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第三章 黄巾の反乱と漢王朝の衰退

第三十六話 遠ざかる車輪

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「奴ら、随分と急いでいるな…」

ようやく、前方に左豊たち一行の姿を発見した玄徳は、訝しげに呟くと、更に馬の速度を速めた。
やがて左豊一行は進路を南へ向け、林へと続く道へ入って行く。

「兄者、罠かも知れぬ。用心しろ…!」
馬首を並べて呼び掛ける雲長に、玄徳は黙って頷いた。

林へ突入し、少し速度を落として辺りを警戒する。
前方の左豊たちの姿は、既に目前である。

「止まれ!!」

玄徳はそう叫びながら、背中の剣を抜き放った。
雲長、翼徳もそれに続く。

左豊の車馬を護る兵たちも馬の足を止め、全員が抜刀する。
玄徳らは、彼らの剣をやすやす々と跳ね上げ、一気に左豊の車馬まで迫った。

「お前たちは何者か!?我々は朝廷の勅使である、無礼は許さぬぞ…!」
左豊はしゃの上で立ち上がり、玄徳らを一喝する。

「無礼は承知の上。あんたをこのまま、雒陽らくようへ帰らせる訳には行かぬのでな…」

玄徳はそう言って素早く馬を降り、左豊の車へ歩み寄る。

「わ、私に手を出したら…ただじゃ済まないわよ…!」
「ふんっ…俺は元々お尋ね者なのだ。今更、罪を重ねる事に躊躇ためらいはない…!」

狼狽うろたえる左豊を睨み付け、玄徳は剣を構えて迫る。

「兄者!そいつを殺すのか!?」
左豊の護衛兵たちを素手で殴り倒しながら、驚いた雲長が叫び、玄徳の側へ走り寄った。

「こんな奴は、漢王朝の弊害にしかならぬ!斬り捨てた方が世の為であろう!」

「おい!あんた、兄者は本気だぞ!兄者を怒らせたら、俺たち義兄弟きょうだいでも手が付けられぬ…!大人しく言う事を聞いた方が身の為だ…!」
怒り心頭しんとうを発する玄徳をなだめながら、雲長は左豊へ向かい声をひそめ、そう言って説き伏せる。

「止めるな、雲長!こんな奴を生かす必要は無い…!」
「ひぃ…っ!」
左豊は肩をすくめ、上体をけ反らせた。

すると突然、玄徳の頭上から黒い影が現れ、何者かが左豊の車の前を塞いだ。
「!?」
そこには、黒い着物を纏った、二人の屈強な男たちが立ちはだかっている。

「あんたたち!助けに来るのが遅いわよ…!さっさと、そいつらを倒してしまいなさい!」
腰を抜かした左豊は車に座り込み、玄徳らを指差しながら二人の男たちに怒鳴る。

口角から泡を飛ばす左豊を、冷めた目付きで一瞥いちべつする彼らは、黙ったまま玄徳らを睨み付けた。
「詰まらぬ猿芝居は、もう充分だ…」
左目に眼帯をした男は、そう低く呟く。

「何だと…!俺たちの邪魔をするのでは無い…!」
雲長が剣を構えて男らに迫り、鋭い一撃を繰り出した。

男たちは雲長の素早い攻撃に身をひるがえし、二手に別れると、髭の濃い大男は雲長に、眼帯の男は玄徳へと斬り掛かった。

「ぼやっとするんじゃない!さっさと馬を走らせるのよ!」
「は、はい…!」
その隙に、左豊は従者を叱り付け、車馬を走らせ始める。

「逃がさぬ…!」
玄徳が車を追おうとすると、眼帯の男がそれを遮った。
玄徳には、男を一閃にして斬り捨てる自信があったが、相手は勅使の一行である。
ここで無駄に殺しをするのは、後々が悪くなりそうだと思った。

「ちっ…!」
小さく舌打ちをすると、男と睨み合う。

先程から、何か違和感を感じていたが、よく見ると男は左手に剣を握っている。
その立ち姿に、玄徳はある人物の影を重ねて見た。

この男…あいつに似ている…

そう思ったのも束の間、男は玄徳に鋭く剣を突き出し、間断かんだん無く攻撃を繰り出して来る。
玄徳は大剣をかざして男の攻撃を跳ね返し、数合打ち合ったのち、襲って来る剣刃けんじんを受け止めた。

