上 下
125 / 132
第十章 覇業への導きと蒼天に誓う絆

第百二十五話 下邳の戦い

しおりを挟む

許都きょとから主力部隊を率いて戦場へ到着した曹孟徳そうもうとくは、呂奉先りょほうせん小沛しょうはいを追われた劉玄徳りゅうげんとくらと合流すると、大軍で押し寄せたちまち小沛を取り戻した。

そののち、小沛から近い簫関しょうかんとりでへ逃げ込んだ呂布軍と対峙たいじしたが、彼らは攻撃の手を緩めず苛烈かれつに攻め立てて砦を落とすと、次は彭城ほうじょうまで侵攻しんこうし、そこでも呂布軍を打ち破った。

曹操軍の戦法は、小沛から一気に徐州へ攻め込み、下邳かひを攻略する作戦である。
戦略は、軍師の郭奉考かくほうこうと、荀文若じゅんぶんじゃくの推薦で新たに曹操軍に加わった、荀攸じゅんゆう(字を公達こうたつ)と言う人物らが提案した。

荀公達は、豫州よしゅう潁川えいせん潁陰えいいん県の人で、荀文若の従子じゅうし(おい)に当たるが、年齢は文若より五つ年上である。
甥が叔父おじより年長とは少し想像が付きにくいが、当時としては珍しくは無かった。

公達は以前、董仲穎とうちゅうえいが政治の実権を握ると、その暴虐な政治にいきどおり、議郎ぎろう鄭泰ていたい何顒かぎょう、更に侍中じちゅう种輯ちゅうしゅう越騎えっき校尉の伍瓊ごけいらと共に、董卓の暗殺をはかった事がある。
しかし、計画は事前に仲穎側に発覚し、公達は何顒と共に投獄され、死刑を言い渡されてしまった。

共に投獄された何顒は憂いのあまり獄死ごくしを遂げたが、公達は泰然自若たいぜんじじゃくとして、話す時も食事をる時も普段と変わらぬ様子だったと言う。
その後、処刑を間近に董仲穎が奉先によって誅殺ちゅうさつされた事で、公達は獄から脱出する事が出来たのであった。

大軍をようしている曹操軍は、戦が長引けば兵糧ひょうろうの確保が問題となる為、短期決戦を望んでいる。
そこで呂布軍は下邳まで退しりぞくと、籠城ろうじょうの構えを見せ、長期戦に持ち込む作戦に出た。

同時に、袁公路えんこうろとの和睦わぼく交渉の為、陳公台ちんこうだい下邳かひを離れ、急ぎ寿春じゅしゅんへと向かっていた。
しかし、公路との和睦は無条件と言う訳には行かぬであろう。
そこで奉先は、この戦で曹操、劉備の連合軍を退しりぞける事が出来れば、徐州じょしゅうの領土を割譲かつじょうすると言う条件を付け、公台を送り出していた。


しゅん、お前は貂蝉ちょうせんと共に、雲月うんげつ雲彩うんさいを連れてひそかに下邳を脱出し、彼女の故郷くにへ向かってくれ。」

居室へ呼び出した俊と貂蝉にそう告げると、俊は拳を握り締めたまま立ち尽くし、貂蝉は赤い瞳をうるませ、二人はそれぞれ奉先の顔を凝視ぎょうしした。

「僕は…奉先様と共に戦いたい…!」
身を乗り出し、小さく唇をふるわせて俊がうったえる。
奉先は彼の肩を強く叩き、その瞳をのぞき込むと、

「お前には、家族をまもって貰いたいのだ。此処はやがて戦場となる。まだ産まれたばかりの雲彩には命の危険が大きすぎる…」
そう言って、強い口調で彼を説得した。
目元を赤く染めた俊はやがてうつむき、大きく肩を落としながらも、小さく首を縦に振って理解を示す。

