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第十章 覇業への導きと蒼天に誓う絆
第百三十話 部下たちの裏切り
しおりを挟む奉先と公台が捕らわれ、下邳から連れ出された時の状況とは異常なものであった。
奉先は、自分を裏切り捕縛した者たちを罵倒し激しく抵抗した為、部下たちは彼を地面に押さえ付けると、縄を更に強く縛り付け拘束した。
すると、今度は縄がきつ過ぎると喚いては、狂った様に暴れたのである。
彼らを捕らえたのは、魏続、侯成、宋憲と言う奉先の配下の将たちであった。
寝返った彼らの話に依れば、長い籠城の中で、奉先は次第に精神を蝕まれ、情緒が不安定になっていったと言う。
そして、無実の罪で部下を投獄したり、鞭や棒で打つなどの刑罰を加えたりする様になった。
中でも侯成は以前、食客に奪われた馬を取り戻した事を祝う為に、自ら醸造した酒を奉先にも振舞おうとした所、禁酒中だった彼に部下たちの面前で罵られ、五十回もの棒打ちにされた事で彼を恐れ恨んでいたと言う。
そこで彼は、いつか奉先に殺されるのではないかと常に恐怖心を抱いており、意を決して同僚の魏続、宋憲らに反乱を持ち掛けたのである。
彼らは先ず公台を捕らえ、それから奉先の眠っている間に方天戟を奪い取り、無防備な彼に縄を掛けたのであった。
孟徳の前へと引き立てられた二人だったが、暴れる奉先に対し、酷く憔悴した様子ではあるものの、公台は落ち着き払った態度であった。
「何故こんな事になったか、分かるか…?」
俯く公台を見詰めながら孟徳が問い掛けると、彼は虚ろな眼差しを上げ、
「隣におられる方が、私の言う事を聞かなかったばかりに、このような目にあって仕舞いました…」
と答え、深く溜め息を吐く。
それを聞いた奉先は、忽ち血走った眼で公台を睨み付け、怒声を発した。
「よくも抜け抜けと…!俺は騙されていたのだ!お陰で仲間に裏切られ、こんな無様な姿に…!俺の手で叩き斬ってやる!」
そう喚くと、奉先は後ろ手に縛られたまま公台に飛び掛かろうとした。
「もう良い、止めろ…!」
孟徳は側近に命じ、暴れる奉先を取り押さえさせたが、彼はその間も公台を罵り続け、部下たち三人掛かりで漸く押さえ付けた程であった。
その様子を、痛ましい目付きで眺めていた孟徳であったが、不意に、隣に立つ人物に声を掛けられ、そちらを振り返った。
「迷っている様だな、孟徳…」
それは、その場に居合わせていた劉玄徳である。
「ああ、まさかこんな結末になるとはな…想像もしていなかった…」
「そうだな、だがいよいよ決断の刻がやって来た。お前の望む未来と、向き合わねば成らない。」
「玄徳、お前はどう思う…?」
孟徳がそう彼に問うと、
「呂奉先は、養父の丁建陽を殺し、その後に仕えた董仲穎も殺害している。どんな理由であれ、仕えた主を次々と死に追いやっている事実を、よくよく考えた方が良いだろう…」
玄徳は彼の目を真っ直ぐに見詰め、淀みない口調で答える。
するとその時、
「孟徳殿!劉玄徳こそ、一番信用出来ない…!!」
奉先がそう言って喚き、再び暴れ出した為、孟徳は一先ず彼らを捕虜を収容している檻へ閉じ込める様部下たちに命じ、その場から連行させたのであった。
翌日には、下邳に残って抵抗を続けていた高士恭が降伏し、曹操軍に城を明け渡した事で、完全に勝敗は決したのである。
その日、空は薄曇り、寒風に小さな粉雪が舞っていた。
下邳城内の刑場には、縄で縛られた呂奉先と陳公台の二人が引き据えられ、郭奉考を始め曹操軍の側近らが、刑場の正面にある壇上にずらりと立ち並び厳粛な雰囲気を漂わせている。
その中には、劉玄徳と関雲長、張翼徳らの姿もあった。
刑場の周りを取囲む群衆や兵士たちは、みな刑の執行を固唾を呑んで見守っている。
昨日とは打って変わり、すっかり憔悴した様子の奉先は抵抗する事も無く、大人しくその場に跪いていた。
冷たい風が広々とした刑場の中を吹き抜け、彼らの足元に僅かに積り始めた雪を舞い上がらせている。
やがて群衆の前に姿を現した孟徳は、壇上から公台の前へ歩み出ると、瞳に憐憫の情を漂わせて俯く公台を見下ろし、静かな声で彼に語り掛けた。
「公台、お前が俺を裏切った理由は、今更どうでも良い。お前が俺のために尽力し、職務を果たそうとしてくれていた事は良く理解している積もりだ。お前にその気があるなら、俺の元へ戻って来ないか…?」
すると、公台は稍々顔を上げ、虚ろな眼差しを孟徳へ送る。
「孟徳様、僕は…」
そう言って、彼は小さく声を震わせた。
