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第二章 飛躍の刻と絶望の間
第二十五話 楼桑村
しおりを挟む小高い丘を越え、白く伸びる細い道の先に、大きな桑の木を臨むと、それは随分と懐かしい景色に感じられた。
玄徳が故郷の楼桑村を訪れたのは、凡そ五年振りである。
だが、彼にとってそこを離れていた年月は、遥かに長いものであった様な気がする。
「此処が、兄者の育った村か…」
雲長と翼徳の二人が、玄徳に馬を並べて、共に桑の木を遠望した。
その木の側に、小さな藁葺きの家屋が佇むのが見える。
「兄者、あの家を訪ねてみるか?」
黙したまま、その家屋をじっと見詰める玄徳に、雲長がそう声を掛けた。
「いや…一先ず、村を束ねている叔父に挨拶をしに行く…」
そう言うと、玄徳は馬首を返して、別の道を進み始めた。
季節は既に冬である。
この辺りは特に雪深く、一度雪に埋もれれば、外界から完全に遮断され、ひと冬の間閉じ込められてしまう。
今はまだ、埋もれる程の雪は降っていないが、既に辺りには小雪が舞っており、やがては大雪となる恐れがある為、長居は出来そうに無い。
玄徳は、集落の中にある一軒の屋敷の門を叩いた。
門が開かれると、中から若い男が現れ、彼は驚きの表情で玄徳を迎えた。
「お前…玄徳ではないか?!」
「久しぶりだな、徳然。 お父上は居られるか?」
玄徳はその若い男の肩を叩き、笑顔で問い掛けた。
その屋敷の主は、劉元起と言う男で、徳然の父であり、玄徳にとっては従叔父にあたる。
徳然とは従兄弟同士、幼い頃から仲が良く、共に同じ師から学問を学んだ。
玄徳の父は、彼が幼少の頃に亡くなっており、母と幼い妹との貧しい暮らしであったが、叔父の元起が他の親族たちにも話しを付け、玄徳を援助してくれたのである。
元起は我が子より寧ろ、玄徳の非凡さに期待を掛けていたと言える。
玄徳は、叔父の期待通り、学問も武術も人より優れ、恵まれた体格に育った。
しかし五年前、突然玄徳は村を出て、行方を晦ました。
我が子同然に可愛がっていた玄徳を前に、叔父の元起は複雑な表情で彼を迎えた。
両腕を胸の前に組み、玄徳を見据えている。
玄徳は叔父に向かい合って床に座り、同じ様に叔父を見詰め返した。
「長い間、ご心配をおかけしました…」
そう言って、玄徳が床に額を付けると、元起は徐に口を開いた。
「お前が、何処で何をしていたのかは、今更どうでも良い事だ…良く帰って来たな…!」
元起は表情を和らげ、目元に微笑を滲ませたが、今度は深く溜息を吐きながら言った。
「お前がこの村を、出て行った理由は良く分かる…あの男の所為であろう…」
叔父の呟きに、玄徳は少し顔を上げたが、目線は落としたまま、暫く考え込む様に冷たい床を見詰めた。
幼い妹が命を落とし、家の中から明るい笑い声が消えると、唯一の光が失われてしまった様だった。
毎日、悲嘆に暮れ、涙を流す母を、玄徳にはどうする事も出来なかった。
妹を死に追いやってしまったという自責の念もあり、それからの日々は、 母の為にやれる事は何でもすると心に誓い、玄徳は毎日、献身的に母に尽くした。
その男が現れたのは、そんな時であった。
吹雪の中、男は玄徳の家の戸を叩いた。
旅の途中で村を訪れたが、雪に見舞われ困っていると言う。
男はまだ若く、年齢は三十前後で、壮年に差し掛かったばかりの様に見える。
母が承諾をしたので、玄徳は仕方なく、その男に一晩の宿を貸す事にした。
夕刻の暗がりで、はっきりと顔を見る事が出来なかったが、室内の明かりに照らされた男は、よく見ると眉目の整った美男であった。
翌日、男は母と玄徳に感謝を述べた上、礼として家の仕事を手伝いたいと申し出た。
母は喜んだが、玄徳は浮かない表情で男を見た。
玄徳には、その男に"良い兆し"が見えない。
結局、男は数日の間、玄徳の家に留まり、いつの間にか、我が家同然に居座る様になっていた。
