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第九章 中原の覇者と魔王の片鱗
第百五話 長安の陥落
しおりを挟む蔡邕(伯喈)の屋敷には、美しい一人の娘が住んでいる。
彼女は伯喈の一人娘で、父親の才能を色濃く受け継ぐ“才女”との誉れが高かった。
娘の名は蔡琰、字を文姫と言う。
文姫がまだ幼い頃、深夜に伯喈が弾く琴の音を寝所から聞いていた彼女は、切れた弦が何弦目であるかを見事に言い当てたと言われている。
そんな彼女の元へ朝廷からの使者が訪れ、その報告を聞いた彼女は信じられない出来事に卒倒した。
「まさか…!父上が…?!」
蔡伯喈は朝廷に赴き、事の顛末を知って思わず言葉を失い、深い嘆息を漏らした。
皆が董卓誅殺計画が成功した事を喜び合う中で、彼一人が暗い表情を浮かべた事に不審を懐き、王子師がそれを見咎めた。
「伯喈殿、貴方は仲穎からの信頼が厚く、非常に厚遇されておられた。天が彼を誅殺したと言う事実は、貴方にとっては喜ばしい事では無い様だ。」
そう言われ、驚いた伯喈は慌てて釈明した。
「私は…何も、その様な訳では…!彼の暴政を、私には正す事が叶わなかった…ただ、余りに急な出来事で、上手く言葉に言い表せなかったのです…」
だが、子師は更に彼に詰め寄り、
「私遇を懐かしみ、その死を痛ましく思うとは、逆賊同然である…!」
途端に怒りを露わにすると、廷尉に命じて伯喈を取り押さえさせ、即刻彼を収監し死罪を言い渡したのである。
その頃、伯喈は漢史の編纂に当たっており、黥首(額に入れ墨を入れる刑)、刖足(足切りの刑)の刑を受けてでも死罪を免じ、漢史の編纂を続けさせて欲しいと懇願したが、子師は許さず、
「嘗て、武帝は司馬遷を殺さなかったばかりに、誹謗の書が世に流れる事となった。幼主の左右で佞臣に筆を執らせるべきではない。」
そう答えて突っ撥ねた。
何故、彼がそれ程までに伯喈を死に追いやりたかったのか、彼らの間には見えない確執が存在していたのであろうか。
彼が「春秋左氏伝」にある、“崔杼弑君”の故事を知らぬ筈は無いが、子師は漢史の中で伯喈に悪く書かれる事を恐れていたのかも知れない。
太尉の馬日磾をはじめ、多くの士大夫らが死罪を思い留まるよう彼を諌め、漸く子師が悔いて死罪を取り下げようとした矢先、伯喈は鬱悶の中で獄死してしまったのである。
その後、馬日磾は深く慨嘆すると、
「才ある文士や史書を蔑ろにするとは、王公の世も長くは続くまい…」
そう言って、彼の政権が長くは続かぬ事を予見した。
この出来事は、王子師の人望を地の底にまで落とす結果となったのである。
長安へ帰還した奉先は、子師の屋敷を訪れ彼と面会したが、この数日間で子師は心労により、すっかり窶れた様に見受けられた。
奉先は、仲穎の元配下たちに対して恩赦を出すべきだと彼に主張したが、子師は難色を示し、
「それでは却って彼らに疑念を抱かせる事になる。」
そう言って、それを拒否した。
更には、仲穎の蓄えた財産に関して、公卿や将校らに配ってはどうかと提案すると、子師はまたも却下したのである。
子師殿は俺の事を…いや、今は誰一人信じられなくなっている…
子師にとって、奉先は一介の暗殺者に過ぎず、激務に追われている彼にしてみれば、政治の何たるかを知らぬ者の言葉を聞き入れる余裕など無かったのであろう。
そうした子師の態度から、次第に彼に信頼を置けなくなっていったのは奉先だけではなく、文人や名士らからも信望を失っていった。
屋敷を後にした頃には日は傾き、奉先は門を潜りながら、憂いの眼差しで沈む夕日を見詰めて長嘆したのであった。
結局、胡軫や楊定は子師に赦され、彼に従ったが、仲穎が死亡した時、長安に比較的近い司隸弘農郡に駐屯していた中郎将の牛輔は、奉先に攻められ敗退していた。
その時点で旧董卓軍は既に離散仕掛けており、豫州の陳留郡、潁川郡に駐屯していた李傕、郭汜、張済らは、王子師に恩赦を求めた。
「今年は既に一度、胡軫らに対して恩赦を出しており、再び出す訳には行かぬ。」
