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第九章 中原の覇者と魔王の片鱗
第百十七話 劉玄徳との再会
しおりを挟む鉅野で曹孟徳との戦いに敗れた後、袁公路の元へ援軍を求めに向かった張孟卓が部下の裏切りに遭い殺害されるという予期せぬ事態に見舞われる等、行く宛を失った奉先らは再び流浪する事となった。
当初、再び袁公路を頼ろうと考えていたが、陳公台や高士恭らは彼を快く思っておらず、それに反対した。
「袁公路は猜疑心が強く傲慢な男です。彼の元へ向かっても、また前と同じ事になるでしょう。」
「奉先様、それならば…劉玄徳を頼っては如何です?彼は最近、陶恭祖から徐州を譲り受け、民衆からの評判も良い様です。」
士恭と公台に言われ、奉先は低く唸りながら両腕を組むと、二人を前に薄暗い幕舎の中で暫し黙して考え込んだ。
彼らの言う事は尤もである。
本来なら、陶恭祖が後事を託す相手として選ぶのは袁公路だった筈である。
しかし、公路は事実上揚州を制しているとはいえ、政治能力が低く民衆からの評判も悪かった。
そこで恭祖が白羽の矢を立てたのが劉玄徳だったのである。
玄徳が徐州を得たのは、運が良かったからだと言えるが、彼は時勢を読む事に非常に長けている。
幾度と無く彼と対峙した事のある奉先から見れば、彼は侠気があり魅力的だが、同時に神秘的で何処か面妖さを帯びた薄気味悪さを覚える。
それは本能的に、彼に対して絶対的な信頼を置けない事を感じ取っているのであろう。とはいえ、今は他に頼れる相手が居ないのが事実であった。
「已むを得ぬ、劉玄徳を訪ねてみるか…」
奉先は小さく溜め息を吐きながら、そう呟いた。
劉玄徳が駐屯している小沛へ向かっていると、その途中、丘へと続く街道の上に待ち構えている何処かの軍勢の姿が目に入った。
良く見れば、“劉”の文字の描かれた軍旗を靡かせているのが分かる。
自ら兵を率いた劉玄徳が、彼らを出迎えに来ていたのである。
「良く来たな、奉先。お前と会うのも久し振りだ、元気そうではないか…!」
愛馬飛焰に跨がる奉先に馬を寄せ、玄徳は白い歯を見せて笑った。
「あんたが自ら出迎えてくれるとはな…」
「当然だ、お前が孟徳の背後を突いて濮陽を攻めたお陰で、俺たちは命拾いしたのだ…!あの時は本当に危なかった…!」
玄徳が笑って彼の肩を叩くのを、奉先は少し憂いの眼差しで見詰めながら彼に馬を並べて歩いた。
小沛の居城へ入ると、早速、玄徳は奉先と家族たちの為に立派な屋敷を用意してくれたのであった。
「しかし、お前が孟徳に牙を剥くとは…なかなかやるではないか…!」
その日、奉先の屋敷を訪れた玄徳は、彼の居室で面会し酒を酌み交わして陽気な声で笑った。
「あんたこそ、孟徳殿の侵攻を妨げたそうではないか。彼とは親友だったのでは無いのか?」
「何、たまにはそうやって灸を据えてやれば良いのだ!」
そう言うと、玄徳は酒杯を傾け中身を一気に煽る。
「孟徳は強くなる事を欲していた。やがては、強大な権力を手に入れようとするであろう…」
呟く様に語る彼の言葉に、奉先は少し表情を曇らせた。
父の巨高と最も信頼する従者の虎淵を失い、孟徳は自分を見失っているものだとばかり考えていた。
だが、優秀な青州兵を揃え最強の軍隊を作り上げ、他の勢力に対抗し得る力を手に入れた事で、孟徳は初めから徐州征服を目論んでいたのではないかと思える。
それに、今の孟徳の周りには自分よりもずっと忠誠心が厚く、命懸けで彼を護ろうとする者たちが大勢いた。
「この戦で…俺はもう、孟徳殿に必要とされておらぬ事が分かった。」
深く溜め息を吐きながら項垂れる奉先に、玄徳は憐憫の眼差しを向けた。
