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【一章〈春〉】未知との遭遇編
04.春の外出
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「ザンセを外に連れ出してもいいですか?」
久保田さんに打診してみた。
先日から考えていたのだ。ザンセの生活について。
決まったお部屋の中で型にはまったお勉強をしているだけでは、どうしても限界がある。外の世界を見ずして、精神に変化をもたらすのは望み薄だ。
反応を得るには、状況から変える。脳の発達のためには、やはり外部からの刺激が不可欠だ。
ザンセ本人が無反応なら、意思関係なく連れ出すしかない。刺激はなんであれ、内面に影響を及ぼしてくれるはずだ。
「外か……」
休憩スペースのベンチに腰掛けた久保田さんは、渋い顔を作る。
「今はたぶん、精神世界に入っても、最初とそんなに変わらないと思うんです」
やっぱり渋られるか。理由を出してさらに押してみるしかない。
「同じことの繰り返しじゃ意味がない。ザンセに、確実な変化が見られてから、もう一度挑戦がしたいんです」
「しかしな。あまり教育を施すのも、私はどうかと思うぞ」
「精神の成長の助長になるからですか?」
自我の成長に対する懸念はわかる。複雑化すれば、その分だけ不利になる可能性もあるからだ。
「でも、俺としては、変化が欲しいんです。自我が育つことで、あの行動の原因がわかるかもしれないし――」
噛みついて殺す、という現象が起きた理由を探りたい。
そのために少しでも変化が欲しいし、わかりやすく言えば二度と反撃されたくない。人間らしい脳の作りのほうが俺はやりやすい。
久保田さんは依然渋い反応だが、なんとか通すしかない。
「外的な刺激は、たしかに。優位に働くと僕も思うんですよ」
違う方向から声が掛かった。
振り返ると、研究者の皆川さんが通路の向こうから歩いてきていた。
「皆川……。なんでこんなところをうろついてる」
「ただの気分転換ですよ」
研究施設とは違う棟だ。皆川さんは飄々とした笑みを見せて、火のついていない煙草を示す。喫煙所を求めて、とか言いたいんだろうか。
「変化をもたらすためにも、いろいろやってみるのがいいと思いますね。織部くんの言うとおり、今のままでは停滞したままでしょう。本人に訴えかけるばかりではなく、場所から変える。それには僕も賛成です」
わかりやすい援護だ。なんでここにいるかは別として、ありがたい。
「それに僕的には、織部くんとの関係も気になるしね」
「俺ですか?」
「噛みついてきたのは、織部くんの人間性が関係あるのかどうか。彼女は君のことをどう見ているのか? 知るチャンスが欲しいよね」
今まで頭になかった言葉を言われて、一瞬考え込む。
俺の人間性との関係? ザンセが俺をどう見ているのか?
なるほど……?
ザンセの意思だとか脳の発達についてはずっと考えていたけど、俺がザンセにどう見られてるのかはあんまり頭になかったな。
重要なのかはわからないけど、片隅くらいには入れておくか。
「そういうわけで。どうですか、久保田さん」
「まあ。私に、ザンセに関する権限はない。ザンセではなく君のサポートが仕事だからな」
久保田さんに向き直ってもう一押しすると、久保田さんは諦めたように肩を竦めた。
「君に危険が及ばないうちは黙っているさ。手の届く範囲内でなら、やりたいようにするがいい」
全面的に賛成、というわけではないらしいけど。許可は下りたようだった。
「ありがとうございます。じゃあ、これで」
定期連絡も同時に終了だ。
久保田さんと別れて、寮に戻ろうと背を向ける。
「皆川!」
すると背後から、久保田さんの鋭い声が聞こえた。
「話がある。一緒に来てもらおうか?」
なんだなんだ。振り返ると、久保田さんは皆川さんににっこりと笑顔を向けていた。
いや。あれは、怒ってるときの笑顔だ。その場で立ち止まっていた皆川さんだったが、ややあって、無言で久保田さんの後をついていった。
なんだろう。皆川さん、怒られるんかな。そこまでのことしたんかな。
若干不穏な空気を感じつつも、でも大人たちの間柄だし俺の知ったことじゃない、という気持ちで、足を早めた。
※ ※ ※ ※ ※
平日、昼間のショッピングモール。
送迎の車をザンセと二人で降りる。
外出といっても、近場のショッピングモールを短時間、ウロウロする程度に決まった。ザンセの体力を考慮してのことだ。
何かあったらすぐに連絡すると最後の確認をしてから、ザンセの腕を引く。駐車場を歩き出す。
相変わらずザンセは自分では動かないが、腕を引けばすんなりとついてくる。普段の生活も、少しずつ介助の割合は減っているようだ。
ただ車に乗せるのは誘導しなければならなかったし、今も引っ張るのをやめたらたぶん止まるだろう。
「ザンセ」
腕を引いたままショッピングモール本館に近づいてくると、ちらちらと人通りが増えてきた。
「こっち。来い」
できたら腕を引かずに歩かせたい。腕を掴んだままなのは周りから変な二人組に見られそうだ。介助が減っているなら、教えれば不可能ではないはずだ。
駐車場の歩道で手を離すと、ザンセは立ち止まったまま、こっちをじーっと見ている、ように感じる。
が、動かないな。手招きしたり足元を指差したりしてみるが、同様。
「おいで。はい。歩く」
やりたくないけど仕方ない。両腕を持って引いて、前に進むということを教える。
お世話係の人たちから教わった指示の仕方だ。真似してみると、手を離しても、ようやく歩いた。
こんな状態で大丈夫だろうか。今さらながら不安が押し寄せてくる。でも犬みたいに首輪してリードに繋いで引いてたら、確実に俺が通報されるし。
……今日はザンセを外の世界に連れ出したかっただけだ。無理にあれこれ誘導はせずに、ザンセの様子をよく見ていよう。
ていうか、そうだよな。考えてみれば、外ということは当然、他人の目があるんだ。
しかも誰もザンセがAIだなんてことは知らない。白髪だから日本人には見えなくても、異国の血が混じった高校生ぐらいの女の子、という目で見られるはずだ。
そこまで考えてなかった。これは、結構問題かもしれない。と入り口に近づいてきて、今さら焦りがわいてきた。
「ん?」
ふと後ろを見る。勝手についてきてるだろう、と思っていたのに、ザンセの姿がない。
「えっ!? ちょ、ザンセっ!」
ザンセは横断歩道のど真ん中で停止していた。たまたま通りがかった人も、えっ、みたいな顔をしてザンセを振り返っている。
慌てて戻って、ザンセの腕を引いて渡らせる。今、車が来てなくてよかった。
「そこで止まらなくてもいいだろ……!」
何もそんなピンポイントで。勝手にウロウロすることはないけど、延々と自動追尾するわけでもないのか。
なんで止まったのかは謎だが。しかしザンセにとっては歩道だとかわかるわけないよな。交通ルールなんかも知らないはずだ。今回は駐車場だったけど、これは、普通の道を歩かせるのは怖すぎるな。
「手」
周囲の親子がしていたのを真似るように、手を差し出す。
腕を引くのとは違って、これなら自然に誘導できるはずだ。
と言ってもやっぱり通じてないようだから、こっちからザンセの手を取って繋ぐ。
「握ってろ。離すな。俺にちゃんとついてこい。いいな」
理解してるかどうかはわからないけど、手を離さない、ということがわかればいい。
ザンセは握り返してくることもしないが、離そうともしない。自然な形として指を添えている程度だ。
周りから見たらただのイチャついてるカップルだなこれ。俺としては、幼児を連れ歩いている母親気分なんだけど。
「はち」
小さく何か聞こえた。
「……ん?」
今の、ザンセの声、だよな?
