飛翔英雄伝《三國志異聞奇譚》〜蒼天に誓う絆〜

銀星 慧

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第六章 反逆の迅雷と戦火の都

第六十ニ話 寒夜に渦巻く疑惑

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雒陽へ帰還して来た牛毅と部隊長たちを前に、董仲穎とうちゅうえいは明らかな不機嫌さで彼らを睨み付けていた。
傍らに置かれた酒杯を掴み取ると、勢い良く床へと投げ付ける。

「全く、どいつもこいつも役に立たぬ者ばかりだ…!」

牛毅を始め部隊長らは皆震え上がり、周りで見ている側近たちも体を震わせていたが、そんな中、一人だけ涼しげな顔をしている者がある。
参謀の李文優りぶんゆうである。

「奴を始末する件はどうなったのだ?それと、あの餓鬼ガキを寝返らす手筈てはずは出来ているのか?!」
「相国、焦りは禁物です。この度の出兵も、わたくしは異を唱えた筈…結果は見えておりました。」

仲穎は文優を鋭く睨んだが、彼は臆する所か眉一つ動かさずにそう答えた。

冬の間、長く停戦状態であったが、やがて雪解けとなり兵を動かせる様になると直ぐ、牛毅が丁原討伐の名乗りを上げた。
それに対し、文優は今はその時では無いと抗議し、出兵に異論を唱えたが、牛毅は丁原をあなどっており、半ば強引に兵を出撃させたのである。

「呂奉先と共通の知人を持つ者が我が陣営におります。相国の持つ宝をその者にお与え下さい。彼を丁建陽の陣へ送り込めば、必ずや成果を上げるでしょう。」

文優は静かにそう言って、細い両目を更に細めて仲穎に向かって礼をした。


すっかり日が暮れ、満天の星空に包まれた建陽の陣営では、幾つもの篝火かがりびが焚かれ、夕食を取り終わった兵たちがなごやかな雰囲気で就寝の準備を進めている。

そんな束の間の休息の中、玲華はわらで作られた案山子かかしを狙って弓矢を構えていた。
弓には三本の矢をつがえている。
弓弦ゆみづる目一杯めいっぱいに引き絞り、狙いを定めて矢を放ったが、矢は全て見当違いの方向へと飛んで行った。

「はぁ…」
と、玲華は小さく溜め息を吐きながら、肩に背負った矢筒やづつから再び矢を三本抜き取り、弓に番えた。

「初めは、二本で練習した方が良い。」

「!?」
突然背後から声を掛けられ、驚いた玲華は思わず矢を取り落としてしまった。

「奉先!驚かさないで…!」
玲華は赤い顔で振り返ると、頬を膨らませながら怒る。

その顔を見た奉先は、笑いながら玲華の足元に落ちた矢を拾い上げ、彼女の手を取ると指に二本の矢を握らせた。
玲華の背中に回り、彼女の体を自分の胸元に引き寄せながら、奉先は玲華に弓を構えさせる。

「肘が下がらぬよう、しっかりと肘を外側へ向けるのだ。」
弓を握る玲華の左肘を支え、奉先は玲華の耳元に口を寄せて囁く。
途端に玲華の耳は赤くなり、胸の鼓動が高鳴った。

「深く息を吸って…」
玲華は彼の囁きを耳元で聞きながら、静かに呼吸を整え、頭上からゆっくりと弓矢を引き分けながらげんを引き絞る。
柔らかい夜風が頬に吹き付け、玲華の長い黒髪が風になびいた。
その一瞬、辺りは静寂に包まれた様に感じた。

「今だ…!」

奉先のその声に弾かれる様に、玲華の手から矢が離れた。
矢は的に吸い込まれる様に真っ直ぐに飛んで行く。

一本は見事に案山子の胸に当たったが、一本は胴体を掠めながら後方の暗闇へ消えて行った。

「ああ、もうちょっとだったのに…!」
「玲華殿は筋が良い。練習すれば、直ぐに二本とも当てられる様になるさ!」
玲華は口惜くちおしげに呟いたが、奉先は笑って彼女の肩を叩く。

長い髪をなびかせながら、振り返った玲華は笑顔で奉先を見上げた。
彼女の大きな瞳は星の光を映してきらめいて見える。
そのまぶしさに、思わず奉先は苦笑を浮かべ、視線を反らした。

