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第十章 覇業への導きと蒼天に誓う絆
第百二十二話 袁術軍の小沛攻め
しおりを挟む宛城から決死の脱出を試みた孟徳であったが、彼の愛馬“絶影”は、右脚に敵の矢を受けて走れなくなってしまった。
混乱の中、張繍軍の猛追から逃れる為、仲間たちは散り散りになりながら間道を抜け撤退を開始している。
「絶影、頑張れ…!」
孟徳は馬を降り、手綱を引いて何とか前へ進ませようとしたが、絶影は脚を引き摺り、とても走れそうに無い。
そこへ、孟徳の甥に当たる曹安民と言う若者が駆け付けて来た。
彼は、乗っていた馬から飛び降りると絶影の手綱を掴み取る。
まだ十代の半ばに差し掛かったばかりのその顔には、邪気無さが残っているが、彼は精悍な眼差しを孟徳に向けた。
「孟徳様…!絶影の事は任せて、どうぞ僕の馬に乗ってお逃げ下さい…!」
そう言って自分の馬の手綱を孟徳に手渡す。
「それでは、お前が敵に追い付かれてしまう…!」
「心配はご無用、僕は走るのがとても速いのです!絶影を隠し、直ぐに追い付いて見せます!」
拒絶する孟徳に白い歯を見せ、彼は相好を崩しながら、冗談とも本気とも取れぬ答えを返した。
「そうか…分かった。必ず追い付いて来いよ…!」
孟徳は、若き安民の肩を強く叩き、彼の手を借りて馬の背に跨る。
それを確認すると、安民は素早く尻を叩いて馬を走らせた。
馬上で後方を振り返った孟徳の目には、既に安民の姿は闇に掻き消え、見えなくなっていた。
死ぬなよ、安民…!
孟徳は強く胸で祈りながら、暗闇の中を直走った。
遠ざかる孟徳の姿を見送り、安民は絶影を茂みの中へ連れて行くと、傷口に揉んだ薬草を塗り付ける。
「此処で大人しくしていろよ。仲間に発見されれば良いがな…」
そう言って頭を撫でると、絶影は一度大きく首を振り、鼻をブルルッと鳴らした。
「曹孟徳を逃がすな!必ず生捕りにするのだ…!」
張士錦は怒号を発し、仲間たちに檄を飛ばして逃げる曹操軍を猛追していた。
何としても曹孟徳を捕らえねば…!
此処で逃して援軍を呼ばれてしまっては、千載一遇の好機を逸してしまう。
軍師の賈文和からも、決して攻撃の手を緩めては成らないと釘を刺されていた。
この時、曹操軍の仲間たちも孟徳の行方を見失っており、于文則は兵を立て直しながら彼の姿を探していた。
そこへ、掻き集めた仲間の兵士たちと共に、張繍軍を迎え撃つ構えを取って街道へ出ていた安民が彼らの元へ駆け付ける。
「于将軍、殿はあの道を通って北へ向かっております…!我々が此処を食い止めます故、お急ぎを…!」
孟徳が馬で走り去った方角を指し示すその若武者の姿を確認し、文則は馬上から彼に大きく頷くと、
「心得た…!」
と返して、急ぎ間道へと向かった。
やがて、松明の灯りを煌々と掲げ、暗闇の中地響きを轟かせて此方へ近付く張繍軍の騎兵部隊の姿が次第にはっきりと見えて来る。
「曹孟徳の覇道を、こんな所で終わらせる訳には行かない…!」
安民は戟を構え、前方から襲い来る敵兵の波を睨み据えた。
曹安民から譲られた馬で夜通し走り続け、南陽郡の北、舞陰の辺りまで来た頃には、夜は白々と明け始めていた。
そこへ辿り着くまで、賈文和に仕掛けられた伏兵に幾度か襲われたが、何とか振り切って舞陰の県城へ入る事が出来た。
しかし、安民から譲られた馬も敵の矢を受け途中で絶命してしまい、孟徳は仲間の兵たちと共に泥に塗れながら走って来た為、最早疲労困憊であった。
騎兵部隊を率いた張士錦は勢いに乗り、一気に舞陰を攻め落そうと苛烈に攻撃を仕掛けたが、翌日には宛での反乱を聞き付けた仲間の援軍が到着し撃退されてしまった。
援軍部隊を率いて逸早く現れたのは、従弟の曹子廉である。
士錦は非常に悔しがったが、子廉の部隊を破る事が出来ず、仕方無く穣へと向かい、再び劉景升と同盟を結んで穣の地に駐屯する事にした。
