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第十章 覇業への導きと蒼天に誓う絆

第百三十一話 最後の対決 《最終話》

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雪の降り積もる山道さんどうを踏み分け、険しい山岳さんがくを進む一行の姿がある。
雪道に足を滑らせ、貂蝉は思わず声を上げ体勢を崩した。
「あっ…!」
「貂蝉様、しっかり…!」
前を進んでいた俊が駆け寄り、咄嗟とっさに彼女の腕を掴む。

「ありがとう、大丈夫よ。私より、おばさんと雲彩をお願い…!」
彼女がそう言うと俊はうなずき、雲彩を抱えて歩く雲月に手を差し出した。
一行を率いている魏伯卓は、彼らの様子を見て励ましの声を掛ける。

「張将軍が待っておられるとりでまでは、あと少しで辿たどり着く。もう少しの辛抱だ…!」

やがて辺りを見渡せる場所まで登った貂蝉は、自分たちが進んで来た道を振り返り、遥か遠くを眺めた。

嗚呼ああ神様、どうか…
私の大切な人を護って…!

吹き付ける冷たい風の中、貂蝉は両手を胸の前で重ね合わせ、強くまぶたを閉じ天に祈った。


互いの剣刃けんじんが触れ合った瞬間、激しい火花が飛び散る。

奉先は身をひるがえし、孟徳の攻撃をかわすと彼の剣を跳ね返した。
雪を巻き上げながら、孟徳は素早い剣さばきで次々に強烈な斬撃ざんげきを放ち、容赦ようしゃなく奉先を追い立てる。
二人には明確めいかくな体格差があるが、孟徳の攻撃力はそれを感じさせぬ程、奉先を圧倒していた。

孟徳の放った一撃が奉先の胸元を斬り付け、けた着物に血がにじむ。
奉先は素早く後方へ飛び退すさり、続け様に繰り出される攻撃をね返したが、即座に繰り出された孟徳の蹴りを食らい、奉先の体は浅く降り積もった雪の上を転がった。
更に追討おいうちを掛けようと、剣を振り翳し孟徳が飛び掛かる。
奉先は体を回転させながら咄嗟とっさにそれを躱し、振り下ろされた剣は地面に深々と突き刺さった。

「ちっ…!」
小さく舌打ちをし、孟徳は彼の逃げた先を鋭く睨み付ける。

思いけぬ展開になった事に、軍師の郭奉考はあせりを感じていた。
息を呑み、二人の姿をせわしなく目で追っている。
彼の傍らに立つ劉玄徳や周りの将たちも、皆固唾かたずを呑んで彼らの戦いを見守っていた。

万が一にも、孟徳が奉先にたれる様な事になれば、曹操軍が大打撃を受けるばかりでは無い。皇帝をようし、ようやく天下がまとまり始めていると言うのに、再び皇帝を巡る争いが激化する事は火を見るより明らかである。

「孟徳殿…何と言う、無謀むぼうな真似を…」
奉考は、稍々やや苛立いらだちを抑えてつぶやいた。

再び打ち掛かる孟徳のやいばを受け止め、奉先は冷静に彼の攻撃をね返す。
二人は数合に渡り激しく撃ち合った。

弾かれた剣を旋回せんかいさせ、再び孟徳が鋭い斬撃を放つと、奉先はそれをすんでかわして反撃に転じる。
突き出した刃は孟徳の首筋をかすめ、ひるがえった彼の外套がいとうを斬り裂いた。
それに構わず、孟徳は再び剣を振りかざして攻撃を仕掛けるが、彼の繰り出す攻撃はことごとく弾き返されてしまう。

