上 下
127 / 132
第十章 覇業への導きと蒼天に誓う絆

第百二十七話 漆黒の勇馬

しおりを挟む

突如現れた謎の軍団を相手に戦闘を繰り広げていた曹孟徳であったが、敵の部隊は手強てごわく、次第に劣勢をいられ始めた。
敵の指揮官とおぼしき人物を見れば、それは隻眼せきがんの将である。
男は、曹操軍の猛将たちにも引けを取らぬ戦ぶりで、孟徳の率いる精鋭兵たちを圧倒あっとうしていた。

「孟徳様、あれを…!」
仲間の兵士の叫び声に、そちらを振り返ると、敵の主力と思われる部隊が丘の上に姿を現した。
その軍団も黒一色であったが、そちらは軍旗を風になびかせ、悠然ゆうぜんと此方へ近付いて来る。
掲げられている軍旗を目にした孟徳は、我が目を疑った。

「あれは、まさか…?!」

その頃、曹子廉そうしれんが率いる部隊は、爽直そうちょく伯卓はくたくらの奇襲部隊を相手に戦っていたが、そこへ伝令が駆け付けて来た。
伝令にると、呂奉先は既に戦場から逃走しており、孟徳の部隊は敵の援軍と思われる部隊と戦闘になり、劣勢におちいっていると言う。

「孟徳兄が危ない…!直ぐに救援に向かうぞ!」
子廉は部下たちに命じて呂布軍との戦闘を切り上げると、急ぎ孟徳の元へと向かった。

爽直らにも奉先からの撤退命令が届いており、彼らもまた奉先の後を追って、下邳へと撤退を開始したのであった。

「孟徳兄、無事か!?」
戦場へ到達した子廉は、真っ先に孟徳の元へ駆け寄った。

「ああ、大丈夫だ!お前の方こそ奉先はどうした?!何故、後を追わぬ?!」
「奴はとっくに尻尾しっぽを巻いて逃げ帰ったよ。そんな事より、兄貴の方が大事だ…!」
胸を張って答える子廉に、孟徳は少しあきれ顔を見せたが、内心彼の気遣いを嬉しくも感じた。

一度兵を引いて立て直すと、街道から離れ丘の上へ上がる。
敵も一旦部隊を退がらせ、数里離れた丘から彼らに対峙たいじした。
子廉は敵の掲げている軍旗をいぶかしげに見ると、孟徳に問い掛けた。

「あれは、呂奉先の援軍か?奴にまだ、あれだけの戦力が残っていたとは…」
「いや、あれは奉先の兵では無い…」
孟徳は否定したが、彼らの目に映る軍旗には、“呂”の文字が書かれている。

「あれは、呂龍昇りょりゅうしょうの兵だ…!」

「子廉、付いて来い!」
言うが早いか、突然愛馬の絶影ぜつえいを走らせる孟徳を、子廉は慌てて追い掛けた。
孟徳が丘をくだり始めると、敵の部隊からも数騎が丘を下って来る。
やがて街道をまたいだ平地まで来ると、少し離れた距離から敵の騎馬と向かい合った。

「呂龍昇殿、どう言う積もりだ。何故、我々の邪魔を…?!」

孟徳が大声を放ち、漆黒しっこく勇馬ゆうばに跨る龍昇を問いただす。
龍昇の左右には側近の騎馬が従っている。
その一人は、あの隻眼の将であった。

「仮にも、奉先はわしの義弟おとうとだからな…助けるのが道義どうぎであろう?」
そう答えると、龍昇は少し不敵ふてきな笑みを浮かべて孟徳を見据みすえる。

「それにしても、お前と奉先が敵同士となり、争い合っているとはな…」
「なる程、それで俺たちを冷やかしに来たと言う訳か?」
「ふっ…まあ、そんな所だ。」
嘲笑ちょうしょうを浮かべる龍昇を、孟徳は面白く無い表情で見詰めている。

「孟徳兄、あんな奴は放っておけよ…!呂奉先は援軍の要請に失敗した。作戦は成功だったろう?!」
「いや、放って置けば、また邪魔をされるであろう…此処でけりを付けねば…」
馬を並べて来た子廉の言葉に、孟徳は龍昇を睨み据えたまま答えた。

