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第十章 覇業への導きと蒼天に誓う絆
第百二十七話 漆黒の勇馬
しおりを挟む突如現れた謎の軍団を相手に戦闘を繰り広げていた曹孟徳であったが、敵の部隊は手強く、次第に劣勢を強いられ始めた。
敵の指揮官と思しき人物を見れば、それは隻眼の将である。
男は、曹操軍の猛将たちにも引けを取らぬ戦ぶりで、孟徳の率いる精鋭兵たちを圧倒していた。
「孟徳様、あれを…!」
仲間の兵士の叫び声に、そちらを振り返ると、敵の主力と思われる部隊が丘の上に姿を現した。
その軍団も黒一色であったが、そちらは軍旗を風に靡かせ、悠然と此方へ近付いて来る。
掲げられている軍旗を目にした孟徳は、我が目を疑った。
「あれは、まさか…?!」
その頃、曹子廉が率いる部隊は、爽直、伯卓らの奇襲部隊を相手に戦っていたが、そこへ伝令が駆け付けて来た。
伝令に依ると、呂奉先は既に戦場から逃走しており、孟徳の部隊は敵の援軍と思われる部隊と戦闘になり、劣勢に陥っていると言う。
「孟徳兄が危ない…!直ぐに救援に向かうぞ!」
子廉は部下たちに命じて呂布軍との戦闘を切り上げると、急ぎ孟徳の元へと向かった。
爽直らにも奉先からの撤退命令が届いており、彼らもまた奉先の後を追って、下邳へと撤退を開始したのであった。
「孟徳兄、無事か!?」
戦場へ到達した子廉は、真っ先に孟徳の元へ駆け寄った。
「ああ、大丈夫だ!お前の方こそ奉先はどうした?!何故、後を追わぬ?!」
「奴はとっくに尻尾を巻いて逃げ帰ったよ。そんな事より、兄貴の方が大事だ…!」
胸を張って答える子廉に、孟徳は少し呆れ顔を見せたが、内心彼の気遣いを嬉しくも感じた。
一度兵を引いて立て直すと、街道から離れ丘の上へ上がる。
敵も一旦部隊を退がらせ、数里離れた丘から彼らに対峙した。
子廉は敵の掲げている軍旗を訝しげに見ると、孟徳に問い掛けた。
「あれは、呂奉先の援軍か?奴にまだ、あれだけの戦力が残っていたとは…」
「いや、あれは奉先の兵では無い…」
孟徳は否定したが、彼らの目に映る軍旗には、“呂”の文字が書かれている。
「あれは、呂龍昇の兵だ…!」
「子廉、付いて来い!」
言うが早いか、突然愛馬の絶影を走らせる孟徳を、子廉は慌てて追い掛けた。
孟徳が丘を下り始めると、敵の部隊からも数騎が丘を下って来る。
やがて街道を跨いだ平地まで来ると、少し離れた距離から敵の騎馬と向かい合った。
「呂龍昇殿、どう言う積もりだ。何故、我々の邪魔を…?!」
孟徳が大声を放ち、漆黒の勇馬に跨る龍昇を問い質す。
龍昇の左右には側近の騎馬が従っている。
その一人は、あの隻眼の将であった。
「仮にも、奉先はわしの義弟だからな…助けるのが道義であろう?」
そう答えると、龍昇は少し不敵な笑みを浮かべて孟徳を見据える。
「それにしても、お前と奉先が敵同士となり、争い合っているとはな…」
「なる程、それで俺たちを冷やかしに来たと言う訳か?」
「ふっ…まあ、そんな所だ。」
嘲笑を浮かべる龍昇を、孟徳は面白く無い表情で見詰めている。
「孟徳兄、あんな奴は放っておけよ…!呂奉先は援軍の要請に失敗した。作戦は成功だったろう?!」
「いや、放って置けば、また邪魔をされるであろう…此処でけりを付けねば…」
馬を並べて来た子廉の言葉に、孟徳は龍昇を睨み据えたまま答えた。
「無駄な闘いはしたくない。過去の怨恨は忘れて、大人しく降伏すれば悪い様にはせぬ…!」
「ふっ、それは良い。曹孟徳は懐の深い男だと聞いていたが、実にその通りの様だ…」
龍昇は小さく鼻で笑い、愛馬、黒龍の首に掛かる鬣を撫でる。
それから再び視線を上げると、笑いを収めて孟徳を睨み据えた。
「だが、残念ながら、わしに降伏する意志は無い。わしを降したければ、力尽くで降伏させよ…!」
龍昇が大声を放つのを、孟徳は険しい表情で見詰めている。
「そうか…残念だな。俺は、あんたの能力を高く買っていたのだが…仕方が無い。」
そう言い終わると、孟徳は丘の上の兵たちを振り返り、腕を上げて彼らに戦闘準備の合図を送る。
龍昇も同じく、仲間の兵たちに合図を送った。
一瞬の静寂が、辺りに張り詰めた空気を走らせた刹那、ほぼ同時に、丘の上から互いの兵たちが喊声を上げて突撃を開始する。
