飛翔英雄伝《三國志異聞奇譚》〜蒼天に誓う絆〜

第十章 覇業への導きと蒼天に誓う絆

第百二十一話 宛城の戦い

楊奉ようほう、董承とうしょうらが皇帝を雒陽らくようへ連れて行こうとした時、李傕りかく、郭汜かくしらと共に彼らを攻撃し、撃破した張済ちょうさいと言う人物がいた。

皇帝を曹孟徳に奪われ、勢力が衰退すいたいした彼らは食糧が欠乏し、荊州けいしゅう北部で略奪を働いたが、穣じょうを攻略中、張済が流れ矢を受けて戦死してしまった。
彼の軍勢は甥おいに当たる張繍ちょうしゅう(字を士錦しきん)が受け継ぐ事となり、参謀さんぼうに賈詡かく(字を文和ぶんわ)を加え、劉表と同盟して宛えんに駐屯していた。

孟徳が軍を率いて荊州けいしゅう南陽なんよう郡の淯水いくすいまで侵攻し、そこへ陣を張ると、不安を感じた張士錦は文和に相談を持ち掛けた。
文和は、董卓が長安ちょうあんで殺害された後、司徒王允おういんと対立した李傕らが軍を解散して郷里に帰ろうとするのを引き留め、長安への進撃を献策けんさくしたあの人物である。

人の心理しんりを巧たくみに利用し戦略に活いかす事が得意な文和は、彼に自ら軍勢を引き連れ曹操軍に降伏を願い出るよう進言した。
これには、曹操軍も多少拍子抜ひょうしぬけした感は有ったが、迅速じんそくに事が収おさまるならばと彼らの降伏を受け入れ、その後、急ぎ許きょへ引き返そうとした。
所が、士錦に引き留められた孟徳は、暫く宛城に滞在する事にしたのである。

この時、宛城には亡くなった張済の妻で、未亡人みぼうじんとなった鄒氏すうし(字を春燕しゅんえん)と言う美女がおり、義理の叔母おばである彼女を士錦が面倒を見ていた。
鄒氏の美しさは、古代史に登場する褒姒ほうじや西施せいしに劣らぬと言われる程で、その噂を聞いた孟徳は、折角せっかくなので彼女をひと目見てみようと言う気になり、招きに応じたのであった。

鄒氏の屋敷に設けられた宴うたげの席では、美女たちの華やかな舞や歌が披露され、宴えんも酣たけなわとなった頃、一人の女性が広間に姿を現した。
彼女こそ亡き張済の妻だった春燕である。

会場は一瞬静まり返ったが、忽たちまち辺りから感嘆かんたんの声が漏もれ聞こえる。
確かに春燕は聞きしに勝る美女で、妖艶ようえんな仕草しぐさで孟徳の前へ膝を進めると、恭うやうやしく彼に酌しゃくを勧めた。

既に三十路みぞじに近いであろうが、彼女の肌艶はだつやは少女の様に瑞々みずみずしく張りがあり、透き通る程に白く美しかった。
孟徳は目を細めてそれを眺め、

「貴女あなたが春燕殿か。想像していたより、ずっと美しい。」

そう言って彼女に微笑を向ける。
すると春燕は長い睫毛まつげを瞬しばたたかせ、少し恥じらう様に俯うつむいた。
その様子を何処か面白く無い表情を浮かべ、傍かたわらで見ていた楽文謙は、隣の席の李曼成の耳に手を翳かざし小さく耳打みみうちをした。

「そうかなあ、俺は孟徳殿が女装している姿の方が、余程よほど美しいと思うがな。」

曼成は思わず吹き出しそうになり、文謙に苦笑を返したが、彼にしか届かない程の小声が春燕の耳に届いたのか、彼女が眉を吊り上げて一瞬此方こちらを睨んだ様に見え、二人は思わず肝を冷やし慌てて彼女から目を逸そらした。
春燕は孟徳に向き直り、即座そくざに微笑を取り戻すと、口元に指先を添そえて「ほほほっ…」と笑う。

