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終章

第百三十二話 赤壁の真実《終章》

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今から数年前、長江ちょうこうを埋め尽くすほどの大軍を率いた曹操軍と、孫権軍、劉備軍らによる連合軍との一大決戦が繰り広げられた。

燃え上がる曹操軍の大船団だいせんだんは、長江の岸壁がんぺきを赤々と照らし、人々はそれを

赤壁せきへき

と呼んだと言う。


下邳かひで呂奉先の討伐に成功した曹孟徳は、同じ頃、幽州ゆうしゅう易京えきけいで公孫伯圭を破った袁本初と中原ちゅうげんの覇を争い、曹操軍の十倍もの兵力をようしていた袁紹軍を、“ 官渡かんとの戦い ”で見事に打ち破った。

その後、およそ十年を掛けて河北を平定すると、南下して荊州けいしゅう劉表りゅうひょう(字を景升けいしょう)を攻め、彼が病没すると後継こうけい争いで破れた長男劉琦りゅうきの異母弟で、跡を継いだ劉琮りゅうそうを降伏させた。
荊州で水軍を手に入れた曹操軍は更に南下し、長江北岸に兵を布陣させたのである。

実際、赤壁の戦いがどの様な戦いであったか、俺は知らない…

雄大ゆうだいな長江の流れを見詰めながら、川面かわもを走り抜ける冷たい風に吹かれ、一人の若い男がたたずんでいた。
精悍せいかんな顔立ちだが、まだ幼気あどけなさは完全には抜けておらず、年の頃は十代後半といった所である。

の民たちによれば、大都督だいととく周瑜しゅうゆ(字を公瑾こうきん)が火計かけいを用いて曹操軍の大船団を焼き払い、大敗に追い込んだと言う。
火計を成功させる為、劉備軍の軍師であった諸葛亮しょかりょう(字を孔明こうめい)と言う人物が、拝風台はいふうだい東風こちかぜを呼び起こす儀式を行った、などと言う噂もあった。

だが一説によると、実は曹操軍は慣れない地で兵たちに風土病ふうどびょうが広がり、決戦前から既に戦意を喪失していたと言われる。
そもそも曹孟徳は初めから戦う気は無く、孫仲謀に対して降伏を勧めており、曹操軍と孫権軍の戦力差が歴然れきぜんであった事から、孫権軍の幕僚ばくりょうたちの間でも降伏論を支持する者が圧倒的であった。

しかし、若くして主君の座に付いていた仲謀は抗戦こうせんを望み、大都督の周公瑾もまた抗戦派の一人で、同盟の使者として魯粛ろしゅく(字を子敬しけい)を劉玄徳の元へ送って、彼らと連合軍を結成したのである。
誰もが降伏は時間の問題だと考えている中、思わぬ抗戦宣言を受けた孟徳にとっては、予想外の展開だったのではないだろうか。

曹操軍は凡そ八十万と言われる兵力で攻め込んで来たが、降伏したばかりの荊州の兵たちは上手く統率が取れておらず、その上に疫病えきびょう蔓延まんえんで戦どころではなくなってしまった。
そこで孟徳は決戦を諦め、疫病で死んだ兵たちの亡き骸を火葬かそうする目的で、自ら船に火を掛けたと言われる。

結果的に曹操軍は撤退し、赤々と燃える長江を見た民たちは皆、孫権軍が火計で勝利を収めたのだと喜び合ったのである。

“ 赤壁の戦い ”の真実がどうであれ、そんな事は俺には関係無い。
ただ、俺はあの曹孟徳と言う人物を幼い頃から知っている…

俺は、ずっとあの人を自分の父親だと思っていた…

少年は遠く、長江の北岸をのぞんで目を細める。
彼の記憶の中に、ぼんやりとだが残る曹孟徳の姿とは、決して恐ろしい人では無く、柔和にゅうわで人情味のある人だった―――