兵たちは忽ち丘を下って平地に到達すると、猛烈な勢いでぶつかり合った。
凡そ一刻の時が流れた頃、傷付き斃れた兵士や、馬たちの残骸が辺り一面に広がっていた。
既に日は傾き始め、照らし出す夕陽が戦場を朱く染めている。
肩を負傷した龍昇は、側近の李月に護られて戦場を離脱し、敗残兵を掻き集めた管狼、陵牙らと合流した。
彼らは奮戦したが、曹孟徳と曹子廉の率いる精鋭部隊は見事に連携を取り、忽ち龍昇らの部隊を壊滅に追いやったのである。
「龍昇様、お怪我の具合は?!」
「何、大した怪我では無い…!」
黒龍から降りる龍昇に駆け寄ると、管狼は救護兵を呼び寄せ、急いで手当てをさせる。
「敵は既に掃討戦を開始しています。やがて、此処にも到達するでしょう…!」
沈痛な面持ちの陵牙が、力無い声で報告するのを、管狼は俯いたまま聞いていた。
龍昇もまた、虚ろな眼差しを自分の足元に落としていたが、やがて顔を上げると、沈み行く夕陽を瞳に映しながら徐に口を開いた。
「陵牙、お前は残りの兵たちを連れて行け。此処は、わしが敵を食い止める。」
その言葉に、驚きの表情で顔を上げた管狼は、目を瞠って龍昇を見詰める。
陵牙も瞠目し、瞳に戸惑いを浮かべた。
「お前はまだ若い。これからは、お前が兵たちの面倒を見るのだ…」
「し、しかし…龍昇様…!」
「陵牙、龍昇様のご命令だ。龍昇様には、わしたちが付いている…!」
狼狽える陵牙の肩を管狼が力強く叩くと、陵牙は瞳を赤く潤ませ、小さく唇を噛み締める。
「さあ、早く行け!」
管狼に促され、陵牙は名残惜しさを断ち切れぬ様子で幾度も振り返ったが、やがて彼らに拱手し、その場を立ち去ろうとした。
その時、
「待て…っ!」
突然、龍昇が彼を呼び止めた。
次の瞬間、体に激しい痛みを感じた管狼が思わず呻き声を上げる。
「うっ…?!」
見れば、彼の脇腹を龍昇が抜き放った剣で刺突している。
「り…龍昇様…!何故…?!」
管狼は見る間に青褪め、その場に崩れ落ちた。
剣を引き抜いた傷口からは血が溢れ出す。
「管狼殿!」
驚いた陵牙が慌てて管狼に駆け寄り、傷口を強く押さえ、引き裂いた着物の袖を素早く彼の胴体に巻き付けた。
その様子を横目に、龍昇はやがて呟く様に言った。
「陵牙、管狼の事もお前に任せる…心配するな、急所は外してある。」
それから彼らを振り返り、管狼を憂いの眼差しで見詰める。
「管狼…お前は、良く今までわしに従ってくれた。お前の様な側近がいた事を、わしは誇りに思うぞ…」
「龍昇様…っ!」
忽ち管狼の右目から大粒の泪が溢れ出し、頬を流れ落ちた。
「管狼、龍昇様にはわしが付いて行く。安心しろ!」
「李月…」
「お前は、餓鬼の面倒を見るのが好きだったろう?わしは、餓鬼が嫌いだからな。陵牙を息子と思って可愛がってやれよ…!」
管狼が声を震わせ彼の名を呟くと、李月は答えて髭面から笑みを覗かせる。
それから管狼の肩を支えて立ち上がらせると、陵牙に彼の体を預けた。
「では、さらばだ。後はお前たちに任せるぞ…!」
龍昇はそう言い残し、素早く黒龍の背に跨ると、丘の上へと駆け上がって行く。
李月と数騎の騎馬たちも、それに続いて駆け出して行った。
彼らの姿が次第に遠ざかり、見えなくなるまで赤い目で見送った陵牙は、泪に噎ぶ管狼を支え、馬に乗せて仲間の兵たちの元へと急いだ。
敵を掃討していた曹操軍の前に、突如横一列の横陣となって立ち塞がる騎馬軍団が出現した。
丘の上に居並ぶその数は、僅かに十数騎である。
中央に立っているのは、呂龍昇の跨がる漆黒の勇馬、黒龍であった。
「どうあっても、降伏する気は無いらしいな…」
彼らの姿を眺めながら、孟徳は小さく呟いた。
その勇姿からは、敵に屈服する意思は微塵も感じられない。
曹操軍は前面に上下段からなる数百の弓兵を配し、鶴翼の左右にも数十の弓兵を配置した。
更にその後ろに数百騎の騎兵隊を並べ、彼らを完全に包囲する構えを見せる。
やがて傾いた夕陽が地平に消え行く頃、遂に龍昇の率いる騎兵部隊は最後の突撃を開始した。
なだらかな傾斜面を下ると、一気に加速して平地を駆け抜ける。
一陣の風と化した彼らは、勇猛果敢に巨大な敵陣目掛けて突き進んだ。
一方の曹操軍の弓兵たちは構えた弓矢を引き絞り、向かって来る騎兵に狙いを定めて孟徳の命令が下るのを待った。
「孟徳兄、射撃の合図を…!」
