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第四章 皇帝の崩御と激動の刻
第四十一話 賈人の護衛
しおりを挟む「仲穎殿、此処まで大変お世話になりました。」
「何、礼など要らぬ。わしの方こそ、良い馬を得られて感謝している。」
衛子要が深々と腰を折り、頭を下げて馬上の仲穎に感謝を述べると、仲穎は笑って答えながら、飛焔の逞しい首筋を撫でた。
乱平定後、皇甫嵩らと共に雒陽まで帰還した董仲穎であったが、彼が涼州を離れている間に、異民族たちに不穏な動きがあった為、皇帝は直ちに、仲穎に涼州へ帰還するよう命を与えた。
広宗での敗戦について、指揮官能力を疑問視する声が朝廷内で上がったが、それには平然として全く取り合わず、朝廷の文武百官らに向ける仲穎の態度とは、傲岸とも取れるものであり、この西方から来た異端者を、皆奇異な目で見ていた。
馬鹿な宦官共に支配された、このような腐った所などこちらから願い下げだ。
雒陽へ留まる事に微塵の執着も無い仲穎は、直ぐ様、帰還の準備を整えた。
「しかし…本当に此処へ残るのか?呂興の手下が、命を狙っているかも知れぬぞ。」
馬上の仲穎は、子要に問い掛けた。
仲穎は、子要に共に涼州へ行く事を提案したが、父が亡くなってからまだ一度も父の廟に参っておらず、彼はその申し出を断って、雒陽に留まる事にしたのである。
「はい、充分気を付ける積もりです。」
そう答え、子要は微笑を返した。
「そうか、では達者でな…!」
仲穎は笑顔で子要を見詰めた後、馬首を返して兵たちを振り返り、腕を上げて進軍の合図を送る。
率いられた兵たちが目の前を整列して通り過ぎ、やがて雒陽の門を抜けて去って行く姿を、子要は黙って見守った。
立派な兵舎が建ち並ぶ通りを、孟徳は足早に歩いていた。
やがて舎の一角で立ち止まり、入り口の門に掲げられた扁額を読み取る。
孟徳は晴れやかな表情でそれを見上げ、
「ここか…」
と、小さく呟くと、その門を潜って兵舎へ入って行った。
「孟徳様…!使いを寄越せば、こちらから伺いましたのに…!」
出迎えに現れた虎淵は、顔を綻ばせて孟徳に走り寄る。
「いや、一刻も早くお前に会いたくてな…!」
孟徳は微笑を浮かべ、そう言って虎淵の両肩に手を乗せた。
すると、周りにいた虎淵の同僚たちがくすくすと笑い声を上げ、少し遠巻きにしながら二人を見て来る。
それに気付いた虎淵は振り返って、彼らを睨み付けた。
「この方は、僕の主だ…!向こうへ行っていろ!」
「ああ、分かったよ。ごゆっくり、お二人さん…!」
同僚の一人がそう言うと、彼らは笑いながら二人に背を向け去って行く。
孟徳は不思議そうに首を傾げて、彼らの後ろ姿を見送った。
「あいつらの事は、お気になさらず。いつもああやって、僕を揶揄うのです。」
虎淵は少し照れ臭そうに、頭を掻いて言った。
「そうか…お前にも、冗談を言い合える仲間が増えたのだな…」
その姿を見詰めながら、孟徳は少し虎淵が遠くへ行ってしまった様な寂しさを感じた。
「先生が、広宗に…!?」
「ああ、玄徳の話しでは、宦官左豊の護衛として雇われていたが、今もまだ呂興の下に居る様だ…」
「そうですか…でも、とにかく先生がご無事で何よりです…!」
虎淵は顔を上げ、安堵の表情を浮かべると、目を細めて孟徳を見詰めた。
二人は、少し肌寒い風が吹き抜ける兵舎の廊下を、肩を並べて歩いている。
「実は以前、衛賢という賈人が殺されたのだが、彼を襲ったのは呂興の配下たちだった…奉先はその中の一人であった可能性が高い…」
孟徳はそう言うと、彼の口から次の言葉が吐き出されるのをじっと待っている、虎淵の黒い瞳を見詰めた。
「その衛賢の息子、衛子要という者が今この雒陽に居て、腕の立つ護衛を探しているらしいのだ。」
