飛翔英雄伝《三國志異聞奇譚》〜蒼天に誓う絆〜

銀星 慧

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第六章 反逆の迅雷と戦火の都

第六十八話 出生の秘密

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陳叔紡ちんしゅくぼうが現れるほんの数ヶ月前、妻の青蘭せいらんは生後間もない男児を亡くしていた。
青蘭に預かった赤子をいだかせると、悲しみに暮れていた彼女は、自らの乳をその赤子に与え、愛おしげに見詰めて涙を流した。

叔紡は半年経っても現れず、配下の者に調べさせた所、彼はあれから間もなく命を落としていた事が分かった。

夫婦は、預かったその子を"せん" と名付け、我が子の様に可愛がり育てる事にしたのである。
彼が曹家に連れて来られた時、その手には小さな手巾しゅきん(ハンカチ)が握られていた。
"先"と名付けたのは、強く握ったその拳を開いてみると、手の皺が"先"という文字に読み取れた事からそう名付けた。

長男の麗蘭れいらんが誕生したのは、それから凡そ二年後の事であった。
その時、巨高は

先は…我ら夫婦をあわれみ、麗蘭を護る為に天が与えたのだ…!

そう確信し、先を麗蘭の従者にする事を決めた。

それから、先には学問や他の何よりも、武術を優先的に覚えさせ、武術に名高い師の下で学ばせた。
期待した通り、彼は武術を学ぶ同じ年頃の子供たちの中でも抜きん出ており、十代に入ると大人相手でも引けを取らない程の腕前に上達した。
そうして彼には、自らの命を懸けても麗蘭を護る事を教え込んだのである。

巨高が一通り話し終えた後、ちょう夫人を見ると、彼女は床に手を突いたまま、黙って俯いていた。
が、やがて顔を上げて巨高を見詰めた後、潤んだ瞳から涙をほとばしらせたかと思うと、床に平伏す様に顔を伏せ、肩を震わせながら声を上げて泣いた。


嗚呼ああ、何と言う事…!あの子は…あの子はきっと…わたくしの子に他ならない…!」


「ご夫人、良ければ貴女あなたの事を、話して聞かせてもらえますか?」
巨高は号泣する彼女の肩を優しく撫で、彼女の手を取って顔を上げさせた。
夫人は赤い目を向けると、流れ落ちる涙を着物で拭いながら声を絞り出すようにして語り始めた。


彼女は十代半ばで後宮こうきゅうへ入り、皇帝の側室として閨室けいしつ(寝室)を与えられた。
身分としてはそれ程高くはなく、七番か八番目の側室であったらしい。

それでも、美貌の持ち主である彼女に皇帝は直ぐに惚れ込み、彼女を寵愛ちょうあいして一人の女児をもうけた。
それが娘の雪月せつげつである。

その後一年を待たず、彼女は再び身篭みごもったのだが、その頃、自身に子供が無い為、皇后の地位を危ぶんでいた梁女瑩りょうじょえいが、妊娠した側室を死に追いやったり、側室が産んだ男児を取り上げては殺害していると言う噂が密かに流れていた。

女瑩は非常に嫉妬深く、執念深い性格で傲慢であった。
当時、彼女の兄である梁冀りょうきが専横を極めており、女瑩は皇帝までもがはばかる程の存在となっていたのである。

夫人は男児を産んだが、皇后の魔の手は彼女にも忍び寄り、ある夜、夫人は産まれたばかりの我が子を抱いて後宮を抜け出した。

暗がりの中赤子を抱え、警備兵の目を盗んで宮城きゅうじょうの城壁へ登った彼女は、足元に広がる雒陽の町並みを、絶望に包まれた瞳で眺めていた。

この世界の何処に、自分とこの子が逃げられる場所が有ると言うのか…!

そう思い暗い瞳で見下ろすと、彼女の腕に抱かれ、何も知らずすやすやと眠っている赤子が不憫に思えて仕方がなかった。

「許して、坊や…私は…お前を護ってやる事が出来ない…!それならいっそ、此処から飛び降りて…二人で一緒に死にましょう…!」
夫人はそう覚悟を決めると涙を流し、我が子の頬に顔を寄せて強く抱き締めたまま、城壁から身を投じようとした。
だが次の瞬間、何者かが彼女の背後へ走り寄り、その身体を抱き留めた。

「待て!何をしておる…!」
振り返って見ると、そこには一人の男の姿がある。

「何があったかは知らないが、幼い子を道連れにするとは…!」
「この子は、皇后様に命を狙われているのです…!この子を奪われるくらいなら…私も一緒に死んだ方が良い…」

男は驚いた顔で、涙に濡れる彼女の瞳を見詰めた。
彼はこの下をたまたま通り掛かり、城壁の上に佇む彼女を見付けたのである。
ただならぬ空気を感じ取り、急いで城壁へ続く階段を駆け上がって来た。