「孟徳様こそ、私わたくしが想像していたよりずっと若くて、可愛らしいお方ですわ…」
「いやいや、それ程では…」
孟徳は自分の頭を掻かきながら、照れ笑いを浮かべた。
微笑を湛たたえて彼の姿を見詰めている春燕であったが、彼女の瞳の奥には冷ややかな光が宿っている。

「孟徳様、もっと静かな場所でゆっくりと、お酌しゃくをして差し上げたいですわ…」
甘い猫撫ねこなで声でそう言うと、やがて春燕はすっくと立ち上がり、広間の外へ出るよう孟徳に目配せをしながら退出する。
孟徳がそれに釣られる様に席を立とうと腰を浮かせると、誰かが彼の肩を掴つかんで引き止めた。

振り返って見れば、それは彼の護衛を務める“悪来あくらい”典韋てんいである。
濮陽ぼくようでの戦で、孟徳を窮地きゅうちから救い出した典韋は、その後彼の護衛隊長を務める様になり、いつも傍かたわらに侍はべっていた。
そんな彼の背中を見ると、孟徳は時折ときおり、
そこに立っているのは奉先だったのかも知れない…
と、胸の底で思うのであった。

この時も、一双八十斤きん(約18kg)もあると言われる大きな双戟そうげきを携たずさえて、屋敷の家人や護衛の者たちを鋭く睨み付けていた為、怖れて誰一人声も上げられなかった。

「心配するな、直ぐに戻って来るさ…！」
孟徳は白い歯を覗のぞかせてそう言うと、心配顔の典韋の肩を軽く叩き広間の外へと出て行った。

長い廊下の先では春燕が待っている。
春燕は振り返って彼を見ると、微笑を浮かべながら暗い廊下の奥にある自らの居室へと彼を誘いざなった。
薄暗い室内は少し肌寒はだざむく、仄ほのかに揺らめく小さな燭台しょくだいの灯あかりが春燕を更に妖艶で美しく見せている。

春燕は孟徳を毛皮の敷物に座らせると、卓上に用意してあった酒器しゅきから酒坏さかずきへ酒を注ぎ、彼に差し出した。

「随分ずいぶんと準備が良いな…」
孟徳が微笑を浮かべて酒坏を受け取ると春燕は、ふふっと小さく笑い、

「孟徳様のお求めの物は、何でもご用意してありますわ。」
そう答えて彼の胸に擦すり寄る。
甘える猫の様な春燕を、孟徳は目を細めて見詰めていたが、やがて彼女の肩を抱き竦すくめながら酒坏を彼女の目の前に差し出した。

「そうか、では先ず貴女あなたがこの酒を飲んでくれ。」
「…？！」

驚いた春燕は、瞠目どうもくして孟徳の顔を見上げた。

「そ…それは、孟徳様の為に特別に用意したお酒です…！私は、お酒を飲みませんので…」
狼狽うろたえながら答える春燕に、孟徳は冷ややかな眼差しを向ける。

「酒に毒でも混ぜたか…」
そう呟くと、咄嗟とっさに彼女の細い腕を掴つかみ取った。

「張繍軍の降伏は偽いつわりであろう？！俺を暗殺する積もりだったのか？！誰に命令された？！」
「い、痛い…っ！やめて下さい、放して！」
春燕は孟徳の手を振り解ほどこうと藻掻もがき、痛みに顔を歪ゆがめる。

「わ、私は何も知りません…！」
「嘘を付くな…！お前は俺を誘惑し、隙きを突いて殺す積もりだったのであろう？！甥の士錦に言われたか？いや、あの男にそんな度胸どきょうは無いだろう…参謀に賈詡と言う者がいたな、その男の差し金がねだな…！」