はち、って。俺のこと呼んだんだよな。
聞き慣れないな。その変な呼び名もそうだけど。
ザンセの声、っていうのが。喋ること自体そうそうないから、声を聞く機会もないのに。
「なんだよ?」
ザンセはいつもの静止画だ。何か伝えようとしたのか、それとも特に意味はないのか。
今は横一文字になってしまったザンセの口元を見ていると、自分の心拍数がやや上がっていることに気づいた。
……珍しく反応があって、能動性を見せて、しかもそれが呼びかけられる行動だったから、ちょっと嬉しくなっただけだ。
ザンセから見て、俺はどんなふうに映っているんだろう。
俺はどういうものとして認識されているんだろう。
ザンセの無の顔を見ていても、わかるわけはないけど。
他人の視線を感じた。すれ違いざまにちらっと見られて、小さく笑われた気がした。
今気づいた。ザンセと手を繋いだまま無言で見つめ合っていたことに。しかもここは人がよく通る出入り口付近だ。かぁっと顔が熱くなる。
急に手を離したくなってきた。一歩外に出れば、見る目が全然違う。施設内なら全然恥ずかしくないのに。一度意識すると、手がやや汗ばんできたかもしれない。
なるべく周りの目は気にしないように、ごまかすように、とりあえず館内に入ってすぐ正面にある案内板の前までザンセを引っ張った。
「どこか、行きたいとことかないか……?」
液晶パネルにはフロア全体図とジャンルごとの店舗が羅列されている。
が、ザンセは案内板じゃなくて、俺を見たままだ。
「いや。あの……」
こっちじゃない。説明するのもまどろっこしくて、むい、とザンセの頬を指で押して案内板に顔を向けさせる。
「こっちな」
そう言うと、くるっとまた俺を見てくる。
……目が合うようになったし、呼びかけに反応するようになったのはいいことだけど。常にそれだと困る。ギャグかよ。
後ろに人がいた。こんなやり取りも、また変な目で見られていたんだろうか。ザンセに聞くのは諦めて案内板の前を離れた。
外出の難易度として、恥は考慮に入っていなかった。ザンセと行動するのがこんなに恥ずかしいものだとは。
「あっ、ザンセ」
歩き出して早々、ザンセが通行人と接触した。
すいません、と俺が代わりに謝りつつ、ザンセの手を引いてどかす。
今の人、無反応なザンセに怪訝そうな顔してたな。
「人が来たらちゃんと避けろよ」
ただでさえ二人分の幅取ってるんだから、上手いこと縮まったりしないと避けれない。
こんなこともわからないとは。こっちは常識だと思ってるし自然とやってることなのに。館内の通路は広くはない上に人通りもあって気を遣う。
「何か……興味ないか」
文句はさて置き。ザンセの体力という制限時間があるから、適当に歩き出す。
「えーっと……。興味あったら、教えて……じゃない、言って……いや言えないか……。何か、気になるものあったら、足止めるとか……」
一応促しはするけど期待はしていない。ザンセは当たり前のように、振り返ってもじーっと俺を見ているだけだ。
最初から諦めてはいたけど、一人で喋ってるのはやっぱり心にくるな。どうすっかな。とため息をつきたい気持ちを押さえつつ、目的もないまま歩く。
案外、人が多い。平日の昼間なのに、若い人も親子連れもいて、結構賑わってる。
エスカレーターに乗ると、ザンセは段差に躓いたのか、どたんと音を立てて派手に転んだ。引っ張られて俺まで転びそうになって、わっと声を上げる。慌てて立ち上がらせて、それから後ろから歩いて上ってくる人のために左側に避けさせる。
……周りの目が気になる。さっきからずーっと、変な目で見られてる気がする。こう人が多いと、それだけで目が回りそうだっていうのに、ザンセの誘導でさらに気疲れする。
それにしてもみんな、何が目的でわざわざ混雑する場所に来るんだろう。服や食料品のためにこんな不便なところに来るもんなのか。
二階まで来て、雑貨屋が目についた。文房具やタンブラーといった生活雑貨から、フライパンや鍋といった調理器具まで並んでいる。
こんなとこで調理器具なんか買うか? どう見ても小さくて使いづらそうなんだけど。そのくせ高いし。
「あ」
商品を見ていると、通路を通り抜けたそうな買い物客が来た。
狭いから手を繋いだまま避けるのは無理がある。手を離して、俺とザンセの間を通ってもらおうとしたが、察せないザンセは道をちょうど塞ぐ位置で止まった。
「え」
「す、すいません」
どいてくれるものだと思ったらしい女性客は戸惑った声を上げる。慌ててザンセの腕を引いてどかそうとするが、なぜか動かない。
「ちょ、ザンセ?」
焦って、両腕を掴んで無理やり引っ張った。
ザンセはそのまま俺にぶつかってくる。女性客は変な顔をしつつ、通り過ぎていった。
「ちゃんとどけよ……」
なんですんなり動かなかったんだよ。わかるだろそれぐらい。と言いたくなるのを、体を離しながらぐっと堪える。
不用意にザンセの体に触るのもなるべく避けたいが、そうもいかない。そのまま腕を引いて、店の外に出る。はあ、と息をついて気持ちを落ち着ける。
わからないのが当然なんだ。初めて外に出るんだし、こっちの常識を押しつけてもしょうがないよな。
下手に店内に入ると通行の妨げになるのはわかった。しかしどこにも立ち寄らないっていうのも、なんだか来た意味がない。
服が陳列されたファッション系の店、甘い香りのするスイーツ店、フードコート、賑やかな音が響くゲームセンター。様々な種類の店の前を通ってみた。が。
本当にただ歩いてるだけなんだけど。犬の散歩であっても、もう少し何かあるはずだろ。俺は物でも運搬してるのか。
なんなら、台車を引いてるような感覚が一番近い気が……。
ズボンに突っ込んでいたスマホが震えた。
通知だ。ザンセの様子はどうかという途中経過の確認が来た。道の端に寄って、返信する。
ザンセの様子は、とりあえず体調が悪そうには見えない。順調……は言い過ぎか。特に問題はない、という旨を返信する。
反応のなさは相変わらず困るけど、それは問題事ではない。わかっていたことだ。
そうだ。まだ、想定内の域を出ないんだ。食べ物には反応するはずだし、さっきのフードコートで何か買い与えてみるか――
「あれっ」
返信を打ち終えて顔を上げると、隣にザンセの姿がなかった。
そういえば返信のために手を離していた。焦って視線をさまよわせると、目立つ白髪の後ろ姿をすぐに見つけた。
「ザンセっ!」
急いで駆け寄る。
よかった。ここで見失ってたら大問題だ。普段はまったく動かないのに、なんで今だけ。
「なんで勝手に動い――」
しかしザンセは足を止めない。振り返りもせず、ずんずんと歩き続ける。
まさかの、無視か。無反応ってだけならともかく。俺の声は聞こえてるはずだろ。
「おい、ザンセ!」
聞いてんのか。腕を引くと、ぴたっと止まった。
わざと無視したのか、そうでないのか。でも聞こえなかったってのは、この距離じゃさすがにありえないし。自分の名前も認識できてるはずなのに。
なんでだ。今のは、どういう意思を持って、呼びかけを無視して自分の行動を優先させたのか――
「えっ」
どんっ、という小さな衝撃にザンセが揺れた。
ザンセの足下に子供がぶつかっていた。まだ未就学児っぽい男の子だ。がちゃんと音を立てて、手に持っていたおもちゃが床に落ちた。
車のおもちゃだ。ミニカーってやつだろうか。男の子はそれを見ると、みるみる顔をくしゃくしゃにさせる。
やば、と思ってもすでに遅かった。男の子は真っ赤になって、うぎゃーっと声を上げて泣き喚きだした。
「え、ご、ごめ……」
幼児特有の甲高い泣き声に、周りの目が一斉に集まる。
どうしよう。謝ればいいのか? 拾えばいいのか? でもこんな幼児に言葉通じるのか?