「くっ…!」
強く歯噛みをした孟徳は、目をいからせて奉先を睨み付ける。
孟徳の太刀筋たちすじは、彼には既に読めている様であった。

だが、奉先の心には迷いがある。
それと見て取った孟徳は一度剣を引き、距離を置いて彼に対峙たいじした。

「どうした、本気で戦わねば俺をたおす事は出来ぬぞ…!」

大声たいせいで怒鳴り、鋭く彼をにらみ付ける。
顔を上げた奉先は、瞳にうれいの陰を落として彼を見詰めた。

「…そう言えば、お前にまだ伝えていない事が有ったな…」
おもむろに孟徳がつぶやく。

呂龍昇りょりゅうしょうは死んだ。俺が殺したのだ…!」

「……!」
その言葉に奉先は瞠目どうもくした。

やはり…
あの時、俺たちを助けたのは義兄あに上だったのだ…

袁公路えんこうろの元へ援軍要請に向かおうとした時、孟徳の待ち伏せに遭った彼らを助けた、あの黒い軍団の事を思い起こす。

「龍昇は、お前の義兄あにだったな。弟なら、義兄のかたきを討つのが当然であろう?!」

次の瞬間、二人はほぼ同時に打ち掛かり、互いの剣を交差させて強く押し合った。
刃がぎしぎしと音を立ててこすれ、小さな火花を散らす。
額に汗を滲ませながら、二人は睨み合った。

「孟徳殿、貴方に剣を教えたのは俺だ。貴方の太刀筋は、既に見切っている…!」
「だったら、さっさととどめを刺してはどうだ?!」

そう言い放ち、孟徳は飛び退すさると同時に、剣を素早く横にぎ払う。
奉先は体を回転させてそれを躱したが、翻した着物を斬り裂かれた。
舞い落ちる雪を巻き上げ、孟徳は再び地を蹴って前方へ踏み出すと、激しい斬撃をびせ掛ける。
それを上下左右へとたくみに躱し、奉先は彼の剣を受け止めては撥ね返し続けた。

「はぁ、はぁ…!」
次第に強くなる降雪こうせつで視界が悪くなり、やがて孟徳の息遣いきづかいは荒くなる。
奉先を見れば、彼も多少だが息が上がり、肩を上下させているのが分かった。

二人は再び激しく撃ち合い、一進一退の攻防を繰り広げる。
孟徳の剣身を打ち払った奉先は、体を旋回せんかいさせ、自分の剣を大きくしならせると、剣の腹で彼の右肩を強く殴打おうだした。

「うっ…!」
その勢いに押され、孟徳の体は一瞬ちゅうを舞ったが、直ぐに体勢を立て直し再び剣を構える。

「くっ、おのれ…!」
剣把けんぱを握る腕が強くしびれ、思わず顔をしかめた。

地面を指すように剣先を下へ向けたまま、奉先は舞い落ちる雪の中にたたずんでいた。
冷たい風に吹かれ、彼の髪先は白くこごえて僅かに凍結とうけつし始めている。
やがて精神を集中させ、降雪の合間から孟徳の姿を凝視すると、彼の背後に再び黒いもやが立ち上っているのが見えた。

その影は、やはり彼の目にしか映っておらず、周りで息を殺して見守る者たちには見えていない様である。
黒い靄を纏ったまま、孟徳は剣を振り翳し再び彼に攻撃を仕掛けた。

奉先は冷静に、そのおぞましい魔物の姿を睨み付けながら、孟徳の素早い攻撃を躱し後退したが、鋭く迫る剣刃けんじんは彼の肩や腕を斬り付け、たちまち着物は血で赤く染まっていく。

次の一撃で勝負を決する…!

孟徳は鋭く眼光を光らせ、渾身こんしんの一撃を奉先の胸元へ目掛けて放った。

その速さは放たれた矢の如く、一瞬で雪の一片ひとひらを斬り裂き、高速で突き進む。
次の瞬間には、刃は奉先の体に到達し、彼の胸をつらぬいたかに見えた。

しかし、奉先は一瞬でその切っ先を剣身の腹で受け止め防御していた。
二人の間には激しい火花が咲き乱れる。
一瞬の隙を突き、奉先は素早く振り上げた剣刃で、孟徳の背後に立つ黒い靄を一刀にして断ち切った。
すると、靄はたちまち跡形も無く雲散うんさんし、その直後、彼の刃は確実に孟徳の首をとらえていた。

