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第二章 飛躍の刻と絶望の間

第二十四話 北邙山

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小雪が舞う寒空のもと、市場へと続く門の前には、人だかりが出来ていた。
孟徳と玄徳は、人垣を掻き分けながら門に近付いた。

取り囲んだ人々の中心を覗くと、役人たちが死体を荷台へ運び込んでいるのが見える。

「俺は、北部尉の曹孟徳という者だ。その死体を見せてくれないか?」

孟徳は役人たちに声を掛け、前へ進み出た。
すると一人の役人がやって来て、二人をわずらわしそうな目付きで見る。

「此処は、我々の管轄だ…!関係の無い者は帰れ…!」
「関係があるから、来たのだ!」

孟徳が食い下がると、その男は渋い顔をしたが、二人を死体の乗せられた荷台へ案内し、むしろがした。
その下から、青ざめた男の顔が現れる。

昨夜ゆうべ、あんたが彼を、北門の前で殴るのを見たという女がいる。」

役人の男はそう言って、孟徳へ刺す様な視線を送る。
孟徳はそれには答えず、じっと死んだ男の顔を見た。

確かにその死体は、蹇永光けんえいこうである。
顔や体には殴られた跡が数箇所あり、着物は血で赤く染まっている。

「孟徳、見ろ。これは刀傷とうしょうだぞ…」

そう言って、玄徳が切れた着物の跡を指で指し示した。

「ああ、そうだな…何者かに斬り殺されたらしい…」
「わざわざ、こんな人目に付く場所に死体を置くとは…やはり、お前がったのでは無いのだな…」

孟徳は無言で頷いた。



既に邑内には、昨夜の噂が広まっており、孟徳が屋敷へ戻ると、父と、訪ねて来たばかりの橋公祖きょうこうそが待っていた。

「孟徳殿、大変な事になったな…」

公祖は渋い表情で、孟徳を出迎えた。 


「師匠…俺は、蹇永光を殺していません…!」

孟徳は、室内で父と公祖の前に正座し、二人を正面に見ながら訴えた。

「だがまちの者は皆、禁令を破った永光が、曹孟徳という役人に、棒で殴り殺されたと信じている。」

「それは…確かに、棒で殴ったのは事実ですが…致命傷は負わせていないし、彼は何者かに斬り殺されていたのです…!」

それを聞くと、公祖は溜息をきつつ、

「わしは、永光を幼い頃から良く知っている。あいつの傍若無人ぼうじゃくぶじんな性格もな…いつか、こうなる日が来ると思っていた。あいつは、多くの邑民ゆうみんたちに恨みを買っていたからな…だが最早、誰がやったのかを突き止めるのは、困難であろう…」

そう言って目を伏せた。

「それより、問題は孟徳殿の事だ…」

公祖が重い口調で語るのを、父は不安な表情で見詰める。

「やはり、孟徳は処罰を受けねば成りませぬか…?」
「処罰を受けぬ様、わしも取り計らいましょう…しかし、何しろ相手が悪い…中常時を敵に回しては、この王朝で生きて行くのは難しい…」