「お嬢様!」

二人は、はっとして声の方を振り返った。
玲華たちの宿舎の方から、従者のかんが走って来るのが見える。

「こんな時間まで、何をしてらっしゃるのです!?」
彼は呆れた様子で二人に呼び掛けた。

「ちょっと彼と話してただけよ。もう戻るわ。」
近付いて来る貫に向かってそう言いながら、玲華は咄嗟に弓矢を背後に隠して取りつくろった。

心配性の従者である貫は、武術の真似事をする玲華の姿を快く思っていないらしい。
奉先は、りげ無く玲華の背後から弓矢を受け取り、彼女に微笑して見せた。
彼の肩に優しく手を乗せて微笑を返すと、

「それじゃ…また明日ね。」
そう言って、玲華は小さく手を振った後、待っている貫の方へと走って行った。
奉先は暫し立ち尽くして、遠ざかる玲華の後ろ姿を見送った。

「奉先殿…!」

ぼんやりと玲華を見詰める彼の肩を、いつの間にか背後から近付いた文遠が叩く。

「今日の一騎討ちは見事だった。悔しいが、今回はお前の勝ちを認めるよ…」
そう言うと文遠は、去って行く玲華を目を細めて見詰める。

「玲華殿が、お前に惚れているのも…悔しいが認めざるを得ない…」

強く握り締めた拳を震わせて、悔しさを滲ませている文遠の横顔を、奉先はじっと見詰めた。

「文遠…お前、本当に玲華殿を愛しているのだな。」

「当たり前だ、俺はずっと彼女だけを想い続けて来た…!お前より、その想いはずっと強い!だが、それだけでは、彼女の心を掴む事は出来ないのだ…」

想いの強さは目に見える物では無いし、その量を計る事も出来ない。
誠意を持って人と接すれば、その人の心を動かす事は出来るが、好きになる気持ちと言うのは複雑なものであり、理屈だけでは無い何かが、互いの心をき付けるのである。

「もう諦めるのか。それでは玲華殿の心を掴むのは、到底無理であろうな…!」
奉先はそう言って、いきなり文遠の背中を強く叩いた。
「な、何だと…!?」
思わず前のめりになった文遠は、振り返って鋭く奉先を睨んだ。

「…玲華殿はただ、俺をあわれんでいる様に見えるがな。それが愛と呼べるであろうか…」
そう言うと、奉先はきびすを返して歩き出す。

「奉先、お前…玲華殿の気持ちを、素直に受け取められぬと申すのか…?!」
「玲華殿は、心根こころねの優しい人だ。それに、美しい…誰にでも優しく接する故、誤解を受けやすいに違いない。それが、玲華殿のさがと言うものだ…」

彼の肩を強く掴む文遠を、奉先は少し憂いのある眼差しで見詰めた。
その時、

「奉先殿、此処にいらっしゃいましたか…!」
二人の姿を発見し、暗がりからそう呼び掛けながら近付いて来る人物がある。

「誰だ!?」
文遠はその声の主を振り返ると、険しい声で怒鳴り、素早く剣把けんぱを掴んだ。

「わ、私です…!奉先殿、お忘れですか…?!」

星明かりの下、慌てる男の顔を見た奉先は、訝しげに眉をひそめた。
「あなたは…確か、李月りげつの甥の…?」

「はい、李元静りげんせいでございます。」
男は微笑を浮かべ、二人に向かって拱手した。


冷たい夜風が、兵たちの寝静まる陣営内を吹き抜け、物見櫓でうたた寝をしている哨兵しょうへいの頭上にはためく軍旗を、ばたばたと激しくなびかせていた。
風は次第に強くなり、建ち並ぶ幕舎の間を、ごうっと唸りを上げて通り過ぎる。

