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四章
四節
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腹が減ったシラノはキッチンへ向かい、棚を漁っていた。キッチンの向かいの大客間では三大精霊やローレンス達が、執刀医のライルやディーを囲んで話をしている。
小腹満たしに丁度良い缶詰や未開封の瓶詰、調味料、酒のミニボトルやソムリエナイフを見つけると、カーゴパンツのポケットに突っ込んだ。そして開封されたアンチョビのスタッフドオリーブの瓶詰を見つけたシラノは幾つか口に放る。白ワインの瓶に口をつけて呷る。人心地着くと豪快にゲップを吐き、空き瓶をゴミ箱に放って踵を返した。すると物音が耳に入る。
彼は立ち止まると耳を澄ませた。
隣室からだ。
鮮明な程に音は聞こえる。足音や物音は疎か、呼吸音や心拍まで聴こえる。
宿主の心臓から引き剥がされ、魂を器に入れられたヴルツェルが覚醒したようだ。彼はフォスフォロとケイプの危惧によって四肢を拘束させられていた。覚醒した彼がランゲルハンスを討ちに行かせない為の処置であった。その拘束を易々と破ったらしい。
シラノはキッチンから出ると大客間に意識を向ける。穏やかな話し声が聴こえる。どうやらヴルツェルが覚醒した事には気付いてないらしい。鼻を鳴らしたシラノは大客間に戻らずトイレへ向かった。
キッチンの隣室では四肢の拘束を解いたヴルツェルがドアに長い耳を寄せて外の気配を窺っていた。
足音は通り過ぎたようだな。
小さな溜息を漏らしたヴルツェルは呼吸と心拍を整える。そして音を立てぬよう慎重にドアノブを捻ると廊下に出、キッチンへ向かう。衣擦れの音も立てたくないと衣服を脱ぎ、生まれたままの姿で牛刀を握ると深く息を吸い、ランゲルハンスの匂いの筋を追った。
足音を殺し二階に上がったヴルツェルはランゲルハンスの客室の前に辿り着いた。壁に寄り添い、耳を付ける。するとベッドのスプリングが軋む音や密やかな息遣いが聴こえる。再び息を深く吸うと男女の匂いが鼻腔を突いた。
ヴルツェルは逆手にした牛刀の柄を握り締める。
抑えた筈の心拍がいつの間にか上がっていた。頭の中で鼓動が鳴り響く。口腔から水分が引き、熱を持った唇は貼り付く。掌からフツフツと汗が涌き出し、アメジスト色の瞳を潤していた涙液は蒸発する。
十秒カウントして入室しようと瞳を閉じた途端、声を掛けられた。
「おい」
ヴルツェルは瞳を見開いた。
眼前には鼻が異様に長い、筋肉質の男が佇んでいた。
万事休す。退かねばなるまい。
「ハンスが居れば救えたのだが」
呟きつつも牛刀を捨てヴルツェルは鼻男を押し退けた。長い廊下をひた走る。背後で鼻男が何かを叫ぶが意に介さず、突き当たりの大窓に飛び込む。砕け散ったガラス片と共に中庭に舞い降りると、足の痺れに耐えて脇目も振らず駆け出す。
「待てよ!」シラノは割れた窓から身を乗り出すと、徐々に小さくなるヴルツェルの背に向かって叫ぶ。
しかし無意識にサッシに手をついていたのでガラス片で皮膚を切った。
ヴルツェルは森に消えてしまった。
するとケイプやフォスフォロ、ローレンスが階段を駆け上がって来た。
「どうした!?」フォスフォロは問う。
「どうもこうもねぇよ。拘束を破ったヴルツェルを尾行た。そしたらあいつ、おっさんの部屋を探し当てたんだ」
ローレンスは割れた窓を見、ケイプは部屋の前に落ちている牛刀を見つける。
男達の視線の先を見遣ったフォスフォロは溜め息を吐く。
「……危惧した通りになったって訳か。ケイプ、ローレンス、女性陣を宥めて事情説明を頼む」
ケイプとローレンスは頷くと階下に降りた。
「取り敢えず俺がハンスに事情を報せるから、追いかけてくれないか?」フォスフォロは眉を下げた。
「分かった」
