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七章「最後の希望まで、あと」

09.シークレットルーム

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 時刻は明け方近い。
 研究員らはとっくに立ち去った。ボスは部屋から出てくる様子さえない。ましてや呼び出しもない。
 予定通りに事が運んでいるなら、ミリアから計画の全容を打ち明けられたはずだ。直後に研究員らに魔族の処分について詰め寄られたのだろう。しかし研究員らは憤慨したまま出てきた上、処分の命令なんて一向にない。
 開かずの扉と化した向こう側で、ボスはいったい何を考えているのか。組織の重大な分岐点だってのに、いつまでも沈黙なのはさすがにまずい。
 痺れを切らして、こちらから出向くことにした。いいかげん催促したっていいはずだ。

 部屋の扉を叩く。当然のごとく返事はない。
 中に入る。応接室の明かりは消えている。

「ボス?」

 訝しみながら、私室のほうに足を踏み入れる。こっちも真っ暗だ。けど姿が見当たらない。外に出た様子はなかったはずだが。
 じゃあ資料室のほうだろうか。悩みつつ、とりあえず明かりをつける。もう一度部屋の中を見回す。

「ボッ……おわぁ!?」

 もう一度、呼ぼうとして、発見した。椅子と棚に挟まれるような位置で、ボスはうつ伏せで倒れていた。全裸で。
 全裸で床で寝てるのなんて珍しいことじゃないけど。だったらなんで明かりが消えてたんだ。床で寝てるときはだいたい点けっぱなのに。
 にしてもあまりにぴくりとしなさすぎる。慌てて近寄る。

「寝てる? 生きてんの!? 大丈夫!?」

 ボスの体を揺さぶる。まだあったかいが、死にたてなのかもしれない。
 明かりを消して、脱いで、寝ようとしたら昇天したんだろうか。いや脱いでから消して寝ようとしたのかもしれんが。どっちでもいいや。
 わざわざ謎の一手間を挟むとは、ボスらしくない。これは異常事態なんじゃないか。
 二度目の儀式目前だってのに。志半ばで、こんなん、くたばりきれるわけが――

「生きています」

 声と共に、ぐりん、と首が動いた。これもこれで心臓が止まりそうな動きだったが、安堵のため息をつく。

「よ、よかった……」
「大分疲れまして」
「床で寝るなって何度も言ってんじゃん……ていうか服着てよ、ほんとにさ……」

 生きてた。何よりだ。よかった。とりあえず近くにあった毛布を放る。ボスは体を起こして座りなおしながら、頭だけ出す。
 そんな呑気な場合じゃないってのに。緊張感がないっつーか、自分に関しては本当になおざりというか。

「あんた、判断次第じゃ、刺されてもおかしくないんだよ。研究員の奴らに問い詰められたでしょ? 今のあのへんの動き見てると、思い通りにならないってことで反乱起こす可能性だってあるんだよ。もう少し用心してよ」
「そのようですね……」

 研究員らの勢いを見ていると、その危険性も孕んでいる。ボスも理解はしているらしい。が、行動には反映されていない。
 こっちは研究員じゃなくて、ちゃんとボス側についていて、ボスの護衛もするつもりでいるのに。本人が自分を守る気がないんじゃ、虚しくってしょうがない。
 そんなことを考えていたら、手が勝手に部屋の片付けしていた。習慣ってこえーな。

「ダイン。そのようになったら、あなたは如何いたします?」

 ボスは床にべたっと座ったまま、聞いてきた。

「俺? なにが」
「私が刺されても、〈聖下の檻〉に従属し続けますか?」
「そんなわけないじゃん」

 と、即座に言ってしまってから、はっとした。
 片付けと同じ感覚で、当たり前のように答えてしまった。何も考えてなかった。今の状況では軽率すぎる発言だろう。

「ふむ……」

 内心冷や汗をかくが、ボスは考え込むような仕種を取る。
 檻に従順でい続けろ、という主張じゃなかったのか。組織の存続を優先で考えろと。でなければ切り捨てる。そういう方針だったはずなのに、どうもボスの考えが読めない。