「無駄なあらそいはしたくない。過去の怨恨えんこんは忘れて、大人しく降伏すれば悪い様にはせぬ…!」

「ふっ、それは良い。曹孟徳はふところの深い男だと聞いていたが、じつにその通りの様だ…」
龍昇は小さく鼻で笑い、愛馬あいば黒龍こくりゅうの首に掛かるたてがみを撫でる。
それから再び視線を上げると、笑いを収めて孟徳を睨み据えた。

「だが、残念ながら、わしに降伏する意志は無い。わしをくだしたければ、力尽ちからずくで降伏させよ…!」
龍昇が大声を放つのを、孟徳は険しい表情で見詰めている。

「そうか…残念だな。俺は、あんたの能力を高く買っていたのだが…仕方が無い。」

そう言い終わると、孟徳は丘の上の兵たちを振り返り、腕を上げて彼らに戦闘準備の合図を送る。
龍昇も同じく、仲間の兵たちに合図を送った。

一瞬の静寂せいじゃくが、辺りに張り詰めた空気を走らせた刹那せつな、ほぼ同時に、丘の上から互いの兵たちが喊声かんせいを上げて突撃を開始する。
兵たちはたちまち丘を下って平地に到達すると、猛烈もうれつな勢いでぶつかり合った。

およそ一刻の時が流れた頃、傷付きたおれた兵士や、馬たちの残骸ざんがいが辺り一面に広がっていた。
既に日はかたむき始め、照らし出す夕陽が戦場をあかく染めている。

肩を負傷した龍昇は、側近の李月りげつに護られて戦場を離脱りだつし、敗残兵を掻き集めた管狼かんろう陵牙りょうがらと合流した。
彼らは奮戦ふんせんしたが、曹孟徳と曹子廉の率いる精鋭部隊は見事に連携を取り、忽ち龍昇らの部隊を壊滅かいめつに追いやったのである。

「龍昇様、お怪我の具合は?!」
「何、大した怪我では無い…!」
黒龍から降りる龍昇に駆け寄ると、管狼は救護兵を呼び寄せ、急いで手当てをさせる。

「敵は既に掃討そうとう戦を開始しています。やがて、此処にも到達するでしょう…!」
沈痛ちんつうな面持ちの陵牙が、力無い声で報告するのを、管狼はうつむいたまま聞いていた。
龍昇もまた、うつろな眼差しを自分の足元に落としていたが、やがて顔を上げると、沈み行く夕陽を瞳に映しながらおもむろに口を開いた。

「陵牙、お前は残りの兵たちを連れて行け。此処は、わしが敵を食い止める。」

その言葉に、驚きの表情で顔を上げた管狼は、目をみはって龍昇を見詰める。
陵牙も瞠目どうもくし、瞳に戸惑いを浮かべた。

「お前はまだ若い。これからは、お前が兵たちの面倒を見るのだ…」
「し、しかし…龍昇様…!」

「陵牙、龍昇様のご命令だ。龍昇様には、わしたちが付いている…!」
狼狽うろたえる陵牙の肩を管狼が力強く叩くと、陵牙は瞳を赤くうるませ、小さく唇を噛み締める。

「さあ、早く行け!」
管狼にうながされ、陵牙は名残惜しさを断ち切れぬ様子で幾度いくども振り返ったが、やがて彼らに拱手きょうしゅし、その場を立ち去ろうとした。
その時、

「待て…っ!」
突然、龍昇が彼を呼び止めた。
次の瞬間、体に激しい痛みを感じた管狼が思わずうめき声を上げる。

「うっ…?!」
見れば、彼の脇腹を龍昇が抜き放った剣で刺突しとつしている。

「り…龍昇様…!何故…?!」
管狼は見る間に青褪あおざめ、その場にくずれ落ちた。
剣を引き抜いた傷口からは血があふれ出す。

「管狼殿!」
驚いた陵牙が慌てて管狼に駆け寄り、傷口を強く押さえ、引き裂いた着物の袖を素早く彼の胴体に巻き付けた。
その様子を横目に、龍昇はやがて呟く様に言った。