――許都きょと

やしきでは、侍女じじょたちがきんかなうたを歌い、広間は華やかににぎわっている。
実に上機嫌で酒坏さかずきを傾け、幕僚たちと宴を楽しんでいるのは曹孟徳であった。
そんな中、一人の童子が宴の席にまぎれ込み、側近たちが慌てて捕まえようと殺到さっとうする。
童子は彼らの股下をくぐり、悲鳴を上げる侍女たちの着物の間をって逃げ回ると、やがて孟徳の席へ来て彼の背後に隠れた。

「構わぬ、皆席へ戻るが良い。」
孟徳は笑って彼らを制すると、自分の背後に隠れる童子を振り返り、彼を抱き上げて自分の膝に座らせた。

ぶん、どうした?兄上たちと遊んでいたのではないのか?」
彼はそう言って、まだ幼い童子“文”の頭を優しく撫でたが、彼は少しうつむいたまま黙っている。
そこへ、一人の女性が広間へ姿を現した。

「孟徳様、申し訳御座いません。しつけが行き届かず、いつも御迷惑を…」
彼女は深々と孟徳に向かって礼をし、非をびる。
伏せていた顔を上げれば、それは大きな瑠璃るり色に輝く瞳が印象的な、若く美しい絶世の美女であった。

「なに、構わぬ。男子は腕白わんぱくなぐらいが丁度良い!」
孟徳は膝を打って笑う。
彼女は苦笑し、

「さあ文、此方へいらっしゃい。父上ちちうえ様を困らせては駄目よ…!」
そう言って、文に手を差し出す。
文は渋々しぶしぶといった様子で彼女に手を伸ばし、やがて孟徳の膝から立ち上がった。
文の手を引いて広間を出て行く彼女の背に、孟徳が声を掛ける。

「貂蝉、余り文を叱ってやるなよ。」

呼び止められた貂蝉は振り返り、彼に微笑を送った。


貂蝉と再会を果たした時、孟徳は我が目を疑った。
何故なら、彼女に最後に会ったのは董仲穎が築いた郿塢びうの城塞である。
仲穎に斬り掛かった貂蝉は、護衛らに取り押さえられた後、目をえぐられて殺されたとばかり思っていた。
しかし、彼女は仲穎の元軍師だった李文優によって助け出されていたのである。

下邳で長い籠城ろうじょうの末、遂に呂布軍が敗れた事を知り、別働隊を率いて砦に籠もっていた張文遠も抵抗を止め、大人しく曹操軍に降伏した。
その時、砦に隠れていた奉先の家族や従者たちも文遠に従い、曹操軍に下ったのである。

「貂蝉…?!お前、生きていたのか…!」
投降とうこう兵たちの中にまぎれていた貂蝉を発見すると、孟徳は驚いて彼女に駆け寄った。

その後、奉先が死んだと聞かされた貂蝉は「自分も死にたい」と泣いて訴えたが、孟徳はその肩を強く掴んで抱き寄せ、

「奉先は、死んでもお前たちを護りたいと願っていた。生き延びる事が、彼の望みだ…!」

そう言って泣きじゃくる彼女をなだめ、ようやく落ち着きを取り戻した貂蝉は、泪をぬぐって彼の説得に応じたのである。
きょへ帰還すると、孟徳は彼女の身柄を預かり保護する事を約束し、貂蝉を自分のしょうとして迎え彼女に部屋を与えた。

こうして貂蝉は、孟徳の庇護ひご下で不自由無く生活する事が出来ていたが、それから数カ月後、思わぬ事態が訪れる。

「何だって…?!貂蝉が?!」

孟徳は思わず驚愕きょうがくの声を上げた。

この数日、貂蝉は体調がすぐれず食事も喉を通らない様子で、心配した孟徳は医師を呼んで診察を受けさせた。
その結果、医師から告げられた言葉に孟徳は唖然あぜんとしたのである。

「間違い御座いません。彼女は身籠みごもっておいでです。恐らく妊娠三ヶ月前後でしょう」
医師に次の診察の日程を告げられ、いわいの言葉を掛けられた孟徳は少し神妙しんみょうな面持ちで、居室を後にする医師を見送った。
医師は当然、彼女のお腹の子の父親は孟徳だと思っている。
「………」
だが、孟徳は複雑な表情を浮かべたまま彼女の寝室へと向かったのであった。