掴んでいた腕を放し女の体を突き放すと、卓上の酒器が倒れて敷物の上に酒が零こぼれた。
酒に濡れた毛皮の上は、見る間に変色して異様な色に染まる。

「俺を騙だまそうとしても無駄だ！それに、生憎あいにく俺は、あんたの様な“おばさん”には興味が無いのでな…！」

「お、おばさんですって…！？」
床に倒れた春燕は見る間に顔を紅潮させると、鬼の形相ぎょうそうで孟徳を睨にらみ付けた。

「…おのれ、曹孟徳…！殺してやる…っ！」

強く歯噛みをしながら唸うなったかと思うと、春燕は途端とたんに隠し持った匕首ひしゅを振り翳かざし襲い掛かって来た。
孟徳は咄嗟とっさに彼女の攻撃を躱かわし、まるで発狂はっきょうした様に匕首を振り回して暴れる春燕から素早く飛び退すさり距離を取る。

「止めろ！痛い目に遭いたいか？！」
「黙れ、豎子じゅしの癖に生意気な…！私の虜とりこに成らぬ男など、殺してやる！」

髪を振乱ふりみだし、金切かなきり声を上げる春燕は執拗しつように襲い掛かった。
振り下ろされた腕を素早く掴み取り、女の体を羽交はがいい締めにしたが、尚も諦めず振り解こうと藻掻もがく。

「放せ…っ！無礼者！」
「ちっ…！女を殴るのは趣味では無いが…」
孟徳は大きく舌打ちをし、彼女の体を突き放す様に前へ押しやると、素早く振り上げた手刀を、彼女の項うなじの辺りへ叩き付けた。

「うっ…！」
途端に春燕は意識を失い、その場に崩れ落ちる。
大きく溜め息を吐きながら、孟徳は彼女の体を抱え上げ部屋の奥へ連れて行くと、置かれた牀しょうの上へそっと横たえた。

春燕の居室を後にし、相変わらず賑わっている宴の広間へと戻ると、孟徳は何食わぬ顔で中へ入り元の席へと座る。
それに気付いた典韋と目が合ったが、彼に黙って目配せをすると、典韋は無言で小さく頷うなずいた。

「今宵は存分に楽しませて頂いた。我々は、そろそろ失礼しよう。」
孟徳は、そう言って屋敷の家人たちに挨拶を済ませ、仲間たちに引き上げの指示を出すと迅速じんそくに会場を後にする。
彼らは急ぎ出口へと向かったが、鄒氏の屋敷の造つくりは迷路の様に入り組み簡単に出口が見付からず、思いの外ほか時間を要してしまった。

それも参謀である賈文和の策略である。
文和はこの時、既に春燕が孟徳の暗殺に失敗した事に勘付いており、素早く兵を出動させ屋敷を取り囲ませていた。
士錦の元へも兵の出動を要請する伝令を送っている。

その頃、意識を取り戻した春燕は直ぐに文和の元へと向かい、彼に孟徳からの仕打ちを涙ながらに訴えた。

「まさか、貴女あなたの美しさの虜に成らぬ男などおりませぬ。」
「そうよね、私の魅力が解らぬのは愚かな男だわ…！」
涙を拭いながら胸に縋り付く春燕を慰なぐさめ、文和は興奮する彼女を落ち着かせていたが、内心冷ややかな眼差しで彼女を見下ろしていた。

彼自身、春燕の美しさは認めてはいるものの、彼女に魅力を感じた事は一度も無い。
彼にとって春燕は飽くまでも戦略の為の道具に過ぎず、どんなに誘惑する素振りを見せられても心を動かされる事は無かった。
しかし、孟徳が彼女の誘惑に乗らなかった事は多少の驚きであり、

或あるいは孟徳と自分は、何処か似ているのかも知れない…
そう感じると、曹孟徳に対して興味が湧いて来る。

「ねえ、お願いよ。あの豎子の首を取って、私の前に持って来て…！」
春燕は甘えた声色で、残虐な願いを要求する。
女とは、残忍なものだ…
内心不快感を抱きながらも、文和は彼女に微笑を向けて答えた。

「お任せ下さい。甥おいの士錦殿に訴えれば、きっと聞き入れてくれるでしょう。」

士錦は元々、義理の叔母おばである春燕に想いを寄せている。
張済が死んだ後、春燕を妻に迎える事も考えたが、周りの目を気にして取り止めた。
そんな春燕が孟徳に手込てごめにされたと知れば、彼が怒り狂う事は明らかであった。

