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第十章 覇業への導きと蒼天に誓う絆

第百二十九話 隙き無き戦略

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数日の間降り続いた雨で河は増水ぞうすいし、上流には膨大ぼうだいな水がたくわえられていた。
泗水しすい沂水ぎすいの流れを一時的にき止め、この二つの河の流れを下邳へ引き込んで、頃合いを見計らって決壊させる。
下邳への水攻めの案は、軍師の郭奉考かくほうこう荀公達じゅんこうたつが早い段階から計画していたものだった。
その作戦は味方にも知らされず、計画は極秘裏ごくひりの内に進められていたのである。

奉先が部隊を率いて下邳から出撃した報を受け、奉考は今こそ好機と、直ぐさま公達を河の上流へ向かわせ、孟徳にはえて慌てた素振りを見せて浅瀬へと急行し、奉先の気を引く様に指示を与えていた。

孟徳も下邳への水攻めは知っていたし、計画の実行を許可したのも彼である。
しかし、自分たちが戦っている河を氾濫はんらんさせる事までは知らされていなかった。

結果的に、敵味方の半数近くが河の水にまれ、互いの部隊に大きな損害を与えた。
そんな中、河に流されたものの一命いちめいを取り留めた成爽直せいそうちょく捕縛ほばくする事に成功していた。彼は奉先の側近で、健将けんしょうの異名で呼ばれる若き猛将である。
更には、劉玄徳と彼の義弟おとうとたちも河に呑まれ、危うく命を落とし掛けたが、彼ら三人も無事に岸へと辿たどり着いたのであった。

奉考はそれについて何も言わなかったが、あの時、奉先と共に劉玄徳らも巻き込み、あわよくば彼らを殺す積もりだったのであろう。
孟徳は、彼の戦略の隙きの無さを改めて垣間かいま見た気がした。

「下邳への水攻めは成功した。後は、時間の問題だな…」

氾濫する河を眺め、降り頻る雪の中にたたずむ孟徳の背に奉考が声を掛ける。
孟徳は黙ったまま振り返り、彼の鋭い眼差しを受け止めて小さくうなずいた。


水没した下邳城内では、一時は城壁の半分近くの高さにまで水嵩みずかさが増し、逃げ遅れた多くの人々がおぼれ死んでいた。
その後、水はある程度引いたものの、たくわえられた食糧などは全て水にかって駄目になってしまい、えと寒さで命を落とす者が跡を絶たなかった。

「奉先殿、奥方様やお嬢様たちはご無事です。」
出迎えに現れた士恭が奉先に肩を並べ、足早に城内を歩きながら報告する。
城へ帰還した奉先の目に映ったのは、余りにも悲惨な現状であった。
それから少し声をひそめると、士恭は彼の耳元にささやく様に言った。

「…成爽直は、生き延びましたが敵に捕らわれ…既に寝返ったそうです。」
それを聞くと、奉先は落胆らくたんしているのか、うつむいたまま力無く「そうか…」とだけ答え、

「仕方がない。文遠を城へ呼び戻してくれるか?」
そう言って士恭を顧みる。
士恭は同意を示し黙ったままうなずくと、彼の前から足早に立ち去って行った。
それを見送った後、傍にはべっていた魏伯卓ぎはくたくを呼び寄せ彼に告げる。

「伯卓、お前に頼みたい事がある。だが…その前に、やらねば成らぬ事があるのだ…」
真剣な眼差しで奉先を見詰めていた伯卓は、やがて黙って小さく頷いた。

やしきへ戻ると、家人かじんたちが水害の後片付けをしている所であった。
水は既に引いているものの、有りとあらゆる物が水にひたり、室内は荒れ果てている。
彼が戻った事を知って、真っ先に駆け付けて来る筈の貂蝉の姿は無かった。
出迎えた家宰かさいに依ると、雲月と雲彩、貂蝉たちは真っ先に高台の上にある建物の楼閣ろうかくへ避難させたと言う。
家宰や俊と短く会話を交わした後、俊を伴い楼閣へと向かった。