剣刃は雪を斬り裂き、孟徳の首へと迫る。
その刹那せつな、彼の目には全ての物が静止したかに見えた。

「……っ!」

その時、突然の強い光と共に、鮮明な記憶が脳裏のうりよみがえる。
はっと息を呑み、奉先は固まった。

彼の目に映ったのは、幼き頃の孟徳の姿だったのである。
その瞬間、奉先は悟ったのだった。

「はっ…!」
首筋に刃を当てられた事に気付き、孟徳もまた一瞬にしてその場に固まる。
二人は停止したまま睨み合った。
それは、ほんの僅かな時間であったが、彼らには途方とほうも無い長さに感じた。

次の瞬間、孟徳が素早く奉先の剣を打ち払い、止まっていた時が再び動き出す。
剣を弾かれ、後方へ飛び退った奉先だったが、剣を振り翳して立ち向かう孟徳の姿を、赤い目を上げて見詰めると、やがてまぶたを強く閉じた。


雲月、貂蝉…許してくれ…!
俺には…孟徳殿を斬る事は出来ない…!


そして突然、握っていた剣把けんぱから手を放し、彼の手からすべり落ちた剣はゆっくりと雪の上に突き立った。

「!?」

それを見た瞬間、瞠目どうもくした孟徳だったが、彼が自ら剣を手放すのを確認した時には、剣先は既に奉先の首を目掛けて放たれていた。

時は再び静止する。
孟徳は瞠目したまま、立ち尽くす奉先の顔を凝視していた。
降り積もった雪が、大きく波打つ様に彼らの周囲に舞い上がる。
見物人や兵たちは皆、息をするのも忘れて彼らを見詰めていた。

「ふっ…」
その時、孟徳が小さく笑い声を漏らす。

「これでは、らちが明かぬな…」
「…………」
その言葉に、閉じていた瞼を上げた奉先は、目の前に立つ孟徳にゆっくりと視線を向けた。
孟徳の放った剣先は、彼の首から僅かにれ、首筋に小さな斬れ跡を付けるにとどまっていたのである。

「生死を共にしようと、誓い合った仲だ。俺も、お前を斬るにはしのびない…!」

そう言うと孟徳は剣を下ろし、素早く身を引くとさやに収めた。

「孟徳…殿…?」
呆然ぼうぜんと立ち尽くす奉先は、小さく声を震わせて呟く。


「奉先、俺の元へ帰って来い…!誰に何と言われようと、お前が一言“ 帰る ”と言えば、お前の家族も、部下たちの命も助けると約束しよう!」


爽やかな笑顔を向けられ、途端とたんに奉先の胸に熱い物が込み上げて来る。
思わず顔を伏せ瞼を強く閉じたが、気付けば瞳からあふれ出る泪が彼の頬を濡らしていた。
やがてその場に膝から崩れ落ち、雪の上に両手を突いた奉先は肩を震わせ、必死に声を押し殺してむせび泣いたのだった。

「孟徳様…奉先様…!」
冷たい地面にひざまずいたまま、声を震わせ同じ様に頬を濡らして彼らを見詰めている公台の姿がある。
やがて雲の切れ間から日の光が差し込み、辺りを次第に明るく照らし始めた。

「さあ、俺と共に行こう…!」

孟徳は奉先に静かに歩み寄り、彼の前に手を差し伸べる。
うつむいていた奉先は、ゆっくりと泪で濡れた顔を上げた。

その直後である。
奉先は突如とつじょとして瞳の色を変え、鋭く孟徳を睨み付けると、どこかに隠し持っていたと思われる匕首ひしゅを彼に向かって投げ付けた。

「!?」

その時何が起こったのか、誰も理解出来なかった。
それは一瞬の出来事で、孟徳は驚く間も無く咄嗟とっさに身を反らしてかわしたが、匕首は彼の頬を切り付け、飛び散った血が雪の上に小さな波紋を広げる。