文和の読み通り、怒った士錦は直ぐに兵を率いて彼らの元へ駆け付けて来た。
曹孟徳は既に袋の鼠ねずみである。

「士錦、曹孟徳を出来るだけ時間を掛けて、じっくりと苦しませて殺してちょうだい…！」
「勿論です、叔母上おばうえ様を辱はずかしめた報い…存分に受けさせてやります！」
息巻いきまいて答える士錦を、春燕は憧憬どうけいの眼差しを浮かべて見詰める。
何としても、彼女に良い所を見せねば…！
士錦は彼女の瞳を見詰め返すと、自分自身にそう強く言い聞かせた。

男とは、こうでなくては成らない…
春燕はそう思い、内心北叟笑ほくそえんでいた。
この時代、男尊だんそん女卑じょひの考え方が主流であり、学問、武術などを志す女性に対する迫害はくがいは止まなかった。女性を政治や権力闘争に参加させるのは碌ろくな事では無いと考えられていたのである。

女として生まれて来た彼女にとって、男より優位に立つ事が出来るのは、その美貌を最大の武器にする事だけである。
自分の虜に成らない男は、この世に存在する事すら許せない。それは、悲しくも恐るべし“女の性さが”と言うものであった。

屋敷は既に敵に取り囲まれ、脱出は困難を極めた。
参謀、賈文和の決断と対応の素早さには舌を巻く。
この時、曹操軍の陣営へも張繍軍が奇襲を仕掛けており、軍は大打撃を受けて分裂ぶんれつしていたが、そんな中、于文則うぶんそくは冷静に兵たちを纏まとめ、孟徳を宛城から逃がす為に奮闘ふんとうしていた。

更に、屋敷には火が放たれ、あっと言う間に燃え広がる。
何とか屋敷からの脱出に成功し門を突破しようと試みたが、彼らの前に張繍軍随一ずいいちの猛将と謳うたわれる胡車児こしゃじが立ち塞ふさがった。

胡車児の兵は精兵で、胡車児の振るう大刀たいとうの前に、曹操軍の兵たちは次々と倒されてしまう。
胡車児と互角に渡り合えるのは、最早、“悪来”典韋しか居ない。
そこで、護衛を引き連れた典韋は、孟徳の前に進み出て言った。

「俺が胡車児に戦いを挑み、奴を足止めしている間に、仲間たちと逃げて下さい…！」
「お前一人を、此処へ残しては行けぬ。共に戦おう…！」
孟徳は彼の逞たくましい腕を強く掴み、力強く答える。

「殿…俺は張孟卓ちょうもうたく様から、貴方をお護まもりするよう命めいを受けて、此処へ参ったのです…！」
「えっ…？！孟卓に…」
思いも依よらぬ言葉に、孟徳は瞠目どうもくして彼を見上げた。

「はい。兗州えんしゅうで反乱を起こす直前、俺は孟卓様から、貴方の事を託たくされました。命に変えても、曹孟徳を護って欲しいと…！孟卓様は、本気で貴方を裏切るお積もりでは無かった。最後まで、貴方の親友だったのです…！」

「そうか…そうだったのだな…！」

張孟卓は、陳公台に説得され奉先と共に孟徳に対して反乱を起こしたが、援軍を要請する為に袁公路の元へ向かう途中、部下の裏切りに遭って殺されてしまったのである。
典韋の言葉を聞きながら、既に孟徳の視界は溢あふれた泪なみだで霞かすんでいた。

「さあ、一刻の猶予ゆうよも有りません…！」
泪ぐむ孟徳の肩を、典韋が強く揺すった時、孟徳の愛馬である“絶影ぜつえい”を引いた文則が彼らに合流した。

「悪来…！死ぬなよ…！」
孟徳は絶影の背に跨またがり、典韋を顧かえりみる。
微笑を浮かべた典韋は、黙したままだが、彼に大きく頷うなずいて見せた。

しかし、孟徳が彼の姿を見たのは、この時が最後であった。