ザンセは立ち止まってただけだし、向こうからぶつかってきたわけで……なんて幼児に言ってもしょうがないか。てか、親はどこだ。
目線を上げると、のたのたと歩いてくる母親らしき姿があった。長い巻き髪に、屋内なのになぜかサングラス。ボリューミーなロングワンピースが歩くたびにばっさばっさと揺れる。
すげえ派手な格好。足元、ピンヒールだから速く移動できないんだろうか。
「あらあらぁ、やだわ。落としちゃったの? ひどいお兄ちゃんたちねえ」
男の子に向かって猫撫で声で言うと、ゆっくり屈んでミニカーを拾いながら、自然な動作でじろりと睨んできた。
「す、すいません……」
「そんなど真ん中に突っ立ってたら邪魔だってわからないのかしらねえ」
ぼそ、と独り言のように言い、男の子に再び微笑みかける。
たしかに邪魔な位置にはいたけど。そんな言い方しなくても……と思った矢先、気づけばザンセはまた歩き出していた。俺が代わりに頭下げてんのに。
もう一度すいませんと言ってから、急いでザンセを追いかける。かわいそうにね~とあやす母親の甘い声と、ままぁーと泣き喚く男の子の声が背中から聞こえる。
おもちゃ落とした程度で、そんな泣くほどかよ……。
「ザンセ」
声を掛ける。が、やっぱり立ち止まらない。
「ザンセ!」
ぐっと腕を掴んで引っ張る。
いろいろ言いたいことはあるけど。言ってもザンセには通じない。
普通こうだろとか、こうして当然だろとか、ザンセに言っても意味がないのはよくわかってる。
ザンセは普通の人間じゃない。だからここでイライラしても無意味だし、怒っても叱っても理解はされないだろうし、責め立てるなんてもっと虚しくなるだけで……。
「……」
腕を握りしめたまま、奥歯を噛んで、大きく深呼吸をする。
口をついてキレそうになったのは、なんとか堪えた。けど。
「だから、なんで勝手に動くんだよ」
この問題が解決してない。急に動くのは本当に、なんなんだ。
「何か行きたいとこがあるのか? どうしたい?」
と聞いても、わからない。腕を引っ張って無理やり振り向かせても、ザンセはいつもの虚無状態だ。虚無じゃなかったときがないんだけど。
ザンセが進む方向には何があるんだろう。先を見ても、同じように店がずらっと横並びになっているだけだ。
目的がわからない。普段動かないだけあって、余計に。
「どこに行きたい?」
腕を離して、しばらく待ってみる。
「……行きたいなら行けよ」
また動き出すんなら、今度は止めずについて行ってやろう。
手持ち無沙汰で、スマホをいじる。さっきの状況を再現して、横目でザンセを見つつ動くまで待ってみる。
……。
五分は経過した。
ザンセはその場を一歩も動かず、俺をじっと見たままだ。知らない人が見たらマネキンにでも見えるかもしれない。
わけがわからん。さっきは無視したくせに。
この静止画を見てると、余計にイライラしてきた。ていうか無言でずっと見つめられても落ち着かない。
向こうにトイレマークが見えた。
ザンセから目を離すわけにはいかないが、ここで停滞していても、しょうがない気がした。
「ザンセ、少しここにいろよ」
ちょうど行きたくなってきたし、このままじゃ何も進展がないし。
「待ってろよ。いいな」
一応言い聞かせてみる。
ザンセは生理的っぽい瞬きをしただけだ。効果があるとは思ってない。期待もしていない。
ただ、ザンセから少し離れたかった。俺が離れたら勝手に動き出すかもしれないし。さっさとトイレに向かって、普段よりちょっと時間をかけて戻ってくる。
元の位置には、なんとなく予想はしていたけど、ザンセの姿はなくなっていた。
行動してほしい、とは思ってたけど。
いざこうなると、深いため息が出た。
俺の言うことに反してばっかり。動くなと言えば動くし、じゃあ動けと言ったら動かなくなったくせに。俺がいなくなった途端にこれかよ。
あいつ、ただ無反応なだけで、本当は俺のこと嫌いなんじゃないだろうか……。
もういいや。ゆっくり探そう。そんなに遠くには行ってないはずだ。
さっきの雑貨屋を通り過ぎようとすると、女子二人がはしゃいでいるのが見えた。お揃いで買う? やだ、さすがに恥ずかしいわーなんてカップルみたいな会話をしている。
あのお店見てみる? あれかわいいねー、と同調する声も。
お腹空いてきたね。何か食べる? と相談する声も。
喉渇いたぁー。甘い物食べたいなあ。さっきのお店で見たやつやっぱ欲しい……。そんな他愛のない一言も。今は、なんか、周りの会話の全部が羨ましく思えてならないな。
ショッピングモールって、本来、こういうものだよな。
外出って、何も買い物だけじゃない。コミュニケーションだって、立派な目的だよな。
ふと、さっきの母親と男の子がベンチに並んで座っているのが見えた。
男の子はジュースを買ってもらったのか、嬉しそうに口を付けて、笑うとジュースなのかヨダレなのかがちょっと飛び散る。その口周りを拭ってもらっている間もニコニコ笑顔だ。
母親のほうもつられたのか、顔をくしゃりと綻ばせている。サングラスはしたままだが。
……よかったじゃん。喚いてたらママにいいもの買ってもらえて。さっきのはなんだったんだ。
いや。まあ。子どもってそんなもんだよな、とは思うけど。
気づいたらショッピングモールの端まで来ていた。
意外と見つからないもんだな。もしかしてザンセと真逆の方向に進んでしまったんだろうか。
もし見つからなかったらどうしよう。あえて放置したことがまずい結果に繋がってしまったら。そう思うとだんだんと焦ってきた。
館内にいるならまだいい。もしも外に出て、そのまま車に轢かれでもしたら……。
こうしてのんびり探してる場合じゃなかったんじゃないか。
早足で館内を出て、外の通路を探す。この先には噴水の広場があったはずだ。
ここより先に行かれたらまずいかもしれない。探して、いなかったら、別の場所を探す前に、待機してる人に連絡したほうがいいのかも……。
広場のほうで、なんだか人が不自然に立ち止まってるのが見えた。何か一様に、噴水のほうに注目しているような雰囲気だ。
イベントでもあるのか、と思ったけど。嫌な予感がした。
ザンセは、普段は何も行動を起こさない奴だ。けれど内面は、何を考えているのか、まだまだ不確定要素だらけの未知数だ。
想像しがたいことだけど、何が起きるかはわからない。逆に何が起きてもおかしくはない。
足早に進みながら、視線が集まるほうに目を向ける。
まさかとは思うけど。当たらないでくれよ。
このざわつきの中心に、まさか、ザンセがいるとか――
「え」
いた。
本当に。
いや、いたことよりも。
その、いる場所に。
見つけた瞬間、一瞬、思考が停止した。
「ザ――」
ザンセは、噴水の縁に立っていた。
周囲よりも一段高くなった場所に、長身の少女がぴんと背筋を伸ばして佇む姿は、あまりに目立つ。
周りの人は、なんかやべえ奴がいる、みたいな顔をして黙って距離を取っている。
そうしてできた人の輪による衆目を浴びながら。今まさに。ザンセは噴水に向かって、一歩足を踏み出しているところだった。
「ザンセっ!」
急いで駆け寄る。間に合わない。もう片足は浸かってる。
縁に上って、腕を掴んで引っ張る。ザンセは後ろに倒れてきて尻餅をついた。
早く噴水から出てくれ。もはや羽交い締めにして引きずり出す。
見つけた。ようやく見つかった、けど。
「何やってんだよ、おまえ……!」
なんでこんな場所に。こんなことを。
まさか噴水が目的だとは思わなかった。しかも足突っ込むって。中まで侵入する気だったのか。
意味がわからなさすぎる。片足は完全に水に浸かった。こんなの、連れ帰ってどう報告したらいいんだよ。ちゃんと見てなかったって怒られるのは俺なんだぞ。
こんな行動、予想外すぎる。放置したのは悪かったけど、さすがに未然に防げるわけが――
「ちょっとちょっと。君たち、何してるの」
声を掛けられてはっとする。
警備の人だ。騒ぎを聞きつけてやってきたのか、呼ばれて来たのか。
周りの様子に気づく。大勢の、異様なものを見る目。指差して、何があったの、とざわつき好奇をそそられているような顔。
さあっと血の気が引いていく。反射的にすみません、と頭を下げる。全身が熱い。息苦しい。早くこの場を去りたい。
詳しいことを問い詰められる前に、ザンセを無理やり引っ張って立たせる。動きが妙に鈍いが、力ずくで、もはや引きずるような形で、ザンセを連れてその場を離れた。
それしかできなかった。人目を避ける方向へとひたすら走って、逃げて、建物の裏手まで来た。
人の気配がなくなってから、ようやくザンセの手を離した。
はぁ、はぁと息をつく。
このくらい走っただけで、疲れた、というよりは。
まだ心臓がばくばく鳴ってる。顔が熱の塊かってぐらい熱い。
なんでこんな目に。
意味がわかんないだろ。
こんなの予測して防げるのかよ。
俺が何かしたわけじゃないのに。
悪いのはこっちだ。周りの客もお店の人も、警備の人も、困るだろ。そりゃ。ただのオブジェの噴水に足突っ込まれたら。迷惑だろ。
向こうが怒るのは当たり前だ。なのに、俺が代わりに何度も何度も、頭を下げて。
本来なら、本人が、少しは。
「おまえ……」
子供であっても、もう少しこう。
人の顔色や周りの雰囲気から、まずいという空気を読み取って、ごめんなさいくらいできるだろ。
さっきの子供だってそうだ。悪いことをしたような空気を察して、怖くなったから、泣き出したんだ。
なのにこいつは。
「なんであんなこと……」
変わらず無言、無表情だ。
……なんだよ、そのふてぶてしい顔。
「聞いてんのかよ……!」
呼びかけても無視するし。人目に晒されようが関係ないし。
人にぶつかろうが、迷惑そうな顔を向けられようが、通行の妨げになろうが、子供が泣こうが。
同じなのか。こいつにとってはただの風景、景色で。
俺がこんな目に遭ったのも。変な目で何度も見られて笑われたのも。奇異な目を向けられて、同じもの扱いされたのも、探し回って引っ張って、代わりに怒られたのも。
それもこれも。何もかも。
常識がなくて当たり前が伝わらないどころか、人間らしさがない、人間らしい認識すらできない、こいつのせいなのに――!