シラノは返事も早々に窓枠に足を掛けると夜空に飛び出した。
小さな森を駆け抜け海を渡り、アイアイエ島から本島に上がったヴルツェルは荒れ地を駆け抜け南下する。ランゲルハンスの体内に居た際に聞いた言葉を頼りにひた走った。広大な花畑と黒い森に挟まれた道を駆け抜けると四辻に当たる。そこには風に揺られて不気味な鳴き声を上げる金属製の風見鶏が刺さった背高の家があった。ランゲルハンスの家だ。
主の魔力が空の所為か、魔術が施された錠は開いていた。ドアノブを捻るとヴルツェルは玄関の側のキッチンを通り過ぎる。棚に収められていた大きな標本瓶を一瞥した。そこには左腕の標本が収められていた。
リビングの小さな本棚に向かう。天井から吊るされた呪い道具が背の高いヴルツェルの頭をかすめる。床に転がるワインの木箱を蹴散らして目的の書籍を探す。書籍を取り、乱雑に開いては床へ放る。堆積していた埃を巻き上げて書籍は床に山積した。
中身をくり抜かれた書籍を見つける。中には白い小瓶が入っていた。それを引ったくるとヴルツェルは家を飛び出て、闇に消えた。
十分後、ドアが開け放されていたランゲルハンス宅にシラノが現れた。カーゴパンツのポケットに忍ばせた食材をガチャガチャ鳴らす。海水に濡れた服を張り付かせた彼はフィールドジャケットやカーゴパンツを白砂で胡麻汚しにしていた。
「畜生! 一歩遅かったか!」息を切らすも叫ぶ。着衣のまま海を渡るのは無理があった。その上、荒れ地を駆け抜けたのだ。しんどい。
シラノはリビングを見渡す。天井から吊るされた呪い道具やテーブルに山積した製剤の道具、革のカウチの座面に山積した書籍……部屋の様子は変わりない。しかし小さな本棚に眼が留まった。本棚の周りには投げ捨てられた書籍が散乱し、頁が開いていた。シラノは本棚へ向かうと、散乱した書籍に触れる。様々な言語で頁は綴られていた。
手に取っていると不可解な書籍を見つけた。それは中身がくり抜かれた物だった。何かを隠していたに違いない。きっとヴルツェルはそれを手に入れる為にここまで走って来たのだろう。
一体何が入っていたのか。そして彼は何処へ消えたのか。
耳を澄ませようとすると、キッチンから物音が響いた。
シラノは息を潜め、足音を殺しキッチンへ向かった。
キッチンの棚では標本瓶に収められた左腕が痙攣を起こしていた。容器が揺れる程激しい痙攣だ。他の標本瓶や転倒防止のアイアンバーに当たり嫌な音を立てる。尋常ではない。
「……おい。どうした?」
幻肢痛に耐える左腕に手を貸してやろうとシラノは標本瓶に手を伸ばす。
すると激しい痙攣に耐え兼ねた左腕は標本瓶を押し倒した。標本瓶はアイアンバーから転倒する。蓋が外れ、液体と共に左腕が雪崩れ込む。リノリウムと樟脳を混ぜたような臭いの液体を頭から被りながらもシラノは左腕を抱き止めた。
落下した標本瓶は形を失い、ガラスの破片が散乱する。
シラノの胸に抱きとめられた左腕は、フィールドジャケットを固く握り締め小刻みに震える。
液体を被ったシラノは額に貼り付いた前髪を搔き上げる。左腕は依然として痙攣を起こしている。
「大丈夫だ。我慢するな。辛いなら俺にも痛みを分けろ」
しかし左腕は先日のようにシラノに爪を立てない。
遠慮してるって訳ではなさそうだな。
小さな溜め息を吐いたシラノは左腕を撫でた。
「もう大丈夫だ。よく気張ったな」
左腕は痙攣を起こしていたが、大きな手に撫でられる度に呼吸を整えるように落ち着きを取り戻した。痙攣が震えに変わり、やがて緊張していた左腕は溜め息を吐くように力を抜いた。
「……楽になったか?」
シラノの問いに答えるかのように左腕は彼の胸を一度だけ軽く叩いた。
「そうか。良かったな」シラノは微笑んだ。
しかし落ち着いたのも束の間、左腕はそわそわと動く。何かを案じているようでもあり、何かを探しているようでもある。
……もしかしたらヴルツェルの行方を知っているのか?
