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第九章 中原の覇者と魔王の片鱗
第百十八話 下邳城攻防戦
しおりを挟む袁公路の侵攻を食い止める為、劉玄徳が下邳を離れた事は、小沛の呂奉先の耳にも届いていた。
「劉玄徳は主力を率いて淮水の北側へ陣を敷き、袁術軍を迎え撃つ構えを取っております。」
「それでは…今、下邳には殆ど兵が居ないと言う事か…」
偵察からの報告に高士恭が呟くのを見て、陳公台は奉先を振り返り、更に付け加えた。
「下邳には、玄徳の義弟の張翼徳が残って留守を守っているそうです。」
それを聞いた奉先は大きく頷き、胸の前に腕を組むと、以前汜水関で翼徳と矛を交えて戦った時の事を思い起こした。
あの時は、翼徳の馬に疲労が見えた為、玄徳と雲長らが助太刀に来て勝負を決する事が出来なかった。
しかし、翼徳は噂に聞く通りの豪傑で、奉先と互角に渡り合える程の腕前だった事は確かである。
今一度、張翼徳と勝負出来たなら…
ふと、奉先の胸にそんな思いが過ぎる。
「しかし、下邳の相である曹豹と張翼徳は、以前から折り合いが悪いとの噂が有りますので、下邳の内情は不安定でしょう…」
公台の説明に、奉先は眉を顰め首を傾げた。
「その様な状況でありながら、玄徳は義弟に城を任せたのか…?」
どういった事情があったかは分からぬが、玄徳は張翼徳と曹豹と言う仲の悪い二人を下邳に残したまま、家族たちを任せて行ってしまったのである。
これには、やがて何かしらの問題が発生するのではと言う予感を拭い切れずにいたが、数日後その予感は的中する事となる。
小沛の奉先の元へ、下邳から援軍を求める使者が飛び込んで来た。
使者の話に拠れば、張翼徳と曹豹が仲違いし、翼徳が曹豹を殺そうとしていると言う。
中郎将の許耽が仲裁に入ったが、このままでは収まらぬと奉先に助けを求めたのである。
双方の言い分を聞いている余裕は無いと判断した奉先は、直ぐ様兵を率い、下邳へと向かった。
玄徳から下邳の守備を任されていた翼徳は、玄徳らが凱旋するまでの間、城の人々に飲酒を制限する“禁酒令”を発令した。
所がそんな矢先、曹豹が身内の祝賀会で酒宴を開き、それを知った翼徳が彼を呼び出して問い質すと、彼は「禁令の事は知らなかった」と悪怯れた様子も無く答えたのである。
曹豹は日頃から、まだ若い将軍である翼徳の事を軽んじており、小さな事で揉める事がしばしばあった。
その為、曹豹が自分を侮っていると感じた翼徳は怒り心頭に発し、直ちに彼を捕らえて投獄すると、笞刑(鞭打ちの刑罰)を言い渡した。
これが元で、下邳では内紛が起こり、収拾が付かなくなってしまった為、許耽は使者を立てて奉先の元へ援軍の要請に向かわせたのである。
奉先が下邳の西凡そ四十里の地点まで到達すると、待ち構えていた許耽の軍勢と合流する事が出来た。
「張将軍は下邳相を処刑なさるお積もりです…!一刻の猶予もございません!城の西門から、呂将軍に呼応する手筈となっております故、西門へ向かって下され…!」
「良し、分かった。直ぐに向かおう。」
騎馬隊を率いた奉先は夜闇に紛れて下邳城の西側へ回り込み、夜明け前には西門まで辿り着いた。
援軍の到着を知った曹豹の兵たちは約束通り彼らに呼応し、内側から城門が開かれると、呂布軍の騎兵部隊は忽ち城内へと突入した。
突如雪崩込んで来た騎兵隊に、城の守備兵たちは為す術も無く次々に薙ぎ倒されて行く。
翼徳が呂布軍の奇襲を知った頃には、既に城の半分は制圧されていた。
「おのれ…!呂奉先の奴め、我々を裏切りおったな…っ!」