それを聞いた虎淵は、立ち止まって孟徳に向き直り、彼の肩を強く掴んだ。
「僕が、その護衛を引き受けます…!」
即座にそう答え、強い眼差しで孟徳を見詰める。
勘の鋭い虎淵は、孟徳の言わんとする所を既に読み取っていた。
「僕が…必ず先生を孟徳様の元へ、連れ戻してみせます!」
「だが、もし本当に奉先が現れたとして…あいつはもう、以前の奉先では無い。お前を殺すとは考え難いが…危険だぞ。」
虎淵は強く首を縦に振り、
「大丈夫です、僕を信じて下さい!早速、その人に会いに行きます…!」
そう力強く答えると、孟徳に向かって拱手した。
兵舎の門で虎淵と別れた孟徳が、通りを一人歩いていると、突然背後から何者かに呼び止められた。
振り返って見ると、そこには先程兵舎で会った、虎淵の同僚らしき青年が一人立っている。
「あんたが、曹孟徳か…」
青年はそう言いながら、孟徳に歩み寄った。
「毎日、虎淵は口を開けば、あんたの事ばかり話している…あんたは、あいつの自慢の主らしい…」
「………」
孟徳はじっとその青年を見詰めた。
小柄だが体格は良く、眉目の精悍な若者である。年齢は少し上か、彼らと同じ年頃に見える。
「虎淵は真面目で、一途な所がある。あんたの為なら、自分の命を擲つ覚悟を持っているだろう…あんたの勝手で、あいつを危険な事に巻き込まないで欲しい…!」
青年は、鋭い目で孟徳を睨み付けた。
「さっきの話を、盗み聞きしていたという訳か…悪趣味だな。」
孟徳は少し不敵に笑った。
「俺は、まだ誰にも仕官しておらぬし、誰かの為に命懸けで戦った事も無い故、偉そうには言えぬ…だが、あんたがあいつを死地に行かせようとするのは、断じて許せぬ…!賈人の護衛なら、あんたが自分で行けば良いだろう!」
青年は語気を荒げ、真っすぐ孟徳を指差した。
「そうだな、お前の言う通りだ。だが俺が行けば、結局、虎淵は付いて行くと言うだろう。そうなれば、虎淵は俺の事も護らねば成らなくなる…」
「そ、それは…」
青年は思わず口篭る。
「本当にあいつの事を思うなら、彼を信じ、見守ってやるのが一番ではないか…?」
「………」
彼は視線を足元に落とし、暫し黙考した後、徐に顔を上げた。
「…では、俺も虎淵と共に、その賈人の護衛を引き受けてやる!」
そう言うと、青年は孟徳に背を向け、走り出した。
「おい!お前、名は何と申す?」
孟徳に呼び止められ、青年は立ち止まって振り返った。
「俺は、文謙。楽文謙だ。」
そう言い残すと、彼は再び背を向け、走り去って行った。
「楽文謙か…良い友に巡り会ったな、虎淵…」
孟徳は微笑し、彼の後ろ姿を見詰めながら小さくそう呟き、顔を上げて何処までも広がる青空を見上げた。
足元を夥しい血が、川の様に流れている。
降り続く雨に打たれながら、彼は血濡れた剣を片手に立ち尽くしていた。
足元に倒れているのは、その家に住んでいた一家である。
その家の数名の従者たちは、果敢に彼と戦ったが、次々と室内で殺害された。
主は子供たちを連れ、妻と二人の侍女たちと共に、雨の降りしきる裏庭へと逃げ出した。
彼はそれを追って裏庭へ飛び出し、先ず逃げ遅れた侍女を斬り、もう一人の侍女も斬殺した。
追い詰められた主は、土砂の中に両膝を突き、必死に彼に向かって命乞いをした。
男は、せめて妻と子供だけは助けてくれと頼んだが、彼は問答無用に男を斬った。
更に、夫に縋って泣き叫ぶその妻と、三人の子供たちまでも手に掛けたのである。
「災いの芽は…早い内に、摘まねば成らぬ…」
彼は俯いたまま、小さくそう呟いた。
奉先は目を覚ました。
あれは夢であったか、現実であったのか、彼には朧げな記憶でしか無い。
激しく揺れる狭い車の荷台で、束の間の睡眠を取り、奉先は此処まで運んでくれた車の主に礼を述べ、僅かばかりの金子を手渡した。