人々のざわめきが上がる中、後方を見れば、そこには血に染まった小石が転がっていた。
奉先が投げたのは匕首では無く、ただの小石であった。
状況が飲み込めないまま、再び奉先をかえりみた孟徳の目には、信じられない光景が飛び込んだ。

「ぐっ…かはっ…!!」
突然、奉先は口から大量の血を吐き出す。
何と、彼の左胸には一本の矢が深々ふかぶかと突き立っていたのである。

「…まさか、そんな…?!」

一瞬にして孟徳は青褪あおざめた。

刺客せっかくだ…!」
唖然あぜんとして立ち尽くす奉考の隣で、状況を素早く判断した玄徳が叫ぶ。

彼は近くの護衛の手から弓矢を奪い取ると、矢が放たれた方角に狙いを定める。
すると刑場を見下ろせる楼閣ろうかくの屋根に、第二の矢をつがえ、再び孟徳の背後を狙う刺客の姿をとらえた。
玄徳は弓を引き、刺客に向けて迷わず矢を放つと、正確に体を貫かれた刺客がもんどり打って屋根から転げ落ちる。

「奉先…!!」
孟徳は叫び、倒れ掛かる彼に駆け寄ると、その体を両腕で支えた。
蒼白になった奉先は、ぐったりと彼の肩にもたれ掛かる。

「どうして…こんな事が…!奉先、しっかりしろ!」
孟徳はあふれる泪をこらえ、腕の中でまだかすかに呼吸をしている彼に必死に呼び掛けた。

「…孟徳殿……」
やがてゆっくりと瞳を動かし、奉先は孟徳の顔を見上げる。

「貴方なら…躱せると、信じていた…」
彼はそう言うと、僅かに微笑を浮かべた。
矢は、孟徳の背後を狙って放たれたものだった。
顔を上げた時、空から差し込んだ日差しが刺客の矢に反射し、僅かに光ったのを奉先は見逃さなかったのである。

「俺を、助ける為にやったのか…?」
奉先はゆっくりと腕を伸ばし、震える指先で孟徳の頬をで下ろす。
彼の手を強く握り締めると、孟徳の瞳からあふれた泪がせきを切った様にこぼれ落ち、冷たい彼の頬をはらはらと伝った。
更に、奉先は何かを伝えようと唇を小さく震わせ、彼の耳元へ顔を寄せる。

「主殿と…虎淵こえんの仇は討った……」

苦しげにあえぎながらささやくのを聞くと、孟徳は濡れた瞳のまま彼を見詰め、やがて微笑を送った。

「そうか…よくやった…!」

すると奉先は、少し嬉しそうに笑みを返したが、次第に握り締めた彼の手から力が失われて行くのが伝わる。

「奉先、まだ死んではならぬ…!頼む、死なないでくれ!俺と共に、漢王朝を復興ふっこうさせよう…!その為には、お前の力が必要だ…!」

意識を失い掛けている奉先の肩を強く抱き寄せ、孟徳は泪を流しながら声を振りしぼって叫んだ。
彼の悲痛な叫び声は刑場内に木霊こだまし、見守る者たちに強い憐憫れんびんの情を抱かせる。
やがて青白い瞼を閉じた奉先は、遂に彼の言葉に反応を示さなくなってしまった。
玄徳が義兄弟おとうとたちと共に駆け付け、泣き叫ぶ孟徳を奉先の体から引き離す。

「玄徳、頼む!奉先を…奉先を助けてくれ…!」
「…孟徳……」
必死に彼の腕にすがり付き、哀願あいがんする孟徳を、玄徳は痛ましい眼差しで見詰めた。

医術の心得こころえのある雲長が、雪の上に横たわった奉先に近付き、彼の首筋に手を当てながら、翼徳に指示を出して矢の刺さった傷口を止血させる。
しかし、互いの顔を見合わせた彼らの表情は暗く、絶望的なものであった。
凍り付く様な風が孟徳の体を強く吹き付けると、彼は力無くその場に泣き崩れた。

暫し雪の上に顔を伏せて咽び泣いていた孟徳であったが、やがて泪も枯れ果て、長い髪と着物を寒風になびかせながら、ゆっくりと体を揺らして立ち上がった時には、既に泣くのを止めていた。

「呂奉先は死んだ……死体は城門に掛け、その死を天下に知らしめよ…!」

彼は冷たくそう言い放つと、外套がいとうを翻し刑場に背を向けて歩き出す。
目の前を通り過ぎる孟徳の姿を、奉考は憂いの眼差しで見送った。

俺は、もう二度と泪を流す事は無い…!

