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第三章 黄巾の反乱と漢王朝の衰退
第三十四話 内通者
しおりを挟む白馬から転落する孟徳の姿に、虎淵は絶叫した。
「孟徳様ぁーーーっ!!」
虎淵は孟徳の元へ駆け寄り、直ぐに馬から飛び降りると、全身に矢を受けて倒れた彼の体に取り縋った。
体を抱き起こし、腕で彼の肩を支えた時、兜が外れ、長い艶やかな黒髪が地面に流れ落ちた。
「あ…あなたは…?!」
驚いた虎淵は言葉を失った。
腕の中にいるのは孟徳では無く、彼と共に居たあの黄巾の美少女、翠仙である。
血の気を失った翠仙は、瞼をゆっくりと開いて、力無い目で虎淵を見上げた。
「孟徳様は…ご無事です…あの、林の中に…」
翠仙は血に染まり、震える指先で遠い林の方を指差した。
そして虎淵の手を掴むと、力を振り絞って彼の体を引き寄せる。
「刺客に、お命を狙われておいでです…どうか、孟徳様を…護って…!」
消え入りそうな声で、翠仙は虎淵の耳元に囁いた。
「刺客とは、どういう事です…?!」
虎淵は聞き返したが、次の瞬間、翠仙は激しく吐血し、苦しそうに体を仰け反らせた。
「翠仙殿…!しっかりしろ…!」
虎淵は目を潤ませて叫び、必死に翠仙を抱き起こす。
「はぁ、はぁ…孟徳様に、これを…!」
翠仙は喘ぎながら、首に掛けた翡翠の首飾りを取り出すと、それを虎淵の手に握らせた。
「ごめんなさい…どうか、赦してと…伝えて…!」
翠仙の瞳から涙が流れ落ちる。
やがて翠仙の手から力が失われ、握り締めていた虎淵の手を滑り落ちた。
「翠仙殿…!」
虎淵は叫び、強く瞼を閉じると、涙を堪えながら翠仙の体を強く抱き寄せ、彼女の上に被さる様にして嗚咽した。
柩に収められた孟徳の遺体と対面した王子師は、それを見て声を失った。
振り返って虎淵を見ると、虎淵は小さく頷きながら、黙って目で合図を送る。
子師は再び柩に向かうと、暫し瞑目した。
「どういう事か、説明してくれぬか…?!」
夜更け、虎淵の幕舎へ現れた子師は、虎淵に鋭く迫った。
「これは、陰謀です…誰かが、戦場に刺客を送り込み、孟徳様のお命を狙ったのです…!」
「陰謀だと…?!一体誰が、曹孟徳殿の命を狙うと申すのか…?」
驚きの声を上げた子師は、解せぬといった表情で、冷静な面持ちの虎淵を見詰めた。
「…それは…」
虎淵は静かに瞼を閉じ、小さく息を吸い込んだ後、吐き出すと同時に瞼を上げ、鋭い眼光で前方を見据えた。
「張譲様…!あなたです…!」
虎淵の声が宮殿に響き渡ると、朝廷内の全員が息を殺し、静まり返った。
彼の視線の先に立つ張譲は、一瞬、僅かに息を呑んだが、眉目を動かす事無く虎淵を睨み返している。
「一体、何を根拠に…その様な戯言を申すのか…!」
張譲は不服を目の色に滲ませ、吐き捨てる様に呟いた。
「では、張譲様も柩の中を、ご確認下さい。」
そう言うと、虎淵は柩から少し離れ、中を見るよう促す。
張譲は、渋い表情のまま柩の方へ足を運ぶと、そっと中を覗き込んだ。
「……?!」
それを見た張譲の顔は、見る間に青褪める。
柩の中に横たわっているのは、孟徳の戦袍を纏ってはいるが、死化粧を施された美しい少女であった。
「その娘を、ご存知ですか?黄巾党の捕虜たちに紛れ込み、巧みに孟徳様に近寄った、翠仙と言う少女です…!」
「そんな娘を、わしが知る筈が無い…!」
虎淵の問い掛けに、張譲は怒りの表情で答えた。
その時、宮殿の入り口に現れた人影に、朝廷内は再びざわめきを取り戻す。
それに気付き、宮殿の入り口を凝視した張譲は思わず狼狽え、声を震わせた。
「まさか…!生きていたのか…!」
「張譲殿、残念ながら、あなたの計画は失敗に終わった。あなたはその娘を使って、俺を破滅させようとしたが、自らを破滅に導いてしまった様だな…!」
