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第十章 覇業への導きと蒼天に誓う絆

第百二十三話 飛翔の弓術

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「五十歩の距離に立てられた的に、矢を当てるだって…?!本当に出来るのか?!」

「出来るかと問われれば、確率は半々と言った所だ…」
「兄者…!こいつを信じて、本当に大丈夫か…?!」
苦笑を浮かべる奉先を見て、呆れ顔の翼徳が玄徳を振り返る。

宴の前日、奉先は小沛しょうはいの劉玄徳の元を訪れ、紀文冥きぶんめいを誘い出して自ら仲裁ちゅうさいに出る事を彼ら義兄弟に告げていた。
その仲裁方法とは、距離にして五十歩離れた場所に立てられたげきに矢を当てるというものである。

「矢が当たるか当たらぬかを賭けて貰う。上手く行けば、戦わずに敵を撤退させる事も可能だ。悪い話しでは無いと思うが?」

奉先がそう言って玄徳をかえりみると、隣に立つ雲長が首をひねり、長く伸びた顎髭あごひげしごきながら玄徳の横顔に問い掛けた。

「だが、こんな馬鹿げた話に相手が乗って来るであろうか?」
「ふっ…相手も未だ攻め口が見付からず、いたずらに時を費やしている。そろそろしびれを切らしている頃だろう…」
雲長に微笑を向けて答えると、玄徳は奉先に向き直る。

「確かに、紀霊軍とまともにぶつかり合えば、我々の軍に大きな損害が出る事は必至ひっし…それならば一縷いちるの望みを賭けて、お前にゆだねるのも悪くない…!」

それを聞くと奉先は破顔はがんし、

「それでは、明日の夕刻までに俺の陣へ来てくれ。」
そう言って彼らに向かって拱手きょうしゅした後、きびすを返してその場から立ち去ろうとした。
その時、彼の背中に玄徳が声を掛ける。

「奉先…!俺は、きっと明日は成功する方に賭けるだろう。お前が必ず矢を当てると信じている…!」

奉先は一瞬その場に立ち止まったが、わずかに微笑を浮かべつつも、そのまま後ろを振り返る事無く再び歩き出した。


放たれた矢は、うなりを上げながら風を切り裂き、遥か彼方の的に向かって大きくを描く様に飛んで行く。

「まさか…っ、嘘だろう…?!」
的となったげきの近くでそれを見ていた張闓ちょうがいは、その場から逃げる事も忘れ、高速で迫り来る矢に釘付くぎづけになっていた。
もし矢がれれば、自分に当たるかも知れないが、そんな事を考えている余裕は無い。

「当たれ…!」
背後で翼徳が祈る様に叫ぶと同時に、
「当たるな…っ!」
と言う文冥の悲愴ひそうな叫びも聞こえて来る。
奉先はただ、放った矢が的に向かって吸い込まれる様に飛んで行くのをじっと見詰めた。

張闓がはっと我に返った時、矢は既に目前にまで迫っていた。
「ひっ…!」
思わず声を上擦うわずらせ、張闓は自分の頭を抱えて転がる様に地面に身をせる。
次の瞬間、やじりが見事に戟のの部分に当たり、激しい火花が飛び散った。
それを冷静な眼差しで黙したまま見詰めている玄徳の隣で、今度は雲長が感嘆の声を上げる。

「見事…!正に飛将ひしょう神弓しんきゅうの如き腕前…!」

「ばっ、馬鹿な…!!」
文冥はたちま蒼白そうはくになり、信じられないと言う表情でその場に立ち尽くした。
“飛将”とは前漢の将軍、李広りこう渾名あだなである。
李広は弓術に優れ、その矢は岩をも貫き通したと言う伝説があり、匈奴きょうどたちから“飛将軍”と呼ばれ非常に恐れられていたと言う。

振り返った奉先が唖然あぜんとして立ち尽くす文冥に微笑を向けると、文冥は我に返り悔しさをにじませながら彼をにらみ付けた。

「さあ、文冥殿。約束通り兵を引いて頂こう…!」

「………!」
文冥は言葉を失ってしばし怒りに震えていたが、やがて憤然ふんぜんとしながらもきびすを返し、部下たちを引き連れて宴会場から出て行ってしまった。

「将軍…!お待ち下さい!」
後から張闓が慌てて彼を追い掛けて来る。

「本気で兵を引くお積もりですか?!」
彼を呼び止め、驚きの表情で問い掛ける張闓を、文冥は鋭く振り返った。

「約束は約束だ…!」
「し、しかし…!このまま、のこのこと帰る訳には行きますまい?!」
「では、どうしろと言うのだ?!約束を反故ほごにすれば、奉先は怒って我々を攻撃するであろう…!あの弓術を見たであろう?!奴は本物の怪物だ…!」