「あの娘は、あんたが無事に戻る様にと、神殿で祈りを捧げているよ。」
雲月と雲彩の無事を確認し二人を強く抱き締めると、貂蝉の所在を尋ねる奉先に雲月が答える。
二人を俊にたくし、今度は神殿のある建物へと向かったのであった。

城内の小さな神殿の周りにも大量の土砂や家屋の一部が流れ着き、辺りに散らばっている。
しかし、神殿の建物は高い階段の上にある為、比較的綺麗な状態だった。

「貂蝉、いるか?」
入口から神殿内へ声を掛けると、中から小さく返事が返って来る。
扉を開いて中へ入ると、その奥の神壇しんだんの前で一人祈っている貂蝉の姿があった。

「貂蝉…話したい事が有る。」
「雲彩と、おばさんたちは逃がしてあげて。でも、私は貴方の傍にいるわ…!」

すると、彼の話を聞くまでも無いといった様子で、貂蝉は後ろを振り返る事も無く、きっぱりとした口調で答えた。

「此処に居ては、危険だ。」
「そんな事、分かってる…」
そう言って大きくかぶりを振り、やがて腰を上げて彼の方を振り返る。
その瞳は大きくうるんでいたが、強い決意と意志を秘め美しく輝いていた。
やがて、貂蝉は彼の顔を見上げたかと思うと、途端に彼の胸に飛び込み、肩をふるわせて泣き出した。

「私、死ぬ事よりもずっと…貴方と別れる事の方が嫌なの…!お願いだから、私に貴方の元を去れって言わないで…!」

「貂蝉…」
胸の中で泣きじゃくる彼女の柔らかくつややかな髪に頬を寄せると、ほのかに漂う甘い香りに物狂ものくるおしさが込み上げて来る。
奉先は震えるその細い肩を抱き締め、深い溜め息をきながら静かにまぶたを閉じた。

初めて出会った時は、まだ十二歳の幼い少女だった。
あの頃から、貂蝉は同年代の少女たちよりずっと大人びていたし誰よりも美しかったが、今腕の中にいる彼女は幼さをすっかり脱ぎ捨て、いつの間にか成長して一人の女性に近付こうとしている。
彼女の肩を撫でながら、奉先は感慨深さを感じていた。

「お前も、もうすぐ十五になるのだな…」
「うん…」
呟く奉先に、胸の中で小さく返事を返す。

「今でもまだ、俺の事を好きでいてくれるなら聞いて欲しい…」
彼の言葉に、貂蝉は少し不安な表情を浮かべて顔を上げた。

「俺は否定したが、本当は分かっていた…初めて出会った時から。お前の言う事は正しいと…」
奉先は彼女の濡れた瞳を見詰めながら、頬を伝う泪を指先でそっと拭き取る。
彼が何を言おうとしているのか、貂蝉には分からなかった。
不安な表情のまま、ただ彼の瞳を凝視ぎょうししている。
それを見詰め、やがて奉先はわずかに微笑んだ。

「お前は、俺を運命の人だと言ってくれたな。あの時、真っ直ぐなお前の想いに答えられず、認めてやれなかった…いや、認める事を恐れていたのだ。だが、今ならはっきりと言える。俺は、お前を愛していると…!」
彼の言葉に瞠目どうもくした貂蝉は、思わず大きく息を呑む。
その細い肩に両手を乗せ、奉先は彼女の大きな瞳を覗き込んだ。