「……人の欲とは、入り組み、斯様に複雑に形成されるものだと思いまして」
「はい?」
「どの欲が正しいのか、などと……それは個々人で判定されるものではないのでしょう。人の欲が生み出されるのもまた、抗うことのできない人の世の流れです。どれもこれも、俗物には変わりない。俗物の中で崇高さを競うなど愚かです」

 ボスは唐突につらつらと語り出した。眉をひそめて固まる。

「愛とは一生分に限りあるもの。ですが愛もまた、取るに足らない欲なのでしょう。それでは人とは何に正しさを見出だし、何を見定めて生きていくものなのか」

 いつもの謎の思考の垂れ流し……とは、ちょっと違いそうだ。
 何か、悩みを吐き出しているかのような。迷いを口にしているかのような。

「……長生きしすぎましたかね。もはや思い出せない感覚です」
「とりあえず服着て。はい」

 ボスの近くに服一式を放る。
 ボスは何を考えているのか。頭を使ってみても、やっぱりわからない。
 ボスは服を目の前にまだ止まっている。しばらくして、ボスは唐突に言った。

「ダイン。あなたの行動理由もまた、私への愛なのでしょうか?」

 ボスのほうを見て、硬直する。
 何の話だ。
 愛って。何のこと。急すぎて意味がわからない。
 時が止まってたが、慌てて強く首を横に振る。

「いや。違う違う違う」

 全力で否定しておく。
 マチといいボスといい。愛だのなんだの、そんなにそれが好きかよ。こえーな。あと全裸やめろ。
 しかし、あなたも、ってことは。これはもしや、ミリアと比較されているんだろうか。てことは、今のボスの状態は、ミリアとの会話が原因にあたるのだろうか。

「違いましたか。ふむ……」
「あーいや。違うけど。違わないけど」

 ボスは再び考え込む。それはそれで、なんだかかわいそうに感じる。
 にしても本当に、なんなんだ、このボスの状態。妙に人間味があって、やりづらいな。
 ……人間味。その言葉にふと止まる。
 今まで、ボス相手にこんなふうに困ったことはない気がする。無頓着だし、全裸で寝るところは困るけど、そういう部分じゃなくて。
 どう接すればいいのか。なんて答えればいいのか。そんな悩みは初めてだ。
 ということは、今までのボスには、人間味がなかったのだろうか。ボスという個の思考が、俺にはよくわからない。ほとんど知らない。人間的な悩みを持つ姿さえ、想像できなかった。

「……お嬢ちゃんと話したんでしょ?」

 ボスはようやく服を引き寄せながら、こっちを向く。
 なんだか知らないが、これはミリアが原因のはずだ。はっきり言わないなら、もうこっちから聞くしかない。

「なら、俺の目論見も、もう全部聞いたんでしょ?」

 即座な判断はない。それなら俺が即切り捨てられることもないだろう。どう見ても、今は迷っている段階だ。

「……ええ。ずいぶんと大胆な交渉を試みるお嬢さんかと」
「ごめん。俺からは喋れなかった。あれらは全部、ミリアが考えた計画だ。俺はそれに乗った」

 もう全部打ち明けてもいいだろう。正直に話す。

「可能性を見出だしてね。組織のためにはならない計画だ。けど、あんたの悲願だと思った」

 ボスの望みを叶えられる可能性がある。ボスを裏切りたかったわけじゃない。だからミリアの計画に乗ったのだ。

「思ったけど。正直、自信が持てない。あんたにとって、組織を守ることがどのくらいの比重なのか。それとも表に出してる、精霊様第一の狂信者でいいのか。今のあんたを見ててもわからない。あんたは、どれが本当の姿なんだ?」

