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第十章 覇業への導きと蒼天に誓う絆

第百二十六話 下邳からの脱出

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やがて兵糧が尽き、撤退するであろうと思われていた曹操軍はにわか活気かっきを取り戻し、再び下邳を激しく攻め立て始めた。
密偵みっていからの報告に依ると、同盟関係にある劉玄徳らが孟徳を勇気付ける為、小沛から救援に駆け付けて来たと言う。

軍師の郭奉考は、孟徳の性格を良く熟知じゅくちしている。
孟徳が他人に弱みを見せる事を嫌うと知っており、彼の弱気をくじく為、玄徳を呼び寄せたのである。

やはり、袁公路の元へ援軍の要請に向かわねば成らぬか…
このまま手をこまねいて、ただ見ていると言う訳には行かない。
深い溜め息をき、居室から窓の外を眺めれば、暗い空から憂鬱ゆううつな雨が降り注いでいるのが見える。

「奉先様、いらっしゃいますか?」
不意に、戸口から呼び掛ける声が聞こえ、奉先が短く返事を返すと、少し顔を紅潮こうちょうさせた公台が室内へと入って来た。

「今しがた河内かだい太守の張稚叔ちょうちしゅく殿の伝達の者より、稚叔殿が兵を率いて此方へ救援に向かっているとの報告が有りました…!」

「稚叔殿が…?!」
その報告に、奉先は驚きを示した。

張楊ちょうよう(字を稚叔ちしゅく)は以前、長安を追われた奉先らが、その後身を寄せていた袁本初えんほんしょに命を狙われ、行くあてを失い彷徨さまよっている所を受け入れてくれた人物である。

稚叔は奉先に強い好意を抱いており、彼が下邳で孤立している事を知ると、居ても立っても居られなくなった。
しかし、彼は元丁原ていげんの配下であり、彼の部下には奉先をこころよく思っていない者が多い。
特に、側近の雅敬がけいは今でも奉先を恨んでおり、その上、稚叔の任地である河内郡野王やおう県から下邳はかなり遠かった為に、出兵には猛反対であった。
だが、彼はそれでも部下の反対を押し切り、下邳へ向かう決断を下したのである。

「そうか、稚叔殿が…我が身の危険をかえりみず、我々の為に出兵してくれるとは、彼こそまさに“の人”と呼ぶに相応ふさわしい…!」
奉先は感極かんきわまった様子で喜びを表すと、そう言って稚叔に称賛しょうさんの言葉を送る。

「野王県からは遠く、辿り着くには時間を要しますが…稚叔殿が上手く曹軍の背後をおびやかし、糧道りょうどうを断って撹乱かくらんしてくれれば、我々もそれに呼応こおうして討って出る事が出来るでしょう…!」

「ああ、そうだな。稚叔殿を信じ、それまで我々も何とか此処で踏ん張ろう…!」
瞳に生気を取り戻した奉先は、目を細めて公台を見詰め、大きくうなずいて見せた。

この報告に呂布軍も活気を取り戻し、再び堅固に守りを固めて曹操軍の攻撃に耐え続けた。
張稚叔が出兵したと言う噂は曹操軍にももたらされていたが、兵力を後方の守りにまで向ける余裕は無い。
河内郡から下邳に辿り着くには相当の時間を要する筈であり、そう考えると一刻も早く下邳を陥落かんらくさせたかった。
それから数日、降り続く雨の中で繰り広げられる攻防戦を、孟徳は前線に立って指揮し続けた。

そんな矢先やさきである。

「何だって?!…稚叔殿が、死んだ…っ!」

密偵みっていから届いた思わぬ報告に、奉先は驚愕きょうがくし言葉を失った。

「稚叔殿が率いていた兵たちが謀反むほんを起こし、彼を殺害したのだそうです…」
公台は大きく肩を落とし、悔しさをにじませて強く歯噛みをする。

反乱の首謀者しゅぼうしゃ楊醜ようしゅうと言う人物で、古くから稚叔に従っていた配下であった。
楊醜もこの出兵には反対であり、「態々わざわざ曹孟徳を敵に回す様な真似をする必要は無い」と彼をいさめていた。
しかし聞き入れられず、楊醜は渋々稚叔に従ったが、側近の雅敬らとひそかに話し合い、稚叔を殺してその首を曹孟徳の元へ送る計画を立てたのである。