翼徳は息巻いて蛇矛を手に取り、馬を駆って奉先の部隊の前へ立ち塞がった。
「この裏切り者め、兄者の恩を仇で返す積もりかっ!?」
翼徳が大声を放って罵ると、奉先は飛焰の足を止めて馬上から彼を睨み付ける。
「裏切り者とは人聞きが悪い。俺は、中郎将に頼まれて内乱を鎮めに来てやったのだ。」
「良くも、抜け抜けと…っ!」
翼徳は眦を吊り上げ強く歯噛みをすると、蛇矛を大きく旋回させて奉先に打ち掛かった。
その攻撃を方天戟で打ち返すと、凄まじい衝撃が腕に伝わる。
奉先は手綱を持ち直して飛焰を素早く後方へ退がらせ、再び翼徳に対峙すると、
「汜水関では決着が付かなかったが、どうしても俺と遣り合いたいと言うなら、相手になってやる…!」
そう言うや、飛焰の背から飛び降り方天戟を構えた。
「お前の馬と飛焰では、能力に差が有り過ぎる。これなら、対等に戦えるであろう?!」
それを見た翼徳は小さく舌打ちをしたが、ふんっと太々しく鼻を鳴らし、自分も馬から飛び降りる。
二人は部下たちを退がらせ、互いに武器を構えて睨み合った。
方天戟は全長凡そ九尺(約2m程度)という長さがあるが、翼徳の持つ蛇矛も同等の長さを持っている。しかも長身で大柄な翼徳がその矛を構えれば、その威圧感で更に矛は大きく長く見えた。
翼徳の蛇矛が唸りを上げて迫り来れば、方天戟を閃かせて打ち返す。
間髪入れず突き出される槍撃に、奉先は素早く身を翻した。
数合打ち合ったが互いに一歩も譲らず、周りで固唾を呑んで見守っている兵たちには、二人の力は拮抗しているかに見える。
しかし、等の本人たちは未だ本気を出してはおらず、互いの力を推し量っているに過ぎなかった。
翼徳の豪腕から放たれる蛇矛には凄まじい威力と破壊力があり、同時に素速さも備えている。
通常の戟であれば、その攻撃を受けただけで真っ二つに折れてしまうであろう。
だが、奉先の方天戟はその激しい攻撃にも耐え、彼は俊敏な動きで次々に打ち出される槍撃を躱し跳ね返した。
互いの武器が打つかり合い、激しく火花を散らす。
甲高い金属音が辺りに響き渡り、戟と矛ががっしりと組み合ったと同時に、二人は己の武器を強く押し合った。
矛を握る手には、じっとりと汗が纏わり付いている。
この時、翼徳は自分でも驚くぐらいの激しい胸の高鳴りを感じていた。
これ程の強敵を前にして、それは懐かしい友人に再会した時の様な喜びに似ている。
その複雑な感情を押し殺し、翼徳は瞳に殺気を漲らせた。
対する奉先もまた、同じ様な感覚を覚えていた。
久々の“好敵手(ライバル)”と呼べる相手に、彼の闘争心は炎となって燃え上がり、血が滾って来る。
戟と矛はギシギシと擦れ合い、発火寸前な程に熱を持った。
次の瞬間、二人はほぼ同時に地面を蹴って後方へ飛び退る。
翼徳は蛇矛を頭上で素早く旋回させ、更に上下左右へと鋭い槍撃を放っては奉先を翻弄しようとしたが、方天戟の堅いの防御を突き崩す事が出来ない。
更に数合の打ち合いの末、奉先が既に自分の攻撃を完全に見切っていると感じると、多少の焦りと苛立ちを覚えた。
強く歯噛みをしながら一度身を引き、再び武器を構える。
俺は、後には退けぬ…!全力で奴を斃すのみ!
瞳に気迫を込め、勢い良く地を蹴った翼徳は疾風の如く奉先に迫った。
東の空は白々と明け始めており、東門の方から昇る朝日が城内へと降り注いでいる。
夜露に濡れた楼閣に日光が当たった瞬間、逆光で反射した光が翼徳の目に差し込んだ。
「!!」
彼が一瞬怯んだと見るや、奉先は鋭く方天戟を閃かせ、翼徳の胸を貫かんと鋭い刃を突き出す。
しまった…っ!!