「貂蝉…」
しょうに横になっている貂蝉の傍へ腰を下ろし、孟徳は彼女のつややかな髪をでながら出来る限り優しい口調で問い掛けた。

「お腹の子の、父親は誰だ…?」
「………」
すると貂蝉は気怠けだるげに身を起こし、彼の瞳を少し不安げに見詰める。
彼が疑念ぎねんを抱くのも無理はない。
貂蝉は彼の妾と言う事になってはいるが、それはあくまで見せ掛けに過ぎず、二人の間に肉体関係など一切無かったのである。
孟徳は眉根まゆねを寄せて彼女を見詰め返した。

「…奉先、なのか…?」

少し声をひそめて問うと、貂蝉は稍々やや頬に恥じらいの色を浮かべながらも、小さく頷いて見せる。
それを見ると、孟徳は途端に愁眉しゅうびを開き、安堵あんどの溜め息をいた。

「そうか、そうであったか…!心配するな貂蝉、奉先の子なら俺の子も同然。安心して産むが良い…!」

孟徳はそう言って笑い、彼女の細い肩を抱き寄せる。
喜びをあらわにする彼の様子に貂蝉も、ほっと安堵の表情を浮かべ、彼の胸にもたれてそっと瞼を閉じるのであった。

それからおよそ七ヶ月の後、貂蝉は無事出産の日を迎えた。
報告を聞き、孟徳が直ぐさま彼女の元を訪れると、出産を終えたばかりの貂蝉は牀の上に横になったまま、産まれた赤児を腕にいだいていた。

「貂蝉、よく頑張ったな…!」
彼女にねぎらいの言葉を掛け、孟徳は彼女から赤児を腕に預かり、そっと抱き上げる。
産まれた赤児は、元気な男児であった。

「よしよし、良い子だ。俺が、お前の父だぞ。名は何としようか…?」
孟徳は目を細め、腕に抱いた小さな命を愛おしげに見詰める。

「そうだな…“ぶん”はどうだ?孟嘗君もうしょうくん田文でんぶんと同じ名だ…!」

嬉しそうに笑みを浮かべて貂蝉をかえりみると、彼女も微笑んで彼にうなずいた。
こうして貂蝉の息子“文”は、孟徳の子として、彼の他の息子たちと共に育てられる事になったのである。

孟徳の居室を訪れていた郭奉考かくほうこうが、窓辺に立つ彼の背に向かって問い掛けた。

「孟徳殿、呂奉先には何と伝える積もりだ…?」

「何を言っている…?呂奉先は死んだのだ。もうこの世には存在しない…文は俺の子だ。俺の息子として育てる。あの子はやがて、漢王朝を復興ふっこうさせ皇帝を継ぐ者になるのだ…!」

まぶしく差し込む日の光に目を細めながら、孟徳は明るく輝く窓の外を、希望の光を宿やどした瞳で遠く眺める。

「………」
一方の奉考は、彼の答えに稍々やや瞳の色をかげらせるのであった。

この頃、孟徳の正妻せいさいとなっていたべん夫人、玉白ぎょくはくも二人目の子を出産して間が無かった。
長男はと言い、次男はしょうと言う名である。
しかし彼は、自身の子の誕生よりむしろ文の誕生を喜んでいる様で、それは傍目はためにも明らかであった。
玉白は、そんな彼の姿を憂いの眼差しで見詰めていたが、彼女をあわれむ他の側室そくしつたちは、彼女の前で貂蝉と文を悪く言う事をはばからなかった。
しかし、玉白は逆に彼女たちをとがめ、

「私は、彼を信じています。貂蝉たちを悪く言うのは、彼をおとしめるも同然ですよ!」
そう言って、彼女は自らをも強くいましめるのであった。
それでも、やはり貂蝉や文に対する風当たりは強く、遂に玉白は孟徳に直接、思いを打ち明ける事を決し、ある雨の日、彼の居室を訪れた。

