上 下
118 / 132
第九章 中原の覇者と魔王の片鱗

第百十八話 下邳城攻防戦

しおりを挟む

袁公路えんこうろの侵攻を食い止める為、劉玄徳りゅうげんとく下邳かひを離れた事は、小沛しょはい呂奉先りょほうせんの耳にも届いていた。

「劉玄徳は主力を率いて淮水わいすいの北側へ陣を敷き、袁術軍を迎え撃つ構えを取っております。」
「それでは…今、下邳には殆ど兵が居ないと言う事か…」
偵察ていさつからの報告に高士恭こうしきょうつぶやくのを見て、陳公台ちんこうだいは奉先を振り返り、更に付け加えた。

「下邳には、玄徳の義弟おとうと張翼徳ちょうよくとくが残って留守を守っているそうです。」

それを聞いた奉先は大きくうなずき、胸の前に腕を組むと、以前汜水関しすいかんで翼徳とほこを交えて戦った時の事を思い起こした。

あの時は、翼徳の馬に疲労ひろうが見えた為、玄徳と雲長らが助太刀すけだちに来て勝負を決する事が出来なかった。
しかし、翼徳は噂に聞く通りの豪傑ごうけつで、奉先と互角に渡り合える程の腕前だった事は確かである。

今一度、張翼徳と勝負出来たなら…
ふと、奉先の胸にそんな思いがぎる。

「しかし、下邳のしょうである曹豹そうひょうと張翼徳は、以前から折り合いが悪いとの噂が有りますので、下邳の内情ないじょうは不安定でしょう…」

公台の説明に、奉先は眉をひそめ首をかしげた。
「その様な状況でありながら、玄徳は義弟おとうとに城を任せたのか…?」

どういった事情があったかは分からぬが、玄徳は張翼徳と曹豹と言う仲の悪い二人を下邳に残したまま、家族たちを任せて行ってしまったのである。
これには、やがて何かしらの問題が発生するのではと言う予感をぬぐい切れずにいたが、数日後その予感は的中する事となる。

小沛の奉先の元へ、下邳から援軍を求める使者が飛び込んで来た。
使者の話にれば、張翼徳と曹豹が仲違なかたがいし、翼徳が曹豹を殺そうとしていると言う。
中郎将の許耽きょたん仲裁ちゅうさいに入ったが、このままでは収まらぬと奉先に助けを求めたのである。
双方そうほうの言い分を聞いている余裕は無いと判断した奉先は、直ぐさま兵を率い、下邳へと向かった。

玄徳から下邳の守備を任されていた翼徳は、玄徳らが凱旋がいせんするまでの間、城の人々に飲酒を制限する“禁酒きんしゅ令”を発令した。

所がそんな矢先、曹豹が身内の祝賀会で酒宴しゅえんを開き、それを知った翼徳が彼を呼び出して問いただすと、彼は「禁令の事は知らなかった」と悪怯わるびれた様子も無く答えたのである。
曹豹は日頃から、まだ若い将軍である翼徳の事を軽んじており、小さな事でめる事がしばしばあった。
その為、曹豹が自分をあなどっていると感じた翼徳は怒り心頭しんとうに発し、ただちに彼を捕らえて投獄とうごくすると、笞刑ちけい(むち打ちの刑罰)を言い渡した。

これが元で、下邳では内紛ないふんが起こり、収拾しゅうしゅうが付かなくなってしまった為、許耽は使者を立てて奉先の元へ援軍の要請に向かわせたのである。

奉先が下邳の西およそ四十里の地点まで到達すると、待ち構えていた許耽の軍勢と合流する事が出来た。

「張将軍は下邳相かひしょうを処刑なさるお積もりです…!一刻の猶予もございません!城の西門から、呂将軍に呼応する手筈てはずとなっておりますゆえ、西門へ向かって下され…!」
「良し、分かった。直ぐに向かおう。」
騎馬隊を率いた奉先は夜闇にまぎれて下邳城の西側へ回り込み、夜明け前には西門まで辿り着いた。

援軍の到着を知った曹豹の兵たちは約束通り彼らに呼応し、内側から城門が開かれると、呂布軍の騎兵部隊はたちまち城内へと突入した。
突如雪崩なだれ込んで来た騎兵隊に、城の守備兵たちはすべも無く次々にぎ倒されて行く。
翼徳が呂布軍の奇襲きしゅうを知った頃には、既に城の半分は制圧されていた。

「おのれ…!呂奉先の奴め、我々を裏切りおったな…っ!」
翼徳は息巻いきまいて蛇矛だぼうを手に取り、馬をって奉先の部隊の前へ立ち塞がった。

「この裏切り者め、兄者の恩を仇で返す積もりかっ!?」

翼徳が大声たいせいを放ってののしると、奉先は飛焰ひえんの足を止めて馬上から彼を睨み付ける。

「裏切り者とは人聞ひとぎきが悪い。俺は、中郎将に頼まれて内乱ないらんしずめに来てやったのだ。」
「良くも、抜け抜けと…っ!」
翼徳はまなじりを吊り上げ強く歯噛みをすると、蛇矛を大きく旋回せんかいさせて奉先に打ち掛かった。
その攻撃を方天戟ほうてんげきで打ち返すと、凄まじい衝撃が腕に伝わる。
奉先は手綱を持ち直して飛焰を素早く後方へ退がらせ、再び翼徳に対峙たいじすると、