「貴女は…陛下の側室か…」
そう呟くと、男は腕に抱かれた赤子を覗き込む。
「では、この子は陛下の…」

「皇后様は、側室の産んだ男児を全て殺し…私の元へも、産まれた子を出せと迫っているのです…!」
「そうであったか…」
男は暫し考え込み、彼女の腕から赤子を受け取ると、

「この子は、私が預かりましょう。ほとぼりが冷めるまで、何処かへ隠しておきます。この子が戻った時、貴女が居てやらねば。貴女は、死んでは成りません…!」

男はそう言って彼女の肩を掴み、強く揺すった。
夫人は茫然ぼうぜんとしながら男を見上げていたが、やがて小さく首を動かしてうなずき、愛おしい我が子の頬を指で優しく撫でた。

城壁から降りた二人は、彼女が抜け出した後宮の門へと向かった。
「では、貴女は急いで後宮へお戻りを…!」
男は短くそう告げると、急ぎ宮殿から出ようとした。

「お待ち下さい…!」
夫人は彼を呼び止め走り寄ると、自分の懐から小さな手巾を取り出し、それを赤子の手に握らせた。

「これは、陛下が私に贈って下された物です。これを母と思って…!」
手巾には、朱い糸で鳳凰ほうおうの柄が刺繍ししゅうされている。
眠っていた赤子は目を開き、手巾を手に掴むと、それを無意識であろうが口へと運び、母の乳を吸うようにしゃぶった。

赤子を胸にいだいて走り去る男の後ろ姿を、夫人は何処までも見詰めていたが、やがて溢れ出る涙で視界が霞み、その姿を捉える事が出来なくなってしまった。

「嗚呼…どうか、無事でいて…!」

夫人はその場に泣き崩れ、冷たい石畳の上に彼女のこぼす涙が染み込んで行った。


翌日、彼女の元へ、側近である宦官を引き連れた梁女瑩が現れた。
彼女は冷ややかな眼差しで夫人を見下ろし、

「お前の産んだ赤子を何処へ隠した?直ぐに出しなさい…!」
と威圧的に命じる。

「赤子は、死にました!昨夜、私が自ら埋葬したのです…!」
夫人はそう言って、女瑩を睨み付けた。

「生意気な小娘が…!」
女瑩はそう怒鳴ると腕を振り上げ、夫人の頬を思い切り平手打ちした。
夫人は床へ崩れ落ちたが、殴られた頬を押さえ、潤んだ瞳で鋭く女瑩を睨んだ。

「赤子を探し出しなさい!必ず何処かへ隠している筈です…!」
側近たちを振り返って命令を下すと、彼らは室内を捜索し始める。
女瑩は再び、その様子を黙って見詰めていた夫人に向き直り、

「私の目をあざむこうとしても無駄よ…!」

そう言って睨み付ける顔は、正に鬼の形相であった。

彼女の閨室で赤子を見付けられなかった女瑩は諦めず、雒陽の外へも追っ手を放ったが、結局その行方は掴めなかった。
それから間もなく女瑩の悪事は皇帝の知る所となり、結局、彼女は怒った皇帝に皇后を廃され、悲嘆に暮れ鬱悶うつもんの中で死んでしまう。

その後、程なく皇帝も崩御し、その時に皇后だった竇妙とうみょうが、皇帝の側室を皆殺しにしようとしたが、周りからいさめられ、それを断念。
夫人は一命を取り留めたものの、庶民に落とされてしまった。

夫人は、皇帝の子を逃がした事を誰にも打ち明けず、赤子を連れ出した男の顔も名前も知らなかったが、彼が戻って来ると信じ待ち続けた。
だが男が現れる事は無く、虚しく月日は流れたのである。

やがて彼女は、最早もはや赤子は死んでしまったであろうと諦めていたが、心の片隅では、まだ一縷いちるの希望を抱き続け、今まで生きて来た。

「これが、奉先が此処へ預けられた時、握っていた手巾です…必要な時が来るかも知れないと、取っておきました。」

巨高はそう言って、夫人の前に小さな手巾を差し出した。
それは古ぼけて色褪いろあせてはいたが、朱い糸でしっかりと鳳凰の刺繍が縫い付けられている。

それを見た夫人は再び大粒の涙を流し、手巾をその手に握り締めて嗚咽した。


「それでは、奉先は…亡き桓帝かんていの、遺児いじという事ですか…!?」

孟徳は瞠目どうもくし、父巨高の顔を見上げた。

「彼女の話を信じるとしたら、そういう事になる…」
「父上は…その話を、信じておられますか?」
巨高は小さく唸って、難しい顔で腕を胸の前に組むと、

「確証は少ないが…辻褄つじつまは合う。だが、この事は迂闊うかつに外部に漏らすべきでは無いであろう。もし今この事を知れば、朝廷は再び混乱し、董卓は奉先を殺そうとするかも知れぬ…それに、夫人からは彼に真実を伝えないで欲しいと頼まれたのだ。」
「何故です?!」
「自分がいては、彼の足手纏あしでまといとなる。あの子が生きている事が分かっただけで充分だ、と申されてな…」
「そうですか…」
「母親とは、そんなものだ…彼女は産みの親だが、あの子はわしと青蘭の子も同然だからな。」