「――!」
胸倉を掴んでザンセを引き寄せる。手を振り上げる。
その無機質な瞳には、きっと俺のことさえも映ってないんだろう。だというなら。この程度では何も認識できないっていうなら。
今。外側から刺激を与えて、無理やりにでも反応させ――
「――えっ」
予想外に、ザンセの身体はぐらっと揺れた。
あまりに無抵抗で軽い感触。どころか、膝から崩れ落ちるかのようにこっちに倒れ込んできた。
「お、おい……!」
慌てて肩を掴んで支える。
ザンセは首がすわらない人形みたいにがくんと項垂れて、俺の肩に体重をかけてくる。
が、俺の腕を掴みながらふらついたわりには、一歩前に踏み出すと、何事もなかったかのようにすっくと背筋を伸ばしていつもの直立に戻った。
ふらつくなんて。どうしたんだ。いつも直立不動か鎮座した石像のくせに。
……そんなに強く引っ張ったか?
たしかに引っ張っても基本的に無抵抗だけど、ここまでふらついて寄りかかってきたのは明らかに変だ。まるで自分の体重を支えきれなかった、みたいな。
手、離しても大丈夫か……?
恐る恐る、ザンセの肩から手を離しつつ、顔を覗き込む。
よく見ると、ザンセの頬はやや火照っていた。顔つきは無表情のままなのに、息が荒く、呼吸をするたびに肩が動いている。髪も乱れたままだ。
無理やりここまで引っ張られて、走らされたせいだろう。
まさか、そのせい?
いやでも。たったあの程度の距離を走ったくらいで、思わずふらつくほどなのか。
とりあえず座らせないと。近くのベンチを見つけて、そこまで連れて行く。
両腕を持って座らせる。座った姿勢は、いつものシャキッとした状態だ。
疲れたというジェスチャーは取らない。が、呼吸は大きい。
「だ、大丈夫か……?」
ザンセはいつもの虚無の顔で、ただ普段より浅い息継ぎをしているだけだ。
大丈夫かどうか、なんて聞いても、やっぱり返事はない。
こんな、ふらつくほど足にきてたのか。疲れてるんだったら言えばいいのに。呼吸が苦しいなら、そう主張すれぱ済むだけの話で……。
全然気づかなかった。
なのに俺は、胸ぐら掴んで、引っ張って。
それから――何をしようとした?
手を振り上げて。
ザンセがふらつかなければ、我に返っていなければ。
……そのまま、手を振り下ろしていたんじゃないのか。
「そうだ。靴……」
冷静になれないからこそ、あえて別のことを言う。
「濡れてるだろ、それ」
ザンセの足下に屈んで、靴を指差す。
片足は完全に浸かっていたはずだ。足はまだ濡れて水滴がついたままだが、問題はそっちじゃない。
「一回脱げるか?」
指示がわかるわけもなく、返事を待たずに靴を脱がせる。フラットシューズってやつなのか、靴下を履いてないのがまだ幸いだ。
絵面的にやばい気もするけど、四の五の言ってられん。とりあえず裸足になった足をハンカチで拭く。
靴は思ったより水を吸っている。一回絞りたいくらいだ。これを履かせて歩かせるのは、さすがに。
どうしよう。早めに帰ったほうがいいのは確実だ。
けどここはたしか、駐車場のちょうど反対側のはずだ。戻るには、館内を突っ切るか、外側を回り込んでいくかしかない。どっちにしろそれなりに距離がある。
無理やり動かしてでも早く車に乗せるべきか。いや……。
「ちょっと待ってろ」
と同じような指示をするが、また動かれたら困る。
今度こそ本当に、待つ、ということを教えなければ。
「ザンセ。いいか」
肩に手を置いて、正面からちゃんとザンセの顔を見る。
「座る。ここで。待つ。いいな?」
根気よく、しっかり。歩くのを指示したのと同じように。
教えたら、覚えてくれるはずなのだから。
「すわる」
ザンセは喋った。
通じた。……のか?
「そう。座る。座って、待つ。ここで、待つ」
「まつ」
ザンセはそう返してきた。
ただの反復かもしれないけど。
「頼むぞ、本当に……」
懇願するように改めて両肩を掴んでから、急いで一人で館内に戻る。
もしも勝手に動き回って、倒れられたら。また噴水に突っ込まれたら。今度こそまずいことになる。
結果は、行って戻ってからでないとわからないな。
用を済ませてダッシュで戻ってくると、ザンセはベンチに座ったまま、うとうとしていた。
今まさに横になろう、と姿勢を変えようとしているところみたいだ。
「ザンセ。よかった……」
ちゃんと待っててくれたのか。駆け寄って、安心のあまりの言葉が出た。ほぅ、と胸を撫で下ろす。
けど、外のベンチで横になってる人はちょっと怖いな。悪いけど、肩を支えて座りなおさせる。
「靴、履き替えろ」
近くの店で適当に安いサンダルを買ってきた。
と言いつつこっちがやってやる。言い聞かせる手間も惜しい。
レディース用のMサイズって書いてあったけど、ザンセの足にはちょっと小さいような。ストラップを留めると、やや窮屈そうだ。
Lサイズのほうだったかもしれない。まあ、濡れた靴よりかはマシか。
「あと、これ。喉渇いてないか?」
途中の自販機で飲み物も買った。
走ったせいで、俺自身、喉が渇いていた。ザンセも同じなはずだ。
ペットボトルのキャップを外して差し出すが、受け取ろうとしない。もしや飲み物だって認識できていないのでは。
待ってられん。教える手間も惜しい。飲み口を唇に押し付けて、そのまま傾ける。当然受け止められるわけもなく、中の水が零れて顎先からボタボタと滴っていく。
「あぁーもう……ごめんごめん」
濡れた顎先を俺の服の袖でぐいっと拭う。ちょっと乱暴だったけど、水が入ってることはわかったらしい。ザンセの手に持たせると、自分で飲み始めた。
……えらい飲むな。喉が渇いてたならそう言えばいいのに。
疲れてるのだって。状態が悪くて不快だ、って赤ん坊でも泣いて自己主張するというのに。
待てよ。噴水にいたのは、まさか。
走る前からすでに喉が渇いていたなら。
自分で欲求を処理しようとしただけ、とか。
眠いときに横になろうとするのと同じで、水を見つけたから、摂取しに行こうとしただけとか……。
だからって噴水はおかしいよな。でもそういうのが通じる相手じゃないし。
欲求を満たそうとするということは、自分の状態は理解できているはずだ。
状態は理解できているのに、満たし方がわからなかった場合。自己を主張する判断もできないのだとしたら……。
「……さ、さっきの」
一気に半分くらい飲んだザンセからペットボトルを受け取る。
不快な状態への反応は、自己を守るために、生物なら当然起こすことだ。
しかしその不快自体を、正常に判断ができないのだとしたら。
人にぶつかられても不快だと感じないし、喉の渇きを理解できても不快だとは判断できない。反応がないのではなく、本当に何も感じていないだけで。
生物なら普通あるはずの感覚、快か不快か。そういう刺激を判別する、思考よりも前の部分――“感受性”というものが丸々抜け落ちているのだとしたら。
辻褄は合う、のかもしれない、けど。
「ごめん……」
それじゃあ、謝っても無意味……?
