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第七章 魔王の暴政と小さき恋の華
第八十一話 崖上の謀略
しおりを挟む彼らの前に立ちはだかった胡文才は、奉先を睨みながら、ふんっと鼻を鳴らした。
「美少女を隠しているであろう!その娘は、わしの物だぞ!」
美少女…?貂蝉の事か…
そう思い至った瞬間、奉先は、はっとして彼女を乗せた車を振り返った。
直ぐ様車に走り寄り、掛けられた簾を取り払う。
「!!」
そこに乗っていた筈の貂蝉と俊の姿が消えている。
「奉先殿!あれを…!」
混乱する民たちを落ち着かせる為、走り回っていた士恭の叫び声に振り返り、彼が指をさす方向へ視線を向けた。
すると、人波の中を貂蝉の腕を引いて走っている俊の姿が見える。
「俊…!痛い、手を放して…!」
貂蝉は彼に腕を引っ張られ、無理矢理走らされている。
彼女の悲痛な叫び声にも振り向かず、俊は一心不乱に後方へ向かって走り、やがてそこで待っていた大男の元へと辿り着いた。
「げへへっ…小娘、また会ったな!」
貂蝉は息を呑んで、近付くその男の影を見上げた。
下衆な笑い声で舌舐めずりをし、彼女を見下ろしているのは牛毅である。
それと認めた奉先は、彼に侮蔑を込めた眼差しを向け、呆れた口調で言った。
「またあんたか…!懲りない男だ…」
牛毅は此方を睨む奉先を、不敵な笑いを浮かべながら睨み返す。
「馬鹿め!まんまと騙されおったな。この小僧はわしの奴隷で、何でも言う事を聞く犬なのだ…!」
貂蝉の腕を掴んで引き寄せ、牛毅が顎を刳って俊に下がるよう合図を送ると、彼は俯き、黙ったまま牛毅の後ろへ姿を隠した。
「幼い子供を使って人を騙すなんて、あんたは汚い最低の男よ…!」
「何だと、この小娘が…!」
牛毅に向かって貂蝉が罵声を浴びせると、牛毅は目を瞋らせて彼女の胸ぐらを掴み、反対の腕を振り上げ殴りつけようとした。
「おいっ!貂蝉を殴ればどうなるか、貴様…覚悟は出来ているのだろうな…!!」
奉先の怒声は冷静なものであったが、ぞっとする程の鋭い眼光で牛毅を睨み付けている。
彼を振り返った牛毅は思わず寒気を覚え、大きく舌打ちをすると、今度は腰に佩いた剣を抜き放ち、貂蝉を羽交い締めにしてその細い首筋に当てた。
「わしらに抵抗すれば、小娘の命は無いぞ!さっさと武器を捨てて、兵たちを下がらせろ!」
「………っ!」
理不尽な要求に奉先は強く歯噛みをしたが、彼は黙って手にした戟と腰に佩いていた宝剣を外し、地面に投げ捨てた。
「ほ、奉先殿…?!」
それを見た士恭は狼狽えたが、奉先に目で促され、彼も仕方なく自分の武器を外す。
奉先と士恭は武器を手放し、圧倒的に不利な状態で敵に前後を遮られてしまった。
その様子を見ていた文才は愉しげに含み笑いをしながら自分の顎髭を撫で、次は欲望を湛えた眼差しを、赤い毛並みを美しく輝かせている飛焔に向けた。
「良し、その馬を連れて来い!」
彼の命令に応えた部下が剣を手に飛焔に歩み寄ると、飛焔は赤い目を吊り上げ、前脚で激しく地面を掻いて威嚇する。
「…飛焔、落ち着け。大丈夫だ…」
そう言って、奉先が手で制する仕草をすると飛焔はブルルッと一度大きく首を振ったが、直ぐに落ち着きを取り戻した。