 ボスの本心が読めない。組織の長としての姿でいいのか。それとも普段の精霊信者の姿が正しいのか。
 今日まで言われたことは、組織の長としての判断だ。だが、組織そのものと、精霊の悲願が天秤にかけられた際、ボスはどちらを選ぶのか。今のままでは、予想もつかなかった。

「……それは、私自身もわかりかねます」

 ボスはやや思考した後、言った。

「ただ、この〈聖下の檻〉の頭としての正しきを受け止め、体の寿命を越えてでも、長年、活動してきました」

 そうだ。ボスはいつだって正しかった。
 だからここまでついてきた。まだ幼かった頃から、ボスの背中をずっと見つめて、それだけで生きてきた。信じてついていければ、それだけでよかった。

「求められているものは、頭としての姿なのだろうと。それが誤りであったとは思いません。ですが……」

 ボスも、そう見られていることを当然理解していたのだろう。
 時にはマチのように拠り所にされるときもあったからこそ、常に変わらず、求められる姿であり続けた。
 それを、初めて崩すように。個人の意思を口にするように、ボスは言った。

「こんな朽ちかけの体になって今さら、少々、迷いが入り込みました」

 多少は理解していたつもりだった。けどボス本人の口から吐露されることに、少なからず戸惑いを覚えていた。

「ミリアさん、でしたか。彼女には、私自身からすでに失われているものが溢れているのでしょう。私の思い出せない感覚も、崩れ去ったものも。正しさを見定める力も。様々なものを見失わず、保っていられる強さも」

 ボスは穏やかに口にする。本来の方法のままであれば、精霊を得るためには犠牲にしなければならない少女に、思いを馳せるように。

「……一時の迷いだと掃き捨てるには惜しい。そんな感覚です。しかし〈聖下の檻〉の頭として正しい姿ではない。しかし、欲に優劣や正邪などあるのか。どうにも、心のざわつきが耳から離れません」

 研究員に、魔族の扱いも含めいろいろと問い詰められたんだろう。
 あいつらは、組織の存続と口にするだけで、本心など見え見えだ。自分たちだけが強大な力を得たい。無論自分たちは絶対的な安全圏に身を置いたまま。それだけだ。
 だからって研究員らの欲は、醜くは感じるがねじ曲がってはいない。ボスが言っている優劣云々はこのへんの話なのかもしれない。
 正しい姿。正しい道。正しい欲。どうにもボスは、そこで揺れてさまよっているようだ。
 立場として、許されるのか否か。もし、踏み留まってしまっているだけなのだとしたら。

「ボス。俺は、あんたに正しさを求めてるわけじゃない」

 前は、ボスの正しさを信じて、ついていくだけだった。
 でも今は、違う。初めて一人で歩き出せた、という感覚がある。これは、俺自身の意思だ。

「ミリアの提案に乗ったときから、覚悟はできてる。〈聖下の檻〉の頭としてじゃない。あんた自身の欲を叶えるつもりだ」

 計画を打ち明けられた際、踏み留まりそうだった俺に、ミリアは言った。
 ボスの望みか、組織の存続か。考えれば簡単にわかることのはずなのに、なぜ選べないのかと。

「優劣なんてもんは知らん。あんたは、一つのものしか愛せないはずだろ。なのに、何まだ迷ってんだよ」

 一生分の愛には限りがある。それがボスの主張だったはずだ。だから俺に、その他を捨てろと言ったはずだ。
 俺は選んだ。だからミリアの計画に乗った。なのにその本人が、なぜ迷いを見せるのか。

「俺も、組織のためだとか、周りの人間のためだとかじゃない。命を懸けたいって思える人に捧げるって決めた」

 まだ少し覚悟はできていなかった。最後の一歩が足りていなかった。
 それは、やっぱり、ボスに依存した考え方だからかもしれない。
 ミリアほどの強さや、ひたむきさもない。そういう熱情的なものはどこか遠くに置き去りにしてきてしまった。
 それを取り戻したい。本当は、心から尽くしたい。迷いなく前に進みたい。ボスが、ボス自身の望みを叶えるために。