そこに立っていたのは、曹孟徳である。
「曹孟徳…!生きておったのか…!」
皇帝は、驚きを隠せない顔で孟徳を見たが、直ぐに安堵の表情を浮かべた。
孟徳は歩を進めて宮殿の中へ入り、皇帝の前まで来ると、膝を折り稽首した。
「敵を欺くには、先ず味方から…と、昔から申します。」
立ち上がった孟徳は、そう言って皇帝に微笑を返した。
「死を前にして、翠仙は俺に真実を明かした。最早、逃げ隠れは出来ぬぞ…!張譲殿…!」
振り返った孟徳は、柩の脇で呆然とする張譲を睨み付ける。
「馬鹿な…!何処の馬の骨とも分からぬ小娘の言う事を、誰が信じると申すのか?!」
張譲は声を荒げると、柩を指差しながら怒鳴った。
「翠仙は…自らの命を擲って、俺を助けたのだ…!あなたは死者に対し、敬意を払うべきでは無いか…!!」
孟徳は眼光に怒りを込め、睨み据えた。
「張譲よ…朕は真実が知りたい…!この者の申す事は、真実であるか?」
皇帝にとっては、驚くべき事ばかりである。皇帝は困惑した表情で張譲を見た。
張譲は顔を引き攣らせ、声を震わせると、目に涙を浮かべながら皇帝の足元に縋り付く。
「陛下…!この者たちは、私に有らぬ罪を着せ、陥れようとしているのです…!」
そこへ、皇帝の前に進み出た王子師は、床に跪く張譲を指差しながら怒鳴った。
「張譲殿が黄巾党と密かに通じ、賄賂を手にして官軍の情報を敵に流している事も、既に調べが付いています!陛下、彼こそ我々を謀る逆賊なのです…!」
更に子師は言葉を続け、張譲を苦々しい表情で睨み付ける。
「その娘が、張譲殿の侍女として屋敷で働いていた事も、既に家人たちから確認が取れている。それでも、まだしらを切る積りか…?!」
その喧騒の中、皇帝の足元に跪き項垂れる張譲の姿を、蹇碩は部屋の隅で青褪めながら見守っていた。
やがて顔を上げた張譲は、孟徳らをやや不敵な笑みを浮かべて見回し、再び皇帝に向き直ると、今度は涙を流した。
「私が、黄巾党の者と密かに通じていた事は、事実でございます…しかし、それは黄巾党の内部を調査させる為であり、決して、陛下を裏切る積もりではございません…!私は、どんな時も陛下の事が一番であり、何よりも陛下の為とあらば、危険も顧みる事はありません…その結果、遂にこの様な目に遇ってしまったのです…!」
切々と語る張譲を、皇帝は怒りを抑えているのか、複雑な表情のまま黙って見下ろしている。
「陛下が私をお疑いでしたら、どうぞこの場で、私の首をお刎ね下さい…!陛下に疑われては、生きている価値もございません…!」
その言葉に皇帝は驚き、瞠目した。
皇帝には迷いがある。それと見た王子師は、透かさず皇帝の側へ走り寄り、声を荒げた。
「陛下!この者を、決して赦してはなりませぬ!黄巾党の者と通じても赦されるなどと知れば、我が官軍の士気にも影響を与えるでしょう…!」
張譲はしおらしく、皇帝の前に額ずいている。
その姿に、皇帝は激しく心を揺さ振られていた。
「もう良い…!」
遂に皇帝は、怒りを吐き捨てる様に声を上げた。
「危急の事態であるこの刻に、仲間同士で争っている場合では無かろう…!朕はこの様な詰まらぬ争いを、見てはおられぬ…!」
皇帝はそう言って、その場の全員に背を向けると、朝廷から去ろうとする。
「陛下…!」
驚いた子師は、皇帝を呼び止めた。
振り返った皇帝は、明らかに不機嫌そのものである。
「もう良いと申しておる…!死んだ娘は、手厚く葬ってやるが良い…!」
そう言うと、皇帝はさっさと朝廷を後にした。
一体、何が良いのか…?!王子師は叫びたかった。
結局、皇帝は張譲を罰する事無く、彼を赦してしまったのである。
子師は力無く肩を落とすと、天を仰いだ。
王子師め…!皆の前で、わしに恥をかかせおって…!