文才は乗っていた馬から降りて飛焔に歩み寄り、満足げな顔でその背中を撫でる。
「こいつは立派な馬だ、気に入ったぞ!これからは、わしが可愛がってやるからな!」
それから振り返って再び奉先と士恭を見ると、
「此処は空気も綺麗で、何より眺めが素晴らしい…!此処を貴様らの墓場にしてやる。感謝しろ…!」
そう言って口を歪めてにたりと笑い、武装した仲間の兵たちに合図を送って一斉に彼らを取り囲ませた。
兵たちは槍や戟を構え、何重にも囲みを作って二人を崖の方へと追い詰める。
「くっ……!!」
二人は強く歯噛みをし、互いに背を向け合いながら敵を睥睨した。
奉先と士恭に向けられた無数の槍と戟は、彼らの首筋や腕に押し当てられ、更には足や胴体の動きまでも封じる。
「わはははっ!どうした、もう降参か?!跪いて命乞いをして見せろ!」
既に二人の足元は断崖の際である。
文才は侮蔑の眼差しを浮かべて高笑いをすると、更に彼らに屈辱を強いる。
奉先は、視線を牛毅に取り押さえられている貂蝉に送った。
彼女は唇を強く噛み締め、赤い目をして奉先をじっと見詰めていた。
その瞳は泪で潤み、輝いている様に見える。
「奉先…っ!」
その時、震える唇を動かして貂蝉は叫んだ。
「お願い、逃げてっ!!」
「貂蝉…っ!?」
奉先は、思わず瞠目して彼女を見詰めた。
次の瞬間、
「ぎゃあああっ!な、何しやがる…っ!!」
牛毅がけたたましい叫び声を上げる。
見ると、剣を握っていた彼の腕に俊が飛び付き、その手に噛み付いていた。
「い、痛てぇ…っ!放せ!この餓鬼…っ!」
噛み付かれた手からは血が流れている。
思わず牛毅は貂蝉を突き放し、振り上げた腕で思い切り俊の頭を殴りつけた。
貂蝉が地面に倒れた瞬間、奉先と士恭は取り囲んだ無数の槍を瞬時に掴み、体を素早く回転させながら柄をへし折ると、疾風の如き速さで呆気に取られる兵士たちを次々と打倒し、武器を奪い取る。
それはほんの一瞬の出来事で、二人は瞬く間に囲みを突破し、敵を地面に叩きのめした。
牛毅に力任せに殴らた俊の体は、激しく地面に叩き付けられ、そのまま動かなくなってしまった。
「くそ!よくも…っ!」
噛み付かれた手の痛みに顔を歪めながらも、牛毅は掴んだ剣を振り上げ、足元に倒れた俊の頭上からそれを振り下ろそうとした。
「やめて!!」
貂蝉が叫び、立ち上がると同時に牛毅に飛び掛かる。
「うっ…!」
勢い良く貂蝉に飛び付かれた牛毅は体勢を崩し、大きくよろめいて後方へ足を踏ん張った。
その足元は崖の真上である。
衝撃で地面に亀裂が走り、彼の足元は突然崩れ落ちた。
「何…っ?!う、うわあぁっ!!」
慌てた牛毅は、咄嗟に何かを掴もうと腕を伸ばして地面を弄り、倒れた貂蝉の着物の裾を掴んだ。
「きゃあぁぁっ!!」
貂蝉の体は牛毅に引き摺られ、共に崖下へ滑り落ちる。
斜面に生えていた木の枝を咄嗟に掴んだ貂蝉は、必死にその枝にしがみ付いた。
「ああ…っ!!」
だが、牛毅が彼女の着物を掴んだまま放さず、宙吊りになった彼女の腕には激しい衝撃が加わる。
その余りの重さに貂蝉は悲痛な声を上げた。
牛毅は貂蝉の着物を引っ張りながら、崖を攀じ登ろうとしている。
「こ、小娘!手を放すなよっ!!」
必死に歯を食い縛ったが、彼女の細い腕の力は最早限界に達しており、遂に耐え切れず枝から解けてしまった。