「あんた自身の願いを叶えたい。そのためなら、なんでも命令してくれ」

 膝をつく。心臓を示すように、左胸に手を当てる。
 ボスに。俺が命を捧げて仕えたいと思う御方に、頭を垂れる。

「この身のすべてを懸けて。どこまでもあなたに、尽くします」

 今さらだし、同じようなことなら何度か言ったことがある。
 それでももう一度。何度でも。ボスが俺を認識して、一個人として頼ってくれるようになるまで。死んでも意思は変わらないことを、改めて伝える。

「それが俺の意志で、生き方だ。だから迷わないでくれ、ボス」

 どこまでもついていく。こっちはそのつもりなんだ。何も、一人ですべての責任を背負って決断しろなんて言ってないんだ。
 トップだから簡単には頷きがたいだろうけど。それでも、この道を選んでほしい。決断してほしい。
 しばらくずっと頭を下げていた。しんとした時間が過ぎていく。突然別空間に放り込まれてしまったかのような静けさだ。自分以外の気配は感じられない。
 伏せた姿勢のまま、どれほど経ったか。まるで反応が返ってこない。そろそろ我慢の限界、というか我慢比べじみてきた。恐る恐る顔を上げる。
 ボスは、無言で、ただひたすらぐりぐりと首を捻っていた。

「ボ……ボス?」

 首が座らない人形みたいに首を回しまくっている。そんな動かしてると、うっかりポキッと取れたりしそうだ。

「あの。ボス? ごめん、いつもみたいにさ、それでよろしいって感じで返してくれないと……俺もすわりが悪いっていうか……」
「とても困っています。非常に大変、困っています」

 ボスはぐいーと首を傾けたまま言う。
 なんで困るんだろう。今さら困る意味がわからない。

「あ……あとさ。俺だけじゃないよ。ここの戦闘員の大半は、あんたのことちゃんと慕ってるんだよ」

 付け加えるように言う。

「俺ほどじゃないとは思うけど……研究員連中よりも、あんたに従えたほうがいいはずだよ。味方は大勢いる。あとはボスが頷いてくれさえすれば……」

 ボスの意向であれば、戦闘員らは安心してついていけるはずだ。むしろそれを切望しているのに。
 だが、そう簡単にはいかない。悲願を叶えるためには、不択手段の難題が立ち塞がっていた。

「……そう簡単に頷けるわけないか。組織の一切を放棄する決断、だもんな」

 ミリアが考えた計画の全容を思い出す。
 クロウを生け贄に使い、儀式を行う。ミリアに精霊を降ろす。
 そしてそのまま精霊の所有権を、ミリアに譲る。それに代わるほどの、俺たち――否、ボスにとってのメリット。
 悲願のためには、〈聖下の檻〉そのものを切り捨てなければならない。その、理由。

「呪術の発生源を、魔族に食わせる。呪術の消滅、ってことだもんな」

 ミリアの提案した計画は、こうだ。
 ――精霊をわたしに譲ってください。代わりに、本物の精霊に会わせてあげます――

 ミリアは、今までどおりの儀式ではなく、精霊本体を降ろす方法を真っ先に聞いてきた。
 儀式で精霊を降臨させたとして、それは大抵はほんの断片に過ぎない。一時的に、精霊の一部を貸し与えられているだけだという話だ。
 だが精霊本体であれば、ただのエネルギー体である断片とは違い、知覚できる可能性がある。精霊との実質的な対面こそ、ボスの悲願なのではないか。これが、ミリアが持ってきた交渉材料だった。

 精霊術士と魔族。精霊を降ろすための材料はあちらに揃っている。儀式の手筈はこちらが整えられる。加えて、本体ほどの精霊を制御する技術は、どう考えても現代には存在しない。本物の精霊の制御は、精霊術士であるミリアにしかできない。
 精霊を譲ってもらう代わりに、愛する精霊に会わせてあげる――。精霊を現世に繋ぎ止める器を持つミリアだからこそ、できる交渉だった。