床に跪いたまま、その姿を背後で見ていた張譲は、腸が煮えくり返らんばかりに目を瞋らせ、彼の背を睨み付けていた。
その頃、他にも黄巾党と内通していた悪徳宦官たちが何人も見付かっており、多数、摘発されていた。
宦官の大物である張譲の罪を暴く事が出来れば、宦官一掃の足掛かりを掴めたかも知れない。
悔しさを滲ませる子師の背を、孟徳は黙したまま、ただじっと見詰めていたが、彼の心境もまた同じであった。
晴れ渡る空は次第に茜色に染まり、夕焼け空に映える北邙山の丘の上に立った孟徳は、翠仙の遺体を埋葬し終え、目の前に広がる雄大な景色を眺めた。
「翠仙…お前と一度、此処へ立って、一緒にこの景色を眺めたかったな…」
孟徳は風に向かって、小さく呟いた。
「孟徳様、翠仙殿から、これをお預かりしておりました。」
風の中に佇む孟徳の背に虎淵が呼び掛けながら歩み寄り、懐から翡翠の首飾りを取り出すと、彼の前に差し出した。
孟徳は視線を落とし、虎淵の手の中で輝く翡翠を、悲しげな瞳で暫し見詰め、静かにそれを受け取った。
「孟徳様は、出会った時から一度も、翠仙殿の事を疑わなかったのですか…?」
「………」
孟徳は暫し黙して首飾りを見詰め、やがてそれを自分の首に掛けた。
「ああ、一度も疑わなかった…と言えば、嘘になるかも知れぬが…たとえ翠仙が敵の刺客であったとしても、俺は彼女を信じたかったのだ。翠仙を、愛していたから…」
孟徳の目に涙の雫が光り、頬を伝い落ちる。
「翠仙に命を奪われるのであれば、それも天命であると…本気でそう思っていた。恋は盲目であり…翠仙もまた俺を信じ、俺の為に自ら命を捨てたのだ…」
涙を流す孟徳に、貰い泣きを堪える様に、何度も瞬きを繰り返す虎淵は、強い口調で言った。
「僕には、翠仙殿のお気持ちが、良く解ります…!孟徳様の為なら、僕も命を惜しみません…!」
「ふっ…虎淵お前、俺に恋をしているのか?」
「似た様なものです…!」
そう言うと虎淵は、潤んだ瞳のまま、白い歯を見せて爽やかに笑う。
孟徳には、虎淵の優しさが心に染みた。
濡れた頬を拭い、虎淵に微笑を返した時、夕闇に染まる遥か遠い紫紺の空を、一筋の星が流れた。
孟徳は顔を上げ、瞳を輝かせてその星を見詰めた。
「翠仙…俺はお前の事を、決して忘れる事は無い…!」
やがて辺りの景色は夕闇に溶け込み、夜空に無数の星の影が広がり始めた。
宛県城での戦は、朱儁将軍と指揮下の孫堅による二方面からの急襲作戦が功を奏し、落城させる事に成功していた。
孫堅に主力部隊を預け、城の西南を攻撃させると、朱儁は自ら五千の精鋭部隊を率い、防備が手薄になった城の東北側に攻め掛かり、城内へ突入したのである。
官軍の主力を率いた孫堅は、黄巾軍の正面攻撃を跳ね退け、自ら果敢に先頭に立って城壁を乗り越えるという勇猛さを発揮した。
城を捨てた黄巾軍の残党は、小城へ逃げ込み抵抗を続けたが、既に戦意は低下し、やがて降伏を申し出て来た。
朱儁に従軍していた司馬の張超、荊州刺史の徐璆、南陽太守の秦頡らは、
「彼らの降伏を受け入れるべきである。」
と朱儁に進言したが、朱儁は都合よく降伏して来る彼らには信を置けぬと考え、その申し出を拒否。徹底抗戦する構えを見せた。
降伏も許されず逃げ場を失った黄巾軍は死兵と化し、激しく抵抗を続けた為、なかなか降す事が出来ない。
朱儁は再び包囲を解いて、敵が討って出た所を捕らえる作戦に切り替え、脱出を謀った韓忠を遂に捕らえた。
しかし、韓忠に対し怒りを募らせていた、南陽太守の秦頡が彼を殺した為、一度降伏した黄巾軍は恐れ、今度は孫夏と言う者を大将として再び抵抗を続ける。
その後、急襲により逃げ出した孫夏を、西鄂県の精山まで追撃した朱儁は、遂に彼らを打ち破る。
それにより、激しい抵抗を続けた南陽黄巾軍が鎮圧されるのは、冀州黄巾軍の鎮圧の後の、十一月の事となるのである。
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