「あっ…!!」
その瞬間、貂蝉の腕は伸びてきた手に強く掴み取られる。
彼女の腕を掴んでいたのは、崖から身を乗り出した奉先であった。
今にも引き千切れそうな彼女の腕を強く引っ張ると、貂蝉は苦痛に顔を歪め、泣き出しそうな目で彼を見詰めた。
「貂蝉…!頑張れ…!」
「奉先殿!!」
その時、襲い来る敵を槍で次々に打ち倒していた士恭が彼に向かって叫び、その声に振り返ると、肩を怒らせ此方へ向かって来る文才の姿が目に入った。
貂蝉の腕を片手で掴み、身動きが取れない奉先に近付いた文才は、いきなり彼の横腹を勢い良く蹴り上げる。
「ぐっ……!!」
奉先は思わず呻いたが、掴んだ手を放さず、痛みに顔を顰めつつも不敵に笑みを浮かべながら見下ろす文才を睨み付けた。
「兄貴!そんな事より、先にわしを助けてくれ…!」
崖の下から牛毅が腕を伸ばし、必死に文才に助けを求めている。
すると文才は、ふんっと彼を一瞥し、
「お前が油断をしておるからそんな事になるのだ、馬鹿者!自力で這い上がって来い…!」
と、呆れた口調で叱り付けた。
それを聞いた牛毅は忽ち情けない顔になる。
「そ、そんなぁ…」
文才は剣を鞘から抜き放つと、
「貴様の命運も尽きた様だな…!」
込み上げる笑いを堪えた様に頬を引き攣らせ、口を大きく歪めながら更に太々しく言い放つと、奉先の頭上に剣を閃かせて一気に彼の体をその刃で貫こうと振り下ろす。
だが突然、彼の腕は何者かにがっしりと掴み取られた。
「?!」
振り下ろそうとした腕がびくともしないばかりか、自分の背後に巨大な影が蠢いている事に気付いた文才はぞっとし、青褪めながら肩越しにそちらを振り返る。
そこには赤い鬣を逆立て、赤い瞳に怒りを湛えた飛焔の姿があった。
「ひっ…」
文才は思わず息を呑んで声を上擦らせる。
飛焔は長い鬣の間から、鋭く眼光を光らせたかと思うと、次の瞬間には彼の腕を咥えたまま、太く逞しい首を大きく振り上げた。
すると驚くべき事に、文才の巨体は軽々と持ち上がり、まるで木の葉の様に宙を舞って敵兵と戦う士恭の頭上を越え、殺到する敵兵たちの上に勢い良く落下して行く。
「うっ…うわあああ…っ!!」
悲鳴を上げながら落ちて来る文才の巨体をまともに食らい、敵兵たちは一気にその場に薙ぎ倒されてしまった。
「く、くそっ…!」
貂蝉の着物を掴んだまま、崖の斜面を攀じ登ろうとする牛毅は、必死に岩場に足を掛けたが上手く行かず、何度も足を滑らせている。
「ふんっ…!!」
奉先は貂蝉の体を引き上げようと、掴んだ左腕に全身の力を込めた。
その間も上下から強く引っ張られ、彼女は既に意識を失いかけている。
「しっかりしろ、貂蝉…!!」
貂蝉はその声に僅かに反応し、大きな泪の雫を浮かべた瞳を上げて彼を見上げる。
その時、彼女の着物の裾から鈍い音が聞こえたかと思うと、次の瞬間には牛毅が掴んだ部分の布が裂け、そこから一気に破れ始めた。
「ひっ…!ま、待て!やめろーーーっ!」
牛毅の悲愴な叫び声も虚しく、遂に着物の裾は引き千切れ、
「ぎゃあああ……っ!!」
と、断末魔の悲鳴を上げながら、牛毅は崖下へ真っ逆さまに転落して行った。
忽ち重さを失った貂蝉の体は、一気に崖の上へ持ち上がり、彼女の体を素早く持ち上げると、奉先はその胸に引き寄せ強く抱き締めた。