襄邑へ到着すると、奉先は先ず衛賢が住んでいた屋敷へと向かった。
衛賢の屋敷は、塀に所々崩れた跡がある他は、あの時と変わらぬ佇まいであった。
門扉は固く閉じられており、裏門の方へ回ってみたが、そこもやはり閉じられている。
奉先は背負った荷を体に固く結び直し、素早く近くの木によじ登ると、そこから崩れ掛けた塀の内側へ飛び降りた。
中に人影は全く無く、開け放たれた扉や窓は、壊れたまま放置されている。
室内に入ると、争った跡がそのままになっており、荒れた室内には飛び散った血の跡も残っていた。
奉先は一頻り室内を見て回った後、今度は室外へ出ようと表門の方へ向かった。
息子の衛子要は、董卓と共に行動していたが、父の廟へ参る為に雒陽で別れ、この襄邑を目指していると言う情報が届いていた。
衛氏の廟は、ここから少し北へ向かった山中にあるらしい。
待ち伏せるなら、山中の方が都合が良いか…
そう思いながら室内を出ようとした時、表の門扉が開かれ、数名の男たちが入って来るのが見えた。
奉先は、咄嗟に室内の物陰に身を隠した。
刺客を警戒し用心した為か、子要らは予想していたよりかなり速く移動し、間道を使って此処まて辿り着いたらしい。
数名の男たちの話し声と足音が次第に近付いて来る。
まずい…!
奉先は焦りを覚えた。
彼らは辺りを警戒し、室内を隈なく調べ始めている。
発見されるのは時間の問題である。
その時、壁に開いた二尺(約60cm)程度の崩れ掛けた穴が、奉先の視界に入った。
そこはあの時、衛賢の妻と子供たちが隠れていた場所である。
壁の中に作られたその狭い通路は、脱出用に造られたものであったろう。
きっと何処かに通じている筈だ…
奉先は素早くその場を離れ、その穴の中へ飛び込んだ。
その直後、捜索をしていた者の一人が足早に室内へ入って来る。
薄暗い穴の中で奉先は息を殺し、狭い通路を奥へと進んだ。
慎重に足元を確認しながら進むと、読み通り床板が外せる場所を発見した。
静かに床板を外すと、大人一人通れる程度の道が地下へと伸びている。
奉先はそこへ入り、下から再び床板を嵌め込んで、真っ暗な地下へと姿を消して行った。
「虎淵…!どうした?!」
足早に隣の部屋へ入って行く虎淵を追い、文謙が呼び掛けた。
「いや、何者かの気配を感じたのだが…」
虎淵は、荒らされた室内を入念に調べた。
壁が崩れ、穴が開いている箇所がある。
虎淵はその中を覗き込んだが、中は暗く奥まで見通す事は出来ない。
「良し、危険は無い様だな。塀を修復して、今夜は此処へ泊まるとしよう。父の廟へ向かうのは、明日の早朝からだ。」
子要はそう言って、仲間たちに指示を与え荷を解いた。
彼らは子要の従者五名と、雇われた護衛が四名、全部で十名の小集団である。
刺客に、何時何処で狙われるか分からない。
出来るだけ外に情報を漏れ難くせねば成らず、少人数の方が都合が良い。
それに、小さく纏まり、身動きが取り易い人数にしておく方が安全だと考えた。
護衛の四名は、子要自らが選んだ人選である。
四人は共に、まだ若いが武術の腕前に優れており、素性の卑しい者では無い。
その中に、虎淵と文謙の二人も選ばれ、彼らと共にこの襄の邑までやって来ていた。
文謙が護衛を志願しようとした時、虎淵は彼に危険な事だと諌め、諦めさせようとしたが、彼はほんの腕試しだと言って頑として聞かず、結局共に護衛に選ばれたのである。
彼らは夕刻までに塀の修復を終え、室内も出来る限り片付けた。
軽く食事を取ってから、見張りを順番に決めた後、他の者は早めに就寝の床へ就く。
「刺客は本当に、現れるであろうか?」
床に敷いた筵の上に仰向けになりながら、文謙がそう呟いた。
此処へ来るまで、刺客の影は全く無かった。
このまま刺客と遭遇する事無く、役目は終わって仕舞うのでは無いかとさえ思える。