 ただし、完全な精霊を降臨させるには、今のクロウ程度では到底足らないだろう、という推測だ。
 精霊と同等ほどの力を持つ供物が必要だ。魔族とはいえ、今のクロウではまだまだ人間に近い。書物に描かれている姿ほどの完全な魔族でなければ、どう考えても力不足だ。
 そのためにミリアが提案したのが、呪術の発生源をクロウに吸収させられないか、というとんでもない解決法だった。
 確かに、あれにはあらゆる人から集まり、長年蓄積され続けた魔力が詰まりに詰まっている。結果的にはとんでもないエネルギーの塊になっている。純然な魔力などではないが、奴の吸収する能力であれば、魔族の強化には十分だろう。
 だが、つまりそれは。
 呪術の発生源を放棄することは――〈聖下の檻〉の崩壊を意味する。

「ええ。ええ。そうです」

 ボスは頷いている。つまりボスは計画を聞いて、俺と同じく、可能かもしれないと踏んでいるのだ。
 本物の精霊の降臨。断片などではなく、知覚し、意志疎通ができる。愛する精霊との対面。
 精霊を信仰し、求め続けたボスにとっては、究極の分岐点だろう。

「しかし本当に、可憐なお嬢さんが、悪魔のような交渉をするものですね。〈聖下の檻〉そのものと、私の生涯の私欲を天秤にかけさせる、とは」

 ボスは、思い出したようにふふっと笑う。

「無茶なことを言っている目付きではなかったのがまた。悪魔の囁きをしているという自覚さえないのでしょう。本物の悪魔とは、心を引きつけるように天使のような見た目をしているものなのでしょうかね」
「俺もむちゃくちゃだって思ったよ……。下手な知識がないほうが、ああいうぶっ飛んだ発想が出てくるもんなのかね」

 知識があればある程度の可否や、伴う問題が事前に見えてしまう。まっさらな人間だからこそ生み出せる発想だったのかもしれない。

「でも、乗ってみたいって思った」
「不思議なものですね。人の心を動かす力なのでしょうか」

 ボスは同意のように返してくる。顔つきは晴れやかだ。
 ボスも俺と同じで、乗る価値がある、と感じてくれているのかもしれない。

「……胸に余っているのが事実です」

 自身の欲のために、組織を切り捨てられるのかどうか。
 でも迷いを見せる余地はあった。それがわかっただけで、俺の心もすっと晴れていくようだった。

「他に悟られてはなりませんね」
「そゆことー。お互い気をつけよ?」

 呪術を放棄する可能性が含まれていると、研究員に知られては、それこそ間違いなく反乱ものだろう。
 ボスは険しい顔で呟く。俺は研究員らを裏切ろうが切り捨てようがどうでもいい。ボスについていければいい。
 そのつもりだし、そうしたい。今は、間違いなく、進みたい方向に道が拓けていた。

「しかし、ダイン。あなたはそれでいいのですか?」

 そろそろ部屋を出なければ。研究員の目がある以上、行動は慎重にしなければならない。
 ふとボスに言われた。
 それでいいのか。今なら、いろんな解釈ができるが。
 ……そのことか。ボスの顔つきから、なんとなく察した。

「いえ。無粋な口出しでしたね」

 口を開こうとしたら、ボスが制するように先に言い、目を逸らした。
 なら、わざわざ言うことでもないだろう。答えは口にしないまま、部屋を出た。
 そのことは、べつにいい。今さらだし、それよりも問題がたくさんある。
 こんなときに心配されることなんかじゃない。
 この提案に乗ってることからして、言わずともわかるはずだ。

 これでいいのか。
 ……これでいい。
 大丈夫だ。
 今さら、人に心配されるようなことじゃない。

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 ボスの部屋を出る。そのまま地下牢へ向かう。
 付近には監視役が待機している。研究員が近づくことはなかったらしい。見張りを頼んでおいて、地下牢の中に入る。