「汜水関では決着が付かなかったが、どうしても俺とり合いたいと言うなら、相手になってやる…!」
そう言うや、飛焰の背から飛び降り方天戟を構えた。
「お前の馬と飛焰では、能力に差が有り過ぎる。これなら、対等たいとうに戦えるであろう?!」

それを見た翼徳は小さく舌打ちをしたが、ふんっと太々ふてぶてしく鼻を鳴らし、自分も馬から飛び降りる。
二人は部下たちを退がらせ、互いに武器を構えて睨み合った。

方天戟は全長凡そ九尺(約2m程度)という長さがあるが、翼徳の持つ蛇矛も同等の長さを持っている。しかも長身で大柄な翼徳がそのほこを構えれば、その威圧感で更に矛は大きく長く見えた。

翼徳の蛇矛がうなりを上げてせまり来れば、方天戟をひらめかせて打ち返す。
間髪かんぱつ入れず突き出される槍撃そうげきに、奉先は素早く身をひるがえした。
数合打ち合ったが互いに一歩もゆずらず、周りで固唾かたずんで見守っている兵たちには、二人の力は拮抗きっこうしているかに見える。
しかし、等の本人たちは未だ本気を出してはおらず、互いの力をはかっているに過ぎなかった。

翼徳の豪腕から放たれる蛇矛には凄まじい威力と破壊力があり、同時に素速さも備えている。
通常のげきであれば、その攻撃を受けただけで真っ二つに折れてしまうであろう。
だが、奉先の方天戟はその激しい攻撃にもえ、彼は俊敏しゅんびんな動きで次々に打ち出される槍撃をかわね返した。

互いの武器がつかり合い、激しく火花を散らす。
甲高かんだかい金属音が辺りに響き渡り、戟と矛ががっしりと組み合ったと同時に、二人はおのれの武器を強く押し合った。

矛を握る手には、じっとりと汗がまとわり付いている。
この時、翼徳は自分でも驚くぐらいの激しい胸の高鳴りを感じていた。
これ程の強敵を前にして、それは懐かしい友人に再会した時の様な喜びに似ている。
その複雑な感情を押し殺し、翼徳は瞳に殺気をみなぎらせた。

対する奉先もまた、同じ様な感覚を覚えていた。
久々の“好敵手こうてきしゅ(ライバル)”と呼べる相手に、彼の闘争心は炎となって燃え上がり、血がたぎって来る。
戟と矛はギシギシとこすれ合い、発火寸前すんぜんな程に熱を持った。
次の瞬間、二人はほぼ同時に地面を蹴って後方へ飛び退すさる。

翼徳は蛇矛を頭上で素早く旋回させ、更に上下左右へと鋭い槍撃を放っては奉先を翻弄ほんろうしようとしたが、方天戟のかたいの防御を突き崩す事が出来ない。
更に数合の打ち合いの末、奉先が既に自分の攻撃を完全に見切っていると感じると、多少のあせりと苛立いらだちを覚えた。
強く歯噛みをしながら一度身を引き、再び武器を構える。

俺は、後には退けぬ…!全力で奴をたおすのみ!
瞳に気迫きはくを込め、勢い良く地をった翼徳は疾風しっぷうの如く奉先に迫った。

東の空は白々しらじらと明け始めており、東門の方からのぼる朝日が城内へと降り注いでいる。
夜露よつゆれた楼閣ろうかくに日光が当たった瞬間、逆光で反射した光が翼徳の目に差し込んだ。

「!!」

彼が一瞬ひるんだと見るや、奉先は鋭く方天戟を閃かせ、翼徳の胸を貫かんと鋭いやいばを突き出す。

しまった…っ!!
そう思った時には、既に方天戟の刃は彼の体に到達していた。

「ぐっ…っ!」
激しい痛みが襲い、翼徳は思わず顔をゆがめた。
見れば、方天戟の槍先やりさきは彼の左肩に突き立っている。

「……っ!?」

奉先は故意こいに急所を外したのだ。
そうと気付くと、翼徳は顔を上げて彼を睨んだ。

「勝負は決した。俺たちは今、敵同士では無いのだ。殺し合う必要はあるまい…!」
奉先はそう言って、突き刺さった方天戟を翼徳の肩から抜き取る。
肩からき出す血を右手で押さえた翼徳は、その場に崩れ落ちると拳で地面を強く叩いてくやしがった。