虎淵は黙って、高い天井を見上げていた。
刺客はきっと現れる…
確証は無いが、虎淵にはそんな予感がしていた。
もし、奉先が刺客であったら、雇われた護衛たちで太刀打ち出来るかと考えた。
文謙の他二名は初対面で、どちらも剣術の腕前は長けているが、奉先が相手だと考えると若干不安が残る。
文謙は、虎淵の同僚たちの中で一番腕が立つ。が、やはりどう考えても奉先には敵わぬであろう。
だが、その内の二、三人を一度に相手せねば成らなくなったら、流石の奉先でも厳しい筈である。
誰よりも早く、僕が刺客の正体を掴まねば…
虎淵の胸中は複雑であった。
まだ薄暗い内に、彼らは準備を整え、衛氏の廟がある山を目指し出発した。
廟は山の頂上に近い位置に建てられており、山道が途切れると、廟へと続く長い石造りの階段が空へ向かって伸びていた。
それ程大きな山では無いが、それでも高さは充分にある。
賈人である子要と従者たちは、日頃から国中を歩き回っている所為か、非常に健脚であり、慣れた足取りで長い階段をどんどん上って行く。
虎淵も体力には自信があったが、見た事も無い様な長い階段には、流石に音を上げそうになった。
やがて廟へ辿り着いた頃、辺りは白々と明け始め、遠く霞んで見える山々の間から、きらきらと煌めく朝日が降り注ぎ、幻想的な光景を作り出していた。
一年以上も人が訪れていなかった衛氏の廟は、すっかり荒れ果てている。
石畳は割れ、草木が伸び放題であり、石造りの門には蔦が絡まり、所々が崩れ掛けていた。
廟の中や外に不審な者が潜んで居ないか、護衛たちは手分けして捜索した。
安全が確認されると、子要は一先ず先祖を祀る為、運んで来た供物や香を持って、従者たちと共に廟の中へ入って行った。
荒れた室内を片付け、祭壇の上にそれらを並べて香を焚く。
虎淵は廟の表側の門の前で辺りを警戒していたが、香の匂いがそこまで漂って来ている。
その時、一陣の風が草木を揺らし、虎淵の頬を撫でながら吹き抜けて行った。
木々の枝が擦れ合い、ざわざわと音を立てている。
虎淵は、朝日が差し込む眩しい木々の間を見上げた。
ふと、先程まで廟の中から聞こえていた、祝詞を上げる子要の声が聞こえなくなっている事に気付いた。
嫌な予感がする…
虎淵は音を立てず、素早く廟の入り口へ近付き中の様子を伺った。
すると、入り口の扉が突然開き、子要が従者たちと共に姿を現した。
「どうした?何かあったか?」
驚いた表情で彼を見上げる虎淵に、子要は眉を顰め問い掛けた。
「いや、何も…そちらは大丈夫ですか?」
「ああ、問題は無い。無事に終わったよ。」
そう言って、子要は虎淵に微笑を向ける。
子要は従者を引き連れ、廟から外へ出ようとした。
「おい、士亥はどうした?」
従者の一人が、隣に立つ仲間に問い掛ける。
「さっきまで、そこに居たのだが…」
仲間の従者は、後ろを振り返りながら答える。
「全く…探しに行って来る。」
そう言い、従者の一人が渋々引き返して行った。
「公石と士亥はどうした?」
従者の数が減っている事に気付いた子要は、他の者に尋ねた。
「士亥がまだ中に残っているらしく、公石が呼びに行きました。」
それを聞いた子要は、やや怪訝な顔で従者たちを見渡す。
「そうか、表で待とう…」
庭の中央に集まり、子要と虎淵らは従者たちが戻って来るのを待っていた。
が、従者たちは中々姿を現さない。
その時、護衛の文謙がもう一人の護衛と共に庭へ現れたが、残りの一人が帰って来ない。
虎淵は胸騒ぎを感じていた。
「文謙、子要殿を頼む。僕が探しに行って来る。」
そう言うと、虎淵は走って廟の中へ入って行った。
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