「私は行かない…!奉先と一緒に此処に残るわ…!」
しかし、貂蝉は下邳かひを離れる事をかたくなに拒絶きょぜつした。

「貂蝉、お前は雲月のささえとなってやってくれ。戦が終われば、必ず迎えに行くと約束するから…!」
「嫌…っ、私は此処から離れたく無いの…!此処で別れたら…きっと、もう貴方とは会えなくなる…!」
たちまち大きな瞳からなみだあふれ、彼女の紅潮こうちょうした頬を伝い落ちる。

みんなが死ぬ覚悟だって、私には分かってるの…だから…!」

「…貂蝉」
うれいの眼差しで彼女の濡れた瞳を見詰め返すと、貂蝉は再び泪をこぼし、奉先の胸に強く抱き着いた。
声を震わせて泣く貂蝉の肩をで下ろし、奉先はまぶたを閉じて、彼女の柔らかくつややかな黒髪に頬を押し当てる。
「心配するな、貂蝉。俺は死んだりしない…」
今の彼には、泣き続ける貂蝉の頭を優しく撫で、なぐさめの言葉を掛ける事しか出来ない。

「この子たちも、あんたの大事な仲間だろう…望みを聞いてやってはどう?」
いつの間にか居室に姿を現した雲月が、眠る雲彩を腕にいだきながら、彼らに声を掛けた。

「それに俊は、もう立派な兵士だよ。兵は一人でも多い方が良いじゃないか…!」
雲月はそう言って笑い、俊の肩を強く叩く。
思わず顔を紅潮させながらも、俊は力強い眼差しを奉先に向け、大きくうなずいて見せた。
雲月は微笑をたたえ、振り返って彼女を見詰める奉先に静かに歩み寄ると、そっと指を伸ばして彼の頬を優しくでる。

「あたしだって、故郷くにへ帰る気は無いよ。あんたの妻なんだから、最後まであんたに付いて行くと決めたんだ…!」

「雲月…」
初めて見る様な妻の潤んだ瞳に、強いいとおしさをいだき、奉先は彼女のひたいに自分の額を押し付ける様にして、その肩を腕に引き寄せた。

西の窓から差し込む落日らくじつ光芒こうぼうが、雲月の腕に抱かれ、すやすやと眠る邪気あどけない雲彩の頬を、暖かな茜色あかねいろに照らし出している。
やがて、赤い夕陽ゆうひは遠い地平の彼方へと消え行き、辺りは次第に紫紺しこんの闇へと染まって行った。

寿春へ向かった陳公台は袁公路との面会を果たし、和睦交渉にのぞんでいた。
公路は和睦について一応の理解は示したものの、やはり無条件と言う訳には行かず、領土の割譲を提示してようやく納得した。
それから暫し、談笑などを交えて会話を繋いでいた公路だったが、おもむろに身を乗り出すと、公台に問い掛けた。

「所で…奉先殿には、娘がいると聞き及んでおる。わしには息子がおり、そのを嫁に貰いたいと考えておるのだが…どうか?」

「お嬢様を、ですか?!」
公台は思わず瞠目どうもくし、公路の顔を驚きの表情で見上げた。
しかし、彼は直ぐに相好そうごうを崩すと、

「それは良いお考えです。公路様の御子息ごしそくなら、奉先様もきっとお喜びになる事でしょう…!」
そう答えて満面の笑みを浮かべた。

奉先の娘、雲彩はまだ生まれたばかりの赤児である。
公路の息子との結婚を奉先が許すとは到底とうてい考えられない。それに、第一に妻の雲月が認める筈が無いであろう。
しかし、猜疑心さいぎしんの強い公路は、口約束だけでは信用出来ないと考えている。

公路は、お嬢様を人質ひとじちとして手元に置いて置きたいのだ…
直ぐにそう思いいたった公台は、此処で難色を示し折角せっかくの交渉を決裂させてはまずいと考え、えて喜びを表したのである。