剣を交差させたまま、暫し膠着こうちゃくする。
すると男は突然、今まで使わなかった右腕を振り上げ、素早く横へ薙ぎ払った。

右手に匕首ひしゅを隠し持っていたのだと思ったが、着物から覗く男の右腕は、肘から先に剣刃を取り付けた義手であった。

玄徳は上体を反らしながらそれを躱したが、男の攻撃は速く予想以上に剣先が長い。
玄徳の長い髪が切断され宙を舞った。

「兄者!!」
残りの護衛兵たちを相手に奮闘していた翼徳が叫び、玄徳の方へ走り寄ると、剣を振り翳して眼帯の男へ斬り掛かる。

「こいつの相手は俺がやる!早く左豊を捕まえに行ってくれ…!」
「分かった…!此処はお前に任せるぞ!」

素早くかばう様にして立つ翼徳の肩を叩くと、自分の馬へ駆け寄り、玄徳は左豊の車が去って行った道へ向けて馬を走らせた。
玄徳が左豊の車馬しゃばを追って行くのを横目に見ながらも、男らは後を追う事は無く、雲長と翼徳に向き合った。

「お前たち!大人しく降伏すれば、命だけは助けてやるぞ…!」
翼徳は大声たいせいを放って、男たちを威嚇いかくする。

「ふんっ、それはこっちの台詞せりふだ…!豎子じゅしめが…!」
髭面ひげづらの大男が鼻を鳴らし、翼徳を侮蔑ぶべつの表情で見下ろす。

やがて南の空から、立ち昇る暗雲が広がり始めた。
日の光が遮られ、林の中の空気が徐々に冷たくなって行く。

こいつら、他の護衛共とは明らかに違う…!

翼徳は目で雲長に語り掛ける。
雲長も同じ事を感じ取っていたらしく、翼徳の目を見て強く頷いた。

次の瞬間、二人は同時に地を蹴って、剣を構える男たちに斬り掛かった。


林の中に深い霧が立ち込め始め、次第に視界が白くなって行く。
前方にかすかに見える左豊の車馬を追って、玄徳は馬を走らせた。
林の出口であろうか、やがて前方に明るい光が見えて来る。

玄徳の馬が林を抜けた時、左豊の車馬は川に架かる、小さな吊り橋を渡る所であった。
その吊り橋は、左豊の車馬がぎりぎりで通れる程度の幅である。否応なく速度が落ちる。

「待て!」
玄徳は馬を飛び降り、走って吊り橋へ向かった。

すると木の陰から、待ち受けていた一人の刺客が突如目の前に現れ、玄徳の行く手を遮った。

「お、お前は…!」

その刺客の姿を見た玄徳は、思わず息を呑んだ。

先程の男たちの仲間であろう。
だが、同じ様な黒い着物を纏ったその男には見覚えがある。


奉先ほうせん…!何故、お前が…!?」


玄徳の前に立ちはだかる奉先は、黙したまま玄徳を睨み据えている。

やがて、辺りは夕闇が迫ったかの如き薄暗さとなり、細い雨が落ち始めた。

「始めて会った時も、この様な雨であった…」
玄徳は独り言の様に呟いた。

「貴様…師亜か…!」
奉先もまた低く呟く。

「お前、孟徳もうとくの所へ帰るのでは無かったのか?!」
鋭く問い掛ける玄徳に、奉先は憮然ぶぜんとした表情で答える。

「あの人は、もうあるじでも何でも無い…!俺の主は、呂龍昇りょりゅうしょう様だ!」

それを聞いた玄徳は、成る程と思い至った。
左豊は、清廉潔白な人物である盧子幹が、始めから素直に賄賂を差し出す筈は無い、と読んでいたのであろう。
帰路を妨げようとする者がある事を視野に入れ、あらかじめ用心棒を雇っておいた。雇われたその用心棒が、呂興の配下たちだったと言う訳である。