その後、曹操軍では宛城の戦での被害の全貌が次第に明らかになり、この戦で
多くの兵を失った事が判明する。
孟徳の護衛隊長だった“悪来”典韋は、僅かな手勢で敵に立ち向かい次々と仲間が倒れる中、たった一人で十人もの敵を相手に双戟が折れるまで戦い続けたと言う。
しかし、遂に全身を数十本もの槍で貫かれ、それでも倒れる事なく、彼は立ったまま絶命したのである。
その最期とは壮絶なものであった。
そして、曹安民もまた、残った僅かな兵士たちと共に倍する敵兵を相手に奮闘したが、遂に力尽き、敵に討ち取られてしまったのである。
話しを聞いた孟徳は、止め処なく泪を流して彼らの死を悼み、その亡骸を取り戻す為、有志を募って宛へ向かわせる事にした。
穣に駐屯した張繍軍の攻略を曹子廉に任せ、一旦許へ引き上げる決定を下したその日の朝、孟徳の幕舎へ、戦場を捜索していた仲間の兵士がある物を発見したと報告に現れた。
彼らに案内され幕舎の表へ行ってみると、眩しい朝露に輝く一頭の黒鹿毛の姿がある。
孟徳は目を瞠り、思わずその馬に駆け寄った。
「絶影…!」
戦場を徘徊している一頭の馬を発見した兵士が近寄って良く見れば、それは孟徳の愛馬、絶影であった。
絶影は脚に怪我を負っていたものの、治療を施された跡があり、何とか無事に生き延びる事が出来たのである。
絶影の逞しい首筋を何度も撫で下ろし、瞳を潤ませる孟徳は小さく声を震わせて呟いた。
「良く生きて戻ったな…!お前は、安民の忘形見だ…!」
絶影の嘶きが、彼らの頭上に広がる寒空に、何処までも遠く響き渡る。
途端に溢れ出した泪が頬を伝うと、孟徳は絶影の首に取り縋り、肩を震わせて噎び泣いた。
曹孟徳が宛で張繍軍と戦い敗走したと言う報せは、小沛に駐屯していた劉玄徳の元へも届いていた。
その戦で、孟徳は最も信頼していた護衛の将を喪ったと言う。
そこまで孟徳を追い詰め、苦しめたのは張繍軍の軍師、賈詡と言う人物であった。
孟徳は嘸や落ち込んでいるだろう…
と、玄徳は想像したが、今は他人の事を心配している場合では無い。
袁公路は玄徳の予想通り、やはり奉先の居る徐州の攻略を一旦据え置いて、玄徳が駐屯する小沛へ兵を向けて来たのである。
公路は、紀霊(字を文冥)と言う将に三万の兵を率いさせ、劉備軍を攻撃させようとしていた。
文冥は公路の配下にしては珍しくと言うべきか、非常に実直で義に厚い人物であった。その上、武勇に優れ、長さ八尺(約2m)、凡そ五十斤(約11kg)も有ると言われる三尖刀と言う名の武器を自在に操る事が出来る。
武勇ならば、此方には関雲長と張翼徳が居るが、兵の数が断然足りず、例え義弟たちが一騎当千の働きをしたとしても、城を護り切るのは困難であろう。
雲長と翼徳を前に、玄徳は苦い表情を浮かべた。
「仕方が無い…あの男に、援軍を要請しよう。」
下邳に滞在する奉先の元へ劉玄徳からの援軍要請が届くと、奉先は陳公台を呼び寄せ、彼に対策を尋ねた。
「今、小沛を袁術軍に奪われては、我々は完全に包囲される形となり、追い込まれて仕舞うでしょう。一番の得策は…」
呼び寄せられた公台は、先ず彼の前に地図を広げ、そこを指で指し示しながら説明を始める。
奉先は彼の指し示す地図を凝視し、公台の次の言葉を待った。
「我々が先に、劉玄徳を潰す事です…!」
「援軍を要請して来た相手を、攻撃しろと言うのか?!」
それを聞いた奉先は、驚きの表情で公台の顔を見上げた。
すると公台は表情を変えず、
「嫌なら、今は劉玄徳を助ける他有りません。」
そう、あっさりと答えを返す。
奉先は思わず苦笑を浮かべ、大きく唸った。
「成程そうか…複雑だな、戦の駆引きと言うのは。俺には向いていない…」
「戦には、“四路五道”がございます。どう動くかに依って、結果は違った物に成るでしょう。しかし、奉先様には僕が付いています。ご安心下さい…!」
公台は微笑し、奉先に向かって拱手すると力強く答えた。