「陵牙、管狼の事もお前に任せる…心配するな、急所は外してある。」
それから彼らを振り返り、管狼をうれいの眼差しで見詰める。

「管狼…お前は、良く今までわしに従ってくれた。お前の様な側近がいた事を、わしはほこりに思うぞ…」

「龍昇様…っ!」
忽ち管狼の右目から大粒のなみだが溢れ出し、頬を流れ落ちた。

「管狼、龍昇様にはわしが付いて行く。安心しろ!」
「李月…」
「お前は、餓鬼の面倒を見るのが好きだったろう?わしは、餓鬼が嫌いだからな。陵牙を息子と思って可愛がってやれよ…!」
管狼が声を震わせ彼の名を呟くと、李月は答えて髭面ひげづらから笑みをのぞかせる。
それから管狼の肩を支えて立ち上がらせると、陵牙に彼の体を預けた。

「では、さらばだ。後はお前たちに任せるぞ…!」

龍昇はそう言い残し、素早く黒龍の背にまたがると、丘の上へと駆け上がって行く。
李月と数騎の騎馬たちも、それに続いて駆け出して行った。
彼らの姿が次第に遠ざかり、見えなくなるまで赤い目で見送った陵牙は、泪にむせぶ管狼を支え、馬に乗せて仲間の兵たちの元へと急いだ。


敵を掃討していた曹操軍の前に、突如横一列の横陣おうじんとなって立ち塞がる騎馬軍団が出現した。
丘の上に居並ぶその数は、わずかに十数騎である。
中央に立っているのは、呂龍昇の跨がる漆黒の勇馬、黒龍であった。

「どうあっても、降伏する気は無いらしいな…」

彼らの姿を眺めながら、孟徳は小さく呟いた。
その勇姿ゆうしからは、敵に屈服くっぷくする意思は微塵みじんも感じられない。
曹操軍は前面に上下段からなる数百の弓兵を配し、鶴翼かくよくの左右にも数十の弓兵を配置した。
更にその後ろに数百騎の騎兵隊を並べ、彼らを完全に包囲する構えを見せる。

やがて傾いた夕陽が地平に消え行く頃、遂に龍昇の率いる騎兵部隊は最後の突撃を開始した。
なだらかな傾斜面をくだると、一気に加速して平地を駆け抜ける。
一陣の風と化した彼らは、勇猛果敢ゆうもうかかんに巨大な敵陣目掛けて突き進んだ。

一方の曹操軍の弓兵たちは構えた弓矢を引き絞り、向かって来る騎兵に狙いを定めて孟徳の命令が下るのを待った。

「孟徳兄、射撃の合図を…!」
ただもくしたまま馬で立ち尽くす孟徳を振り返り、子廉が呼び掛ける。
しかし、孟徳はじっと前方を見据えたまま微動びどうだにせず、迫り来る龍昇の騎兵を食い入る様に凝視ぎょうししていた。
そのかんにも敵の騎馬隊は勢いを増し、またたく間に此方へ接近して来る。

「孟徳兄?!」

子廉がしびれを切らし、再び大声で彼の名を叫ぶ。

「……っ!」

孟徳は眉宇びうかげらせ、胸に感じる痛みに苦悶くもんの表情を浮かべたが、やがて頭上に手をかかげ、合図を送る体勢をとった。
僅か十数騎の騎馬隊は、数十倍する敵兵を圧倒する程の気迫をまとい、恐ろしく巨大にも見える。
強くまぶたを閉じ、一度大きく息を吸い込んだ後、再び瞼をかっと見開いた孟徳は、遂に最後の決断を下した。
腕を大きく振り降ろし、大声を放って一斉射撃の合図を送る。