「師匠…折角与えて頂いた機会を無駄にしてしまい、申し訳ございません…!」

孟徳は床へ額を付いて、公祖に謝罪した。
おもむろに顔を上げた公祖は、

「…だが謝るのは、まだ早い…!今回の一件で、邑民たちは、中常時を恐れぬ役人が存在するという事を知ったのだ。禁令を破れば、誰であろうと許されぬとな…!」

そう言って、にわかに微笑を浮かべ、孟徳に投げ掛けた。
 


公祖の予見した通り、邑民たちの間では、宦官かんがん蹇碩けんせきの叔父が殺された事で、"乱世の奸雄"、曹孟徳の名は、名声を高めた。

それまで、我がもの顔で法を破っていた宦官の親類縁者たちも、皆禁令を犯さなくなったのである。

「あの若造を、何とかせねばなりません…!」
「このままでは…これまで築き上げた、我らの権威が地に落ちてしまう…!」

宮殿の一室に集まった宦官たちは、口々に意見を出し合っていた。

「…永光の悪行には、目に余るものがあった…たが、彼を始末したのは逆効果となってしまった様だ…」

そう言って前に出たのは、蹇碩である。

張譲ちょうじょう趙忠ちょうちゅうを始め、宦官の中で上位にある十二名の中常時たちを称して、"十常時"と呼ばれる。
蹇碩は、その中の一人に数えられていた。

宦官たちは皆、渋い顔で額を寄せ合い、互いに知恵を出し合った。



淡い雪に埋もれた道を踏み締めながら、歩いていた孟徳は、道の途中で立ち止まった。

おや…先客がある様だ…

その日、孟徳は橋公祖の自宅を訪れていた。
家屋の前の粗末な門の前に、人影がある。

近付くと、それは一人の婦人で、門の陰から家を覗きながら、中の様子を伺っている様である。

「どうかされましたか…?」

孟徳が声を掛けると、婦人は少し驚いて振り返ったが、それが少年である事に気付くと安堵して、小さな溜息を漏らした。

その女性の年齢は、三十歳前後であろうか。まだ全く老いは感じられず、むしろ美女と言える。
ふと、孟徳の脳裏に母の面影が浮かんだが、直ぐにそれは掻き消した。

「あなたは…?」

女性は、艶やかな美しい声で問い掛けた。

「私は、橋公祖殿の弟子で、曹孟徳と言う者です。」

そう言うと、女性は瞠目どうもくして孟徳を見た。

「まさか、あの人は…弟子を取らない筈ですよ…!」
「はは、私が勝手に"弟子"を名乗っているのです。」

孟徳がそう言って笑うと、女性も釣られて笑った。

「師匠に、何かご用でしょうか?」
「実は…あの人に渡したい物が有るのですが…」

孟徳の問い掛けに、女性は少し戸惑いながら答えると、手に抱えていた荷を解き、小さな巾着袋を取り出した。

「これは…遥か瀛州えいしゅうからやっと手に入れ、取り寄せた薬です。これを、あの人に…」

「薬…?!」



冷たい風雪が吹きすさぶ、寒い午後である。

孟徳は自ら馬をぎょし、公祖と共にしゃ北邙山ほくぼうざんへ登り、丘の上から、遥かに広がる雒陽城を見下ろしていた。

「どうだ、此処からの景色は絶景であろう…!孟徳殿に、どうしても見て欲しかったのだ。」

車を降りた公祖は、白い息を吐きながら、遠い城を遠望した。

雒陽の南には、洛水が流れており、その名の由来となっている。

北岸には、巨大な黄河が流れているが、東西を丘陵状に連なる邙山ぼうざんに遮られ、黄河の氾濫はんらん被害から免れる事が出来る。
邙山はかつて、幾度も歴史に登場する古戦場である。

その北側の山は、北邙山ほくぼうざんと呼ばれ、雄大な景色の美しさから、昔から貴族や高官たちの陵墓りょうぼが数多く造られた場所でもある。

「こうして、雄大な自然を前にすると…人間の小ささを、感じずにはおられぬ…」
公祖は独り言の様に呟いた。

「師匠…実は今朝、奥方にお会いしました…」

遥か遠くへ視線を送る公祖の横顔を見詰めながら、孟徳は語り掛けた。
公祖は視線を逸らさず、黙したまま、長い髪を寒風になびかせている。

「奥方は、師匠のお身体を心配なさっておいでです…自分からは受け取って頂けないだろうから、俺に渡して欲しいと頼まれました…」

孟徳は懐から、小さな巾着袋を取り出し、それを公祖に差し出した。
眉間に皺を寄せ、公祖は静かに孟徳を振り返る。

「あれは、人の妻だ…わしにはもう、妻は居らぬ…」

「あなたは、ご自分の死期を悟り、奥方と子供たちが路頭に迷う事が無いよう、信頼出来るひとに家族を託した…全て、奥方から聞きました…」

「…何を聞いたかは知らぬが、あれはわしを捨てて、家を出たのだ…!」

そう言い捨てると、公祖は気分を害されたといった様子できびすを返し、徒歩で丘を下りようとした。
直ぐ様、その前方に孟徳が立ちはだかり、行く手を遮る。

「師匠…!俺はまだ未熟で、力も無く…師匠のお導きが無ければ、この世界で生きて行く事も出来ません…!どうか、一日でも長く生きて…俺を導いて下さい…!」

そう言うと、孟徳はその場に跪き、冷たい地面に額を押し当てた。

「…孟徳殿……!」

公祖は憂い顔のまま、孟徳の姿をじっと見詰めていたが、やがて孟徳の手を取ると、その手から巾着袋を受け取った。

「わかった…わしはもう、長くは無いが…全力で力添え致そう…!」
「有り難うございます、師匠…!先ずは、医者の治療を受けましょう…良い医者を知っています…!」

紅潮した顔を上げた孟徳は、その大きな瞳を潤ませながら、冷たく冷え切った公祖の手を、強く握り返した。



早速、公祖を華佗かだの元へ案内したが、診察した華佗は、神妙な面持ちで孟徳に告げた。

「公祖殿の身体は、既に全身をやまいむしばまれ、手のほどこし様が無い…残念だが、そう長くは持つまい…」
「あの薬は…?奥方が、はるばる々遠方から取り寄せた薬なのです…!」
「…気休め程度の物だ…根本的に、病に効く訳では無い…」