考えていると、ザンセは俺の肩にもたれ掛かってきた。
さっきもうとうとしてたし、もうだいぶ疲れて眠いんだろう。
「……帰るか。ザンセ」
これは単に横になりたかっただけで、ちょうどよく寄りかかれる俺が隣にいたからってだけだろう。扱いはたぶん壁とかと同じだ。
スマホを開いて、今から車に戻る連絡をしてから、ザンセの体を起こさせる。
「もうちょっとだけ。頑張って歩こうな」
疲れてる上に、靴もおそらくサイズ違いの慣れないやつで悪いけど、手を引いて立ち上がらせる。
ザンセは素直に後をついてくる。足取りは若干遅くて、ぽてぽてしてる気はするけど。人通りを考慮して、建物の外周を回って駐車場まで戻ることにした。
人前じゃなければ、こんなやり取りも恥ずかしくないんだけどな。
……謝るタイミングを逃してしまった。帰ったら、もう一回、ちゃんと謝ろう。
久保田さんに打診してみた。
先日から考えていたのだ。ザンセの生活について。
決まったお部屋の中で型にはまったお勉強をしているだけでは、どうしても限界がある。外の世界を見ずして、精神に変化をもたらすのは望み薄だ。
反応を得るには、状況から変える。脳の発達のためには、やはり外部からの刺激が不可欠だ。
ザンセ本人が無反応なら、意思関係なく連れ出すしかない。刺激はなんであれ、内面に影響を及ぼしてくれるはずだ。
「外か……」
休憩スペースのベンチに腰掛けた久保田さんは、渋い顔を作る。
「今はたぶん、精神世界に入っても、最初とそんなに変わらないと思うんです」
やっぱり渋られるか。理由を出してさらに押してみるしかない。
「同じことの繰り返しじゃ意味がない。ザンセに、確実な変化が見られてから、もう一度挑戦がしたいんです」
「しかしな。あまり教育を施すのも、私はどうかと思うぞ」
「精神の成長の助長になるからですか?」
自我の成長に対する懸念はわかる。複雑化すれば、その分だけ不利になる可能性もあるからだ。
「でも、俺としては、変化が欲しいんです。自我が育つことで、あの行動の原因がわかるかもしれないし――」
噛みついて殺す、という現象が起きた理由を探りたい。
そのために少しでも変化が欲しいし、わかりやすく言えば二度と反撃されたくない。人間らしい脳の作りのほうが俺はやりやすい。
久保田さんは依然渋い反応だが、なんとか通すしかない。
「外的な刺激は、たしかに。優位に働くと僕も思うんですよ」
違う方向から声が掛かった。
振り返ると、研究者の皆川さんが通路の向こうから歩いてきていた。
「皆川……。なんでこんなところをうろついてる」
「ただの気分転換ですよ」
研究施設とは違う棟だ。皆川さんは飄々とした笑みを見せて、火のついていない煙草を示す。喫煙所を求めて、とか言いたいんだろうか。
「変化をもたらすためにも、いろいろやってみるのがいいと思いますね。織部くんの言うとおり、今のままでは停滞したままでしょう。本人に訴えかけるばかりではなく、場所から変える。それには僕も賛成です」
わかりやすい援護だ。なんでここにいるかは別として、ありがたい。
「それに僕的には、織部くんとの関係も気になるしね」
「俺ですか?」
「噛みついてきたのは、織部くんの人間性が関係あるのかどうか。彼女は君のことをどう見ているのか? 知るチャンスが欲しいよね」
今まで頭になかった言葉を言われて、一瞬考え込む。
俺の人間性との関係? ザンセが俺をどう見ているのか?
なるほど……?
ザンセの意思だとか脳の発達についてはずっと考えていたけど、俺がザンセにどう見られてるのかはあんまり頭になかったな。
重要なのかはわからないけど、片隅くらいには入れておくか。
「そういうわけで。どうですか、久保田さん」
「まあ。私に、ザンセに関する権限はない。ザンセではなく君のサポートが仕事だからな」
久保田さんに向き直ってもう一押しすると、久保田さんは諦めたように肩を竦めた。
「君に危険が及ばないうちは黙っているさ。手の届く範囲内でなら、やりたいようにするがいい」
全面的に賛成、というわけではないらしいけど。許可は下りたようだった。
「ありがとうございます。じゃあ、これで」
定期連絡も同時に終了だ。
久保田さんと別れて、寮に戻ろうと背を向ける。
「皆川!」
すると背後から、久保田さんの鋭い声が聞こえた。
「話がある。一緒に来てもらおうか?」
なんだなんだ。振り返ると、久保田さんは皆川さんににっこりと笑顔を向けていた。
いや。あれは、怒ってるときの笑顔だ。その場で立ち止まっていた皆川さんだったが、ややあって、無言で久保田さんの後をついていった。
なんだろう。皆川さん、怒られるんかな。そこまでのことしたんかな。
若干不穏な空気を感じつつも、でも大人たちの間柄だし俺の知ったことじゃない、という気持ちで、足を早めた。
※ ※ ※ ※ ※
平日、昼間のショッピングモール。
送迎の車をザンセと二人で降りる。
外出といっても、近場のショッピングモールを短時間、ウロウロする程度に決まった。ザンセの体力を考慮してのことだ。
何かあったらすぐに連絡すると最後の確認をしてから、ザンセの腕を引く。駐車場を歩き出す。
相変わらずザンセは自分では動かないが、腕を引けばすんなりとついてくる。普段の生活も、少しずつ介助の割合は減っているようだ。
ただ車に乗せるのは誘導しなければならなかったし、今も引っ張るのをやめたらたぶん止まるだろう。
「ザンセ」
腕を引いたままショッピングモール本館に近づいてくると、ちらちらと人通りが増えてきた。
「こっち。来い」
できたら腕を引かずに歩かせたい。腕を掴んだままなのは周りから変な二人組に見られそうだ。介助が減っているなら、教えれば不可能ではないはずだ。
駐車場の歩道で手を離すと、ザンセは立ち止まったまま、こっちをじーっと見ている、ように感じる。
が、動かないな。手招きしたり足元を指差したりしてみるが、同様。
「おいで。はい。歩く」
やりたくないけど仕方ない。両腕を持って引いて、前に進むということを教える。
お世話係の人たちから教わった指示の仕方だ。真似してみると、手を離しても、ようやく歩いた。
こんな状態で大丈夫だろうか。今さらながら不安が押し寄せてくる。でも犬みたいに首輪してリードに繋いで引いてたら、確実に俺が通報されるし。
……今日はザンセを外の世界に連れ出したかっただけだ。無理にあれこれ誘導はせずに、ザンセの様子をよく見ていよう。
ていうか、そうだよな。考えてみれば、外ということは当然、他人の目があるんだ。
しかも誰もザンセがAIだなんてことは知らない。白髪だから日本人には見えなくても、異国の血が混じった高校生ぐらいの女の子、という目で見られるはずだ。
そこまで考えてなかった。これは、結構問題かもしれない。と入り口に近づいてきて、今さら焦りがわいてきた。
「ん?」
ふと後ろを見る。勝手についてきてるだろう、と思っていたのに、ザンセの姿がない。
「えっ!? ちょ、ザンセっ!」
ザンセは横断歩道のど真ん中で停止していた。たまたま通りがかった人も、えっ、みたいな顔をしてザンセを振り返っている。
慌てて戻って、ザンセの腕を引いて渡らせる。今、車が来てなくてよかった。
「そこで止まらなくてもいいだろ……!」
何もそんなピンポイントで。勝手にウロウロすることはないけど、延々と自動追尾するわけでもないのか。
なんで止まったのかは謎だが。しかしザンセにとっては歩道だとかわかるわけないよな。交通ルールなんかも知らないはずだ。今回は駐車場だったけど、これは、普通の道を歩かせるのは怖すぎるな。
「手」
周囲の親子がしていたのを真似るように、手を差し出す。
腕を引くのとは違って、これなら自然に誘導できるはずだ。
と言ってもやっぱり通じてないようだから、こっちからザンセの手を取って繋ぐ。
「握ってろ。離すな。俺にちゃんとついてこい。いいな」
理解してるかどうかはわからないけど、手を離さない、ということがわかればいい。
ザンセは握り返してくることもしないが、離そうともしない。自然な形として指を添えている程度だ。
周りから見たらただのイチャついてるカップルだなこれ。俺としては、幼児を連れ歩いている母親気分なんだけど。
「はち」
小さく何か聞こえた。
「……ん?」
今の、ザンセの声、だよな?