「俺の、妻になってくれるか?」

「…え?!」
貂蝉は驚きの余り狼狽うろたえ、返す言葉を失った。


「貂蝉…いや、瑠藍りゅうらん。俺の妻になって欲しい。」


再び奉先が言うと、はっとして自分の口元に手を当てた貂蝉は、大粒の泪を瞳に浮かべて問い掛ける。

「私の…本当の名前、覚えててくれたの…?!」

その声はか細く震え、今にも消え入りそうな程はかなげであった。
奉先は再び微笑し、彼女の細い肩を撫で下ろす。

「ああ、勿論だ。“りゅう”は青紫色の宝玉を示している。“らん”は鮮やかな青色の事だ。母が好きだったはなの色であろう?」

すると、たちまち瞳から泪があふれ出し、貂蝉の紅い頬をらした。

「うん…そうよ、奉先。嬉しい…!」

濡れた頬を拭い、彼に微笑み掛けようと必死に泪を抑えたが、泪は止めなく流れ落ちる。
奉先は彼女の肩を引き寄せ、その体を再び胸に強く抱き締めた。

二人の婚礼こんれいの儀は、その日の内に、小さなその神殿でり行われる事となった。
雲彩を連れた雲月、家宰や俊たち、家族だけが集まり彼らに祝福を送る。
派手な衣装も装飾も無く、有り合わせの着物を身にまとっていたが、雲月に薄く化粧をほどこされた貂蝉は息を呑む程に美しかった。

婚礼を済ませ、花嫁衣装の貂蝉を連れて高台の楼閣に登った奉先は、舞い落ちる雪を眺めながら、彼女を腕に抱きかかえ、なめらかで柔らかな彼女の肌に頬を寄せる。
貂蝉は彼の腕の中で、うっとりと長い睫毛まつげを動かしまぶたを閉じると、彼の唇にそっと自分の唇を重ねた。
やがて、静かに睫毛を上げて彼の瞳を見詰めると、小さくささやく様につぶやいた。

「このまま、私を此処から放り投げて…」
「どうして…?」
彼女の言葉をいぶかって、奉先は小さく首をかしげる。

「分かってるの、私を妻にしてくれた事…もう、お別れだから…私に最後の想い出を作ってくれたんでしょう…?」

貂蝉は悲しげに声を震わせ、瞳に泪を浮かべて彼に問い掛けた。

「そうでは無い、貂蝉…お前を愛しているからだ。」
「私、貴方を失ったら…生きている理由が無いもの…!」
肩を震わせ、泣き始める貂蝉の体を強く抱き締める。

「俺は死なないと言ったであろう。お前も決して死んでは成らぬ…!俺の妻になったのだ、俺の家族を護るのもお前の役目だ。雲月たちと一緒に先に逃げてくれ。必ず会いに行くと約束するから…!」

泪をこらえる様に強く瞼を閉じ、奉先は胸に込み上げる思いのたけを吐き出すと、彼女の濡れた頬に額を寄せてうったえ掛けた。

やがて、貂蝉は泪を流しながらも小さく頷き、彼の胸に顔をうずめ首筋に強く抱き着く。
奉先はすすり泣く彼女をかかえたまま、紅い楼閣の欄干らんかんから離れ、奥の仄暗ほのぐらい居室へと姿を消して行った。


荀公達らの水計で大打撃を受けた下邳では、籠城ろうじょうを続ける呂布軍の士気はいちじるしく低下していた。
最早彼らに反撃の余力は無く、城の陥落かんらくを待つばかりである。
戦意を失った奉先は居室に籠もり、あれから数日、兵たちの前に姿を現していないと言う。
間諜かんちょうからの報告を聞き、郭奉考はやがて呂布軍から内応者が出るに違い無いと予測した。

孟徳もそれに同意であったが、彼は成爽直が降伏を受け入れ、面会した時に交わした会話を思い起こしていた。
爽直の降伏には時間を要すると思いきや、彼はあっさりと味方を裏切り、曹操軍に降伏してしまったのである。

