが好きな奴だ…!」
孟徳は冷静な顔付きで、酒臭い息を吐きながら、がなり立てる男を見据えた。

「取り押さえろ!」

そう部下たちに命じたが、門衛たちは皆互いの顔を見合わせ、二の足を踏んでいる。
「孟徳殿…この人は、中常時ちゅうじょうじ蹇碩けんせき様の叔父なんですよ…」
門衛の一人が、孟徳に耳打ちした。

「それなら、知っている。構わぬ、取り押さえろ…!」

門衛たちを見回し、孟徳は再び指示を出す。
しかし、誰一人前に出て、永光を捕まえようとはしない。
それを見た孟徳は、小さく嘆息した。

「馬鹿な奴め…!誰も、俺を止める事など出来ぬわ!」
永光は高笑いをしながら、震える女の肩を引き寄せ、再び大股で孟徳の前を通過する。

「そうか、もう良い…」
孟徳は、門衛たちを振り返った。

「棒をよこせ、俺がやる…!」

そう言って、門に掛けた五色棒を渡すよう門衛に指示した。
門衛から棒を受け取ると、それを体の前で構え、孟徳は永光と女の前に立ち塞がった。
永光は女の肩を押し退け、剣を孟徳に向けた。

「面白い、俺とやり合う気か…!この前の借りは、まだ返していなかったな…此処できっちり返してやる…!」

そう叫ぶと、永光は孟徳目掛けて剣を振るった。

酒に酔ってはいるが、永光の剣捌けんさばきは不味まずくは無い。
だが、彼の剣は空を切るばかりで、孟徳の体に触れる事は愚かかすりもしない。
孟徳は、素早い動きで永光の剣を避け続けた。

やがて、永光の足がふらつき始める。
孟徳はそれを見逃さず、永光の動きが一瞬止まったと見るや、鋭く棒を振り上げ、彼の腕や足をしたたかにに打ち据えた。

「ぎゃっ…!!」

永光は悲鳴を上げ、たれた箇所を押さえて後退あとずさる。
見る間に永光の顔は赤くなり、再び剣を握ると、こめかみの辺りに青筋を立てながら、孟徳に突進した。

「この…糞餓鬼くそがきが…!もう容赦し無ぇ!!」

そう叫びながら、力任せに剣を振り下ろす。
腕っ節に自信があるだけの事はあり、永光は予想より遥かに剛腕である。
飛び退いた孟徳の足元の石畳いしだたみは、永光が振り下ろした剣で、深くえぐれた。

酒に酔っていなかったら、歯が立たなかったかも知れぬな…

孟徳は永光の激しい攻撃をかわしながら、冷静に考えた。
更に剣刃は、修繕したばかりの門塀もんぺいや壁を破壊する。

門衛たちは只々唖然として、その様子を見守っていた。

「いい加減に止めねば、酷い目に会わせるぞ!」

孟徳はさっと剣刃を避け、後方へ宙返りをしたかと思うと、着地と共に素早く五色棒を永光の胸元へ突き出す。
胸を棒で激しく突かれた永光の体は後方へ弾かれ、壁に激突した。
その衝撃で壁に亀裂が走り、またたく間に壁は崩れ落ちる。

「ええい…くそ…!!」
崩れた瓦礫がれきを押し退けながら、永光は再び立ち上がった。

「しぶとい奴だ…!だがそれだけの根性があるなら、俺の部下にしてやっても良いぞ!」

「ふざけるな…!誰がてめぇの部下になんかなるか!!」

孟徳は笑いながら言ったが、永光は本気で憤怒ふんどしている。
今にも、頭から湯気が出そうである。

永光は再び剣を振り回して、孟徳に斬り掛かったが、最早その体力は限界に達している。
孟徳は攻撃をかわし、棒をくるくると回しながら、永光の腕、背中、腰と次々に打ち据えて行った。

