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第三章 黄巾の反乱と漢王朝の衰退
第四十話 乱の終結 《三章 最終話》
しおりを挟む行き交う幾重もの人波の中を、彼は一人走っていた。
擦れ違う人々に揉まれながら、ひたすらに前方に見え隠れする、見覚えのある後ろ姿を追って行く。
結った髪から垂れ下がる、長い後れ毛を肩に掛けたその人物は、体を引き摺る様にしながら歩いているが、追っても追っても、何故か一向に追い付く事が出来ない。
「待って、待って下さい…!師匠!」
彼は思わず大声で叫び、前を行くその人物を呼び止めようとした。
その声が届いたのかどうかは分からないが、その人は一瞬後方を振り返り、虚ろな眼差しで彼を見た後、再び目を背けて歩き去って行く。
やはり、間違いない!
そう確信した彼は、人々を押し退け、必死に後を追った。
やがて大きな通りを抜け、狭い路地へと続く道の隅に、その人が苦しげに胸を押さえて蹲っている姿が目に入った。
彼は背後からゆっくりと近付き、腰を落としてその背中をじっと見詰めた。
「師匠…何故です。何故、何もおっしゃらず私の前から姿を消したのですか?生きておられたのなら…」
「わしはもう…生きてはおらぬ…!」
その人は苦しそうに喘ぎながら、彼の言葉を遮った。
「今、見てえいるのはただの…わしの幻影に過ぎぬ…」
「いいえ、師匠…!あなたはまだ、生きておられます!もう何処へも行かせません!」
彼は大きく頭を振って、瞳に大きな涙の滴を浮かべた。
「私は…もう愛する人を失うのは嫌なのです…!どうか、私を残して行かないで下さい…!」
目から大粒の涙が頬を伝い落ち、彼は胸に下げた翡翠の首飾りを、着物の上から強く握り締めていた。
「孟徳殿…あなたは、わしとは違う世界に生きている。いつまでも、わしの事など考えていては成らぬ。今あなたが考えねば成らぬのは…」
俯き喘いでいた男はそう言うと、突然顔を上げ、彼の肩に掴み掛かって来た。
「死に掛けている、漢王朝の事であろう…! 」
その顔を見た彼は、驚いて身を引き思わず息を呑んだ。
血の気を失った男の顔は青白く、それは既に腐乱が始まった、悍ましい死者のものであった。
閉じていた瞼を上げた孟徳は、かっと目を見開いた。
自分の叫び声で目を覚ました気がしたが、辺りは静寂に包まれた闇である。
着物は汗でびっしょりと濡れ、呼吸が酷く乱れている。
孟徳は牀の上で体を起こし、額の汗を拭うと、眉を顰めて自分の頭を両手で押さえた。
何か、酷く恐ろしい夢を見ていた様だが、内容は思い出せない。
最近、強い頭痛に襲われる事が度々あった。
医師の華佗に診察してもらった所、翠仙に飲まされた毒薬の影響ではないかと言う事であった。
その内、痛みは治まるだろうと言われたが、あれから三月余りが経過している。
これはきっと、翠仙を身代わりに死なせた、自分への罰であろう…
そう考えた後、目を閉じて一度大きく息を吸い込み、今度は深く息を吐き出した。
「この痛みが一生続くなら、彼女の事を忘れる事も無い…」
その呟きは、漆黒の闇の中に溶け込んで行った。
その日の午後、雒陽へ帰還した皇甫義真は兵を引き連れ、城門の前までやって来ていた。
門の前に、彼の到着を待ち詫びていたかの様に佇んでいる、一人の若者の姿が見える。
義真は馬を降り、見覚えのあるその若者に歩み寄ると声を掛けた。
「曹孟徳殿ではないか…!宛攻略戦で、戦死したという噂を聞いたが、生きておったのか?!」
そう言うと、孟徳の肩を強く叩き、信じられないという表情で彼の顔を見詰めた。
孟徳は微笑を返して拱手すると、
「はい、見ての通り、無事に生きて帰る事が出来ました…」
そう答えた後、直ぐに笑顔を収めて義真を見詰め返す。
「何か、悪い知らせか?」
勘の鋭い義真は、孟徳の目に不穏な色が漂っているのを見逃さず、即座に問い返した。
「実は…王子師殿が、無実の罪を着せられ、投獄されました…!」
王允子師は、皇帝の面前で黄巾党と密通していた宦官、張譲の悪事を暴こうとしたが、張譲が皇帝に許された事で、今度は逆に宦官たちから無実の罪を着せられ、投獄されると、死罪を言い渡されてしまったのである。