夫人は涙を流しながら、最後に
『あの子の事を、どうか頼みます…』
そう言って巨高に深々と頭を下げ、この屋敷を去って行ったのである。

「この話は、わしとお前だけで留めておく事にしよう。奉先には、決して語っては成らぬぞ。」
「……はい、かしこまりました…」
孟徳は困惑を隠しきれない表情ではあったが、一先ず納得してみせた。

実の子が母親に会えぬなど、酷い話しではなか…
母親の温もりも愛情も知っている孟徳としては、理屈は理解出来ても、感情としては複雑である。
奉先を母親に会わせてやりたい…
強くそう思った。

「孟徳様、大丈夫ですか?」
彼は無意識だったが、浮かぬ顔付きで廊下を歩いていたらしい。
待っていた虎淵が、そう声を掛けながら近付いて来た。

「ああ、何でも無いさ。姉上の所へも、挨拶をしに行かねば成らぬ。久し振りだし、お前の妻となる人だからな…!」
笑って虎淵の肩を叩くと、彼は顔を赤らめ恥ずかしそうに頭を掻いた。



その頃、冀州きしゅう袁本初えんほんしょは、東郡とうぐん太守たいしゅ橋瑁きょうぼうが各地の刺史ししや太守へ董卓打倒の為送った決起の檄文げきぶんに応え、兵を集めていた。
更に本初は、幽州にいる劉虞りゅうぐ、字を伯安はくあんと言う人物を新皇帝に擁立ようりつしようと諸侯らに提案していた。

劉虞は、後漢の東海恭王劉彊りゅうきょう(光武帝の長男)の末裔まつえいに当たる。

それを聞いた孟徳は愁眉を寄せ、
「皇帝は今も健在であるのに、新たな皇帝を立てるなど…王朝に対する忠義に掛けるばかりか、それでは董卓と同じではなか…」
そう呟いた。

「ではお前は、董卓が立てた皇帝を正当だと認めるのか?!」
本初は目をいからせ、目の前に座した孟徳を睨み付ける。

孟徳は陳留ちんりゅう郡に滞在し、そこで父の縁戚えんせきである夏侯かこう氏の協力を得て募兵を行った後、冀州の本初の元を訪ねていた。

「そう言う訳では無い。俺が言いたいのは…少帝、弘農王こうのうおうがまだご健在だと言う事だ。」

孟徳の言葉に、本初はふんっと鼻で笑って答える。
「董仲穎も馬鹿では無い、弘農王を担ぎ上げようとする者の存在を、既に察知してある筈だ。弘農王が殺されるのも時間の問題であろう…!」

「先ずは弘農王を、仲穎の魔の手から救い出す策を練るべきではないか?」
ややむっとした表情を見せる孟徳に、本初は内心苛立っていた。

孟徳の行動は何時も慎重過ぎて、結局徒労とろうに終わるのだ…
とはいえ、孟徳の言う事にも一理はある。本初は苛立ちを抑え、

「良いだろう…では、お前が弘農王を救い出し、我々の元へ連れて来てくれるか?」
そう言いながら、孟徳に冷ややかな微笑を向ける。

「分かった。俺が行こう…!」
本初の冷笑を一蹴いっしゅうする様に、孟徳は強く頷いてそう答えた。


「冀州の袁本初が諸侯を集め、動きが活発になりつつあります。こちらも先手を打っておく必要が有るでしょう…」
参謀の李文優りぶんゆうの言葉に、仲穎も大きく頷き、

「噂によると、本初は幽州の劉伯安を新皇帝に擁立しようとしているらしい…それこそ、わしの思う壺よ。奴らを逆賊として討伐する大義を、自ら与えてくれるのだからな…!」
そう言って声を上げて笑った。

「心配なのは、弘農王の存在でしょう。」
「弘農王は既に皇帝を廃されておる。今更、何を憂える事が有ると申すか?」
仲穎は笑いを収め、眉間に深く皺を寄せるとその言葉に首を傾げた。

「皇帝を廃されたとはいえ、奴らはそれを認めてはおりません。弘農王を担ぎ上げられれば、そちらに傾倒する者も出るでしょう。早い内に、始末を付けておく事です…」
表情を変える事無く答える、文優の意中を察した仲穎は、口元を歪めて微笑を浮かべる。

「良かろう、奉先を呼べ…!」

仲穎は早速、呼び寄せた奉先を前にめいを告げる。
「お前に、わしへの忠義を示す機会を与えてやるぞ。弘農王の封地へ向かい、弘農王を連れ戻して来るのだ。万が一、敵に奪われる様な事態になれば、殺しても構わぬ…!」

仲穎の前に膝を突いた奉先は、顔を上げて仲穎を真っ直ぐに見詰めると、

「畏まりました…!」
そう言って拱手し、素早く立ち上がった。


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