孟徳は、全身から力が抜けて行くのを感じた。
何か、自分の身体の一部がもぎ取られた、その様な感覚である。

やっと巡り会えた、心から尊敬し得る人物だった。
もっと早く出会っていれば、何かが変わっただろうか…

帰り道、孟徳は公祖をしゃで自宅へ送り届けながら、華佗から言われた事を思い起こしていた。
家に到着し、車から降りる公祖に手を貸す孟徳は、終始無言であった。

「そう暗い顔をしては成らぬ…!人の命には、限りが有る。だからこそ、尊いものなのだ…」

公祖はそう言って笑いながら、孟徳の肩を叩いた。
孟徳は顔を上げようとしたが、公祖の顔を見ると、涙をこらえられそうに無く、声を殺して俯いた。

「生きながらえる事が大切か…?大切なのは、どう生きるかではないか…?」

その公祖の言葉に、孟徳は、はっと顔を上げた。
胸に下げていた、翡翠ひすいの首飾りが、熱を持っている様に感じられる。

途端に、孟徳の目から涙が溢れ出し、頬を伝ってこぼれ落ちた。

「曹孟徳…あなたは、わしの最初で最後の弟子だ…!わしの教授はこれで終わっても、空も、大地も、その全てにわしの魂が宿っている事を、決して忘れては成らぬ…!」

公祖は孟徳を振り返り、高らかにそう言って、天と地を指差した。

「師匠…!」

止めど無く流れる涙を拭う事もせず、霞んだ視界から見える公祖の笑顔を、孟徳はただ見詰めた。

やがて公祖は、ゆっくりと門を潜り、舞い落ちる雪の中へ、その姿を消して行った。


戸口に立った公祖は、胸を押さえて激しく咳込んだ。
足元の白い雪の上に、吐血とけつの跡が点々と広がる。

公祖は近くにそびえる、まだつぼみの無い桜の木に寄り掛かり、天を仰いだ。

「もう、時間が無い様だ…あと少し…時があればな…」

見上げる高い空からは、静かに白い雪の華が降り続いていた。



蹇永光の一件で、孟徳は北部尉の職を解かれる事となったが、その後与えられたのは、頓丘とんきゅう県令であった。

宦官たちは、適当な理由を与えて孟徳を処罰するのを断念し、表向きは昇進という形にして、雒陽から遠ざける案を取り入れたのである。

その案を、宦官たちに入れさせたのは、勿論、橋公祖であった。
彼は、孟徳を生かし、昇進させる事で恩を売っておく事の利を、宦官たちに説いたのである。



雒陽を発つその日も、時折小さな雪が舞う、寒い朝となった。
夜が明けたばかりの城門の前には、出立しゅったつする孟徳を見送りに、まちの人々が集まっていた。

まだ包帯を巻いているが、首の傷もすっかりえ、元気になった虎淵の姿もある。

「孟徳様、どうぞお元気で…!」
「ああ、お前も朱大夫しゅたいふの元で頑張ってくれ…!だが、余り無理をするなよ…!」

虎淵は瞳を潤ませながら、孟徳の手を握り締める。
笑顔でその手を握り返した孟徳は、腕を伸ばして虎淵の肩を引き寄せ、その体を強く抱き締めた。

「お前には、いつも助けられた…礼を言う…!」

更には、玄徳たち三兄弟も見送りに現れた。

「ここでまた、お別れだな。」
「心配するな。お前とは何かと縁が有りそうだ…また何処かで会えるだろう。」

孟徳が笑って言うと、玄徳も微笑を返しながらそう答えた。

父が歩み出て孟徳の肩を叩き、

「橋公祖殿も、きっと何処かで、お前を見守ってくれている筈だ…」

そう言うと、孟徳は少し目元を陰らせた。


橋公祖は、数日前に突然、太尉たいいの職を辞して、姿を消してしまった。

孟徳がそれを聞き付け、公祖の自宅へおとずれた時には、既に彼の姿は無く、たずねた知人たちの誰一人、彼の行方を知らなかった。

「師匠は…きっとあの北邙山の丘の上で、この城を見下ろしている事でしょう…」

孟徳はそう言って振り返ると、遥かな雪原の彼方に霞んで見える、朝日に照らされた雄大な北邙山を眺めた。
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