シラノが見つめていると、左腕は突如静止する。そしてシラノの肩へとよじ登り、開け放たれたドアを指差した。
「……お前、分かるのか?」
左腕は一度だけ肩を叩いた。
「そうか。じゃあ案内を頼むぜ」
家から出たシラノはローレンス宅に挟まれた道に佇み、くしゃみをする。今まで泳いだ上に疾走していたから気にならなかったが宵闇は漆黒に飲まれていた。夜空に星が輝く。道理で寒い訳だ。洟をすすり『あー』と唸ると、何処からか荒い息遣いが聞こえた。
生暖かい空気が首に触れる。
驚いたシラノは振り返る。
すると玉虫色の大きな瞳が夜闇に爛々と輝いていた。
思わず短い悲鳴を上げた。
「やかましい」
低い声と共に闇から姿を現したのは青毛の馬だった。
「ンだよ……馬公かよ。驚いたわ」シラノは溜め息を吐く。
馬は鼻を鳴らす。
「……呼ばれて来てみたら……鼻男も居るとはな」
「呼ばれた?」シラノは問い返した。
「ああ。アメリアに呼ばれて黒い森から駆けつけた」馬はシラノの肩に乗った左腕を見遣った。
……アメリア? シラノは眉間に皺を寄せた。何処かで聴いた事がある名だ。記憶の糸を手繰り寄せようとするが想い出せない。
苛立ったシラノが唇を噛んでいると彼の顔色を気にした左腕が肩を軽く叩いた。
シラノは左腕を見遣る。
「そういえばお前、ローレンスの知り合いの……確かアメリアの左腕だったっけな」
アメリアはシラノの肩を一度叩いた。
「……左腕?」訝しげに馬はシラノを見据えた。
「ああ。左腕だろ? まさか大人になって左と右を間違えるダボじゃねぇよ。それにしても左腕が呼んだって凄ぇな。悪魔も魔女も居りゃ、素っ裸で逃走する土の精霊も居るし左腕も動くんだな」シラノは豪快に笑う。
耳を伏せた馬はシラノを睨み、表情を緩めてアメリアの左腕を見遣った。
「土の精霊を知っているか?」シラノは問うた。
「有名な昔話だ。ヴルツェルと言う男だろう?」馬は問い返した。
「ああ。そいつを探したいんだ」
馬は左腕を暫く見つめると深く頭を下げる。
「……分かった。やってみよう」
瞳を伏せた馬は左腕を優しく咥えると裸の背に乗せ、南へと常歩する。
「待てよ」シラノは馬の尻を追いかける。
「お前は来なくて良い。俺とアメリアだけで何とかする」馬は鼻を鳴らした。
「左腕と馬公だけ行かせる訳いかねぇよ」
「俺とアメリアだけで充分だ。鼻男は戻れ」
「俺はヴルツェルの目的を知りたいんだ」
「いいから戻れ」
「戻らねぇぞ」
口論に嫌気がさし、鼻息を荒げた馬は顔を突き出しシラノに噛み付こうとする。しかしシラノは体をかわした。
一部始終を眺めていた左腕は馬の首を叩いた。
馬は瞳を伏せる。
「……叱られた」
シラノは眉を下げ微笑しつつも馬の首を撫でる。
「叱られてしょぼくれるなんざ可愛い所あんじゃねぇか」
「黙れ」
「俺はシラノだ。お前の名前教えてくれよ」
笑いかけるシラノに馬がだんまりを決めていると、左腕は馬の首を突ついた。瞳を伏せ深い鼻息をついた馬は口を開く。
「……アレイオーン」
「アレイオーンって言うのか。宜しくな」
「宜しくなんてしてやらないからな。あとアメリアを『左腕』と呼んでやるな。アメリアはアメリアだ」
「そうか。悪かったな、アメリア」
アレイオーンは鼻を鳴らす。
「行くぞ。ヴルツェルとやらの臭いが大分薄まっているな。遠くへ行ったようだ」
「追えそうか?」
「走るのは無理だ。常歩なら臭いを嗅ぎ分けられる。行くぞ」
「おう」