吐き捨てる様に言うと、文冥はその場から足早あしばやに歩き去って行く。

「…おのれっ!呂奉先め…!」

張闓は遠ざかる文冥の背中を見送り、忌々いまいましげに低くうなると、振り返って夕陽に赤く照らされている奉先の陣営の方を睨み付けた。


夜半過ぎ、暗闇の中を音を立てずに進む一団の姿がある。
彼らは軽装で、皆全身を黒尽くろづくめにして闇に溶け込んでいる。
先頭を進む男がやぶに身を潜め、仲間たちに合図を送って戦闘態勢を取らせた。
後方にひかえているのは、鳴き声を上げないよう馬にばいくわえさせた騎兵部隊である。
彼らの目前には、幕舎の灯りは消え、すっかり寝静まっていると思われる呂布軍の陣営があった。

男の合図でときの声を上げ、騎兵部隊が一斉に敵陣目掛けて突撃を開始する。
陣門はまたたく間に破られ、敵陣内に兵士たちが雪崩なだれ込んだ。
先頭を走る男は、既に奉先の幕舎の場所を突き止めており、武器を手に真っ直ぐに彼の幕舎へと向かった。
入口の幕を切り裂き、勢い良く中へと飛び込む。

「?!」

所が、彼の目に飛び込んだのは既にもぬけの殻となった幕舎であった。

しまった、たばかられたか…!
そう思った時、今度は反対側から鬨の声が上がり、闇に伏せられていた兵士たちが一斉に弓矢を放つ。
彼らの騎兵部隊は次々に敵の矢に倒れ、部隊は忽ち壊滅に追い込まれてしまった。

「くそ…!」
男は強く歯噛みをし、這々ほうほうていで仲間たちと敵陣から逃れたが、途中で仲間とはぐれてしまい、彼は一人で夜闇の中を逃げ惑った。
辺りを敵兵が走り回っている。
くさむらに息を潜め、何とか敵兵に発見される事無く間道へ出る事が出来た。

「此処まで来れば、もう追っては来ぬであろう…」
一息付いた時、突然彼の行く手に人影が立ち塞がった。
辺りは灯り一つ無い暗闇である。咄嗟とっさに剣を構え、人影に対峙たいじした。
やがて、雲にさえぎられていた月明かりが地上へと降り注ぎ、目の前に立つ人影を照らし出す。
見れば、それは大きな戟を手にした長身の男であった。

「張闓…あんたを待っていた…!」

男に名を呼ばれ、訝しげにその顔を覗き込んだ張闓は途端に青褪あおざめた。

「り、呂奉先…!?」
思わず大きく息を呑み後退あとずさる。

「今日の賭けに納得していなかったあんたが、必ず夜襲を掛けて来ると読んでいた。」
「お、おのれ…!やはり、あの賭けは茶番ちゃばんであったか…!」

しかし、張闓にはに落ち無い事がある。
何故、奉先が自ら態々わざわざ待ち伏せをしていたのか。
訝しがっている様子の張闓に鋭く視線を送ると、奉先が重い口調で語り出す。

「あんたは、泰山たいざん付近の山寺で曹巨高そうきょこうとその一行を襲った…!」
「それが、お前と何の関係が有ると言うのだ?!」
張闓が息巻くと、奉先はまぶたを閉じ、怒りを抑える様に大きく息を吸い込んだ。

「巨高様の護衛をしていた虎淵こえんは、俺の愛弟子だった…!」

そう言うと、かっと目を見開き、怒りの眼差しで張闓を睨み付ける。

「虎淵…?ああ、あの豎子じゅしの事か…成程、通りで腕の立つ小僧だった訳だ。」
一瞬、誰の事か分からなかったが、思い出した張闓は太々ふてぶてしい態度で言い放ち、奉先を挑発するかの如く笑い声を上げた。

「それで、弟子のかたきを討つ為に、わしを待ち伏せていたと言うのか…?!ふん、それなら門違かどちがいもはなはだしい…!わしは陶恭祖とうきょうそに命令されてやったのだ、恨むなら陶恭祖を恨むんだな…!」

「…このに及んで、言い逃れをしようとは恥知らずな奴だ…!あんたの様な不逞ふていやからに殺されるとは、虎淵もさぞ無念であったろう…」

「何だと…?!」
まなじりが熱くなるのを抑えながら、奉先がうなる様に発する言葉に、張闓は憤慨し顔を真っ赤にする。
二人は睨み合ったまま、暫し対峙たいじし続けていた。

背筋をじっとりとした冷たい汗が流れ落ちている。
目の前の怪物をたおさねば、彼には最早もはや生き残るすべは無い。
剣把けんぱを握る手にも汗がまとわり付き、何度もそれを握り直す。
その様子を、奉先は微動だにせず冷たい目付きで睨み据えていた。

奉先の武勇が人並み以上である事は重々承知しょうちの上だが、りとて、このまま黙って斬られると言う訳には行かない。
張闓も剣術の腕前にはそれなりに自信が有る。
奉先が手にしている戟は長く大きいが、その分重さが有り、素早さでは相手に勝っていると確信していた。

冷たく乾いた一陣の風が二人の頬を吹き抜けた瞬間、二人はほぼ同時に前へ踏み出した。

張闓は素早く剣刃をひらめかせ、たちまち間合いを詰めて相手の懐へ飛び込む。
相手の心臓を目掛けて鋭く刃を突き出したが、それは戟の柄で素早く弾き返されてしまった。
間髪かんはつを入れず次の一撃を繰り出す。
しかし次の瞬間、目の前の敵の姿は忽ちき消え、張闓は思わず息を呑んだ。

額から冷や汗が吹き出し、彼は自分が地面の上に真っ直ぐに立っているのかどうかすら分からなくなってしまった。
奉先はその一瞬にして、彼の後方にまで移動していたのである。

は、速い…っ!