「俺は…兄者からこの城を死守するよう言われていたのだ…!お前なんかに奪われては、兄者に合わせる顔が無い…!さっさと殺せ!」

翼徳は、大粒のなみだを冷たい地面にこぼしながら大声でわめく。
奉先は暫し、肩を震わせてむせび泣いている彼を見下ろしていたが、やがて口を開いた。

「お前たち義兄弟きょうだいは、生死を共にすると誓ったのではないのか…?」

その言葉に、翼徳は濡れた瞳のまま瞠目どうもくし彼を見上げる。
「そ、それは…」
翼徳は言葉に詰まった。

「お前が死ねば、後の二人の命も尽きるのだぞ…!お前の一存いちぞん義兄あにたちを巻き込んでも良いのか?!それに、お前を殺して俺に何の得が有ると言うのか…?」
ひややかな眼差しで言うと、奉先はきびすを返して飛焰に歩み寄り、その背にまたがった。

「お前たちの家族や仲間たちは下邳ここで預かっておく。お前は玄徳の元へ向かうが良い。俺が和睦わぼくを望んでいる事を奴に伝えろ…!」

そう告げ、傷付いた翼徳に手当てをほどこさせると、奉先は彼と数名の部下たちを下邳から追い出したのであった。


淮水を挟んで睨み合いを続けていた劉備軍と袁術軍であったが、およそひと月が経過しても袁術軍は劉備軍を破る事が出来ず、膠着こうちゃく状態となっていた。
袁公路は劉玄徳をあなどっており、この徐州攻略には然程さほど時間を掛ける心配は無いと踏んでいたのである。

中山靖王ちゅうざんせいおう劉勝りゅうしょう末裔まつえい、等と言う胡散臭うさんくさい人物になど敗ける筈がない…!

全く根拠こんきょの無い自信だが、彼は本当にそう信じていた。
自分こそ、天に選ばれし者なのである。
しかし、本拠地をたんから下邳かひへ移した事でも分かる通り、玄徳は決して戦下手いくさべたな訳では無く、確固かっこたる戦略を持っていた。

袁術軍の先鋒を任されたのは、呉景ごけい、字を光蔭こういんと言う将である。
光蔭の姉は孫文台の妻となった呉夫人で、彼は文台の義弟であり、孫伯符の伯父に当たる。

徐州へ入ると、光蔭は淮陰わいいんの攻略に取り掛かり、一歩づつ着実に敵地を攻略して劉備軍を追い詰めるのが彼の計画であった。
しかし、これが長期戦におちいった原因となる。

劉玄徳は予想以上の速さで戦場へ到達し、淮水の北側を占拠せんきょすると、北岸に陣を敷いて守りを固めてしまった。
その結果、ひと月以上をようしても劉備軍を破れず、袁公路は苛立いらだちをつのらせていた。

劉備軍の陣営に急報きゅうほうが届けられたのは、そんな時である。
呂奉先による下邳陥落のしらせだった。

肩を負傷し、酷く憔悴しょうすいした様子で幕舎を訪れた翼徳を迎え入れ、玄徳は黙って項垂うなだれる彼を見詰めていた。
彼のかたわらには悲痛な表情の雲長も控えている。

「兄者に下邳を死守するよう言われていたのに…俺は、約束を果たせなかったばかりか、家族や仲間たちを人質に取られてしまった…!」
玄徳の前にひざまずき、翼徳は子供のように泣いては床を泪で濡らしている。
やがて玄徳は深い溜め息をき、まぶたを閉じて天を仰いだ。

「俺は…初めから、こうなる事が分かっていた…」
「…えっ?!」
翼徳は驚きと戸惑いの表情で玄徳を見上げた。
玄徳はやがて瞼を開くと、翼徳の赤い瞳を見詰め返す。

「お前が下邳に残りたいと言った時…俺は、城とお前のどちらかを失う選択を迫られたのだ。」

「…?!」
その言葉に翼徳は更に困惑こんわくした。

「お前と下邳相の仲が悪い事は重々じゅうじゅう承知していた。俺がお前を信じず、雲長に下邳を守らせたなら、お前は俺に信用されておらぬと感じ、俺に信を置かなくなるだろう。だから俺は、城を失う覚悟でお前を選んだのだ…!」

ようやくく言葉の意味を理解した時、翼徳は胸に激しい衝撃を受けた。
たちまち瞳に泪があふれ出す。

「兄者…!俺は、兄者の気持ちも考えず…本当に悪かった…!」
「城を失ったのは、お前の責任では無い。心配するな、奉先は家族に危害を加える様な事はしないさ。今はここで守りを固め、袁術軍を退しりぞける事に専念しよう…!」

そう言うと、玄徳は翼徳の肩を強く叩き、白い歯をのぞかせて笑った。
翼徳は大きくうなずき、濡れた顔を腕で強くこすって泪をぬぐい去る。
黙して二人の様子を傍らで眺めていた雲長も、知らぬ間に目頭が熱くなるのを感じていた。

想定外の長期戦に陥った事で、やがて袁術軍は兵站へいたん支障ししょうを来たすであろう。
玄徳の予想通り袁術軍の士気は次第に低下し、攻撃の手が弱まって来たきを突いて、玄徳は主力軍を率い下邳へと迅速に退却したのであった。
しおりを挟む

処理中です...