「そんな事は無いだろう。そう卑屈になっては成らぬ。」
「そうでは無い…いや、確かにそういう僻みも少しは有るのかも知れない…だが、孟徳殿に俺は必要無い。それだけは、はっきりと分かるのだ…以前、あんたが言った事があったな…」
ふと顔を上げ、奉先は玄徳を見詰めた。
「俺と孟徳殿は、共にいるべきでは無いと…」
「そう言えば、そんな事を言った記憶も有るな…だが、あれはその時の状況による物で、今はあの時とは大きく状況が異なっている。一概にそうとは言えぬ…」
玄徳は、ふっと小さく笑った。
「そうか…だが、あんたが言った事が間違いだったとは思わぬ。孟徳殿は、俺が考えている以上に大きな存在となってしまった…今はもう、俺の手の届かぬ所に居る…」
「…………」
目の前に置かれた酒杯に視線を落とし、独り言の様に呟く奉先に、玄徳は黙って微笑を向けていたが、彼のその目は笑っていない。
「それなら、もう孟徳の元へ行くのは諦めるか…?それならそれで良い。お前が今孟徳の元へ行けば、恐らく敵対していた袁本初と公路は、手を結んででもお前たちを潰しに来るに違いない。そうなれば共に破滅する事になるだろう…」
瞳の奥に、鋭い眼光を宿して語る。
不意に、玄徳は再び小さくふっと笑った。
「だが…孟徳は何と言うかな?」
「大切なのは、ただ生き存える事か?人は必ず死ぬ。どう生きるかが大切なのだ…と、きっとあいつならそう言うに違いない…」
「そうか、そうだな…」
その言葉は、奉先の胸を強く打った。
考えてみれば、孟徳は昔からそうだった。どんな逆境にも屈する事無く、知恵と勇気を以て、己で道を切り拓いて来たのである。
孟徳殿は、まだ俺を必要としてくれるであろうか…?
不安を抱える彼の胸に、僅かな希望の光が差し込む。
微笑を以て彼の様子を眺めていた玄徳が、徐に口を開いた。
「実は、俺が今日此処へ来たのは他でもない。お前に頼みたい事があってな…」
「頼みたい事…?」
奉先は少し怪訝な眼差しを上げ、彼を見詰め返す。
「ああ、お前には豫州刺史になってもらい、この小沛の城を任せたいのだ。」
「この城を、俺に譲ると言う事か…?!」
奉先は思わず瞠目した。
「俺は下邳へ向かい、袁公路の侵攻に備えねば成らぬ。公路は、自分こそが徐州を収めるべきだと考えている。奴にしてみれば、俺が徐州を掠め取ったのだと思っているに違いない。いつ攻められてもおかしくない状況だからな…」
玄徳は、彼に信を置く事を示そうとしているのか、小沛を無償で与えると言うのである。
しかし玄徳の真意を計り兼ねる奉先は、その場での即答を避け、軍師の陳公台に相談して後日返答する旨を伝え、その日は彼と別れた。
「その話を受けるべきです。」
奉先から話を聞いた公台は、即座にそう答えた。
「劉玄徳が陶恭祖から豫州刺史に任命された時、豫州には既に、袁公路から任命を受けた郭貢と言う人物がおりました。刺史の座を巡って対立していた矢先、後ろ盾の恭祖を失ってしまった。徐州では歓迎されており、彼にとっては徐州刺史の方が魅力的に決まっています。」
「なる程、劉玄徳は俺に豫州を押し付けたかったと言う訳か…それでも、受けるべきだと思うか?」
公台の読みは凡そ当たっている。
豫州は袁公路の勢力圏内であり、豫州を維持し続ける為には対立を続けなくてはならない。
その上、徐州も狙われているとあっては、逼塞を免れないのである。
「はい。何しろ、殿は未だご自身の領地を持てず、放浪している状態に変わりありませんから。一刻も早く地盤を築く事を考えねば成りません。」
「ううむ、痛い所を突いて来るな…」
奉先は頭を抱え、唸りながら苦笑した。