はち、って。俺のこと呼んだんだよな。
聞き慣れないな。その変な呼び名もそうだけど。
ザンセの声、っていうのが。喋ること自体そうそうないから、声を聞く機会もないのに。
「なんだよ?」
ザンセはいつもの静止画だ。何か伝えようとしたのか、それとも特に意味はないのか。
今は横一文字になってしまったザンセの口元を見ていると、自分の心拍数がやや上がっていることに気づいた。
……珍しく反応があって、能動性を見せて、しかもそれが呼びかけられる行動だったから、ちょっと嬉しくなっただけだ。
ザンセから見て、俺はどんなふうに映っているんだろう。
俺はどういうものとして認識されているんだろう。
ザンセの無の顔を見ていても、わかるわけはないけど。
他人の視線を感じた。すれ違いざまにちらっと見られて、小さく笑われた気がした。
今気づいた。ザンセと手を繋いだまま無言で見つめ合っていたことに。しかもここは人がよく通る出入り口付近だ。かぁっと顔が熱くなる。
急に手を離したくなってきた。一歩外に出れば、見る目が全然違う。施設内なら全然恥ずかしくないのに。一度意識すると、手がやや汗ばんできたかもしれない。
なるべく周りの目は気にしないように、ごまかすように、とりあえず館内に入ってすぐ正面にある案内板の前までザンセを引っ張った。
「どこか、行きたいとことかないか……?」
液晶パネルにはフロア全体図とジャンルごとの店舗が羅列されている。
が、ザンセは案内板じゃなくて、俺を見たままだ。
「いや。あの……」
こっちじゃない。説明するのもまどろっこしくて、むい、とザンセの頬を指で押して案内板に顔を向けさせる。
「こっちな」
そう言うと、くるっとまた俺を見てくる。
……目が合うようになったし、呼びかけに反応するようになったのはいいことだけど。常にそれだと困る。ギャグかよ。
後ろに人がいた。こんなやり取りも、また変な目で見られていたんだろうか。ザンセに聞くのは諦めて案内板の前を離れた。
外出の難易度として、恥は考慮に入っていなかった。ザンセと行動するのがこんなに恥ずかしいものだとは。
「あっ、ザンセ」
歩き出して早々、ザンセが通行人と接触した。
すいません、と俺が代わりに謝りつつ、ザンセの手を引いてどかす。
今の人、無反応なザンセに怪訝そうな顔してたな。
「人が来たらちゃんと避けろよ」
ただでさえ二人分の幅取ってるんだから、上手いこと縮まったりしないと避けれない。
こんなこともわからないとは。こっちは常識だと思ってるし自然とやってることなのに。館内の通路は広くはない上に人通りもあって気を遣う。
「何か……興味ないか」
文句はさて置き。ザンセの体力という制限時間があるから、適当に歩き出す。
「えーっと……。興味あったら、教えて……じゃない、言って……いや言えないか……。何か、気になるものあったら、足止めるとか……」
一応促しはするけど期待はしていない。ザンセは当たり前のように、振り返ってもじーっと俺を見ているだけだ。
最初から諦めてはいたけど、一人で喋ってるのはやっぱり心にくるな。どうすっかな。とため息をつきたい気持ちを押さえつつ、目的もないまま歩く。
案外、人が多い。平日の昼間なのに、若い人も親子連れもいて、結構賑わってる。
エスカレーターに乗ると、ザンセは段差に躓いたのか、どたんと音を立てて派手に転んだ。引っ張られて俺まで転びそうになって、わっと声を上げる。慌てて立ち上がらせて、それから後ろから歩いて上ってくる人のために左側に避けさせる。
……周りの目が気になる。さっきからずーっと、変な目で見られてる気がする。こう人が多いと、それだけで目が回りそうだっていうのに、ザンセの誘導でさらに気疲れする。
それにしてもみんな、何が目的でわざわざ混雑する場所に来るんだろう。服や食料品のためにこんな不便なところに来るもんなのか。
二階まで来て、雑貨屋が目についた。文房具やタンブラーといった生活雑貨から、フライパンや鍋といった調理器具まで並んでいる。
こんなとこで調理器具なんか買うか? どう見ても小さくて使いづらそうなんだけど。そのくせ高いし。
「あ」
商品を見ていると、通路を通り抜けたそうな買い物客が来た。
狭いから手を繋いだまま避けるのは無理がある。手を離して、俺とザンセの間を通ってもらおうとしたが、察せないザンセは道をちょうど塞ぐ位置で止まった。
「え」
「す、すいません」
どいてくれるものだと思ったらしい女性客は戸惑った声を上げる。慌ててザンセの腕を引いてどかそうとするが、なぜか動かない。
「ちょ、ザンセ?」
焦って、両腕を掴んで無理やり引っ張った。
ザンセはそのまま俺にぶつかってくる。女性客は変な顔をしつつ、通り過ぎていった。
「ちゃんとどけよ……」
なんですんなり動かなかったんだよ。わかるだろそれぐらい。と言いたくなるのを、体を離しながらぐっと堪える。
不用意にザンセの体に触るのもなるべく避けたいが、そうもいかない。そのまま腕を引いて、店の外に出る。はあ、と息をついて気持ちを落ち着ける。
わからないのが当然なんだ。初めて外に出るんだし、こっちの常識を押しつけてもしょうがないよな。
下手に店内に入ると通行の妨げになるのはわかった。しかしどこにも立ち寄らないっていうのも、なんだか来た意味がない。
服が陳列されたファッション系の店、甘い香りのするスイーツ店、フードコート、賑やかな音が響くゲームセンター。様々な種類の店の前を通ってみた。が。
本当にただ歩いてるだけなんだけど。犬の散歩であっても、もう少し何かあるはずだろ。俺は物でも運搬してるのか。
なんなら、台車を引いてるような感覚が一番近い気が……。
ズボンに突っ込んでいたスマホが震えた。
通知だ。ザンセの様子はどうかという途中経過の確認が来た。道の端に寄って、返信する。
ザンセの様子は、とりあえず体調が悪そうには見えない。順調……は言い過ぎか。特に問題はない、という旨を返信する。
反応のなさは相変わらず困るけど、それは問題事ではない。わかっていたことだ。
そうだ。まだ、想定内の域を出ないんだ。食べ物には反応するはずだし、さっきのフードコートで何か買い与えてみるか――
「あれっ」
返信を打ち終えて顔を上げると、隣にザンセの姿がなかった。
そういえば返信のために手を離していた。焦って視線をさまよわせると、目立つ白髪の後ろ姿をすぐに見つけた。
「ザンセっ!」
急いで駆け寄る。
よかった。ここで見失ってたら大問題だ。普段はまったく動かないのに、なんで今だけ。
「なんで勝手に動い――」
しかしザンセは足を止めない。振り返りもせず、ずんずんと歩き続ける。
まさかの、無視か。無反応ってだけならともかく。俺の声は聞こえてるはずだろ。
「おい、ザンセ!」
聞いてんのか。腕を引くと、ぴたっと止まった。
わざと無視したのか、そうでないのか。でも聞こえなかったってのは、この距離じゃさすがにありえないし。自分の名前も認識できてるはずなのに。
なんでだ。今のは、どういう意思を持って、呼びかけを無視して自分の行動を優先させたのか――
「えっ」
どんっ、という小さな衝撃にザンセが揺れた。
ザンセの足下に子供がぶつかっていた。まだ未就学児っぽい男の子だ。がちゃんと音を立てて、手に持っていたおもちゃが床に落ちた。
車のおもちゃだ。ミニカーってやつだろうか。男の子はそれを見ると、みるみる顔をくしゃくしゃにさせる。
やば、と思ってもすでに遅かった。男の子は真っ赤になって、うぎゃーっと声を上げて泣き喚きだした。
「え、ご、ごめ……」
幼児特有の甲高い泣き声に、周りの目が一斉に集まる。
どうしよう。謝ればいいのか? 拾えばいいのか? でもこんな幼児に言葉通じるのか?