穿うがてっ!!」

その命令に、待ち構えていた弓兵たちが一斉に矢を放つ。
無数の矢が、目前まで迫っていた騎馬隊たちを襲った。

放たれた矢は次々と馬や馬上の兵たちの体をつらぬき、彼らを地面へと突き落とす。
十数騎の騎馬たちはあっという間に激減し、気付けば僅か数騎しか残っていなかった。

そんな中、矢を受け傷付きながらも、恐れも知らず一心いっしんに突撃を続けている龍昇の愛馬、黒龍の姿がある。
龍昇は体に突き立った矢の痛みに、ひるむ事無く黒龍を走らせ続けている。
側近の李月もまた満身創痍まんしんそういの体で、龍昇を護りながら馬を走らせていた。

それは狂気きょうきと呼ぶに相応ふさわしい光景であるが、同時に畏怖いふと強い憐憫れんびんの情を見る者たちに抱かせる。
弓兵たちは第二の矢をつがえ、彼らに狙いを定めて再び射撃の命令が下るのを待った。

再度頭上に手を掲げた孟徳は、悲痛な面持ちのまま、再びその腕を大きく振り下ろした。

冥色めいしょくに染まり行く空に、黒龍のいななきが響き渡る。

陵牙は思わず馬の脚を止め、振り返って遠い空の彼方を見やった。
今のは空耳だったか…?
彼の耳にはかすかに馬の嘶きが聞こえた様に感じたが、耳をましても最早もはや何も聞こえては来なかった。

「龍昇様は…」
おもむろに、馬上の管狼が呟く。

冷酷れいこく非道ひどうな人物だと評する者もいるが、は優しい方なのだ。嘘だと思うだろうが、わしたちは若かりし頃から龍昇様を見知っている。戦乱の世を生き抜く為には、冷酷さと非道さが必要だったのだ…」
彼は深い溜め息を吐き、誰に言うとも無くひとつ。
その様子を、陵牙はただ黙したまま、憂いの眼差しでじっと見詰めていた。

「正直、龍昇様が最期にのぞんで、この様な決断をされるとは…夢にも思っていなかった。しかし、これこそが…龍昇様にもっと相応ふさわしい…!」

そこまで言うと言葉を詰まらせ、管狼は肩を震わせ嗚咽おえつする。
彼らに従って来た兵たちもまた、その姿に涙し、皆が主の死をいたんだのであった。

夕闇ゆうやみに染まる戦場に、むくろと成り果てた兵士と力尽きた軍馬たちが折り重なる様に倒れ、吹き荒ぶ寒風にさらされている。
絶影に跨がり無残な戦場をめぐった孟徳は、馬上から彼らの痛ましい姿を見詰め、瞳に憐憫れんびんの情を漂わせた。

「彼らを、手厚くほうむってやれ…」

小さく声を震わせ部下にそう告げると、素早く馬首ばしゅを返してその場から走り去る。
彼らの亡骸なきがらは、やがて迫り来る夜のとばりの中、次第に漆黒の闇へと溶け込んで行った。



あの謎の集団が足止めをしてくれたお陰であろうか、奉先らは恐れていた曹操軍の妨害を受ける事無く、無事に下邳の近くの城邑じょうゆうまで辿り着く事が出来ていた。

あれは、義兄あに上の部隊ではなかったか…
ふと、奉先は再び振り返って考えたが、最早それを確かめる手段は無い。

袁公路えんこうろへの援軍要請に失敗し、外部からの援助が望めない今となっては、再び籠城ろうじょうを続ける事は無意味である。
この時、配下の張文遠ちょうぶんえん魯国ろこくの相で、呂布軍の別働隊べつどうたいを率いており、彼を何とか下邳へ呼び寄せる事が出来ないかと奉先は考えた。
だが、一先ず軍師の陳公台ちんこうだいらの護る居城きょじょうへ戻る他は無い。

彼らは夜を待ち、闇にまぎれて城へ入ったが、城内は恐ろしい程に静まり返っていた。
何かあったのでは…?!
城内の様子に少し嫌な予感を感じつつ、奉先は家族の待つやしきへと急いだ。
邸の門へいち早く駆け付けて来たのは従者のしゅんである。

「何だって、士恭が…?!」

俊からの報告に、奉先は驚きの声を上げた。
それは、高士恭こうしきょうが公台に軍権を剥奪はくだつされたと言う驚くべき報告であった。

しおりを挟む

処理中です...