こうして彼らは稚叔をだまし討ち、その首を手土産てみやげに曹操軍に味方しようと目論もくろんだ。が、今度は主君を殺された事にいかった同僚の眭固すいこが、稚叔の仇討あだうちちとしょうして立ち上がり、彼ら全員を捕らえて殺害してしまった。
この凄惨せいさんな出来事の中で、張稚叔は配下の裏切りと言う予期せぬ事態で、呆気無あっけなくも絶命しまったのである。

嗚呼ああ…稚叔殿が、仲間に裏切られ命を落とされるとは…!」

奉先は深くなげき悲しんだ。
思えば、何処へ行っても厄介やっかい者扱いされ流浪する彼らを、優しく親切に迎え入れてくれたのは彼だけであった。
張稚叔は、この戦乱の世にあって誰よりもおだやかで、愛と義をつらぬいた誠実な群雄ぐんゆうの一人であった事は間違いない。

強く瞼を閉じ天をあおぐ奉先の頬を、気付けば熱いなみだが流れ落ちていた。
しかし、今はなげいてばかりはいられない。
稚叔を失った事は、頼みのつなである援軍を失ったと言う事である。

むを得ぬか…っ」

奉先は再び瞼を開くと、強く握り締めた拳を赤い瞳で見詰めながら小さくうなった。
その足で彼が向かったのは、妻、雲月の居室である。
居室へ入ると、雲月は愛しい我が子を胸に抱き、部屋の片隅にうずくまっていた。

「雲月、話したい事がある…」
彼が声を掛けると、雲月は目元を赤く染めながら黙って彼の顔を見上げた。

雨は夜になっても止む事は無く、それどころかより一層いっそう激しく降り続いている。
側近の魏伯卓ぎはくたく成爽直せいそうちょくの二人が、馬房ばぼうから飛焔ひえんを引き出し、降りしきる雨の中を城の南門へと向かっていた。

門で待機している奉先は、胸にいだかれて眠る我が子を丈夫な布に包み、おびで強く自分の体に結び付ける。
見送りに現れた公台を振り返ると、彼に向かって強くねんを押す様に言った。

「俺が留守にしている間、城の守りは任せるぞ、公台…!」
「お任せ下さい!奉先様も、どうぞお気を付けて…!」

力強く答える公台に、奉先は大きくうなずいて見せる。
やがて引いて来られた飛焔の背にまたがると、側近とわずかな手勢のみを引き連れ、彼らと共に夜闇にまぎれてひそかに城を脱出し、寿春じゅしゅんの袁公路の元へ向かったのであった。

奉先が下邳を離れ、袁公路の元へ向かった事を敵に知られるのは時間の問題である。
知られれば敵が総攻撃を掛けて来る可能性が有り、それまでに少しでも防備を固め、奉先が援軍を率いて戻るまで時をかせがねば成らない。

公台はその時に備え、呂布軍の全権ぜんけんを奉先から自分にゆだねさせ、自由に兵を動かそうと考えていた。
しかし、その行為は奉先の配下たちに不信感を抱かせ、野心を持った公台が、やがて奉先を裏切り軍を掌握しょうあくしようとするのでは無いかと、皆口々に彼をそしった。

その声は高士恭の耳にも届き、彼は一笑いっしょうして取り合わなかったが、次第に兵士たちの反発が強くなる事にうれいを感じ、重い腰を上げて公台の元を訪れた。

「奉先様は、僕に我が軍の全権をゆだねておられます。僕のめいは全て、奉先様からの命だと心得て頂きたい。」
居室の公台は、卓に広げた図面を難しい表情で見詰めた後、その目を士恭に向ける。

「勿論、それは良く分かっている。だが、部下たち皆を納得させるのは難しい。」
「高将軍、貴方たちの協力が無ければ、この城は守れません。部下を掌握するのは、貴方のつとめでは有りませんか…!」

「兵たちの反発は、俺の責任だと言うのか…?!」
思わず士恭は声を荒げ、公台をにらみ付けた。
しかし公台はひるむ様子を見せず、冷めた目付きで士恭を見上げている。
やがて小さな溜め息をき、

「…別に、そう言う訳では有りませんが…」
そう言って、再び図面に視線を落とすその姿に、士恭は強く歯噛みをした。

奉先が彼に全面的な信頼を置いている事を認めてはいるが、最近の彼の行動はを越していると感じているのも事実である。
今回の袁公路の息子と奉先の娘、雲彩との婚約の件も、相談も無く彼が独断で決めた事であり、それが士恭には納得が行かなかった。