ザンセは立ち止まってただけだし、向こうからぶつかってきたわけで……なんて幼児に言ってもしょうがないか。てか、親はどこだ。
目線を上げると、のたのたと歩いてくる母親らしき姿があった。長い巻き髪に、屋内なのになぜかサングラス。ボリューミーなロングワンピースが歩くたびにばっさばっさと揺れる。
すげえ派手な格好。足元、ピンヒールだから速く移動できないんだろうか。
「あらあらぁ、やだわ。落としちゃったの? ひどいお兄ちゃんたちねえ」
男の子に向かって猫撫で声で言うと、ゆっくり屈んでミニカーを拾いながら、自然な動作でじろりと睨んできた。
「す、すいません……」
「そんなど真ん中に突っ立ってたら邪魔だってわからないのかしらねえ」
ぼそ、と独り言のように言い、男の子に再び微笑みかける。
たしかに邪魔な位置にはいたけど。そんな言い方しなくても……と思った矢先、気づけばザンセはまた歩き出していた。俺が代わりに頭下げてんのに。
もう一度すいませんと言ってから、急いでザンセを追いかける。かわいそうにね~とあやす母親の甘い声と、ままぁーと泣き喚く男の子の声が背中から聞こえる。
おもちゃ落とした程度で、そんな泣くほどかよ……。
「ザンセ」
声を掛ける。が、やっぱり立ち止まらない。
「ザンセ!」
ぐっと腕を掴んで引っ張る。
いろいろ言いたいことはあるけど。言ってもザンセには通じない。
普通こうだろとか、こうして当然だろとか、ザンセに言っても意味がないのはよくわかってる。
ザンセは普通の人間じゃない。だからここでイライラしても無意味だし、怒っても叱っても理解はされないだろうし、責め立てるなんてもっと虚しくなるだけで……。
「……」
腕を握りしめたまま、奥歯を噛んで、大きく深呼吸をする。
口をついてキレそうになったのは、なんとか堪えた。けど。
「だから、なんで勝手に動くんだよ」
この問題が解決してない。急に動くのは本当に、なんなんだ。
「何か行きたいとこがあるのか? どうしたい?」
と聞いても、わからない。腕を引っ張って無理やり振り向かせても、ザンセはいつもの虚無状態だ。虚無じゃなかったときがないんだけど。
ザンセが進む方向には何があるんだろう。先を見ても、同じように店がずらっと横並びになっているだけだ。
目的がわからない。普段動かないだけあって、余計に。
「どこに行きたい?」
腕を離して、しばらく待ってみる。
「……行きたいなら行けよ」
また動き出すんなら、今度は止めずについて行ってやろう。
手持ち無沙汰で、スマホをいじる。さっきの状況を再現して、横目でザンセを見つつ動くまで待ってみる。
……。
五分は経過した。
ザンセはその場を一歩も動かず、俺をじっと見たままだ。知らない人が見たらマネキンにでも見えるかもしれない。
わけがわからん。さっきは無視したくせに。
この静止画を見てると、余計にイライラしてきた。ていうか無言でずっと見つめられても落ち着かない。
向こうにトイレマークが見えた。
ザンセから目を離すわけにはいかないが、ここで停滞していても、しょうがない気がした。
「ザンセ、少しここにいろよ」
ちょうど行きたくなってきたし、このままじゃ何も進展がないし。
「待ってろよ。いいな」
一応言い聞かせてみる。
ザンセは生理的っぽい瞬きをしただけだ。効果があるとは思ってない。期待もしていない。
ただ、ザンセから少し離れたかった。俺が離れたら勝手に動き出すかもしれないし。さっさとトイレに向かって、普段よりちょっと時間をかけて戻ってくる。
元の位置には、なんとなく予想はしていたけど、ザンセの姿はなくなっていた。
行動してほしい、とは思ってたけど。
いざこうなると、深いため息が出た。
俺の言うことに反してばっかり。動くなと言えば動くし、じゃあ動けと言ったら動かなくなったくせに。俺がいなくなった途端にこれかよ。
あいつ、ただ無反応なだけで、本当は俺のこと嫌いなんじゃないだろうか……。
もういいや。ゆっくり探そう。そんなに遠くには行ってないはずだ。
さっきの雑貨屋を通り過ぎようとすると、女子二人がはしゃいでいるのが見えた。お揃いで買う? やだ、さすがに恥ずかしいわーなんてカップルみたいな会話をしている。
あのお店見てみる? あれかわいいねー、と同調する声も。
お腹空いてきたね。何か食べる? と相談する声も。
喉渇いたぁー。甘い物食べたいなあ。さっきのお店で見たやつやっぱ欲しい……。そんな他愛のない一言も。今は、なんか、周りの会話の全部が羨ましく思えてならないな。
ショッピングモールって、本来、こういうものだよな。
外出って、何も買い物だけじゃない。コミュニケーションだって、立派な目的だよな。
ふと、さっきの母親と男の子がベンチに並んで座っているのが見えた。
男の子はジュースを買ってもらったのか、嬉しそうに口を付けて、笑うとジュースなのかヨダレなのかがちょっと飛び散る。その口周りを拭ってもらっている間もニコニコ笑顔だ。
母親のほうもつられたのか、顔をくしゃりと綻ばせている。サングラスはしたままだが。
……よかったじゃん。喚いてたらママにいいもの買ってもらえて。さっきのはなんだったんだ。
いや。まあ。子どもってそんなもんだよな、とは思うけど。
気づいたらショッピングモールの端まで来ていた。
意外と見つからないもんだな。もしかしてザンセと真逆の方向に進んでしまったんだろうか。
もし見つからなかったらどうしよう。あえて放置したことがまずい結果に繋がってしまったら。そう思うとだんだんと焦ってきた。
館内にいるならまだいい。もしも外に出て、そのまま車に轢かれでもしたら……。
こうしてのんびり探してる場合じゃなかったんじゃないか。
早足で館内を出て、外の通路を探す。この先には噴水の広場があったはずだ。
ここより先に行かれたらまずいかもしれない。探して、いなかったら、別の場所を探す前に、待機してる人に連絡したほうがいいのかも……。
広場のほうで、なんだか人が不自然に立ち止まってるのが見えた。何か一様に、噴水のほうに注目しているような雰囲気だ。
イベントでもあるのか、と思ったけど。嫌な予感がした。
ザンセは、普段は何も行動を起こさない奴だ。けれど内面は、何を考えているのか、まだまだ不確定要素だらけの未知数だ。
想像しがたいことだけど、何が起きるかはわからない。逆に何が起きてもおかしくはない。
足早に進みながら、視線が集まるほうに目を向ける。
まさかとは思うけど。当たらないでくれよ。
このざわつきの中心に、まさか、ザンセがいるとか――
「え」
いた。
本当に。
いや、いたことよりも。
その、いる場所に。
見つけた瞬間、一瞬、思考が停止した。
「ザ――」
ザンセは、噴水の縁に立っていた。
周囲よりも一段高くなった場所に、長身の少女がぴんと背筋を伸ばして佇む姿は、あまりに目立つ。
周りの人は、なんかやべえ奴がいる、みたいな顔をして黙って距離を取っている。
そうしてできた人の輪による衆目を浴びながら。今まさに。ザンセは噴水に向かって、一歩足を踏み出しているところだった。
「ザンセっ!」
急いで駆け寄る。間に合わない。もう片足は浸かってる。
縁に上って、腕を掴んで引っ張る。ザンセは後ろに倒れてきて尻餅をついた。
早く噴水から出てくれ。もはや羽交い締めにして引きずり出す。
見つけた。ようやく見つかった、けど。
「何やってんだよ、おまえ……!」
なんでこんな場所に。こんなことを。
まさか噴水が目的だとは思わなかった。しかも足突っ込むって。中まで侵入する気だったのか。
意味がわからなさすぎる。片足は完全に水に浸かった。こんなの、連れ帰ってどう報告したらいいんだよ。ちゃんと見てなかったって怒られるのは俺なんだぞ。
こんな行動、予想外すぎる。放置したのは悪かったけど、さすがに未然に防げるわけが――
「ちょっとちょっと。君たち、何してるの」
声を掛けられてはっとする。
警備の人だ。騒ぎを聞きつけてやってきたのか、呼ばれて来たのか。
周りの様子に気づく。大勢の、異様なものを見る目。指差して、何があったの、とざわつき好奇をそそられているような顔。
さあっと血の気が引いていく。反射的にすみません、と頭を下げる。全身が熱い。息苦しい。早くこの場を去りたい。
詳しいことを問い詰められる前に、ザンセを無理やり引っ張って立たせる。動きが妙に鈍いが、力ずくで、もはや引きずるような形で、ザンセを連れてその場を離れた。
それしかできなかった。人目を避ける方向へとひたすら走って、逃げて、建物の裏手まで来た。
人の気配がなくなってから、ようやくザンセの手を離した。
はぁ、はぁと息をつく。
このくらい走っただけで、疲れた、というよりは。
まだ心臓がばくばく鳴ってる。顔が熱の塊かってぐらい熱い。
なんでこんな目に。
意味がわかんないだろ。
こんなの予測して防げるのかよ。
俺が何かしたわけじゃないのに。
悪いのはこっちだ。周りの客もお店の人も、警備の人も、困るだろ。そりゃ。ただのオブジェの噴水に足突っ込まれたら。迷惑だろ。
向こうが怒るのは当たり前だ。なのに、俺が代わりに何度も何度も、頭を下げて。
本来なら、本人が、少しは。
「おまえ……」
子供であっても、もう少しこう。
人の顔色や周りの雰囲気から、まずいという空気を読み取って、ごめんなさいくらいできるだろ。
さっきの子供だってそうだ。悪いことをしたような空気を察して、怖くなったから、泣き出したんだ。
なのにこいつは。
「なんであんなこと……」
変わらず無言、無表情だ。
……なんだよ、そのふてぶてしい顔。
「聞いてんのかよ……!」
呼びかけても無視するし。人目に晒されようが関係ないし。
人にぶつかろうが、迷惑そうな顔を向けられようが、通行の妨げになろうが、子供が泣こうが。
同じなのか。こいつにとってはただの風景、景色で。
俺がこんな目に遭ったのも。変な目で何度も見られて笑われたのも。奇異な目を向けられて、同じもの扱いされたのも、探し回って引っ張って、代わりに怒られたのも。
それもこれも。何もかも。
常識がなくて当たり前が伝わらないどころか、人間らしさがない、人間らしい認識すらできない、こいつのせいなのに――!