奉先が自ら精兵五千騎を率いて小沛の救援に駆け付けた事を知ると、紀霊は進軍を一旦停止させて小沛から凡そ十里(約4km)手前に陣を張り、そこへ駐屯する事にした。
「良く来てくれたな、奉先…!」
彼らを小沛へ迎え入れ、玄徳は奉先の前へ進み出ると笑顔を向ける。
正直、奉先が救援に来る可能性は低いと見ており、機に乗じて攻め込まれるのではと、内心心配していた。
奉先は彼に微笑を返したが、
「俺が此処へ来たのは、袁術軍に対する牽制の為だ。袁公路に喧嘩を売ってまで、俺があんた達を助ける義理は無いと思うが…?」
不躾な態度でそう言うと、玄徳の背後に控えていた雲長と翼徳が、白地に敵意を表情に表す。
それを稍々制しながら、玄徳は苦笑を浮かべて奉先を顧みた。
「確かに、その通りだ。俺も、お前たちに無条件で袁術軍を追い返してくれと頼みはしないさ。だが、この話しを聞けば少しはその気になるかも知れぬが…」
「…?」
玄徳の意味深な言葉に、奉先は訝しげに眉を顰めた。
小沛を目前にしながら陣を張って動こうとしない紀文冥の幕舎へ、一人の男が訪れていた。
男は彼に拱手し、敬った態度を示してはいるが、その目には苛立ちを漂わせている。
「紀将軍、いつになったら小沛を攻撃なさるのです?このまま徒に時を費しては、兵士たちの士気が下がるばかりか、兵糧が尽きてしまいますぞ…!」
「急いては事を仕損じる。張将軍、貴殿が功を焦る気持ちは分かるが、相手の援軍には呂奉先が付いている。無闇に攻めるのは危険だ…」
それに対し、文冥は落ち着いた物腰で彼を諭した。
不満の表情で彼の目の前に立っている張将軍と呼ばれたその人物は、泰山付近の山寺で曹巨高らの一行を襲った、あの張闓と言う男である。
張闓は、その後行方を晦まし、仲間たちと山賊になり悪事を働くなどして食い繋いでいたが、曹孟徳が自分の首を狙っている事を知り、袁公路の元へ逃げ込んだのであった。
袁公路に匿って貰う立場である以上、何かしらの功を上げなければ成らない。
この度の小沛攻めは、彼にとって袁公路に認められる絶好の機会であり、自ら志願して紀文冥に従軍したのである。
「しかし、将軍…っ!」
張闓が身を乗り出そうとした時、幕舎の中へ文冥の配下が入って来た。
「文冥様、呂奉先から伝達の使者が訪れております。」
「呂奉先から…?!」
配下の報告に、文冥は驚きの表情で腰を浮かせた。
使者の話によると、小沛の城外に陣を張った奉先が、文冥を宴に招待したいと言っていると言う。
紀文冥と呂奉先には面識があった。以前、奉先が袁公路を頼って来た時彼らを借りの宿舎へ案内し、袁術軍の規律や秩序について教えたのは彼である。
とは言え、そこまで親しい間柄と言う訳では無く、
何か企んでいるのでは…
と考え少し躊躇ったが、無碍に断っては戦況を悪化させる恐れがあると判断し、招待を受ける事にした。
早速、数名の護衛を従え張闓を伴って呂奉先の陣営へと向かうと、奉先に笑顔で出迎えられた。
即席の宴会場ではあるが、豪華な食事や華やかな歌姫たちが揃えられている。
「文冥殿、袁公路殿の元では大変世話になった。今日は存分に楽しんで頂きたい。」
奉先は親しみを込めた笑みを浮かべて言ったが、文冥は瞳に警戒心を漂わせている。
そんな彼の肩を叩きながら、奉先は笑って彼らを宴席へと誘った。
所が、宴席に着いた途端、文冥は顔色を変え訝しげに奉先を見上げた。
彼らの向かいの席が空いている事に気付いたのである。
奉先は微笑し、
「実は、今日は特別な客を呼んである。」
そう切り出し、側近に何やら小声で指示を出すと、やがて宴席に数名の客と思われる男たちが姿を現した。
それを見た途端、文冥は思わず立ち上がり、奉先を睨み付けながら怒声を発する。
「奉先殿…!どう言う積もりだっ?!」
彼が激怒するのも無理は無い。
目の前には、敵対している劉玄徳とその義弟たちが立っているのである。