孟徳は幕舎に彼を呼び出し、下邳での奉先や陳公台らの様子などをたずねると、彼は淡々たんたんとその様子を語ったのだった。

「お前は奉先の側近で、誰より信を置かれていたはずだ…何故、簡単に奉先を裏切る気になった…?」
「………」
孟徳の問い掛けに、爽直は暫し黙して自分の膝下ひざもとを見詰めていたが、やがて小さな溜め息を吐きながら、孟徳を見詰めて答えた。

あるじ様は…もし敵の虜となったら、抵抗せず大人しく降伏せよと、我々に強く言い聞かせておられました…」
「奉先自身が、そう言ったのか…?」
孟徳の問い掛けに、爽直は大きく頷く。
それから彼は深く項垂うなだれ、言葉を詰まらせながらも言葉を繋いだ。

「曹孟徳は…決してお前たちを殺さない、恥を忍んででも生き延びよ…決して死んでは成らぬと、主様は、そうおっしゃられたのです…!」

たちまち、爽直の瞳に大粒の泪が浮かぶ。
彼は床に額を押し付け、いつまでも嗚咽おえつし続けたのであった。

奉先は部下たちに降伏をうながしていながら、未だ籠城を続けている…
何故、大人しく降伏して来ないのか…?
孟徳は暫し黙して考え込んだ。

古代から、君主あるいは将軍が降伏を示す場合、“面縛輿櫬めんばくよしん”を行う事が当然であった。
「面縛」は両手を後ろ手に縛り、顔を前に向けさらすと言う事であり、「輿櫬」はひつぎしゃで引いて歩く事である。
一般に戦場で兵や武将が降伏する場合、“肉袒面縛にくたんめんばく”と言われる方法が用いられ、上半身裸になり同じく両手を後ろ手に縛って決死の覚悟を示した。

それらは当然、屈辱的で命懸けの行為であり、この頃、袁本初えんほんしょ易京えきけいで追い詰められていた公孫伯圭こうそんはくけいは非常に自尊心が強く、本初からの降伏勧告をこばんでいる。

「戦える戦力が有る時は戦い、無ければ守る。守れぬならば逃げるか、或いは降伏する以外に道は無い…」
ふと、考え込んでいる様子の孟徳に奉考が声を掛けた。
彼をかえりみた孟徳は思わず瞠目どうもくし、彼の言わんとしている事に思い至る。

奉先は…
死ぬ積りなのだ…!

「逃げもせず降伏もしないのは、悪戯いたずらに時を費やし、戦を長引かせて人命を危険に晒す。その様な不徳ふとくな行為は万死ばんしに値する…!」
奉考はそう言って、同情の余地の無い事を示す。

「もし自分が、籠城する友に敵対する勢力の将軍ならば…」
おもむろに、孟徳が呟く様に語り始めた。

「籠城する友を捕らえ、る事が主君に対する忠義であり道義どうぎである。
しかし、それでも友を救いたいならば友を説得して降伏を促すのでは無く、友を連れて逃げ、命懸けでかくまうのが友に対する義であり友情である…」

薄暗い幕舎の中を、小さな燭台しょくだいの灯りがぼんやりと照らし出している。
孟徳は、やがて深い溜め息をき強く目をつむった。

「だが…今の俺には、友を連れて逃げるという選択肢せんたくしは有り得ない。俺が取るべき選択は…友を捕らえて斬る以外には無いのだ…!」

そして、閉じていたまぶたをかっと開くと、眼光鋭く握り締めた自分の拳をにらみ付け、強く歯噛みをした。

「俺に、他の選択肢が無い事を奉先は知っている…」

降伏しないのは、自らの死を覚悟している証拠なのである。
そう考えをめぐらせば、彼らには余り時間が残されていない事に思いが及ぶ。
一刻も早く捕らえなければ、彼が自ら命を捨てる可能も有るだろう。

所が、そんな彼の心配を余所に、予想外の出来事は突然に訪れた。

何と、奉先は部下たちに裏切られ、陳公台と共に縄を掛けられて、下邳から引きり出されて来たのである。
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