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第九章 中原の覇者と魔王の片鱗
第百十二話 徐州大虐殺
しおりを挟む曹孟徳が大軍を擁して徐州へ攻め込んで来た。
その数、凡そ五十万と言う大軍である。
その報に触れた陶恭祖は、忽ち青褪めた。
一体、何故そんな事になったのか…?!
話に依れば、孟徳の父曹巨高を州境まで送って行った筈の張闓が、泰山近くの山寺で巨高の一行を襲い、彼の従者や護衛の者など、合わせて凡そ百人近くを惨殺したと言う。
その後、張闓は行方を晦まし、その足取りは掴めていなかった。
巨高はかなりの財産を持っていたはずで、その財に目が眩んだのであろうか。
兎も角、恭祖の領地内で配下の者に殺された事実は、曹孟徳の激しい怒りを買ったのである。
恭祖は曹操軍の侵攻を食い止めるべく兵を派遣したが、どの戦場でも撃破され、次第に追い詰められた。
中でも、孟徳の従兄弟、曹子孝の率いる最強の騎兵隊は、後に現れる“虎豹騎”の原型とも呼べるもので、その攻撃力は凄まじかった。
曹操軍は彭城、取慮、睢陵、夏丘などの戦場で数十城を落とし、その勢いは留まる事を知らず、徐州の地を破壊と殺戮で蹂躪した。
この時、曹操軍は男女問わず数十万人もの民を殺害。
更にその被害は家畜にまで及び、犬や鶏までも皆殺しにしたと言う。
その為、人々や家畜の死骸によって泗水の流れが堰き止められたと言われた程であった。
文字通り徐州での一連の行動は、“大虐殺”と呼ぶに相応しい悲惨な有り様で、この事で孟徳が徐州の民に恐怖と恨みの種を撒いた事は間違い無い。
だが、この非道とも思われる暴挙を、配下の誰もが諌めるに至らなかったのは、皆が“復讐心”で一丸となり、それを言える空気や余裕が無かった為である。
父と虎淵を殺された孟徳の怒りとは、それ程までに激しかった。
この頃、公孫伯圭から援軍として派遣されて来た劉玄徳を小沛に駐屯させ、豫州刺史に推挙して丹陽兵四千人を与えるなどして、陶恭祖は彼を自領に引き留めていた。
「恭祖殿、曹孟徳の怒りを鎮めたければ、貴方の首を差し出せば済む話しです」
その日、恭祖と面会した玄徳は真顔でそう言った。
「そ、そんな…っ!?」
忽ち恭祖は青褪め狼狽える。
「ふっ、冗談ですよ…!私が行って、必ず曹操軍を食い止めて見せましょう。」
玄徳は笑って答えたが、内心では半ば本気であった。
曹操軍に追い詰められた陶謙軍は、琅邪郡を退き、東海郡の郯県で漸く踏み止まっていた。
彼は完全に曹操軍に怖気付き、領内を荒らされ自領の民が虐げられるのをただ怯えて見ているだけなのである。
彼としてみれば、自分の配下とは言え張闓が独断で曹巨高らを殺害したのであって、孟徳に責められるのは逆恨みとしか思えないだろう。
しかし、主ともあろう者が部下の行動に責を負えぬとは情けない話である。
身を挺してでも自領の民たちを護るのが当然であろう…
玄徳が胸に抱く思いとはそれである。
曹孟徳の行動は度を越しており、憤りを感じるのは事実だが、陶恭祖の身勝手さにも心底呆れ果てていた。
とは言え、恭祖は仲間であり、それを助けるのが道義である。
孟徳の率いる主力部隊は既に目と鼻の先にまで迫っていた。
玄徳は兎も角、関雲長、張翼徳らと共に、与えられた兵を率いて直ぐ様、小沛から出撃したのであった。
玄徳の率いる兵は一万にも満たなかったが、それに引き換え孟徳の兵は、主力部隊だけでも五万を下らない。
曹操軍を迎え撃たんと陣を構えて待っていると、やがて遠く丘陵上に大軍の巻き上げる砂塵が見て取れた。
「兄者…曹孟徳の兵を、此処で食い止める事が出来ると思うか?」
雲長が馬を寄せ、真っ直ぐに地平を眺めている玄徳に問い掛けた。
「いいや…恐らく無理であろう…孟徳は恭祖殿の首を取るまで、侵攻を止める事はあるまい。」
「我々の兵力では焼け石に水だな。当たって砕けるだけか…」
「だが、何とか食い止める手を考えねば成らぬ…」
そこへ、二人に馬を寄せて来た翼徳が少し太々しく言った。
「俺が行って、目を覚ませと奴を打ん殴ってやろうか?」
態度にこそ怒りを表してはいるが、内心では孟徳の事を一番心配しているのは彼なのである。
それを良く分かっている玄徳は、振り返って翼徳を見ると、白い歯を見せながら笑って答えた。
「それは良い…!だが、それなら俺に任せろ…!」
「玄徳殿!曹操軍が現れましたぞ…!」