しかし、子師はそう言って彼らの求めには応じなかったのである。
この堅固な態度に、「王允は涼州人を皆殺しにするらしい。」と言う噂が流れ、李傕らは自軍の并州出身者を皆殺しにするなど混乱を極めた。
これは、子師が并州出身者であった為である。
交渉が決裂し、彼らは進退窮まったかに思われたが、軍師である賈詡は、
「ここで逃げても後々潰されるでしょう。ならば“董公の仇討ち”を掲げ、集めた兵で長安へ攻め込むべきです。」
と主張した。
事実、長安を逃げ出した仲穎の兵たちは、次第に彼らの元に集まって来ており、その数は十万近くに上っている。
仲穎は長安の市民らには恐れられていたが、配下の諸将や兵たちからは慕われており、その統率力(カリスマ性)は誰もが認めざるを得ないものであった。
この軍師の進言に従い、李傕らは長安へ攻め込む決断を下すと進軍を開始した。
李傕と郭汜は同僚で幼馴染みであり、共に牛輔の軍に所属していた。
軍師の賈詡は、字を文和と言い、涼州武威郡姑臧県出身である。
董卓が雒陽へ入ると、彼は太尉掾、平津都尉に任命され、次いで討虜校尉へと昇進すると、陝県に駐屯する牛輔軍の所属となった。
李傕らが長安に襲来する報に触れ、王子師は先に降った徐栄、胡軫、楊定らを差し向け、彼らを撃退させようと試みた。
しかし、この戦で徐栄は戦死。
胡軫と楊定は、少なからず名士である彼らに対する子師の横柄な態度に辟易していた上、出陣前に彼から嫌味を言われた事を恨みに思っており、新豊まで進軍した辺りで李傕らに寝返ってしまう。
そこから更に兵を掻き集めながら進軍した李傕らの軍は、長安へ到達した頃には既に十万を超える大兵団となっていた。
堅く門を閉ざす長安城を大軍で取り囲み、李傕と郭汜はそれぞれ城門を攻め立てた。
長安の北側から攻撃を仕掛ける郭汜の軍勢を前に、奉先は自軍の精鋭部隊を率いて立ち塞がると、
「軍勢を下げよ、貴殿に一騎討ちを所望したい…!」
そう言って、郭汜に対して一対一の戦いを申し出た。
此処で仲穎を殺した張本人である呂奉先を斃せば、“董公の仇討ち”の名目も果たせ、長安奪還の足掛かりも掴めるとあれば、正に一石二鳥である。
郭汜は武勇に優れており、一騎討ちには自信があった。
斯くして、二人は互いに軍勢を下げ、馬を駆って一騎討ちに挑んだ。
奉先は仲穎との死闘で肩を負傷していたが、それでも力の差は歴然であり、数合の打ち合いで郭汜は落馬仕掛け、奉先が突き出した方天戟に、あわや体を貫かれるかと言う所で、味方の兵士に助けられ自軍の元へと逃げ帰った。
長安には堅牢な城壁があったが、攻め寄せる大軍にいつまでも持ち堪えられるとは思われず、籠城から八日目には呂布軍の中から内応者が出て、城門が内側から開かれてしまった。
城内へ大軍が雪崩込んで来ると、あちらこちらで虐殺が蹴り広げられ、最早死守する事は困難であると判断した奉先は、仲間を連れて城外へ逃走する決断を下した。
混乱の中、妻の雲月を護衛に護らせた車に乗せ、奉先は貂蝉と俊を伴って王子師の屋敷へと向かった。
門は開け放たれており、屋敷の家人らは脱出の準備を急いでいる最中である。
奉先は屋敷に足を踏み入れると、脇目も振らず子師の居室へ向かった。
「司徒殿、長安は既に陥落寸前。一刻の猶予も有りません。今すぐに此処を脱しましょう…!」
薄暗い居室に一人佇み、彼の呼び掛けを背中で聞いていた子師は、慨嘆に堪えぬ面持ちで、
「国家を安定させる事だけが、わしの願いであった…幼い帝を残して逃げる訳には参らぬ。この様な事態を招いたのは、わしの不徳の致すところ。この期に及んで、わし一人助かりたいなどとは願わぬ…」
そう言って長安に留まる決意を語る。
その時、
「子師様…!」
居室へ走り込んで来たのは、奉先の後を追い掛けて来た貂蝉であった。
「子師様、私たちと一緒に逃げましょう!」
貂蝉は子師の足元へ走り寄り、彼の着物の袖を強く引っ張る。
「貂蝉…」