「大丈夫?」

 拘束されたまま、クロウは項垂れていた。ぐったりしているようにも見えたが、微かに首を動かす。

「……寝ていた」
「その姿勢のままよく寝れんね……」
「慣れてる」

 クロウは首を伸ばして、ふあ、とあくびを漏らす。案外のんきなものだ。何に慣れてるのかは知らんが。

「ミリアは無事か?」

 真っ先にそう聞かれる。正直に答える。

「大丈夫だよ。ボスとの話も無事に終わってる。今は宛がわれた部屋で大人しくしてるよ」
「まだ、終わっただけか」

 交渉は終わったが、ボスの返答は得られていない。今の時点で俺たちにできることはない。
 クロウは姿勢を変えようと身じろぎするが、鎖に制限されてあまり変わらなかった。

「悪いね。ちゃんと大人しくしてれば、もう少し緩くできると思うから」
「べつに、いい。不自由なのは、今さらだ」

 重たいため息混じりに言う。そうは言ってもつらさは感じているだろう。顔つきは若干ぼうっとしているように見える。単に寝覚めだからなのかもしれないが、窓もない部屋に閉じ込められていれば疲弊するのが当然だ。

「……暗い場所に、一人きりでいるのもだ。ミリアと出会う前は、ずっと、こんな感じだった」

 クロウはぼんやりと遠くを見つめるような目のまま語り出す。
 幽閉され慣れてる、とかいう意味じゃないだろう。不自由さとは、たぶん比喩だ。魔族という正体を隠して、人と関わらず身を潜めて生きてきたはずだ。
 こいつは結局、現在何歳なのかは知らないが。ミリアと出会う前は、魔族として、どうやって生きてきたのだろうか。

「聞かせてほしーなー。あんたとお嬢ちゃんの出会いの話とか」

 昔話はあんまり好きじゃない。けどここまで特殊な道を歩まされた二人に関われば、気になるというものだ。
 といっても、そこまで心を許してはいないだろうか。無理かな。

「聞きたいのか?」

 クロウは素早く顔を上げる。無表情なわりに、若干目が輝いているように見えた。

「え、なに? 実は話したかったの?」
「あれはそうだな……期間でいえばどのくらい前だろうか……数年と前ではないんだが……」
「あ、話し始めるんすね」

 俺の困惑も無視して、クロウは一方的に喋り出す。

「俺は、まだ自身が魔族だと知らなかった頃だ。ミリアが精霊術士だとわざと言い触らして、死のうとしていた」

 話を聞きながら思い返す。
 精霊術士だとわざと言い触らしていたのか。そのおかげで足取りを辿れたんだろうが。
 死のうと、か。自殺癖は、そのときからだったのか。そのときは、なんで死のうとしていたんだろう。両親も故郷も失ったのが、やっぱりつらかったのかもしれない。

「そのとき運命的なキスをした」
「はえ?」
「そして俺は決意した。ミリアを、生涯をかけて守り通すと」
「話飛んでるんだけど……。いやあんたの中では飛んでないんだろうけど……」

 出会っていきなり、じゃないとは思うけど。それはさすがにちょっとビビる。
 そこまでの過程はないんだろうか。ないらしい。クロウは満足げな顔で、いつもの睨むような眼光で俺を見ている。

「貴様は、なぜローレンスに従う?」
「俺?」
「そうだ」

 ミリアを守る理由は話したから、今度は俺について聞かせろということか。
 参った。話されたから俺だけ突っぱねるのもなんか変だし。だいたい、隠すようなことでもないし。べつにいいか。
 もはや遠い昔の幼少の頃に記憶を巡らせる。ボスに従う理由。そんなの、単純だ。

「……俺は孤児だったから。貧民街っつーのかね。ゴミ溜めみてえな場所が出身地。親は知らない。気づいたときには、一人じゃ何もできない妹と二人きり。妹を守って、生きてくしかなかった」
「妹がいたのか」
「今もいるよ?」
「この組織にか?」
「うん」