「お前、まだ呂興の手下をしているのか…?あんな奴に従うくらいなら、俺の所へ来てはどうだ?いつでも歓迎するぞ!」
そう言って、玄徳は白い歯を見せて笑う。

「くだらぬ事を言っておらず、剣を抜いてはどうだ?」

玄徳は半分本気だったが、奉先には冗談と受け取られたらしい。
彼は無表情のまま、腰から剣を抜き取った。

「相変わらずつれない奴よ…!そうか、では良かろう。今度こそ雌雄しゆうを決するとしようではないか!」
玄徳はそう言って背中の大剣を抜き放ち、奉先に切っ先を向ける。

「曹孟徳は、俺の親友である。今後、あいつに近寄る事は、この俺が許さぬ…!」

そう言って睨み付けると、剣を構えながら、奉先はわずかだが眉を動かし目の色を変えると、鋭い眼差しで玄徳を睨み返した。

あの頃とは、随分と違うな…

たかぶる感情とは裏腹に、玄徳は冷静に奉先を分析している。
人とは変わるものだと、盧子幹に語った玄徳であったが、奉先の変貌へんぼう振りに多少の驚きを抱いた。

以前出会った時の彼からは、非情さや冷酷さは感じなかった。
だが今、目の前にいる彼には、凍り付く様な冷酷さが漂っている。

一体、何があったのか…
考えている間に、奉先はゆっくりとだが距離を詰めて来る。

雨に濡れた頬を、しずくが伝い落ちる。
その滴が足元の地表に落ちた時、奉先は素早く握った宝剣をひらめかせた。

奉先の強烈な一撃を素早く剣で弾き、玄徳は敏捷びんしょうに宙を舞いながら、次々と打ち込まれる攻撃をかわす。
再び奉先の斬撃ざんげきを剣で受け止めた時、その凄まじさに玄徳の腕が痺れた。

余程鍛錬を積んで来たと見える。以前とは比べものにならぬ程強く、打ち出す剣には迷いが無い。
本気で玄徳を斬る積もりである。

こちらも本気を出さねば、危ういか…!

玄徳はさっと体をひるがえし、奉先から距離を置いた。
だが、奉先は冷めた目付きのまま、攻撃の手を緩める事無く、再び間髪入れず攻撃を繰り出して来る。
翻った着物の裾が切り裂かれ、次第に追い込まれた玄徳は、思わず地に片膝を突いた。

その間に、左豊の乗ったしゃは吊り橋を渡り終えようとしている。
「くそっ…!」
玄徳は横目にその光景を見ながら、歯噛みをした。
目の前の奉先を振り切って、左豊の車を止めに行くのは難しい。
最早、足止めをするのは絶望的である。

「おのれ…!」
玄徳は奉先を睨み付け、片膝を突いた状態から素早く地面を蹴り、大剣を横に薙ぎ払いながら一気に奉先の胸元まで迫った。

奉先は素早く後方へ飛び退すさり、玄徳が打ち出した大剣をすんでに躱すと、襲い来る大剣と数合打ち合う。
剣を交差させ、互いの剣刃を押し合った時、以前、玄徳が斬り付けた傷痕しょうこんが、奉先の額にまだはっきりと残っているのが目に映った。

あの時、奉先が本気を出していたら、俺は殺されていた…

ふとそう思った時、玄徳の視線が自分かられたと分かった奉先は、素早く左手に握った宝剣を閃かせ、玄徳の大剣を鋭く弾き上げた。
片腕で大剣を弾かれた玄徳は、一瞬ひるんで、思わず後方へと退く。

やはり、俺では歯が立たぬ…!