子師は振り返り、稍々困惑を瞳に宿して彼女を見下ろしていたが、やがて愛おしい目付きで彼女の小さな頭を撫でると、胸に込み上げる感情を押し殺す様に声を震わせた。
「わしの事を心配してくれるのか…お前は、本当に良い娘だ。奉先殿と一緒に逃げなさい。」
彼の顔を見上げていた貂蝉は、忽ち瞳に大きな泪の粒を浮かべたかと思うと、彼の胸に顔を押し付けて強く抱き着く。
震える貂蝉の小さな細い肩を撫でながら、子師もまた瞳に泪の雫を浮かべていた。
「子師様…どうかご無事で…!」
濡れた瞳を上げ、唇を小さく震わせる貂蝉の柔らかな紅い頬を、そっと指先で撫で下ろし、子師は小さく頷くと、彼女を奉先の腕に抱かせる。
「………」
奉先は暫し黙して、子師の赤い瞳を見詰め返していたが、やがて貂蝉の肩を抱いて彼の居室を後にした。
屋敷の門を潜り、待っていた俊と貂蝉を護衛の車に乗せた後、飛焔の背に跨り後ろを振り返って見ると、門の下に子師が立ち黙って彼らを見送っていた。
その後、宮殿へ向かった子師は帝を連れ出すと、戦火を避け宣平の城門へ避難して、楼閣に籠もった。
李傕らの軍が宣平門の下まで迫り取り囲むと、楼閣から帝が姿を現し、
「お前たちは、何をする積りなのか?」
と、か細く震える声で問い掛ける。すると彼らは皆平伏し、
「我々はただ、陛下に忠を尽くし、董公の仇討ちを果たしただけの事です。これは、謀叛などではございません…!」
と言って、弁明した。
遂に進退窮まり、王子師は自ら門を降りて彼らに捕らえられ、長安に残った一族郎党数十名が捕縛された上、悉く処断されたのであった。
王子師は霊帝の代、腐敗し切った朝廷で宦官らと激しく対立し、時には無実の罪を被せられながらも、その清廉さを貫き通した偉大なる賢人であった。
彼の死に、長安中の市民が泪を流し、悲しまぬ者はなかったと言われる。
数百騎を率いて長安の南、武関から逃走した奉先は、数日後、長安近郊に駐屯していた張文遠、高士恭らと合流し、彼らは久々に顔を合わせ語り合った。
「ここから、并州へ向かわれるのですか?!」
「今、俺の元にいるのは殆どが元々父上の兵で、并州出身の者が多い。」
幕舎の中で問い掛ける士恭に向かって、奉先は頷きながら答えた。
彼は一度大きく迂回して并州を目指し、養父丁原の元部下たちを故郷へ帰らせようと考えていた。
鋭敏な文遠には、彼の考えが直ぐに理解出来た。
「それで、并州で軍を解散させる積りなのか?」
「ああ、そうだ。これ程の兵を引き連れて、放浪する訳には行かぬであろう…」
それに対し、士恭は首を捻って更に問い掛ける。
「しかし…軍を解散した後、奉先殿はどうなさるのです?」
すると奉先は、少し目を細めて微笑を漂わせ、
「俺には、行かねば成らぬ所があるのだ。」
と、白い歯を見せて答えた。
それを聞いた士恭は、膝を奉先に進め、彼を強く見詰めるとこう言った。
「奉先殿、お忘れですか?!俺は貴方に一生付いて行くと誓った筈です…!俺は奉先殿が何処へ向かおうと、共に参ります…!」
彼の一途な眼差しに、奉先の胸には熱いものが込み上げる。
すると、文遠も小さく溜め息を吐きながら彼の肩を叩いた。
「奉先…俺たちには、お前が必要なのだ。皆お前を信じ、此処まで付いて来たのだぞ…!今更、仲間を見捨てる気か…?!」
そう言われると、奉先は少し戸惑いを顔に浮かべる。
現実的に考えて、全てを失い逃亡する彼に兵たちを養う事は困難で、自分と家族だけでも厳しいであろう。
「一先ず、南の袁公路を頼ってはどうか?仲穎を斃した英雄を、冷遇する事はあるまい。」
難しい表情のまま俯く彼に、文遠がそう提案し、不安を一蹴する様に笑う。
「奉先殿、我々が付いております!心配には及びませんよ。」
更に士恭が明るく声を上げるのを聞くと、漸く奉先の顔にも笑顔が戻った。
「そうか…そうだな。では早速、袁公路の元へ向かおう…!」
こうして、彼らは荊州へ向けて進路を南に取り、袁公路の元へと赴く事にしたのであった。
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