「生き延びたいとは思いません。ただ、僕たちの姿を…どうか忘れないで頂きたい。孟徳様の周りで、貴方の言う事を何でも聞いている人間が、必ずしも孟徳様の事を思っているとは限りません…!その事を、どうかお忘れ無きよう…!」
それから公台は額を地面に押し付け、肩を震わせて泪した。
隣に跪く奉先は、その様子を何処か恨めしい目付きで見ている。
「そうか、分かった…」
孟徳は大きく頷くと、腰に佩いた剣を抜き放ち、彼らの前に突き出して大声を放った。
「俺の心は決まった。お前たちを、死罪に処す…!」
辺りに響き渡るその声に、刑場の空気は凍り付いた様に静まり返る。
それから、今度は奉先にゆっくりと視線を向け問い掛けた。
「奉先…お前には、知りたい事が有った筈だ。最後に言いたい事は有るか…?」
すると奉先は視線を自分の膝下へ落とし、低く掠れた声を漏らす。
「今更、何を聞いても仕方が無い…俺は、死んで当然の人間だ。劉玄徳の言う通り、養父を殺し董仲穎を殺した…俺は、裏切り者なのだ…」
やがて赤い目を上げ、悲壮な眼差しで孟徳を見詰めた。
「だが、家族や部下たちに罪は無い…どうか、彼らの命だけは助けてやって欲しい…!」
「………」
黙って彼の言葉を聞いていた孟徳だったが、暫し沈黙した後、不意に彼に背を向ける。
「…残念だが、お前の願いを聞き入れる訳には行かない…」
冷淡さを帯びた声色で言うと、肩越しに振り返り鋭く眼光を光らせた。
「禍根は、取り除かねば成らぬ。お前を殺し、家族も部下も皆殺しにする…!」
その恐ろしい程の冷酷な眼差しに、思わず背筋が凍る。
氷の刃で胸を貫かれるが如き衝撃を受けた奉先は、思わず大きく息を呑み、苦悶の表情を浮かべた。
すると次の瞬間、孟徳は素早く向き直り、奉先の首筋に抜き放った剣刃を押し当てて鋭く彼を睨み付ける。
「俺は…この城へ入るまで、何か強い違和感を感じていた…!」
「…?!」
奉先は眉を顰め彼を見上げた。
「ここへ入城した時、側近の魏伯卓と張文遠、そしてお前の家族や使用人たちの姿は既に消えていた。徐公明らに後を追わせたが、彼らは少なくとも、三日前にはこの城から去っていたのだ。まるで、こうなる事が分かっていた様ではないか…?!」
その言葉に、奉先は小さく固唾を呑む。
「お前の部下たちの話は虚言だ…!董仲穎の目は欺けても、この俺を欺く事は出来ぬ!!」
見物人や兵士たちが息を殺して見守る中、孟徳はそう言い放つや剣を頭上に振り翳し、その刃を一気に斬り下げた。
その瞬間、地面に額を突いたままの公台は、思わず強く瞼を閉じる。
しかし、奉先の足元に落ちたのは彼の首では無く、体を拘束していた縄であった。
孟徳は振り下ろした剣で、縄を断ち切ったのである。
奉先が瞠目して顔を上げると、孟徳は握っていた剣を彼の目の前に突き立てた。
「お前は、部下たちに自分の身を売って、我々に降伏するよう言い渡していた。本当は、公台も降伏を受け入れる約束だったのであろう…だが、公台は約束に反して降伏しなかった。それでお前はあの時、公台を激しく罵ったのだ…!」
彼が己の推察を声高に語る間、奉先は蒼白になったまま彼を見上げていた。
「だが、お前に機を与えてやる…!」
そう言うと、孟徳は側近から新たに剣を受け取り、再び彼らに向き直った。
「俺と勝負し、お前が俺を斃せば、家族も部下たちも…全員を解放すると約束しよう…!」
「孟徳殿、正気か?!」
思わず奉考が叫び、慌てて孟徳に駆け寄る。
群衆が騒めく中、玄徳も瞠目して彼を見詰めていた。
「あの董仲穎を斃した男だぞ…!貴方の敵う相手ではあるまい?!」
必死に止めようとする奉考を顧みて、孟徳は微笑する。
「心配するな。今の奉先は、まともに戦える状態では無い…」
そう言って彼を宥め、両腕を大きく広げて前へ進み出ると、孟徳は群衆に向け大声を放って宣言した。
「もし、俺があいつに斃されたら、約束は必ず守れよ。此処に居る全員が証人だ…!」
「………っ!」
奉先は目の前に突き立てられた剣を、ただじっと凝視した。
やがて、握り締めていた拳を広げ、ゆっくりと剣把に手を伸ばすと、それを掴み、突き刺さった地面から一気に抜き取る。
ゆらりと体を揺らし、ふらつく足で立ち上がると、奉先は強く瞼を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、花弁の様に舞い落ちる雪の中に、一人佇む美しい少女の姿である。
楼閣の紅い欄干に手を掛けた少女は、真っ白な雪景色をうっとりと眺めている。