「――!」
胸倉を掴んでザンセを引き寄せる。手を振り上げる。
その無機質な瞳には、きっと俺のことさえも映ってないんだろう。だというなら。この程度では何も認識できないっていうなら。
今。外側から刺激を与えて、無理やりにでも反応させ――
「――えっ」
予想外に、ザンセの身体はぐらっと揺れた。
あまりに無抵抗で軽い感触。どころか、膝から崩れ落ちるかのようにこっちに倒れ込んできた。
「お、おい……!」
慌てて肩を掴んで支える。
ザンセは首がすわらない人形みたいにがくんと項垂れて、俺の肩に体重をかけてくる。
が、俺の腕を掴みながらふらついたわりには、一歩前に踏み出すと、何事もなかったかのようにすっくと背筋を伸ばしていつもの直立に戻った。
ふらつくなんて。どうしたんだ。いつも直立不動か鎮座した石像のくせに。
……そんなに強く引っ張ったか?
たしかに引っ張っても基本的に無抵抗だけど、ここまでふらついて寄りかかってきたのは明らかに変だ。まるで自分の体重を支えきれなかった、みたいな。
手、離しても大丈夫か……?
恐る恐る、ザンセの肩から手を離しつつ、顔を覗き込む。
よく見ると、ザンセの頬はやや火照っていた。顔つきは無表情のままなのに、息が荒く、呼吸をするたびに肩が動いている。髪も乱れたままだ。
無理やりここまで引っ張られて、走らされたせいだろう。
まさか、そのせい?
いやでも。たったあの程度の距離を走ったくらいで、思わずふらつくほどなのか。
とりあえず座らせないと。近くのベンチを見つけて、そこまで連れて行く。
両腕を持って座らせる。座った姿勢は、いつものシャキッとした状態だ。
疲れたというジェスチャーは取らない。が、呼吸は大きい。
「だ、大丈夫か……?」
ザンセはいつもの虚無の顔で、ただ普段より浅い息継ぎをしているだけだ。
大丈夫かどうか、なんて聞いても、やっぱり返事はない。
こんな、ふらつくほど足にきてたのか。疲れてるんだったら言えばいいのに。呼吸が苦しいなら、そう主張すれぱ済むだけの話で……。
全然気づかなかった。
なのに俺は、胸ぐら掴んで、引っ張って。
それから――何をしようとした?
手を振り上げて。
ザンセがふらつかなければ、我に返っていなければ。
……そのまま、手を振り下ろしていたんじゃないのか。
「そうだ。靴……」
冷静になれないからこそ、あえて別のことを言う。
「濡れてるだろ、それ」
ザンセの足下に屈んで、靴を指差す。
片足は完全に浸かっていたはずだ。足はまだ濡れて水滴がついたままだが、問題はそっちじゃない。
「一回脱げるか?」
指示がわかるわけもなく、返事を待たずに靴を脱がせる。フラットシューズってやつなのか、靴下を履いてないのがまだ幸いだ。
絵面的にやばい気もするけど、四の五の言ってられん。とりあえず裸足になった足をハンカチで拭く。
靴は思ったより水を吸っている。一回絞りたいくらいだ。これを履かせて歩かせるのは、さすがに。
どうしよう。早めに帰ったほうがいいのは確実だ。
けどここはたしか、駐車場のちょうど反対側のはずだ。戻るには、館内を突っ切るか、外側を回り込んでいくかしかない。どっちにしろそれなりに距離がある。
無理やり動かしてでも早く車に乗せるべきか。いや……。
「ちょっと待ってろ」
と同じような指示をするが、また動かれたら困る。
今度こそ本当に、待つ、ということを教えなければ。
「ザンセ。いいか」
肩に手を置いて、正面からちゃんとザンセの顔を見る。
「座る。ここで。待つ。いいな?」
根気よく、しっかり。歩くのを指示したのと同じように。
教えたら、覚えてくれるはずなのだから。
「すわる」
ザンセは喋った。
通じた。……のか?
「そう。座る。座って、待つ。ここで、待つ」
「まつ」
ザンセはそう返してきた。
ただの反復かもしれないけど。
「頼むぞ、本当に……」
懇願するように改めて両肩を掴んでから、急いで一人で館内に戻る。
もしも勝手に動き回って、倒れられたら。また噴水に突っ込まれたら。今度こそまずいことになる。
結果は、行って戻ってからでないとわからないな。
用を済ませてダッシュで戻ってくると、ザンセはベンチに座ったまま、うとうとしていた。
今まさに横になろう、と姿勢を変えようとしているところみたいだ。
「ザンセ。よかった……」
ちゃんと待っててくれたのか。駆け寄って、安心のあまりの言葉が出た。ほぅ、と胸を撫で下ろす。
けど、外のベンチで横になってる人はちょっと怖いな。悪いけど、肩を支えて座りなおさせる。
「靴、履き替えろ」
近くの店で適当に安いサンダルを買ってきた。
と言いつつこっちがやってやる。言い聞かせる手間も惜しい。
レディース用のMサイズって書いてあったけど、ザンセの足にはちょっと小さいような。ストラップを留めると、やや窮屈そうだ。
Lサイズのほうだったかもしれない。まあ、濡れた靴よりかはマシか。
「あと、これ。喉渇いてないか?」
途中の自販機で飲み物も買った。
走ったせいで、俺自身、喉が渇いていた。ザンセも同じなはずだ。
ペットボトルのキャップを外して差し出すが、受け取ろうとしない。もしや飲み物だって認識できていないのでは。
待ってられん。教える手間も惜しい。飲み口を唇に押し付けて、そのまま傾ける。当然受け止められるわけもなく、中の水が零れて顎先からボタボタと滴っていく。
「あぁーもう……ごめんごめん」
濡れた顎先を俺の服の袖でぐいっと拭う。ちょっと乱暴だったけど、水が入ってることはわかったらしい。ザンセの手に持たせると、自分で飲み始めた。
……えらい飲むな。喉が渇いてたならそう言えばいいのに。
疲れてるのだって。状態が悪くて不快だ、って赤ん坊でも泣いて自己主張するというのに。
待てよ。噴水にいたのは、まさか。
走る前からすでに喉が渇いていたなら。
自分で欲求を処理しようとしただけ、とか。
眠いときに横になろうとするのと同じで、水を見つけたから、摂取しに行こうとしただけとか……。
だからって噴水はおかしいよな。でもそういうのが通じる相手じゃないし。
欲求を満たそうとするということは、自分の状態は理解できているはずだ。
状態は理解できているのに、満たし方がわからなかった場合。自己を主張する判断もできないのだとしたら……。
「……さ、さっきの」
一気に半分くらい飲んだザンセからペットボトルを受け取る。
不快な状態への反応は、自己を守るために、生物なら当然起こすことだ。
しかしその不快自体を、正常に判断ができないのだとしたら。
人にぶつかられても不快だと感じないし、喉の渇きを理解できても不快だとは判断できない。反応がないのではなく、本当に何も感じていないだけで。
生物なら普通あるはずの感覚、快か不快か。そういう刺激を判別する、思考よりも前の部分――“感受性”というものが丸々抜け落ちているのだとしたら。
辻褄は合う、のかもしれない、けど。
「ごめん……」
それじゃあ、謝っても無意味……?
考えていると、ザンセは俺の肩にもたれ掛かってきた。
さっきもうとうとしてたし、もうだいぶ疲れて眠いんだろう。
「……帰るか。ザンセ」
これは単に横になりたかっただけで、ちょうどよく寄りかかれる俺が隣にいたからってだけだろう。扱いはたぶん壁とかと同じだ。
スマホを開いて、今から車に戻る連絡をしてから、ザンセの体を起こさせる。
「もうちょっとだけ。頑張って歩こうな」
疲れてる上に、靴もおそらくサイズ違いの慣れないやつで悪いけど、手を引いて立ち上がらせる。
ザンセは素直に後をついてくる。足取りは若干遅くて、ぽてぽてしてる気はするけど。人通りを考慮して、建物の外周を回って駐車場まで戻ることにした。
人前じゃなければ、こんなやり取りも恥ずかしくないんだけどな。
……謝るタイミングを逃してしまった。帰ったら、もう一回、ちゃんと謝ろう。
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