「貴方が、貂蝉や文を大切に思っているのは分かりますが…それが、彼女たちを苦しめる事になると、お分かりですか?」

「どう言う事だ?!」
書簡から目を離した孟徳は、問い掛ける玉白を驚きの表情で見上げる。
それを見た玉白は、深い溜め息を吐いた。

「文は、貴方の子ではないでしょう?それなのに…っ」
不意に、玉白は目尻めじりが熱くなるのを感じ言葉を詰まらせる。
すると、孟徳は少し不機嫌な表情を浮かべて筆を置くと、

「文は俺の子だ…!それに、あの子はお前が考えている様な、ただの子供では無い…!」

彼女を叱り付ける様に語気を荒げ、ついそう怒鳴ってしまった。
途端に瞳から大粒の泪をこぼし、失意しついの底に落とされた玉白は、足早に彼の居室を飛び出してしまう。

「玉白…!」
直ぐに後悔した孟徳は、彼女を呼び止めようと廊下へ向かったが、既に彼女の姿は暗闇に消え、辺りに鳴り響くのは冷たい雨音だけであった。

その後、文はすくすくと成長し、四つになる頃には孟徳が自ら彼に剣術を教え始めた。
文は奉先の気質きしつ素質そしつも色濃く受け継いでおり、武術の覚えも非常に早く、目に見えて上達していく。
それを目の当たりにすると、孟徳は尚更、文に目を掛け彼を溺愛できあいするのであった。

うららかな春の午後。
突然、貂蝉の居室へ血相けっそうを変えた侍女が飛び込んで来た。

「貂蝉様!文様が…!!」
「!?」

侍女に案内され慌てて邸の庭へ向かうと、そこは既に騒然そうぜんとしていた。
見れば、玉白の息子である丕が地面に倒れて泣き叫んでいる。
彼は怪我を負っているらしく、他の侍女たちが彼を取り囲み、必死になだめ手当をほどこしている最中であった。
傍らには、手に木刀を握り締めて立っている文の姿がある。
それを見て、事の次第を理解した貂蝉は文に駆け寄り、彼の両肩を強く掴んで激しく揺さぶった。

「文、何をしたの?!兄上様に謝りなさい…!」
「………っ」
文はうつむいたまま、強くくちびるを噛み締めて答えようとしない。
貂蝉は目をいからせ、文の頬を叩こうと腕を振り上げた。

「貂蝉、止めて!」
「…?!」
突然、腕を誰かに掴まれ、はっと我に返る。
彼女の腕を掴んでいるのは玉白だった。

「悪いのは、丕の方なの…」
「玉白様…?」

玉白は、文が丕のひたいを木刀で殴るのを見ていた弟の彰から、既に事情を聞いていた。
三人は始め、この庭で一緒に木刀を振り回して遊んでいたが、そのうち些細ささいな切っ掛けで口喧嘩くちげんかが始まり、二人は文に向かって
「お前は、本当は父上様の子では無いくせに…」
などと口走ってしまったのである。
それを聞いた文は激昂げっこうし、丕に殴り掛かったのであった。

「それでも、兄上様を殴るなんて、いけない事だわ…!」
貂蝉が文を顧みると、彼は拳を強く握り締めて肩を震わせていたが、やがて瞳からぼろぼろと泪をこぼし、声をしゃくって泣き始めた。

「お前は、父上様の子じゃないって…お前の父は、裏切り者の卑怯者ひきょうものなんだって…」
「文、それは違うわ…!」
震える彼の肩を掴むと、貂蝉の瞳にも大粒の泪があふれる。

「…どうして、父は僕たちを捨てたの…?もう帰って来ないんでしょう…?」
「捨てたんじゃないわ、文…貴方の父は、立派な方よ…っ…」
声を詰まらせ、貂蝉は文の体を強く抱き締めて嗚咽おえつすると、遂にその場に泣き崩れてしまった。

夕刻、鍛錬たんれんを終えた兵士たちが雑談をしながら、ぞろぞろと兵舎へと戻って来る。
兵舎の門を潜ろうとしていた少年は足を止め、通りの角に立つ一人の女性らしき姿に気付いて、そちらへと走った。

「貂蝉様、こんな所で…どうされたのですか?!」
声を掛けたのは、すっかりたくましく成長した俊である。
貂蝉は頭から被っていた頭巾(フード)を取って、彼を見上げた。