 クロウは若干怪訝そうな顔をしたが、深くは聞いてこなかった。話を続ける。

「妹と生きるために、盗んだし、奪ったし、息殺して必死に逃げたし。ゴミ漁って、食ってくしかなかった。で、ここにまとめて拾われた。もちろん最初は実験動物と同じ扱いでね」

 裏社会の組織にとって、さらいやすく、足もつかない孤児は格好の的だ。最初は、実験用にまとめて収容された大勢のうちの一でしかなかった。
 そこから実験動物に終わらず、戦闘員に昇格できたのは、肉体改造の適性があったからなのかどうか。昔のことだからよくおぼえていない。ただ、戦えと、指示されるがままに従い続け、戦い続け、いつの間にか自分の居場所として定着していた。

「ボスは優しかったよ。強くなれば褒めてくれた。必要としてくれてるんだってわかった。力も。知識も。生き方も。全部与えてもらえた。だからここに従おうと思った。俺はボスに……ローレンス様に、この命を使う。妹を守るためだけに生きるんじゃなくて。俺は俺の道を進みたい、って。そういうふうに思った」

 黙って聞いていたクロウに、視線を戻して言う。

「どう? あんたの話よりかはわかりやすかったでしょ?」
「俺のもわかりやすいと思うが?」
「あんたのは話すっ飛ばしすぎだから……」

 突然キスしたとか言われてもな。まあちゃんとしてるんならいいことだけど。

「まあ。そーゆーわけなんですよ。善悪とか理非の有無じゃねえんだ。あんたみたいな正義感全開の熱血野郎に怒鳴られてでも、変えられない道なの」

 善悪の区別くらいできている。正義とは何か、それを突き進むのは馬鹿正直でも悪いとは思わない。けど、誰に何を言われても曲げない。後ろ指を差されようが構わない。地獄の底まで堕ちようが、変わらない。これが俺の決めた生き方だ。
 クロウは、改まったように聞いてきた。

「やはり、何があっても、ローレンスに従うのか」
「そうだよ」
「もしローレンスが、ミリアとの交渉を受け入れず、俺を殺せと命令してもか」
「そう」

 当然のことだ。俺の中では、ボス以上に優先されるものなんてない。

「ボスがそれを選び取るなら仕方ない。ボスのためになるなら、あんたらには死んでもらうよ」
「そうか」

 クロウは、どこか当然のような反応で返してきたように見えた。
 抑揚のない、簡素な返事だ。けど、多少の感情の差異は理解できた。ちゃんと伝わってきた。
 味方になれない場合は仕方がない。俺らは協定関係にあるだけで、利害抜きに結びつくわけじゃない。クロウも、納得を示している顔つきだった。

「じゃ、俺はもう行くよ。続報はもう少し待ってね」

 ここにいるのが研究員にバレたら厄介だ。さっさと戻ろう。

「ダイン」

 立ち上がって、地下牢を出ようとすると、声をかけられた。

「……ありがとう」

 口調はやや躊躇いがちだったが、瞳はまっすぐにこちらを見据えて、クロウは言った。
 何に対するお礼だろうか。そこまで力になれたとも思えないし、有用な情報や進展は何も持ってこられなかった。釈然とはしない、けど。

「こちらこそ」

 自然と、その言葉が出てきた。
 ボスのあんな顔は初めて見た。初めて見られた人間味だった。
 クロウとミリア。二人からの接触のおかげで、間違いなく変わってきている。
 お礼を言い合う関係性なんかじゃない。けど、言っておいてもいいか、という気がした。
 このまま状況が好転すればいい。ボス次第だから、俺はまだ待つことしかできない。でも少しずつ、新たな道が見え始めている。俺も、今の方向に進むことを願っている。
 望む道が見えたのも、余計なしがらみのない二人のおかげだろう。それだけ返してから、地下牢を後にした。
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