「何という事か…王子師殿までもが…!」
義真は驚きの声で歎き、天を仰いだ。
「誠実な真の名士を失えば、王朝は完全に死に絶えてしまうでしょう…!今この朝廷内で、皇帝の心を動かす事が出来るのは、皇甫将軍を措いて他にはおりません!」
孟徳はそう言うと、再び義真に向かい拝手する。
「偶然にも広宗を去る際、君と同じ事をわしに頼んだ者が居た…彼は廬子幹殿の弟子で、罪人として送られた子幹殿を助けて欲しいと言ってな。」
「廬将軍も、投獄されておられたのですか…!」
孟徳は衝撃を受けた表情で顔を上げた。
「彼らを死なせては、漢王朝を殺す事となろう。彼らの助命を皇帝に嘆願し、何としても救い出さねば成らぬ…!」
「はい、皇甫将軍!出来る限りの有志を募り、皇帝の元へ赴きましょう!」
二人は固く手を握り合った後、直ぐに城内を駆け巡り、有力な名士たちの元を訪れ、彼らから力を借りる約束を得た。
夜までに数多くの有志を集めた義真は、彼らを伴って早速、皇帝の元へと向かった。
朝廷で義真を迎えた皇帝は、乱平定までの数々の功績に称賛を与え、非常に上機嫌であった。
義真はその機を逃さず、投獄された廬子幹らについての功績を述べ、彼らを大いに称えた。
更に、集めた有志たちが必死になって助命を嘆願した為、遂に皇帝は彼らの死罪を取り消し、無罪放免とした。
数日後には、投獄された子幹らは晴れて自由の身となり、彼らを出迎える人々と手を取り合って喜んだ。
そこへ、集まった人々を掻き分けながら、子幹の元へ走り寄る若者の姿がある。
「先生…!!」
彼はそう叫び、子幹の前へ来ると、目を潤ませてその手を取った。
「おお、劉玄徳!君らのお陰で、わしは再び生きる権利を得た…!感謝する!」
子幹は声を震わせ、涙を流す。
「全て、皇甫将軍のお力です。私には、先生をお助けする事は出来なかった…」
玄徳は無念な思いを滲ませる様に、強く眉根を寄せて子幹を見詰め返す。
涙に濡れた顔を綻ばせながら、子幹はそんな彼の肩を引き寄せ、両腕で強く抱き締めた。
その様子を、少し離れた場所から安堵の表情で見詰める義真は、隣に立つ孟徳の肩を力強く叩き、笑顔を向ける。
振り返った孟徳は目を細めて微笑を返し、大きく頷いて見せると、再び向き直って彼らの姿を眺めた。
「廬子幹殿の弟子が、お前だったとはな…!」
大勢の人々が行き交う広い通りを、肩を並べて歩く玄徳に向かって、孟徳は苦笑を浮かべながらそう言った。
「先生の為に、尽力してくれたそうではないか。お前に一つ、借りが出来てしまったな。」
玄徳も苦笑を返しつつ、歩調を合わせて歩く孟徳を振り返る。
「虎淵は、元気にしているか?」
「ああ、あいつは元気だ。今は、朱公偉殿の元で立派な士となる為、毎日修行の日々を送っているが、あいつは生真面目だから、時々俺の所へ来ては悩みを相談したりしているよ。」
「そうか、それは良かった…」
玄徳はそう言って、笑顔で話す孟徳の横顔を見詰めていたが、暫し沈黙した後、徐に口を開いた。
「奉先には、あれから会ったか…?」
その問い掛けに、孟徳は直ぐには反応を示さなかった。
稍あって、首を小さく横に振り、溜め息混じりに玄徳を見上げた。
「あいつとは、鄭邑で別れてから、一度も会ってはおらぬ…今、何処に居るのかさえ分からぬのだ。」
「呂興の配下では無いのか?」
玄徳はやや訝し気に眉を顰めた。
「呂興の側近には含まれていない様だ。裏で暗殺部隊を率いている可能性はあるが、それを確認する手立てが無い…」
「…そうか。」
二人は再び沈黙し、賑やかな人混みの中をただ行く当ても無いまま歩いた。
「実はな…」
玄徳が小さく口を開いた。
「俺は、広宗であいつに…奉先に会ったのだ…!」
それを聞いた孟徳は思わず瞠目し、声も上げず玄徳を見詰めた。
「義手の具合はどうだ?」
「ああ、悪く無い。お前が毎日、稽古の相手をしてくれているしな。どうだ?随分と腕が上がったであろう!」
義手を胴体に固定する革帯(ベルト)を、歯を使って締め直し、顔を上げた管狼は、その様子を隣で眺めている奉先に微笑を向けながら、剣刃が取り付けられた義手を回して見せた。