「ぎゃっ!ひぃ…っ!あぎゃっ…!……!!」
その度、永光は悲鳴を上げる。

「まだ、あと三十発だ…!!」

孟徳はそう叫んで、永光に跳び掛かる。
全身を五色棒にしこたま殴打され、遂に永光は剣を放り出し、その場に頭を抱えてうずくまってしまった。

それでも孟徳は容赦無く、永光の体を棒で打ち続ける。
体を叩かれる音が響き、永光が悲鳴を上げる度、それを見ていた門衛たちは皆、思わず肩をすくめ、目をそばめた。

永光の悲鳴は次第に細くなり、やがて聞こえなくなった。

ぐったりとしたその体を、孟徳が棒で押して仰向けにすると、永光は泡を吹いて気を失っている。

「もう良かろう。傷を手当てして、帰してやれ!」

孟徳はそう言い、五色棒を部下に投げて渡すと、門の前でうずくまって震えている女に近付いた。

「お前は、あの男に連れて来られただけであろうから、見逃してやる。早く家へ帰れ…!」
そう言われた女は震えながら頷き、転がる様に足をもつらせながら、その場から逃げて行った。



「あ、あの野郎…!今度会ったら、ただじゃおかねぇ…!くそっ…い、痛てぇ…!」

すっかり夜が更けた街の通りを、永光は一人、覚束おぼつかない足取りで歩いていた。

目を覚ました永光を、孟徳は門衛たちに屋敷まで送らせようとしたが、永光はかたくなに拒絶し、一人で屋敷へ向かった。

狭い路地を通り、角を曲がると、屋敷まではあと少しである。
永光は冷たい壁に手を突きながら、よろよろと歩いた。

ふと、背後に人の気配を感じ、永光は振り返って後ろを見た。
「誰だ…?!誰か居るのか…?!」
息を殺し、目を細めて暗闇を凝視するが、そこに居る者の姿は見えない。
急に、永光は背筋に寒気を感じ、痛む体で必死に前へ進んだ。

角を曲がろうとした時、今度は突然前方から人影が現れ、永光の行く手をさえぎった。

「な、何だ…お前たち…?!」

いつの間にか、永光は前後を何者かに塞がれていた。
逃げ場は何処にも無い。
永光は額に汗を浮かべ、迫り来る人影に押される様に、冷たい壁へもたれ掛かった。



翌朝、寒風を頬に受けながら、爽やかな朝の空気を吸い込んで歩く孟徳は、狭い路地を抜けた先にある裏門を叩いた。

その屋敷の一室へ入って来る孟徳を、しょうの上で横になっていた虎淵は、驚きの表情で迎えた。

「孟徳様、来て下さったのですね…!」
「ああ、今日は非番なのでな…そのままで良い。」
急いで体を起こそうとする虎淵を手で制し、孟徳は牀の脇へ腰を降ろした。

「孟徳様、仕事は順調ですか?」
「勿論。お前も早く良くなって、朱公偉しゅこうい殿の元へ行かねば成らぬ。大夫たいふもお前を心配して、見舞いに来たいと申しておられた。」

「え?!朱大夫が…?!」

虎淵は瞠目どうもくして、孟徳の顔を見上げる。

「ははは…!お前は肝が小さい故、大夫殿が顔を見せれば、忽ち卒倒してしまうと言って、断っておいた!」
「も、孟徳様…」

孟徳が軽快に笑いながらそう言うと、虎淵は眉を寄せ、安堵と不満の混ざった、複雑な表情を見せる。

突然、孟徳は笑いを収め、じっと虎淵を見詰めた。

「だが…お前が元気になれば、俺の元を離れて行くのだな…それも、複雑な思いだ…」

「僕は、孟徳様の元を離れても…心はいつも、孟徳様の側に有ります…!」

虎淵はそう言って、孟徳の手を強く握り締めた。

その時、部屋の入り口で小さく咳払いをする声が聞こえる。
二人が振り返ると、戸口に玄徳が立っていた。

「取り込み中、悪いな…孟徳、ちょっと良いか…?」
「?」
孟徳は虎淵の牀を離れ、玄徳に付いて部屋を出て行った。

狭い廊下の隅へ孟徳をいざない、少し辺りに目を配ると、玄徳は声を殺しながら慎重に話し始めた。

「今、市場へ行って来て…邑民ゆうみんたちが、お前の事を話しているのを聞いた…」

「ああ…"乱世の奸雄"の話か?それなら…」
孟徳は笑って返そうとしたが、玄徳はそれを制した。

「いいや、そうでは無い。お前、邑民を殺したのか…?!」

「…え?!」

孟徳は驚いて、玄徳の顔を見上げた。

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