その不気味な音は、小さな燭台の明かりがともされた幕舎の中にも響き渡って来た。

「今日の奉先殿のご活躍は実に素晴らしく、我が主は大層感心しておいででした…!」

「ふんっ、自分の将を倒されたというのに、随分と呑気なものだな!」
李元静りげんせいの言葉に、張文遠ちょうぶんえんは鼻で笑った。

彼らは、奉先の幕舎の中で三人向き合って座していた。
隙間風に、燭台の灯がゆらゆらと揺れている。

相国しょうこくはとても寛大なお方です。例え敵であろうと、その才を認め称賛を与える。」
暴虐ぼうぎゃくと名高い董仲穎が、"寛大"とはな…」

元静は笑いながら答えたが、文遠は更に皮肉を交えた言い方で、隣に座している奉先に苦笑にがわらいを向ける。
文遠に苦笑を返し、奉先は元静に真っ直ぐ向き直った。

「それで、俺にどんな用件がおありですか?」

「単刀直入に申しましょう。お二人に、是非とも我が陣営にお越し頂きたいのです!」
元静は姿勢を正し、熱のある声でそう言うと、二人に向かって深く頭を下げた。

「?!」

二人は驚きを隠せない表情で、互いの顔を見合わせた。
やがて、奉先は瞳に暗い影を落として元静を睨む。

「俺に、父上を裏切れと申すのか…?」

滅相めっそうも有りません。これは"裏切り"などでは無く、"逆賊の討伐"でございます…!」
元静は臆する事無く、奉先を強い眼差しで見詰め返す。

「逆賊の…討伐…?」

「左様です。今、皇帝を庇護ひごされているのは、誰あろう、相国の董仲穎様なのです。皇帝を庇護する相国に敵対するという事は、漢王朝に牙をくのと同じ事。逆賊をたおし、軍を掌握なさいませ。
丁建陽配下の中で、猛将と名高いお二人が相国のもとかれれば、必ずや厚遇こうぐうされるでしょう。相国は立派な名馬や宝の数々を用意して待っておられます。どうぞ、ご決断下さい…!」

奉先の瞳に迷いが生じていると見るや、元静は更に膝を進め、畳み掛ける様にそう迫った。
文遠は眉をひそめ、両腕を胸の前で組み、目を伏せて黙考している奉先を見詰める。
やがて奉先は目を上げ、

「元静殿、確かに…あなたの言う通りであろう…!」

そう答えると、小さく微笑んだ。

やがて空に暗雲が渦巻き、月が雲の陰に隠れて行く。
強い風に、篝火の炎は吹き消されんばかりに激しく揺れていた。

「それでは元静殿、お気を付けて。」
奉先は文遠と共に、幕舎を出て陣営を去る元静を見送った。
彼は二人に深く礼をし、乗って来た馬にまたがり軍門を潜って出て行く。

幕舎の陰から、そんな彼らの様子をいぶかしげに見詰めている者の姿があった。
篝火の明かりに照らし出されたのは、玲華の従者、かんである。

この時代、敵同士であっても血縁者や知人、同郷の者が敵陣を訪れる事は珍しい事では無い。
敵との内通や寝返りの交渉は常に行われており、それは本人の倫理や道徳観にゆだねられるものである、とはいえやはり歓迎されるものでは無い。

貫は黙って奉先と文遠の姿を見詰めていたが、やがて暗闇の中へ消えて行った。

建陽の幕舎にはまだあかりともされている。
卓の上に置かれた「」の記号を、建陽は眉をひそめて見詰めていた。
「卦」は、古代から伝わる吉凶を占うものである。

「天に、いかずち…やがて、星はちる…」
建陽は深く溜め息を吐きながら、まぶたを閉じた。

「叔父様。」
その時、幕舎の外から呼び掛ける声が聞こえ、玲華が顔をのぞかせる。

「玲華、こんな時間まで何をしておる?」
「ごめんなさい…何だか、眠れなくて…」
幕舎の入り口に立つ玲華に、建陽は微笑みを浮かべながら立ち上がると、彼女の肩を抱いて表へ連れ出した。

強く冷たい夜風に、玲華の体は吹き飛ばされそうな程であったが、建陽のたくましい腕が彼女の体をしっかりと抱き留め、支えるその胸から温もりが伝わって来る。
叔父、建陽の温もりは、いつでも彼女に安心感を与えてくれた。

「玲華、奉先とはどうだ?」
建陽は玲華の肩を優しく撫でながら問い掛けた。

「弓を教えて貰ったわ。奉先はすっかり弓の名手ね!」
「ああ、あいつは実に武術に秀でている。やがては、天下一の武将となるかも知れぬ…!」
頬を紅潮させながら答える玲華を、目を細めて見詰める建陽は、彼女の肩を強く抱き寄せた。

「だが、少しは女心を理解せねば成らぬな…!」
「お、叔父様…!」
玲華は赤い顔で建陽を見上げる。

「玲華、お前はわしのたった一人の可愛い姪だ…お前には、幸せになって欲しい…」

建陽は玲華を胸に強く抱き締めながら、憂いのある眼差しでそう呟いた。

「叔父様…」
建陽の温かい胸に頬をうずめ、玲華はそっと瞼を閉じた。
風になびく玲華の長い髪と、ひるがえる建陽の外套がいとうの影を照らし出す月明かりは、やがて厚い雲に隠され、辺りは暗闇に包まれて行った。
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