「あんたが、そんな冗談を口にするとは、笑える…!」
「わしが冗談を言っているだと?馬鹿を言うな、わしはいつでも大真面目だ!」
管狼が眉間に皺を寄せ、奉先を睨む仕草をした後、二人は声を上げて笑った。
左目と右腕を失った管狼は、二度と剣を振る事は出来ぬと、絶望の淵に立たされていた。
何度も自害を試みようとしたが、その度奉先に止められ、止む無く断念した。
考えてみれば、奉先が戻ったのはわしを助ける為であり、わしが死んでは全てが水泡に帰してしまうではないか…
そう考え直したものの、虚しさが胸を去る事は無く、酒を煽るばかりの日々を送っていた。
武術一辺倒に生きて来た管狼が、剣を奪われ、存在意義を失った事の辛さが痛いほど良く分かる奉先は、何とか彼にもう一度剣を振らせてやりたいと、職人たちに彼の為の義手を造らせた。
先端は扱い易く、手の代わりに鉤爪を取り付けてあるが、その部分は剣の鞘の様に取り外す事が可能で、中に長い剣刃が仕込まれている。
更に、奉先は管狼に左腕で剣を使う戦い方を教えた。
奉先は右腕で剣を扱う事も出来るが、本来利き腕が左である為、左腕の方が扱いが上手い。
元々剣の達人である管狼は、こつさえ掴めば上達は驚く程早く、直ぐに左腕でも充分戦えるまでになった。
「良し、では稽古の続きをしよう…!」
管狼はそう言って、座っていた木陰から腰を上げ、左手に剣を取った。
奉先も立ち上がって木陰から出ると、剣を握って管狼に対峙する。
「管狼、あんたは俺が今まで教えた弟子たちの中で、一番出来が良い。遠慮は要らぬ。何処からでも掛かって来い!」
奉先が笑って言うと、管狼はふんっと鼻を鳴らし、
「童子と一緒にするな!吠え面をかかせてやる…!」
と、素早く剣を閃かせて奉先に打ち掛かる。
左目を失った管狼には距離感が掴み辛く、真剣での打ち合いは危険が伴うが、彼は敢えてそれを望み、奉先に真剣を持たせた。
二人は広い鍛練所の片隅で、時が経つのも忘れひたすら稽古に励んだ。
夕刻、兵舎の自室へ戻ると、待ち侘びていた様に白が走り寄り、喉をゴロゴロと鳴らしながら奉先の足元に纏わり付いた。
奉先は黙ってそれを見下ろした後、目を上げて室内に佇んでいた陵牙を睨んだ。
「白を…何処かに捨てて来てくれと、頼んだであろう…!それに、勝手に俺の部屋へ入らないでくれ。」
奉先は憮然としながら、足に纏わり付く白を押し退けて部屋へ入る。
「悪かった。でも、あんなに可愛がっていたのに、突然捨てろだなんて酷いではないか…!」
威圧的なその態度に、陵牙は少し狼狽えながらも言い返す。
「俺には、もう白の面倒を見てやる時間が無いのだ…それに、俺はまた暫くここを離れねば成らぬ…!」
「また暗殺の仕事なのか?」
陵牙は物憂げな眼差しで、奉先の横顔を見詰めた。
「衛賢の息子が故郷へ戻ったらしい。そいつを始末し、財産も取り上げる。」
衛賢は"襄"という邑に住んでいた賈人だが、以前奉先は、管狼、李月らと共に彼の屋敷に押し入り、彼を殺害したうえ財産を没収した。更に、その妻と子供たちの命までも奪ったのである。
衛賢には前妻との間にも子供があり、同じく賈人となった長男は父の仕事を手伝って、西域へ馬の買い付けに行っていた。
呂興将軍は、後々報復を受けては面倒だと、彼を始末するよう奉先に命令して来たのである。
「将軍の命に、従わねば成らぬのは分かるが…最近のお前は、すっかり自分を見失っているのでは無いか?以前のお前は、そんなに冷淡では無かっただろう…!」
陵牙は、俯いた奉先の肩を強く掴んだ。
「陵牙…俺は、もう迷いは断ち切った。どんな相手であろうと、殺せと言われれば殺す…!それが例え、お前であってもな…!」
顔を上げた奉先は、鋭い眼光を帯びた目で陵牙を睨み付ける。
その冷ややかな眼差しに、陵牙は思わず寒気を感じ何も言い返せなかったが、再び部屋を出て行く奉先の背には、何処か寂しげな影が漂っている様に思えた。
-《第三章 完》-
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