玄徳はそう悟り、大剣を構えつつ死を覚悟した。

その時、こちらへ近付いて来る馬蹄ばていの足音が不気味に響き渡り、二人は振り返って林の方を凝視した。
細い雨が降りしきる霞んだ視界の先に、二頭の騎馬の姿が見えて来る。

「奉先!餓鬼の相手はもう良い…!行くぞ!」
馬上で眼帯の男がそう叫びながら、二人の間を駆け抜ける。

奉先は男に頷くと、素早くきびすを返し、彼らの後を追って走り出した。

「待て!!」

玄徳は叫んで、奉先の後を追う。

奉先は木の側に繋いでいた馬に跨がり、男らの騎馬を追って吊り橋へ向かうと、一気に細い吊り橋を駆け抜けた。
渡り終えると後ろを振り返り、頭上に翳した宝剣を振り下ろして、吊り橋の縄を断ち切る。
吊り橋は崩れる様に谷底の川へと落ちて行き、反対側の岸から垂れ下がった。

行く手を阻まれた玄徳は、向かいの岸から奉先を睨み付けながら、大声で叫んだ。

「奉先!逃げるのか…!?」

その声に奉先は振り返ったが、黙したまま玄徳を睨み返すだけである。
やがて馬首を返し、玄徳に背を向けると、馬の腹を蹴ってその場から走り去って行った。

「兄者!!」
暫くして、後方から翼徳と雲長が、叫びながら馬を走らせて来た。
「兄者、無事だったか…!」
二人は、降りしきる雨の中に、呆然と立ち尽くしている玄徳に走り寄った。

「奴ら、相当手強かったが、決着が着かぬと見て逃げて行った…!」
「兄者、左豊には逃げられたのか?どうする?」
二人は矢継やつぎ早に話し掛けたが、玄徳には彼らの声がまるで聞こえていない様である。

「兄者…?」
「ああ…左豊には逃げられた。最早、足止めは不可能だろう…」

力無い声色でそう答える玄徳を、雲長と翼徳はややいぶかしげな表情で見上げた。
やがて雨に濡れて重くなった衣を翻し、玄徳は林の方へ引き返し始めた。

全身を雨に濡らした玄徳の足取りは重い。
悔しげに歯噛みをし、雲長と翼徳の二人は、暫く川の向こう岸を見詰めたが、仕方なく振り返ると、憔悴しょうすいした様に歩く玄徳の後姿を追った。

陣営へ帰り着くまでの間、玄徳は一言も発さず、馬上で俯いたままであった。
その後、冷たい雨は数日間降り続き、広宗の城攻めは、一旦休戦を余儀なくされた。


それから数日の後、盧子幹の元へ、朝廷から再び使者が訪れた。
今度の使者は宦官では無く、数名の捕吏ほりである。

左豊は京師けいしへ帰り着くと、皇帝へ視察の報告を行い、
「盧子幹は、張角を城へ追い詰めながらも策を講ずる事無く、ただ悪戯いたずらに時を費やしております…!我々朝廷の使者をも軽視し、侮辱する有様であり、皇帝の命に従う気も無いものと思われます!あの様な者に官軍を預ける事は、後々災いとなりましょう…!」
そう言って、有る事無い事をのたまわったのである。

当然、それを聞いた皇帝は激怒し、直ちに盧子幹を罪人として、雒陽らくようへ引き連れて来るようちょくを言い渡した。

玄徳が子幹の陣営を訪れた時、縄を掛けられ捕吏に捕われた子幹が、監車かんしゃへと連れて行かれる所であった。

「先生…!」
子幹の元へ走り寄ると、監車の護衛がその前に立ち塞がる。
「お前たち!盧将軍を何処へ連れて行く積もりだ…!」
一緒に走り寄って来た翼徳が、屈強な護衛に食って掛かる。

「玄徳…!構わぬ、わしは間違った事はしておらぬ。堂々と皇帝に会いに行く積もりだ…!」
子幹は毅然きぜんとして、良く通る大声で言い放つ。

取り押さえようとする護衛の腕を押し退け、玄徳は子幹の前に膝を突き、拱手した。
見上げる玄徳の目は赤く染まり、涙で潤んでいる。
それを見下ろしながら、子幹も声を振るわせた。

「わしに、もしもの事があれば…君が、わしの兵たちの面倒を見てくれ…!」

そう言い残し、子幹は足を早めて、自ら監車へと乗り込んで行った。
やがて、その場に跪いたままの玄徳の耳に、動き出した監車の大きな車輪のきしむ音が届く。

監車は左右に大きく揺れながら軍門を潜り、陣営から次第に遠ざかって行った。
玄徳はひたすら涙をこらえ、拳を膝の上で固く握ると、強く瞼を閉じた。

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