公台が奉先を軽んじ、自分の意のままに操ろうとしている…
そう思われても仕方が無い。
その上、自分たちまで軽視されないがしろにされるのは我慢ならなかった。

「高将軍…貴方が自分の兵士を取りまとめる自信が無いとおっしゃるなら、他の者に軍権をゆずって頂きます…!」

「…えっ?!」
はっとして我に返ると、公台が鋭い眼差しで自分を見詰めている事に気付いた。

「貴方だって、謀叛むほんの罪を被りたくは無いでしょう…?」
「……!」
冷やかな口調で問い掛ける公台を憂いの眼差しで見詰めたが、士恭は反論する事無く、きびすを返して彼の居室を後にした。

高士恭が軍権を剥奪はくだつされたと言う事実は、他の配下の将たちに衝撃を与えた。
彼は奉先の腹心ふくしんである。そんな彼が、この様な憂き目にうとは誰も予想だにしていなかった。
士恭ですら公台には逆らえなかったと言う事であり、最早もはや彼を非難ひなんする者は居なくなった。

「おばさん、食事の用意が出来たわ。入るわね。」

居室の前に立つ貂蝉ちょうせんが、室内にそっと声を掛ける。
彼女は手に、わずかばかりの食事が盛られたぜんを抱えていた。
扉を開き中へ入ると、あかりの無い室内は薄暗く、肌寒さに思わず身震みぶるいいする程である。
奥の寝所しんしょには、しょうの上にうずくまる雲月の姿があった。

「朝から何も食べていないでしょう?…奉先は、きっと無事に帰って来るわ。」
貂蝉は彼女の膝元に膳を置き、牀の上に腰を下ろすと、なぐさめる様に彼女の肩を優しくでる。

「袁公路は、そんなに悪い人では無いと思うの。だから、きっと雲彩の事を可愛がってくれるから、心配しないで…」
「貂蝉…」
やがて顔を上げた雲月は、赤い目で貂蝉を見詰め、瞳をうるませながら彼女の肩を優しく自分の体に引き寄せた。

「お前は、本当に良い子だよ…」
貂蝉の艷やかな髪を撫で下ろし、こごえる頬を彼女の額に寄せる。
二人が身を寄せ合う寒い室内に響く雨音は、止む事無く何時までも冷たく鳴り響いた。



夜半やはん過ぎ、降り頻る雨の中、激しく土砂をね上げながら泥濘ぬかるみを走る一頭の騎馬が、陣門じんもんを高速で駆け抜ける。
幕舎の目の前で乗っていた馬から素早く降りたその人物は、入口に立つ護衛に目配せをし、そのまま中へと入って行った。

「孟徳兄、呂奉先が動いた…!」

大声たいせいを放ち、そう呼び掛けたのは従弟いとこの曹子廉しれんである。
奥のしょうで横になっていた孟徳は、その報告に弾かれた様に飛び起きた。

「来たか…っ!良し、準備しておいた追撃部隊を直ぐに集めよ!」

そう言って命令を下し、自身も素早くよろいを身に着ける。
「張稚叔が死亡した」と言う報告を受け、孟徳はやがて奉先が袁公路を頼って援軍の要請に向かうとにらんでおり、偵諜ていちょうを放ってあらかじめ内部を探らせていた。
この偵諜からの報告を、彼らは今や遅しと待ちびていたのである。

報告に依ると、奉先は自らわずかな手勢だけを引き連れ、寿春へ急行していると言う。
奉先を捕らえるには、絶好の機会である。
孟徳は、自らりすぐりの精鋭部隊を引き連れ、夜の闇を疾駆しっくした。

下邳から寿春までは、凡そ八百里(約330km)の距離である。
雨で道が泥濘ぬかるんでいた上、見通しが悪く、行軍は思う様に行かず、夜明け前までに三分の一の距離も進んでいなかった。

孟徳の事である。予め道筋に伏兵を配置している可能性があり、伏兵を置いていそうな間道かんどうを避け、出来るだけ見通しの良い道を選ばねば成らず、遠回りをした事も行軍を遅らせる原因となった。