奉先は文冥の肩を押さえ、「まぁまぁ、」と相変わらず笑みを湛えて彼を宥めた。
「知っての通り、俺は劉玄徳殿の援軍として戦場へ駆け付けたのだが、貴方には世話になった借りがあるし…正直に言うと戦をしたくは無いのだ。」
「………っ!」
文冥は険しい表情を向けたまま、強く歯噛みをしている。
彼には、奉先が言わんとしている内容が想像出来た。
しかし、何と言われても彼には受け入れる気は無いし、受け入れられる筈が無かった。
「言葉を返す様だが、わしは和睦交渉の為に来た訳では無い!帰らせて貰う…っ!」
憤然としながら踵を返して立ち去ろうとしたが、奉先に引き止められた。
「文冥殿、ここは俺の顔を立てて抑えてくれ…!俺にも、機を与えては貰えないだろうか?」
「…?」
不審感を露わにする文冥を尻目に、奉先は護衛兵が持っていた戟を手に取り、彼らを促して会場の外へ出て行く。
仕方無く、文冥も護衛たちと共に彼の後に続いて表へと向かった。
「一つ賭けをしよう。この戟を、此処から五十歩の距離まで行った所に突き立て、矢を放つ。戟の胡(小枝部分)に矢が当たるか当たらぬかを予想して頂きたい。文冥殿が勝てば、俺は傍観して手出しはせぬと約束するから、好きなだけ小沛を攻撃しても良い。」
「何だって…?!」
文冥は、驚きと困惑の表情で奉先を顧みる。
「その代わり、玄徳殿が勝てば、速やかに陣を払って退却して頂きたい…!」
「…?!」
更に驚いた文冥は、最早開いた口が塞がらなくなっていた。
「馬鹿な事を抜かすな!お前たち、どうせ示し合わせておるのだろう!文冥殿、こいつらの言いなりになっては成りません…!」
そこへ、奉先と玄徳らを指で指し示しながら、息巻いて彼らの間に割って入ったのは張闓である。
「それなら、貴殿がこの戟を突き立てに行ってくれるか?」
奉先がそう言って彼の前に戟を差し出すと、張闓は憤然と彼を睨み付け、その手から戟を奪い取る。そして、出来るだけ大股で五十歩の距離を歩き始めた。
「おいおい、本当に大丈夫なのか…?」
どんどん離れて行くその後ろ姿を見ながら、玄徳の隣に立つ翼徳が不安気に呟く。
「どうだろうな…運を天に任せるしか無さそうだ…」
玄徳は苦笑を浮かべ、同じ様に張闓の姿を見守った。
やがて五十歩の距離に辿り着き、そこに戟を突き立てた張闓が振り返って後ろを見ると、彼らの姿は遥か遠くに見えている。
「この距離で矢を当てるだと…?」
張闓が嘲笑うと、奉先が彼に呼び掛ける声が聞こえた。
「本当にそこで良いか?あと十歩下がっても良いのだぞ!」
「何い…?!」
奉先の豪胆さに多少呆れつつ、張闓は戟を引き抜き更に十歩下がって戟を突き立てた。
それを確認すると、奉先は劉玄徳と紀文冥の二人を振り返る。
「さあ、準備は整った。互いに、条件は悪くは無い筈だ。後は、この賭けに乗るか乗らないか…」
戟は遥か彼方に突き立てられており、とても矢を当てる事が出来るとは思えない。
文冥が迷っていると、先に玄徳が声を上げた。
「俺は、奉先殿に全てをお任せすると決めて此処へ来た…奉先殿なら、あの戟に矢を当てる事が出来ると信じている…!」
淀み無く答え、奉先に微笑を向ける。
「馬鹿な…!この距離であの戟に矢を当てるなど、不可能だ…!」
思わず文冥は声を荒げ、必然的に彼らの賭けは成立した。
「では、当たれば玄徳殿の勝ち。当たらねば文冥殿の勝ちとする…!」
そう言うと、奉先は纏っていた外套を脱ぎ捨て、弓に矢を番えて狙いを定める。
途端に辺りの空気は張り詰め、緊張が走った。
その場に居る全員が息をするのも忘れ、固唾を呑んで奉先を見守っている。
奉先は一度大きく息を吸い込み、瞼を閉じて精神を集中させた。
緩やかな風が、陣営内に立てられた陣旗をはためかせている。
その風が止んだ瞬間、奉先は忽ち瞼を開き、引き絞った弓から矢を放った。
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