ただ黙したまま馬で立ち尽くす孟徳を振り返り、子廉が呼び掛ける。
しかし、孟徳はじっと前方を見据えたまま微動だにせず、迫り来る龍昇の騎兵を食い入る様に凝視していた。
その間にも敵の騎馬隊は勢いを増し、瞬く間に此方へ接近して来る。
「孟徳兄?!」
子廉が痺れを切らし、再び大声で彼の名を叫ぶ。
「……っ!」
孟徳は眉宇を翳らせ、胸に感じる痛みに苦悶の表情を浮かべたが、やがて頭上に手を掲げ、合図を送る体勢をとった。
僅か十数騎の騎馬隊は、数十倍する敵兵を圧倒する程の気迫を纏い、恐ろしく巨大にも見える。
強く瞼を閉じ、一度大きく息を吸い込んだ後、再び瞼をかっと見開いた孟徳は、遂に最後の決断を下した。
腕を大きく振り降ろし、大声を放って一斉射撃の合図を送る。
「穿てっ!!」
その命令に、待ち構えていた弓兵たちが一斉に矢を放つ。
無数の矢が、目前まで迫っていた騎馬隊たちを襲った。
放たれた矢は次々と馬や馬上の兵たちの体を貫き、彼らを地面へと突き落とす。
十数騎の騎馬たちはあっという間に激減し、気付けば僅か数騎しか残っていなかった。
そんな中、矢を受け傷付きながらも、恐れも知らず一心に突撃を続けている龍昇の愛馬、黒龍の姿がある。
龍昇は体に突き立った矢の痛みに、怯む事無く黒龍を走らせ続けている。
側近の李月もまた満身創痍の体で、龍昇を護りながら馬を走らせていた。
それは狂気と呼ぶに相応しい光景であるが、同時に畏怖と強い憐憫の情を見る者たちに抱かせる。
弓兵たちは第二の矢を番え、彼らに狙いを定めて再び射撃の命令が下るのを待った。
再度頭上に手を掲げた孟徳は、悲痛な面持ちのまま、再びその腕を大きく振り下ろした。
冥色に染まり行く空に、黒龍の嘶きが響き渡る。
陵牙は思わず馬の脚を止め、振り返って遠い空の彼方を見やった。
今のは空耳だったか…?
彼の耳には微かに馬の嘶きが聞こえた様に感じたが、耳を澄ましても最早何も聞こえては来なかった。
「龍昇様は…」
徐に、馬上の管狼が呟く。
「冷酷で非道な人物だと評する者もいるが、根は優しい方なのだ。嘘だと思うだろうが、わしたちは若かりし頃から龍昇様を見知っている。戦乱の世を生き抜く為には、冷酷さと非道さが必要だったのだ…」
彼は深い溜め息を吐き、誰に言うとも無く独り言つ。
その様子を、陵牙はただ黙したまま、憂いの眼差しでじっと見詰めていた。
「正直、龍昇様が最期に臨んで、この様な決断をされるとは…夢にも思っていなかった。しかし、これこそが…龍昇様に最も相応しい…!」
そこまで言うと言葉を詰まらせ、管狼は肩を震わせ嗚咽する。
彼らに従って来た兵たちもまた、その姿に涙し、皆が主の死を悼んだのであった。
夕闇に染まる戦場に、骸と成り果てた兵士と力尽きた軍馬たちが折り重なる様に倒れ、吹き荒ぶ寒風に晒されている。
絶影に跨がり無残な戦場を巡った孟徳は、馬上から彼らの痛ましい姿を見詰め、瞳に憐憫の情を漂わせた。
「彼らを、手厚く葬ってやれ…」
小さく声を震わせ部下にそう告げると、素早く馬首を返してその場から走り去る。
彼らの亡骸は、やがて迫り来る夜の帳の中、次第に漆黒の闇へと溶け込んで行った。
あの謎の集団が足止めをしてくれたお陰であろうか、奉先らは恐れていた曹操軍の妨害を受ける事無く、無事に下邳の近くの城邑まで辿り着く事が出来ていた。
あれは、義兄上の部隊ではなかったか…
ふと、奉先は再び振り返って考えたが、最早それを確かめる手段は無い。
袁公路への援軍要請に失敗し、外部からの援助が望めない今となっては、再び籠城を続ける事は無意味である。
この時、配下の張文遠は魯国の相で、呂布軍の別働隊を率いており、彼を何とか下邳へ呼び寄せる事が出来ないかと奉先は考えた。
だが、一先ず軍師の陳公台らの護る居城へ戻る他は無い。
彼らは夜を待ち、闇に紛れて城へ入ったが、城内は恐ろしい程に静まり返っていた。
何かあったのでは…?!
城内の様子に少し嫌な予感を感じつつ、奉先は家族の待つ邸へと急いだ。
邸の門へいち早く駆け付けて来たのは従者の俊である。
「何だって、士恭が…?!」
俊からの報告に、奉先は驚きの声を上げた。
それは、高士恭が公台に軍権を剥奪されたと言う驚くべき報告であった。
応援ありがとうございます!
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