このままでは、やがて敵に追い付かれてしまう…
奉先はふところむずかる雲彩をあやしつつ、あせりを感じていた。
雨は次第に弱まり、昼前にはすっかり上がっていたが、道は泥濘ぬかるみ、相変わらず行軍は難儀なんぎを極めている。

そんな中、恐れていた報告が彼らにもたらされた。
曹操軍の追手が彼らに迫って来ていると言う。
先鋒せんぽうを率いる曹子廉は、恐るべき速さで行軍していたのである。

此処まで来れば、この先で伏兵に遭遇する事は恐らく有るまい。
そう判断し、奉先らは最も近い間道を抜けて寿春へ向かう決断を下した。
やがて狭い渓谷けいこくへ差し掛かった時、先行していた斥候せっこうが舞い戻って来た。

「何だって?!道が遮断しゃだんされている?!」

斥候の報告に依ると、昨夜の大雨で土砂崩れが起き、この先の道が完全に土砂でもれ、通行出来なくなっていると言う。

こんな所で、引き返さねば成らぬとは…!
奉先は強く歯噛みをしたが、む無く迂回うかいし別の道を探す事にした。
しかしこの時、既に曹操軍の追撃部隊は目と鼻の先にまで迫っており、迂回路へ向かっている途中、遂に後方から迫り来る曹操軍の姿が見えて来た。

「我らが足止めをしますゆえ、奉先様は先をお急ぎください!」
そう言って馬を寄せて来たのは、健将けんしょう、成爽直である。
彼は驍将ぎょうしょう、魏伯卓と共に、追って来る曹操軍に奇襲きしゅうを仕掛けると言う。
彼らは黒山こくざん軍の『張飛燕ちょうひえん』との戦闘で勇猛さを発揮し、見事打ち破った事がある。
その戦闘力の高さは、誰もが認めるものであった。

「分かった。だが、くれぐれも無理はするなよ…!」
奉先が彼らに気遣きづかいの言葉を掛けると、二人は瞳に力を込めて大きく頷き、馬首ばしゅを返して後方へと向かった。

奉先は残った手勢と共に、間道を抜けて先を急ぐ。
迂回路を通り丘陵きゅうりょうを越え、寿春に向かう街道へ出た瞬間、奉先は思わず飛焔の脚を急停止させた。

「!?」

前方を見れば、“曹”の旗をかかげた部隊が道を塞いでいる。
何と曹操軍の別働隊が、先回りをして彼らを待ち構えていたのである。

あ、あれは…っ!

奉先は大きく息をんだ。
その別働隊を率いていたのは、誰あろう孟徳本人であった。

「奉先、此処から先へ行く事はかなわぬ。大人しく降伏しろ…!」

馬上の孟徳が大声を放ち、彼らに降伏を呼び掛ける。
その声に驚いたのか、奉先の胸にいだかれた雲彩が突然泣き始め、泣き声が谷間たにまに響き渡った。

此処までか…!

泣きじゃくる雲彩を見詰め、奉先が強く歯噛みをした。
その時である。
何処どこからとも無く大きな地鳴りがき起こり、それは次第に近付いて来た。

「…何だ?!」
孟徳がいぶかしげに辺りを見回すと、丘陵の方から黒い集団が此方こちらへ向かって来るのが見える。
よく見れば、その軍団は軍旗も掲げていない。

「盗賊か?!くそ、こんな時に…!」

孟徳は苛立いらだちをにじませながら、兵たちに素早く指示を送り、戦闘態勢を取らせた。
軍団はたちまち街道まで到達すると、いきなり曹操軍の後方部隊に噛み付き、次々と兵を襲った。
見事に統率の取れたその軍団は、優れた攻撃力を持ち、ただの盗賊集団とは到底思えない。

奉先らは暫し呆気あっけに取られてその様子を見ていたが、やがて我に返ると、その場から急いで逃走を計った。
これ以上行軍を続ける事は、最早困難である。
寿春へ向かうのをあきらめ、奉先は下邳へ撤退する決断をした。
曹操軍と謎の軍団が戦っているのを尻目しりめに、仲間を引き連れ間道を引き返す。
飛焔を走らせながら、奉先はあの謎の軍団の事を考えていた。

あの軍団…もしや…
いや、そんな筈は無いか…

頭をぎった一つの考えを否定し、大きくかぶりを振ると、ただ只管ひたすらに飛焔を走らせた。
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