物見の兵が叫ぶのを聞いて、玄徳は再び丘陵の方を顧みた。
砂塵で空を覆いながら、丘を超えた曹操軍が地鳴りを響かせ次第に近付いて来る。
“曹”の旗を掲げるその黒い影は見る間に数を増やし、大地を埋め尽くす程であった。
玄徳は先鋒の精鋭部隊を率い、曹操軍の行く手に立ち塞がった。
やがてその存在に気付いたのか行軍が停止し、暫くすると曹操軍から早馬が駆け付けて来た。
「劉玄徳殿の兵とお見受けする、速やかに道を開けよ!然もなくば、容赦無く攻撃を開始する!」
使者が大声で呼び掛けると、玄徳も前へ進み出る。
「生憎だが、此処から先へ通す訳には行かぬ。俺を斃したければ、お前自ら来いと孟徳に伝えよ…!」
彼もまた大声で答えると、使者は太々しく彼を睨んでから、馬首を返して曹操軍へ引き返して行った。
「孟徳様、敵の挑発に乗ってはなりません…!」
使者からの話を聞き、眉を顰めながら曼成が強く戒めたが、孟徳は配下たちを顧みると、
「大丈夫だ、心配は要らぬ…!」
そう答え、数十騎の護衛部隊を率いて劉備軍の方へと向かった。
丘の上には冷たい強風が流れている。
“曹”の文字が書かれた軍旗を激しく靡かせ、孟徳が護衛と共にこちらへ近付いて来るのが見えた。
「久し振りだ、元気そうだな孟徳…」
玄徳は少し目元に微笑を漂わせたが、孟徳は眉一つ動かさず彼を見詰めている。
「俺の行く手を阻む積もりか?」
暗い瞳に底光りを宿し、孟徳は只管に冷淡な口調で言った。
孟徳と最後に別れたのは雒陽である。
あれから幾年月が流れたであろうか、あの頃の孟徳とは似ても似つかぬ冷酷な表情である。
それを見ると、玄徳は稍々眉宇を翳らせた。
「孟徳…お前、最近自分の顔を鏡で見た事はあるか…?これ以上、人々に危害を加えるのは止めろ。誰の為にも成らぬぞ…!」
「俺を止めたければ、陶恭祖と張闓の首を持って来い…!そうすれば、今すぐにでも兵を引いてやる…!」
稍々語気を荒げる孟徳を、玄徳は鋭く睨み付ける。
「張闓の行方は我々も探している。だが、恭祖殿や民に罪は無いであろう…!一先ず兵を引いて、冷静になってはどうだ?!」
「…………」
孟徳は暫し黙して彼を見詰めたが、やがてゆっくりと息を吐きながら言った。
「…虎淵が、死んだ…」
「ああ…それは我々も聞いている…残念だ…」
「俺にとって虎淵は、義弟の様なものだった…!義兄弟を持つお前なら、義弟を殺されて黙ってはおられぬであろう?!ならば、俺の気持ちが解る筈だ…!」
「ああ、勿論だ!愛する者を失う哀しみは、俺も良く解っている…!だが、憎しみに捉われていては、何も得られないぞ…!」
二人は暫し馬上で睨み合った。
やがて玄徳は瞼を閉じ、深く息を吐きながら再び瞼を上げると大声を放つ。
「どうあっても兵を引かぬなら、此処で俺を斃して行くと良い…!」
そう言うや否や、玄徳はひらりと馬から舞い降り、腰の双剣を抜き放って孟徳の前に立ちはだかる。
それを見ると孟徳は直ぐ様呼応し、護衛たちが止める間も無く馬を降りた。
「…良いだろう、望む所だ…っ!」
腰に佩いた宝剣を抜き放ち、玄徳に対峙すると素早く構える。
配下と護衛たちが固唾を呑んで見守る中、二人はほぼ同時に地を蹴った。
互いの剣が激しく打つかり合い、火花を散らす。
二人は吹き荒ぶ風の中で、激しく数合打ち合った。
玄徳は双剣を巧みに操り、それを打ち返す孟徳に反撃の隙きを与えない。
戦場では、義弟の雲長や翼徳たちの活躍が目覚ましく、自ら進み出て剣を振るう事は殆ど無くなったが、“剣聖”と呼ばれていた頃と変わりなく、彼の剣術は今でも見事であった。
その素早い玄徳の攻撃を躱し、孟徳も負けじと食らい付く。
彼らは降龍の谷で一度剣を交えた事があるが、あの頃より孟徳の武術の腕も格段に上がっており、その上、彼には絶対に引けぬと言う強い意志と、本気で玄徳を斃そうと言う気概が感じられる。
二人の打ち合いはほぼ互角であり、一瞬の隙を見せた方の負けである。
白熱する二人の頭上を、やがて黒い暗雲が覆い始め、辺りは次第に薄暗くなって行った。
玄徳の放った一撃が、孟徳の鎧の胸当てを斬り付け、着物を切り裂く。
その瞬間、同時に突き出された孟徳の刃は玄徳の肩を斬り付け、鎧の留め具を破壊し、着物を赤く染めた。
二人は瞬時に互いに剣を引き、素早く体を回転させながら後方へ飛び退る。
「はぁ、はぁ……っ!」
共に激しく肩で息をし、再び剣を構えて睨み合った。
次の一撃で勝負を決する…!