孟徳はこの時、そう胸に誓ったのであった。

その後、陳公台、高士恭らは孟徳への降伏をこばみ、奉先にじゅんずる事を望んだ。
砦で徐公明じょこうめいらと睨み合いを続けていた張文遠ちょうぶんえんも、奉先らの死を聞いて遂に降伏を受け入れ、彼は曹操軍に下ったのである。

こうして、長きに渡る戦いは遂に幕を下ろしたのであった―――




――幾年月いくとしつきが流れ、みやこには、暖かい春の日差しが降り注いでいた。
丁度その頃、街は祭りで賑わっており、大勢の人々が市場に集まっていた。

美しい花が咲き乱れる、一本の大きな木の木陰こかげに一人の男が佇んでいる。
男は、近くで遊んでいた童子を暫し眺めていたが、やがてその童子に歩み寄り声を掛けた。

「坊や、あれはお前の母か…?」
問い掛けられた童子は、小さく首をかしげて男を見上げた。
それは見た事の無い、長身の男であった。

「おじさん、母上を知ってるの…?」
「ああ…ずっと昔に、会った事がある…」
そう答え、男が視線を送った先には、一人の若い女性の姿があった。
彼女は侍女を従え、市場で買い物を楽しんでいる様子である。

そして、それは紛れもなく、美しく成長した貂蝉の姿であった。

「おじさん、病気なの?」
童子は、男が片腕に杖を突いているのを見て、そう問い掛けたのである。
男は小さく笑い、

「俺は、肺が片方しか無いのでな…」
と答え、自分の左胸を押さえた。

「お前、名は何と言う?」
再び男は童子に問い掛ける。
童子は少し警戒し、答えるか迷ったが、彼の目にはその男が悪い人間には見えなかった。
稍々ややあって、童子は答えた。

「…ぶん

「文か…良い名だ」
男はそう言って微笑し、懐から取り出した物を彼の小さな手に握らせた。

「これを、お前の母に渡してくれるか?」
文は手の中を暫し見詰め、やがて大きくうなずくと、母親の方へ向かって走り出す。
男は遠ざかる童子の姿を、目を細めて見送った。

「母上…!」
「文、どこへ行っていたの?母から離れては駄目と言ったでしょう?」
美しい母親は文の前に腰を下ろし、彼の肩をでながら優しく叱り付ける。
その時、彼の手に何かが握られている事に気付いた。

「文…これ、どうしたの?!」
貂蝉は驚きを隠せない表情で、幼い息子に問い掛ける。

「あのおじさんが、母上に渡して欲しいって…」
文が後ろを振り返り、木陰の下を指差したが、そこには既に男の姿は無かった。
貂蝉は文の手を引き、急いで木陰の下で辺りを見回したが、遂に男の姿を見つけ出す事は出来なかった。

「おじさん、母上の事知ってるって言ってた」
「ええ、そうね…約束したのよ。」

そう言うと、貂蝉はてのひらを広げ、文から受け取った贈り物を見詰める。
それは、色鮮やかな桔梗ききょうの花をした、美しい髪飾りであった。

「必ず、いつか会いに来るって…!」

それを再び握り締めると、彼女の大きな瞳から泪のしずくこぼれ、頬を伝い落ちた。
幼い息子の手を引き、再び人混みの中へ歩き出した貂蝉は、新たな希望を胸に抱き、美しく瞳を輝かせるのであった――


-《 完 》-
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