「俊、元気そうね」
「何か、あったのですか?」
貂蝉は笑顔を取りつくろったが、俊は真顔で彼女に問い掛ける。

「…実は…文が、孟徳様の御子息に怪我を負わせてしまって…此処には、もう居られない…頼れるのは貴方しかいないの。私と文を、此処から連れ出して…!」
「えっ…!?」
俊は驚き狼狽うろたえたが、彼女のうるんだ瞳を見ると、彼女たちの力になりたいと強く思った。
彼女と初めて出会った時、一生を掛けて彼女を護ると奉先に誓ったのである。
その日の内に俊はしゃを用意し、夜闇の中、貂蝉と文を連れて密かに許から抜け出し南へと向かったのであった。

貂蝉と文が邸から姿を消した事を知った孟徳は、兵たちに命じて城内を隈無くまなく探させたが、二人を発見する事は出来ず、更に城の外にも兵をやって捜索させたが、結局見付け出す事は出来なかった。

「文…貂蝉…!一体、何処へ行ってしまったのだ…!?」

孟徳は強く歯噛みをし、卓の上で頭を抱えて悔しがった。
その様子を、涼し気な眼差しで見詰めているのは郭奉考である。

これで、後継者争いが激化する事にはなるまい…

彼の思いとは、それであった。
袁本初が死んだ後、彼が後継者をはっきりと決めていなかった事で、袁氏は長男の袁譚えんたん末子まっし袁尚えんしょうの間で、それぞれの派閥が対立して内紛を起こした事は記憶に新しい。
文が消えた事で、一つの内憂ないゆうが取り除かれたのは、彼ら幕僚にとってはむりろ有り難く、孟徳は二人の捜索を続行させたが、彼らは本気で二人を見付け出す気など無かった。

月日つきひは流れ、俊から武術や剣術を学んだ文は、やがて強くたくましい少年へと成長していった。
この頃、俊と貂蝉は既に夫婦として生活を共にしており、貂蝉は元のせいである袁氏を名乗り、袁瑠藍えんりゅうらんとなり、俊は故郷の魏氏を名乗り、魏秀ぎしゅう、字を俊才しゅんさいとしていた。

成長した文は、義父である魏俊才と共に、荊州けいしゅう刺史であった劉景升りゅうけいしょうの下で兵として仕えた。
文の能力の高さは直ぐに認められ、やがて彼は長沙ちょうさ太守、韓玄かんげんの客将として迎え入れられる。
韓玄の指揮下には、黄忠こうちゅう、字を漢升かんしょうと言う勇猛な将がおり、親子以上に年の離れた文を、彼はとても可愛がってくれるのであった。

「どうだ、此処からの眺めは素晴らしいであろう?」

冷たい風の中、長江の流れをいつまでも眺めている彼に、漢升が馬を寄せ声を掛ける。

「そろそろ戻ろう、どうかしたのか…?」
「いや、少し昔を思い出していたのだ…」
彼は振り返り、微笑する。

「そうか…だが、我々には後ろを振り返る余裕は無いぞ。劉玄徳が荊州を平定するため、軍を動かしている。此方へは、関雲長が向かっているとの報告も来ているからな」
関雲長と言えば、劉玄徳の片腕であり、その勇猛さは荊州一帯でも知れ渡っている。

「関雲長か…一度はその様な者と戦ってみたいものだ…」
「お前の様な青二才あおにさいなど、相手にしては貰えぬぞ…!」
彼がつぶやけば、漢升は笑ってその肩を叩き、手綱をしごいて馬を走らせた。

「あんたみたいなじいさんこそ、相手になど成らぬであろう…?!」
ふくれっ面で遠ざかる彼の背中に呼び掛け、自分の馬の背にまたがる。
風を切って走ると、風は頬を刺す程に冷たかったが、気持ちが高揚こうようする彼には然程さほど冷たくは感じなかった。

いつか俺も…その名を天下に轟かせる様な将になりたい…!

俺の名は

魏延ぎえん、字は文長ぶんちょうと言う―――


―終章―《完》


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