二人は共にそう思った、その時である。
「孟徳様ー!大変な事になりました…っ!!」
孟徳の後方から、李曼成が馬を飛ばして此方へ駆け付けて来るのが見える。
だが孟徳は振り向かず、玄徳を鋭く睨み据えたままであった。
駆け付けた曼成は青褪め、激しく息を切らせている。
「兗州で反乱が起こり、濮陽が落とされました…!」
「……っ!?」
思わず瞠目した孟徳は、漸くゆっくりと首を動かし、視線を後方へ向けた。
「反乱の首謀者は、陳留太守の張孟卓との事です…!」
「孟卓が…俺を裏切ったと言うのか…?!」
孟徳は言葉を失い、呆然と立ち尽くした。
張孟卓は、彼にとって最も信頼できる友であった。
何かあれば張孟卓を頼るよう、孟徳は家族に言付けてある。
そんな彼が自分を裏切るなど、余程の事が無ければ有り得ないであろう。
反乱の首謀者は他に居る…!
鋭敏な孟徳は、直ぐにそう思い至った。
濮陽には夏侯元讓が居た筈で、今は何より彼の身を案じた。
「急ぎ兗州へ引き返し、濮陽を奪還せねば成らぬ…!」
孟徳は呟くと、振り返って再び玄徳を睨んだ。
「お前との決着は、またいずれ付けよう…!我々は一先ず兵を引く…恭祖に命拾いしたなと言っておけ…!」
太々しく言い放つと、孟徳は素早く馬に跨りその場から走り去って行った。
大洪水の水が次第に引いて行く様に、曹操軍の大兵団が退却を始め、大地に再び緑が広がって行く。
玄徳はその場に立ち尽くし、強風に煽られながら、遠ざかる彼らの姿をただ黙して見送った。
曹孟徳の徐州侵攻で、数十万に上る人々が犠牲になった報を受け、兗州で彼の留守を守っていた将たちは皆衝撃を受けた。
中でも、孟徳から直接東郡の守備を任されていた陳公台は、激しい絶望を覚えていた。
彼にとって、曹孟徳とは実に理想的な主であった。
清廉で正義感が強いと言うだけではなく、激情家だが芸術と学問をこよなく愛し、彼には知的な面白さ(ユーモア)が備わっている。
そんな彼が、父と配下の仇討ちを掲げ、民を蔑ろにしているとは信じられなかった。
公台は強く打ち拉がれ、それから毎日一人苦悶の日々を送っていた。
嘗ては、戦にも「礼」があった。
昔、宋の襄公が楚と戦った時、楚軍がまだ川を渡り切っていないのを見た公子の目夷が、「敵が渡り終える前に先制攻撃をするべきだ」と進言した。
しかし、襄公はこう言った。
「君子たる者は、他人の困難に漬け込み、苦しめるものでは無い。」
結果、進言を退けた襄公は楚軍に破れ、人々はそれを
“ 宋襄の仁 ”
と呼び、役に立たない哀れみを掛けた事を嗤い、彼の傲慢さを謗ったと言う。
だが、公台はそれを美徳だと感じる人間なのである。
戦は、勝てば何でも良いと言う訳ではなく、仇討ちの為なら何をしても良いと言う訳でも無い。
今…孟徳様を止められるのは、あの人を於いて他には居ない……っ!
やがて青白い顔を上げ、薄暗い居室に灯る小さな燭台の灯りを見詰めると、公台は胸に強い決意を抱いたのであった。
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