「うわああぁぁんっ…!!」
彼の胸に強く抱き着きながら、安堵した貂蝉は声を上げて泣き出してしまった。
「もう大丈夫だ…」
奉先もまた安堵の表情で、彼女の震える細い肩を優しく抱き締め、胸に埋めた小さな頭をそっと撫で下ろした。
飛焔に放り投げられた文才は、倒れた兵士たちの上で意識を取り戻し、大きく頭を振りながら体を起こす。
「ひっ…?!」
顔を上げた彼の目の前に、鋭い刃が迫っていた。
恐る恐る視線を上へ向けると、そこには方天戟を手に、怒りの表情で見下ろす奉先の姿がある。
「ま、待て!待ってくれ…!わしは、牛毅の野郎に唆されただけだ!」
文才は慌ててその場に跪き、奉先に向かって頓首した。
「わしらは味方同士であろう?!本気でお前を殺そうなどと思ってはおらぬ!だから、この通りだ!許してくれ…!」
必死に弁解する文才を、奉先は冷ややかな眼差しで見下ろしていたが、やがて目に多少の憐れみを浮かべながら、彼に向かって厳しい口調で言い放つ。
「もう二度と、俺たちに手出しはせぬと誓え…!」
「わ、分かった…!二度とお前たちには関わらぬと誓う…!」
額に脂汗を滲ませながら即座にそう答え、文才は立ち上がると仲間の兵たちを顧みて、直ぐに退却の命令を送る。
兵を纏め、慌ててその場から立ち去る文才らを奉先は黙って見送った。
「俊…!しっかりして!」
貂蝉の叫び声に振り返り、奉先は地面に倒れたまま動かなくなった俊に走り寄る。
泪を流して彼の体に取り縋っている貂蝉の肩をそっと引き離すと、奉先は俯せになった俊の体をゆっくりと起こして腕に抱えた。
「俊、死んじゃったの…?」
青白い俊の顔を覗き込み、貂蝉はしゃくり上げながら奉先に問い掛ける。
すると、小さく呻き声を上げながら、俊は意識を取り戻して重そうな瞼をゆっくりと上げた。
自分を覗き込んでいる貂蝉に気付くと、驚いた様に目を見開く。
「………!」
それから奉先の顔を見ると、突然彼の腕から飛び起き、俊は走り出した。
「あ、待って…!俊!?」
貂蝉が呼び止めたが、彼は振り向かず真っ直ぐに崖に向かって走り、そこから身を投じようとした。
崖から飛び出そうとしたその瞬間、奉先が彼の着物を掴んで強く引き寄せ、彼の体を抱き留めた。
「何をする?!死んで俺たちが許すとでも思うか?!」
「………!」
俊は赤い目をして、奉先の顔を恐る恐る見上げる。
奉先は険しい表情で俊を鋭く睨むと、彼の両肩を強く掴んだ。
「命を捨てる勇気が有るなら、どんな事でも出来るであろう?!お前はこれから一生、何が有っても命を掛けて貂蝉を護ると誓え…!」
奉先の言葉に、俊は驚きと戸惑いを浮かべたが、やがて顔を伏せて俯く。
それから暫し沈黙した後、徐ろに顔を上げた俊は、じっと奉先の目を見詰め、
「…ます…約束、します…」
と、消え入りそうな声色で答えた。
奉先が彼に向かってにっこりと微笑み、その肩を強く叩くと、俊はぎこちない表情ではあったが、そこで始めて笑顔を見せた。
幻想的に霞む美しい山並みは、何時しか傾き掛けた夕陽に赤く輝き、その光は泪に濡れた貂蝉の瞳に差し込んで、きらきらと煌めいている。
二人の姿を見詰め、輝く彼女の笑顔は美しく眩しかった。
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