そう思った時には、既に方天戟の刃は彼の体に到達していた。
「ぐっ…っ!」
激しい痛みが襲い、翼徳は思わず顔を歪めた。
見れば、方天戟の槍先は彼の左肩に突き立っている。
「……っ!?」
奉先は故意に急所を外したのだ。
そうと気付くと、翼徳は顔を上げて彼を睨んだ。
「勝負は決した。俺たちは今、敵同士では無いのだ。殺し合う必要はあるまい…!」
奉先はそう言って、突き刺さった方天戟を翼徳の肩から抜き取る。
肩から噴き出す血を右手で押さえた翼徳は、その場に崩れ落ちると拳で地面を強く叩いて悔しがった。
「俺は…兄者からこの城を死守するよう言われていたのだ…!お前なんかに奪われては、兄者に合わせる顔が無い…!さっさと殺せ!」
翼徳は、大粒の泪を冷たい地面に零しながら大声で喚く。
奉先は暫し、肩を震わせて噎び泣いている彼を見下ろしていたが、やがて口を開いた。
「お前たち義兄弟は、生死を共にすると誓ったのではないのか…?」
その言葉に、翼徳は濡れた瞳のまま瞠目し彼を見上げる。
「そ、それは…」
翼徳は言葉に詰まった。
「お前が死ねば、後の二人の命も尽きるのだぞ…!お前の一存で義兄たちを巻き込んでも良いのか?!それに、お前を殺して俺に何の得が有ると言うのか…?」
冷やかな眼差しで言うと、奉先は踵を返して飛焰に歩み寄り、その背に跨った。
「お前たちの家族や仲間たちは下邳で預かっておく。お前は玄徳の元へ向かうが良い。俺が和睦を望んでいる事を奴に伝えろ…!」
そう告げ、傷付いた翼徳に手当てを施させると、奉先は彼と数名の部下たちを下邳から追い出したのであった。
淮水を挟んで睨み合いを続けていた劉備軍と袁術軍であったが、凡そひと月が経過しても袁術軍は劉備軍を破る事が出来ず、膠着状態となっていた。
袁公路は劉玄徳を侮っており、この徐州攻略には然程時間を掛ける心配は無いと踏んでいたのである。
中山靖王劉勝の末裔、等と言う胡散臭い人物になど敗ける筈がない…!
全く根拠の無い自信だが、彼は本当にそう信じていた。
自分こそ、天に選ばれし者なのである。
しかし、本拠地を郯から下邳へ移した事でも分かる通り、玄徳は決して戦下手な訳では無く、確固たる戦略を持っていた。
袁術軍の先鋒を任されたのは、呉景、字を光蔭と言う将である。
光蔭の姉は孫文台の妻となった呉夫人で、彼は文台の義弟であり、孫伯符の伯父に当たる。
徐州へ入ると、光蔭は先ず淮陰の攻略に取り掛かり、一歩づつ着実に敵地を攻略して劉備軍を追い詰めるのが彼の計画であった。
しかし、これが長期戦に陥った原因となる。
劉玄徳は予想以上の速さで戦場へ到達し、淮水の北側を占拠すると、北岸に陣を敷いて守りを固めてしまった。
その結果、ひと月以上を要しても劉備軍を破れず、袁公路は苛立ちを募らせていた。
劉備軍の陣営に急報が届けられたのは、そんな時である。
呂奉先による下邳陥落の報せだった。
肩を負傷し、酷く憔悴した様子で幕舎を訪れた翼徳を迎え入れ、玄徳は黙って項垂れる彼を見詰めていた。
彼の傍らには悲痛な表情の雲長も控えている。
「兄者に下邳を死守するよう言われていたのに…俺は、約束を果たせなかったばかりか、家族や仲間たちを人質に取られてしまった…!」
玄徳の前に跪き、翼徳は子供のように泣いては床を泪で濡らしている。
やがて玄徳は深い溜め息を吐き、瞼を閉じて天を仰いだ。
「俺は…初めから、こうなる事が分かっていた…」
「…えっ?!」
翼徳は驚きと戸惑いの表情で玄徳を見上げた。
玄徳はやがて瞼を開くと、翼徳の赤い瞳を見詰め返す。
「お前が下邳に残りたいと言った時…俺は、城とお前のどちらかを失う選択を迫られたのだ。」
「…?!」
その言葉に翼徳は更に困惑した。
「お前と下邳相の仲が悪い事は重々承知していた。俺がお前を信じず、雲長に下邳を守らせたなら、お前は俺に信用されておらぬと感じ、俺に信を置かなくなるだろう。だから俺は、城を失う覚悟でお前を選んだのだ…!」
漸く言葉の意味を理解した時、翼徳は胸に激しい衝撃を受けた。
忽ち瞳に泪が溢れ出す。
「兄者…!俺は、兄者の気持ちも考えず…本当に悪かった…!」
「城を失ったのは、お前の責任では無い。心配するな、奉先は家族に危害を加える様な事はしないさ。今はここで守りを固め、袁術軍を退ける事に専念しよう…!」
そう言うと、玄徳は翼徳の肩を強く叩き、白い歯を覗かせて笑った。
翼徳は大きく頷き、濡れた顔を腕で強く擦って泪を拭い去る。
黙して二人の様子を傍らで眺めていた雲長も、知らぬ間に目頭が熱くなるのを感じていた。
想定外の長期戦に陥った事で、やがて袁術軍は兵站に支障を来たすであろう。
玄徳の予想通り袁術軍の士気は次第に低下し、攻撃の手が弱まって来た隙きを突いて、玄徳は主力軍を率い下邳へと迅速に退却したのであった。
応援ありがとうございます!
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