透き通る程に白く靭やかな美しい四肢を伸ばし、冷たい風にすらりと素肌を曝すと、少女はやがて裸足のまま軽やかに着物を翻して舞い始めた。
「貂蝉、寒いであろう。中へ入ってはどうだ?」
「平気よ、だって凄く温かいの。」
奥の居室から姿を現した奉先に微笑み掛け、彼女は自分の胸に両手を当てて舞い続ける。
「私、こんなに幸せな気持ちになったのは、生まれて初めてよ…!」
舞い踊る雪を背後にして煌めくその美しさは、正に神仙境から地に降り立つ仙女の様である。
奉先は暫しその幻想的な光景に見惚れたが、やがて彼女に歩み寄り、自分の外套を広げて、その小さな体を包み込んだ。
頬を紅潮させ、貂蝉はふっと白い吐息を吐きながら彼の腕に身を任せる。
彼女の細い肩が小さく震えている事に気付いた時、その愛おしさに、奉先の胸は今にも押し潰されそうであった。
胸に顔を埋める彼女の体を強く抱き締めると、奉先は強く瞼を閉じ、思わず唇を噛み締めた。
雪は深々と降り続き、やがて静まり返る下邳城に夕闇が迫り来る。
不満気な表情で背後を振り返った張文遠は、彼の幕舎を訪れていた奉先に詰め寄った。
「俺を呼んだのは、その為か?!」
稍々語気を荒げ、彼は鋭く問い掛ける。
彼の瞳を真っ直ぐに見詰め、奉先は答えた。
「ああ、そうだ。お前以外に任せられる者はいない…!」
文遠は納得が行かないといった様子で、無言のまま何度も彼の前を行き来している。
そんな文遠の肩を強く掴み、
「雲彩は、やがてお前の息子の妻となり、お前の娘となるだろう。我が子と思って可愛がってやって欲しい。」
そう言って彼の顔を覗き込むと、文遠は目元を赤く染めて奉先を見詰め返した。
暫く黙考した彼は、やがて「分かった…」と力無く答え、肩を落として幕舎を後にする。
夜半過ぎ、数名ずつで結成された小集団が敵に覚られぬよう幾つかの門から、ばらばらに城外へと出て行く。
文遠は部下たちを引き連れ、密かに城からの脱出を試みたのである。
この時、奉先の側近である魏伯卓も文遠に従い、兵士たちに紛れ込ませた雲月と貂蝉、俊たちを伴って下邳城を後にしたのであった。
その頃、城に残った部下たちを邸へ呼び集めた奉先は、彼らを見渡しこう告げた。
「俺の首を斬り、それを持って降伏するが良い。曹孟徳は“信賞必罰”(功績ある者は必ず賞し、罪過ある者は必ず罰すること)を率先垂範としている。必ずや、お前たちの功を認めてくれるであろう…」
それを聞いた部下たちは皆、驚きの表情で互いの顔を見合わせた。
しかし、誰一人率先して剣を抜こうとする者はおらず、やがて彼らの間から悔しげに噎び泣く声が漏れ聞こえる。
「皆、今日まで共に戦って来た仲間です。自らの手で、貴方を殺す事は出来ないでしょう…」
そう言って、彼の前へ進み出たのは公台であった。
「僕たちに縄を掛けさせ、曹操軍に降伏させましょう。僕は、いつでも孟徳様に降伏出来ますから心配いりません…」
こうして彼の案を入れ、宋憲、魏続、侯成ら三名に白羽の矢が立てられたのである。
左手に剣把を握り締め、その場に立ち尽くしていた奉先は、やがてゆっくりと瞼を開いた。
吹き荒ぶ寒風が小さな粉雪を纏い、彼の目の前に立つ孟徳の長い黒髪を靡かせている。
不意に、視界が僅かに霞み、奉先は目を細めて彼の姿を凝視した。
すると、その背後に黒い靄の様な物が蠢いているのが見える。
「………!」
はっと息を呑み、奉先は凍り付いた。
蠢く靄は次第に大きくなり、こちらを見て嘲笑っている人影へと変貌していく。
赤い目を光らせ、悍ましく異形の姿をしたその影は、孟徳の背中にぴたりと纏わり付き、くつくつと不気味な笑い声を立てていた。
その存在は孟徳には全く認識出来ていないらしく、彼はただ訝しげに此方を見詰めている。
あれは…!
いや違う、ただの幻覚だ…!
奉先は強く瞼を閉じ、息を大きく吐き出して精神を集中させた。
再び瞼を開いた時には、既にその巨大な人影は消え失せている。
「孟徳殿…」
やがて、低く掠れた声で彼の名を呼ぶと、奉先は握っていた剣の鋭い切っ先を彼に向けた。
「貴方に、家族は殺させない…!!」
そう言うと素早く剣を構え、孟徳を鋭く睨み付ける。
孟徳はそれを見て不敵に笑みを浮かべると、同じ様に剣を構え彼に対峙した。
「手加減はしないぞ…!どちらかが斃れるまでだ…!」
そう言うや、孟徳は剣刃を閃かせ、粉雪を舞い上がらせながら奉先に打ち掛かった。
応援ありがとうございます!
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