張闓は頭の中でそう呟いたが、それが声に出る事は無かった。
奉先の素早さは彼の想像を遥かに超えていた。
握った戟の刃には、おびただしい鮮血がまとわり付いている。
張闓の体が、彼の足元に広がる血溜まりの中へゆっくりと崩れ落ちると、奉先は上体を起こし、肩越しに振り返ってむくろと成り果てた彼を見下ろした。

「いずれまた、地獄で会おう…」

そう言葉を投げ掛けた後、刃に付いた血を拭き取り、奉先の影は闇の中へ溶け込む様に静かに消えて行った。

張闓が命令を聞かず勝手に呂布軍に夜襲を仕掛けた上、敵に討ち取られた事を知った文冥は激しく慨嘆がいたんしたが、む無く兵を引き、袁公路の元へ報告に向かった。
当然、その話しを聞いた公路は激怒し、文冥を激しく罵倒ばとうした。

「詰まらぬ賭けに敗北した上、副将ふくしょうを失うとは…!お前は一体、何をやっているのか?!」

これには文冥も震え上がり、流石さすがに首が飛ぶかも知れないと覚悟していたが、公路は彼を罰する事はせず、今度は矛先ほこさきを徐州へ向け、張勳ちょうくん橋蕤きょうずいらと共に呂布軍を攻撃するよう命令を下したのであった。

袁公路が徐州への侵攻を開始した報を受け、下邳かひへ戻っていた奉先の元へ、陳珪ちんけい(字を漢瑜かんゆ)、陳登ちんとう(字を元龍げんりゅう)と言う父子おやこが訪れていた。
陳氏は徐州を代表する名家で、子の元龍は劉玄徳が陶恭祖から徐州を譲られた時、孔融こうゆうらと共に彼を説得した事がある。

天下が皇帝をようした曹孟徳によってまとまり始めている今、声望せいぼうの低い袁公路に徐州を支配される事には難色なんしょくを示しており、もっと言えば、彼らは劉玄徳に統治される事を望んでいた。
も角、今は何としても呂奉先が袁公路に取り込まれては成らない。
そこで、奉先に必勝の策をさずける為に、彼との面会を望んだのであった。

先見せんけんめいの有る息子の元龍は、袁術軍はやがて内部分裂すると見ており、長安から脱して公路の元へはしった楊奉ようほう韓暹かんせんらを寝返らせ味方に引き込む事を奉先に提案した。

その策をれた奉先は早速、楊奉、韓暹らに金品を贈って寝返り工作を行い、彼らは、これを好機とばかりに、あっさりと敵に寝返ってしまった。
実はこの頃、袁公路は自ら“皇帝”を僭称せんしょうしており、寿春じゅしゅんを都とし、国号を『ちゅう』と定めていた。
このまま袁公路の側に付いていれば、やがて自分たちも逆賊にされる可能性が有る。と彼らは考えていたのである。
その結果、張勳、橋蕤らの軍は忽ち窮地きゅうちに陥り、ふくれ上がった呂布軍に散々に撃ち破られ、大敗をきっしてしまったのであった。

見事に袁術軍を大破した奉先は、再び陳父子おやこを屋敷に招き次の策を尋ねた。

「天下は、皇帝を擁している曹孟徳にやがて統治されると考えられます。曹孟徳の元へ使者を送り、同盟を持ち掛けるのが宜しいでしょう。」

父の漢瑜が言うと、息子の元龍も大きくうなずく。

「私が使者として、曹孟徳の元へ参ります。必ず朗報ろうほうをお届け致しましょう…!」

そう言って微笑を向け、元龍は力強く答えた。

孟徳殿と同盟を…
胸の中で小さくそう呟くと、忽ち奉先の胸に熱い物が込み上げてきた。

今日まで、戦の日々で考えている余裕も無かったが、ようやくその時が来たのである。
孟徳との同盟締結ていけつに成功すれば、そこから自然の流れで徐州を引き渡せば良い。
遂に、主の元へ戻る日が来るのだ…
まだ実感はかないが、確実に彼の胸に希望と期待がふくらんで行った。

そんな奉先と陳父子の様子を、広間の後ろで黙って見詰めている者がある。
そこには、奉先と同じ様に胸をおどらせている筈の陳公台が、只管ひたすらに暗い眼差しでたたずんでいた。

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