「本当は、徐州を手に入れられれば一番良いのですが…この際、一先ず小沛を貰って置きましょう。」
公台もまた苦笑を交えて答えたが、直ぐに瞳の色を変えて奉先を見詰めた。
「劉玄徳の言う通り、袁公路が徐州を攻めるのも時間の問題かと思われます。長安を脱出した皇帝の行方が分からなくなっているとの情報があり、それを機に、公路が皇帝を名乗ろうとしていると言う噂が密かに流れているのです…」
「袁公路が皇帝を…?!」
「孫文台が雒陽から持ち出した玉璽を、息子の孫伯符が公路へ贈ったそうです。玉璽を握っている公路は、自分こそ皇帝に相応しいなどと、側近らに漏らしていると聞き及んでおります。」
しかし、実際には側近たちからの猛反対を受け、皇帝を自称する事は断念している。だが、公路が権力者の座を狙っている事だけは確かであった。
公路が揚州を制していた頃、朝廷からの勅を受け、揚州刺史に任命されていた劉繇(字を正礼)と言う人物が曲阿で勢力を保っていた。
劉正礼は、前漢の高祖の孫で斉の孝王、劉将閭の直系の子孫という由緒正しい家柄出身で、父や伯父も優秀な役人であった。
兄は兗州刺史を務めていた劉岱である。
朝廷から振武将軍の官を与えられ、数万の兵を擁する勢力となると、袁公路と敵対する様になり、彼を支持していた呉景と孫賁が袁術派である事から彼らを追放し、孫家とも敵対する事となった。
そこで公路は、新たな揚州刺史を任命し、呉景と孫賁に命じて劉正礼を攻撃させたが、一年以上を経ても攻略する事が出来ずにいた。
正礼の元には、同郷の者で太史慈、字を子義と言う武勇に優れた若者が訪れ、その幕下に入っていたが、その頃、徐州から逃れて来ていた人物鑑定で有名な許子将が子義を余り良く思っておらず、彼の目を気にして子義を使い熟す事が出来なかったと言われる。
許子将とは、雒陽にいた頃の曹孟徳を『乱世の奸雄』と評したあの人物である。
袁公路は邪魔な劉正礼を何とか排除したいと考えており、孫伯符に兵を預けて曲阿の攻略を彼に委ね、自身は徐州攻略に乗り出した。
公路は、袁術軍の先鋒の呉景を広陵太守に任命し、直ぐ様、広陵攻撃の命を下したのであった。
徐州の本拠地は“郯”であったが、玄徳は本拠を“下邳”に置く事にした。
下邳は郯より西南に位置しており、曹孟徳と袁公路の侵攻に備える目的もあるが、同時に泗水、沂水、沐水といった河川に挟まれ、守りやすい地形だった事もある。
袁公路の侵攻の報を受けた玄徳は早速、袁術軍迎撃の軍備を整え、下邳から出撃して淮水の北岸へ布陣する計画を立てた。
この時、玄徳は下邳城の守備を関雲長に任せる積もりであった。
「雲長兄貴、下邳の守備は俺に任せて兄者と一緒に行ってくれ。」
所が突然、張翼徳がそう言い出した。
「いいや翼徳、お前は兄者と共に戦へ向かえ。下邳の留守は俺が守る。」
「大丈夫だ、ここの守備は任せてくれ!雲長兄貴と兄者は息が合う。袁術軍を見事に追い払うのは、兄者たちの方が良い。」
翼徳は、雲長に華を持たせてやりたいと考えているらしい。
二人の様子を黙して見詰める玄徳を振り返り、翼徳は彼に歩み寄った。
「兄者、俺を信じて此処を任せてくれないか?!その代わり、袁術軍を見事に撃ち破り、朗報を届けてくれ!」
翼徳は自信満々にそう言うと、瞳を大きく輝かせる。
その瞳を暫し見詰め、玄徳はやがて微笑を浮かべた。
「…そうか、分かった。では此処はお前に任せよう、翼徳。必ず下邳を死守してくれよ。」
玄徳がそう言って彼の肩を力強く叩くと、翼徳は嬉しそうに頬を紅潮させた。
こうして、玄徳は雲長と共に兵を率い、袁術軍を迎え撃つ為、下邳を離れたのであった。
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