母と玄徳の仕事も、始めの内は手伝っていたが、その内働くのを止め、一日何もしないで過ごす日もあった。
ある日男は珍しく、筵売りに出掛ける母と玄徳に声を掛け、母の荷物を代わりに背負うと、玄徳と二人で市場へと向かった。
市場で筵を売りながら、二人の間には険悪な空気が流れた。
「村の者たちが、お前の腕は膝に届く程長く、耳は振り返ると自分で見える程大きいと言っていたが…言う程の事は無いな…」
男がそう言って話し掛けたが、玄徳は答えなかった。
村人たちの言葉をそのままに解釈するとは、稚拙としか言いようが無く、玄徳は内心、男を嘲笑った。
長い腕と言うのは、あらゆる仕事を多岐にわたって熟せるという意味で、大きい耳は、人の話しを良く聞く事が出来るという意味であり、象の様に耳が大きい訳では無い。
「玄徳、お前が俺を嫌っているのは、よく分かっている…まあ、心配するな…俺もお前が大嫌いだからな…」
今更、男に何と言われようと腹は立たなかったが、玄徳は敢えて、むっとした表情で男を睨んだ。
「あんたをあの日、家に入れるのでは無かったと、後悔している…!」
男は忌々し気に玄徳を睨み、彼の胸ぐらを掴んで引き寄せた。
「生意気な餓鬼だ…!お前の存在が、母の幸せを邪魔している事に、まだ気付かぬらしい…!」
「?!」
玄徳には一瞬何の事か分からなかったが、その意味を理解した時、途轍もない 悲しみと切なさが込み上げて来た。
母は、この男を愛しているのか…?!
「お前は、父親の死を予言したそうではないか…!妹の死も、予言していたのか?」
男は勝ち誇った様に笑みを浮かべ、玄徳を見下している。
玄徳は赤い目を男に向け、ただ睨み返した。
「…だが結局、妹はお前の所為で死んだ。全く…お前は、疫病神だな…!」
男が吐き捨てる様に言うと、玄徳の拳は怒りで震え、次の瞬間には、男に殴り掛かっていた。
顔面を殴られた男は後方へ倒れたが、口の中の血反吐を吐き、体を起こしながら不敵に笑った。
「お前の所為で、周囲の者は皆犠牲になる…!今度は、母を犠牲にするのか…?お前が居ては、あの女は一生幸せには成れまい…!」
その言葉に、何も言い返す事が出来なかった。
父親と妹が死に、母の元に残ったのは自分だけである。
妹を死に追いやり、今度は愛する者の間を裂こうとしている…
母の為に何でもしようと誓ったが…今、母にとって自分が一番、不要な存在になっているのか…?!
ただひたすらに、遣る瀬無い感情が沸き上がり、玄徳は声を上げて泣きたくなった。
だが、涙が流れ出る事は無く、玄徳は風雪の吹き荒ぶ寒空を見上げた。
男の言う通り、自分が居ては母は幸せには成れないであろう。
玄徳はその日、家に戻らなかった。
そのまま五年の歳月が流れ、再びこの村に戻って来たのである。
「あの男は、お前が去ってから直ぐに、今度は他の女と村を出た。結局、お前の母はあの男に捨てられたのだ…」
叔父が溜息混じりにそう言うと、玄徳は顔を上げて叔父を見詰めた。
「母は…今どうしていますか…?」
「あれから…彼女は精神を病んでしまった様でな…いつも譫言を言っている…だが、彼女の事は我々が面倒を見ているので、心配する事は無い。お前には、やらねば成らぬ事が有るのだろう…」
叔父はそう言って、玄徳の肩を叩いた。
玄徳は黙ったまま、床に額を付けて、再び叔父に深々と頭を下げた。
翼徳、雲長と共に、玄徳は五年振りの生家の前に立った。
小さな家屋の脇に聳える大きな桑の木を見上げたが、以前はもっと大きかった様に思える。
始めは、この楼桑村を訪れる積もりは無かったのだが、雒陽を離れる前、曹孟徳に言われた言葉を、玄徳は思い出していた。
その日、頓丘へ向かう孟徳を、城門の前まで見送りに行った。
「母と…五年の間、会っていないと言っていたな…」
孟徳は城門を出る前、玄徳を振り返った。