「それでは、必ずお嬢様をお連れして参ります。どうぞ今暫くお待ち下さいませ。」
そう言うと、公台は公路に丁寧にれいを返し交渉の場を離れると、急ぎ帰路きろに着いた。

下邳へ戻った公台から、袁公路に持ち掛けられた婚姻こんいん話を聞いた奉先は当然驚き、激しく困惑こんわくした。

「雲彩を、袁公路の息子と結婚させるだと…?!」

「心配には及びません、奉先様…!考えてもみて下さい。我々の条件は、曹、劉連合軍を退しりぞけたら…と言うものです。そもそも退ける事が出来なければ、公路には何の利益も有りませんから、彼は嫌でも我々に援軍を送らねばなりません。お嬢様をお連れするのは、袁術軍に援軍を要請する時で構わないのです…!」
公台は、動揺を隠し切れない様子の奉先をなだめる様に説明した。

「なる程…そうか、援軍を要請する必要が無ければ、雲彩を送る必要は無いと言う事だな…」
奉先はうなる様につぶやき、居室の窓からのぞく庭先で、雲彩をあやしている美しい妻の姿を見詰める。

視線を感じたのか、ふと顔を上げて此方を振り返った雲月と目が合うと、奉先は咄嗟とっさに彼女に向かって笑顔を取りつくろった。
雲月はそんな彼の様子を可笑おかしそうに見て笑ったが、彼女は元々かんが鋭い女性である。
内心では奉先が悩みを抱いていると感じ取り、瞳に憂いを漂わせていた。

「しかし、籠城を視野に入れるとなれば、援軍を要請する時が来る事を覚悟しておいた方が良いでしょう…」
「敵の兵糧ひょうろうが切れるのが先か、こちらの気力がきるのが先か…根比こんくらべと言う訳だな。いざとなれば、雲月を説得して俺が自ら雲彩を連れて公路の元へ行こう…!」
奉先が小さく虚空こくうを仰ぎ見て答えると、公台は彼の横顔に向かって拱手きょうしゅした。

下邳は天然の要害ようがいに守られている。
公台の言った通り、下邳を落とすのはそう簡単には行かない。
曹操軍は大軍で下邳を取り囲んだものの、既に半月を要しても落とす事が出来ずにいた。

このままでは兵糧が尽き、戦どころでは無くなってしまう…
孟徳はあせりを覚え、一度包囲を解いて小沛まで退しりぞく事を、軍師の郭奉考らに相談した。

「此処で兵を引いては、これまでの戦が無にする。敵が気力を取り戻し、軍師の陳公台が軍略を立てるのに時を与えてしまっては、再び攻めても守りは更に強固な物となり、落とすのは難しくなってしまうであろう。」
奉考の意見はもっともである。
だが、孟徳は何時いつに無く弱気な態度を示す。

「しかし、我々は大軍を率いており速攻そっこうで攻め落とさねば意味が無い。こうも長引けば兵たちの士気は下がり、そのすきを狙われれば、忽ち突き崩されてしまうだろう…!」

皆の前で何時も強気に振る舞ってはいるが、ここの所、負け戦に見舞われ大事な寵臣ちょうしんや家族を相次いで亡くす等、精神的に追い詰められる事が多かった。
彼は元々繊細せんさいで、心配性なたちなのである。

孟徳の幕下ばくかに入って間も無い奉考だが、今迄いままで此程これほど共に過ごす時間が楽しいと思える人物に巡り会った事は無く、彼とは非常に肌が合うと感じていた。
そんな奉考には、彼の気持ちが痛い程良く理解出来る。

仕方が無いな…あの男を呼び寄せるか…

実の所、奉考は余り乗り気では無かったが、孟徳は奪い返した小沛を再び劉玄徳に与え、彼に小沛を守らせていた。
玄徳と孟徳が知己ちきの間柄である事は知っていたが、彼としては玄徳との同盟は小沛を通過する為だけのものであり、本気で同盟関係を築く積りでは無い。
だが、今の孟徳には彼の助けが必要だと感じ、奉考は小沛へ伝達の者を送って、玄徳に兵を率いて下邳へ来るよううながした。