「悪い事は言わぬ…一度、母に会ってみてはどうだ?血を分けた母子であろう…解り合えぬ筈は無い…」
そう言い、玄徳の返事を待たず、孟徳は城門を潜り、去って行ったのである。
玄徳は強く拳を握り、入り口の戸を叩いた。
やがて、家の中から女性の声が聞こえ、戸が開かれる。
そこには、懐かしい母の姿が現れた。
五年の間に、母はすっかり老け込んでしまった様に見える。
眉間の辺りに深い皺を寄せ、怪訝な様子で玄徳を見上げていた。
「あなたは…?何か、ご用でしょうか…?」
その問い掛けに、隣に立ち並ぶ翼徳と雲長の二人は、訝し気に顔を見合わせ、翼徳が雲長の脇腹を肘で小突いて耳打ちした。
「…兄者の母上は、ボケているのかな?兄者の事が分からぬらしい…」
二人は同時に、玄徳の顔を見上げた。
玄徳は、黙って母の前で一礼し、
「我々は、ただの役人です…家の中を、見せて頂けますか…?」
そう言って微笑した。
母は少し戸惑いを見せたが、小さく「どうぞ…」とだけ言って、三人を家の中へ通した。
室内には、編み掛けの筵や鞋が置かれているだけで寒々としており、夕飯の支度をしている最中だったのであろう、土間の方から、芋粥を煮ている匂いが漂っていた。
玄徳は無言のまま、ゆっくりと足を運んで、家の中を見て回った。
土間の小さな窓から、桑の木を覗き見る事が出来る。
その時、風に煽られた木の枝が、鈍い音を立てて大きく揺れた。
冷たい床に座り、筵を編んでいた母は突然、編む手を止め、腰を上げて戸口へ向かって走り出した。
そこに立っていた翼徳は驚き慌てて、跳び退く様にして母を避けた。
「きっと、備が帰って来たんだわ…!」
そう言って母が戸を開くと、冷たい風が一気に室内に流れ込んで来る。
玄徳は振り返って、風の中に立つ母の後ろ姿を見た。
"備"は、玄徳の名である。
「備や…!備や…!お前の好きな、芋粥が出来ているよ…!早く家に入っておいで…!」
母はその名を呼びながら、冷たい風の中を彷徨い歩いている。
「…あ、兄者…?!」
それを見た翼徳が、不安そうな顔で玄徳に呼び掛けた。
「………!!」
玄徳は母の後を追って家の外へ出ると、母に駆け寄り、背後からその体を強く抱き締めた。
母は、肩を振るわせて泣いている様である。
その瞬間、玄徳は胸に、何か熱いものが込み上げて来るのを感じた。
母の背は…こんなにか細く、小さかったか…?
そう思ったが、いつの間にか溢れ出た涙で、前がよく見えず、確かめる事が出来ない。
震える腕で母を抱き竦めると、玄徳は声を押し殺して泣いた。
「母上…俺は、ずっと母上に恨まれていると思っていた…!俺の所為で、自分は幸せに成れぬと…」
やがて、震える声でそう言うと、堰を切って流れる涙が頬を濡らし、遂に玄徳は、声を上げてその場に泣き崩れた。
赤子をあやす様な手つきで、母は玄徳の背に腕を回し、震えるその背を優しく撫で下ろした。
「…お前は、何も悪く無いよ……悪く無い……悪く無い……」
そして玄徳の腕の中で、譫言の様にそう何度も呟く。
やがて玄徳の腕から離れると、母はふらりと立ち上がり、覚束ない足取りで、家の中へ姿を消して行った。
吹き荒ぶ風の中に、両膝を突いたまま佇み、去って行く母の後ろ姿をただ見送る玄徳に、雲長が近付き問い掛けた。
「兄者…引き留め無くて、良いのか…?」
すっかり涙を拭った玄徳は、押し黙ったまま立ち上がると、さっと衣を翻し、家とは反対方向へと歩き出した。
「ああ…俺たちには、此処で立ち止まっている暇は無いからな…!」
後ろを振り返る事無く、遠い道の先を見詰めて歩く玄徳の後に、雲長と翼徳も続いた。
桑の木の下に繋いだ馬に跨がり、空を見上げると、再び小さな雪が舞い始めている。
「もうすぐ、大雪になる兆しだな…」
冷たい風が吹き抜ける中、玄徳は長い髪を靡かせながら、そう呟いた。
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