奉考の求めに応じて下邳へ向かった玄徳は、曹操軍の陣営に到着すると早速、義弟おとうとたちを伴って孟徳の幕舎を訪れた。

「お前にしては、随分と攻めあぐねている様子だな。」
不躾ぶしつけな態度で言いながら微笑を浮かべる玄徳を見上げると、孟徳は苦笑し、

「玄徳、良く来てくれたな。お前の予言を聞かせてくれよ。良い兆しか、それとも悪い兆しか?」
そう言って、少し皮肉ひにくを込めて返す。
微笑をたたえたまま、暫し黙して彼を見詰め返していた玄徳だったが、ふと笑いをおさめると、瞳にうれいのかげを落とした。

「良い兆し…とは言えぬが、悪いとも言えない。」

「何だ、お前にしては歯切れの悪い言い方だな…!」
え切らない答えを返され、孟徳は少し不満の表情を見せる。
落胆らくたんした様子の孟徳を暫し見詰めていた玄徳は、やかて感情を押し殺した様な声色こわいろで冷静に彼に問い掛けた。

「良いか悪いかはお前次第。奉先を、お前はどうしたい?殺すのか、それとも生かすのか…?お前の望む未来とは何だ?」
「…先の事は、まだ何も考えていない…今は、に角この戦に勝利する事だけだ。」
「ならば、今お前が立ち向かわねば成らぬ敵は…おのれ自身だな。」

彼の言葉に一瞬眉をひそめたが、孟徳は直ぐに愁眉しゅうびを開き、
「ふっ…そうだな、その通りだ…!」
そう言って小さく笑うと、幕舎の外に控えていた側近を呼び寄せる。

「軍師に伝えてくれ。このまま包囲を続ける。撤退はしないとな…!」

かしこまりました!」
側近は素早く拱手きょうしゅし、その場から立ち去って行った。
それを見送った後、玄徳のかたわらに立つ翼徳が孟徳をかえりみる。

、お前もすっかりえらくなったものだな…!」
そう言って笑うと、孟徳も白い歯を見せて笑い返し、彼らの肩を強く叩いた。

「お前たちは相変わらずだな!あれから、落ち着いて話す機会が無かったが、今日はゆっくりとして行けよ。」

彼らは小さいながらも酒宴を開き、思い出話しに花を咲かせて談笑などしていたが、やがて夕刻に近付くと、幕舎の外から小さな雨音あまおとが聞こえ始めた。

「外は雨だな…ここには泗水しすい沂水ぎすい沐水もくすいと言う三河さんがが流れ、低い土地に陣を置くと河が氾濫はんらんを起こした時、危険ではないか?」
ふと、そちらを振り返った玄徳が小さく憂慮ゆうりょの言葉を口にする。

「ああ、軍師の公達や奉考とも話したのだが、上流に大きな水門すいもんが設置されていて、水の流れを調節すれば大丈夫なのだそうだ。それに、丘へ上がって糧道りょうどうを絶たれる事の方が危険だと言ってな。」
「なる程、そうか…」
玄徳は小さくつぶやくとまぶたを閉じ、手に酒坏さかずきを取って向き直る。
それから静かに瞼を上げると、向かいに座す孟徳に視線を送った。

「孟徳、“降龍こうりゅうの谷”での戦を覚えているか…?」

勿論もちろんだ、今でも鮮明せんめいに覚えている…!
孟徳は頬を紅潮こうちょうさせ、少し興奮気味に答える。

「あの時は長雨ながあめが続き、たくわえられた水が、砦の岩肌いわはだから一気にあふれ出し、何本もの滝になって呂興りょこう将軍の部隊を襲ったのだ。」
玄徳が語るのを聞けば、その光景が鮮やかに脳裏のうりに浮かぶ。

「ああ…あの光景は幻想的で、実に美しかった…!」
「ふっ、あれは偶然の産物さんぶつだったが、結果的には敵の部隊を壊滅させる事に成功した。水の破壊力とはすさまじい…」
「そうだな、あれは見事な水計すいけいだったよ…!」
そう言うと孟徳は膝を打って笑い、彼らは再び酒坏を交わして夜更よふけ近くまで語り合った。
気付けば、幕舎の外から聞こえていた雨音は何時いつの間にか大きく鳴り響き、雨は何時止むとも知れず降り続いた。
しおりを挟む

処理中です...