小腹満たしに丁度良い缶詰や未開封の瓶詰、調味料、酒のミニボトルやソムリエナイフを見つけると、カーゴパンツのポケットに突っ込んだ。そして開封されたアンチョビのスタッフドオリーブの瓶詰を見つけたシラノは幾つか口に放る。白ワインの瓶に口をつけて呷る。人心地着くと豪快にゲップを吐き、空き瓶をゴミ箱に放って踵を返した。すると物音が耳に入る。
彼は立ち止まると耳を澄ませた。
隣室からだ。
鮮明な程に音は聞こえる。足音や物音は疎か、呼吸音や心拍まで聴こえる。
宿主の心臓から引き剥がされ、魂を器に入れられたヴルツェルが覚醒したようだ。彼はフォスフォロとケイプの危惧によって四肢を拘束させられていた。覚醒した彼がランゲルハンスを討ちに行かせない為の処置であった。その拘束を易々と破ったらしい。
シラノはキッチンから出ると大客間に意識を向ける。穏やかな話し声が聴こえる。どうやらヴルツェルが覚醒した事には気付いてないらしい。鼻を鳴らしたシラノは大客間に戻らずトイレへ向かった。
キッチンの隣室では四肢の拘束を解いたヴルツェルがドアに長い耳を寄せて外の気配を窺っていた。
足音は通り過ぎたようだな。
小さな溜息を漏らしたヴルツェルは呼吸と心拍を整える。そして音を立てぬよう慎重にドアノブを捻ると廊下に出、キッチンへ向かう。衣擦れの音も立てたくないと衣服を脱ぎ、生まれたままの姿で牛刀を握ると深く息を吸い、ランゲルハンスの匂いの筋を追った。
足音を殺し二階に上がったヴルツェルはランゲルハンスの客室の前に辿り着いた。壁に寄り添い、耳を付ける。するとベッドのスプリングが軋む音や密やかな息遣いが聴こえる。再び息を深く吸うと男女の匂いが鼻腔を突いた。
ヴルツェルは逆手にした牛刀の柄を握り締める。
抑えた筈の心拍がいつの間にか上がっていた。頭の中で鼓動が鳴り響く。口腔から水分が引き、熱を持った唇は貼り付く。掌からフツフツと汗が涌き出し、アメジスト色の瞳を潤していた涙液は蒸発する。
十秒カウントして入室しようと瞳を閉じた途端、声を掛けられた。
「おい」
ヴルツェルは瞳を見開いた。
眼前には鼻が異様に長い、筋肉質の男が佇んでいた。
万事休す。退かねばなるまい。
「ハンスが居れば救えたのだが」
呟きつつも牛刀を捨てヴルツェルは鼻男を押し退けた。長い廊下をひた走る。背後で鼻男が何かを叫ぶが意に介さず、突き当たりの大窓に飛び込む。砕け散ったガラス片と共に中庭に舞い降りると、足の痺れに耐えて脇目も振らず駆け出す。
「待てよ!」シラノは割れた窓から身を乗り出すと、徐々に小さくなるヴルツェルの背に向かって叫ぶ。
しかし無意識にサッシに手をついていたのでガラス片で皮膚を切った。
ヴルツェルは森に消えてしまった。
するとケイプやフォスフォロ、ローレンスが階段を駆け上がって来た。
「どうした!?」フォスフォロは問う。
「どうもこうもねぇよ。拘束を破ったヴルツェルを尾行た。そしたらあいつ、おっさんの部屋を探し当てたんだ」
ローレンスは割れた窓を見、ケイプは部屋の前に落ちている牛刀を見つける。
男達の視線の先を見遣ったフォスフォロは溜め息を吐く。
「……危惧した通りになったって訳か。ケイプ、ローレンス、女性陣を宥めて事情説明を頼む」
ケイプとローレンスは頷くと階下に降りた。
「取り敢えず俺がハンスに事情を報せるから、追いかけてくれないか?」フォスフォロは眉を下げた。
「分かった」
シラノは返事も早々に窓枠に足を掛けると夜空に飛び出した。
小さな森を駆け抜け海を渡り、アイアイエ島から本島に上がったヴルツェルは荒れ地を駆け抜け南下する。ランゲルハンスの体内に居た際に聞いた言葉を頼りにひた走った。広大な花畑と黒い森に挟まれた道を駆け抜けると四辻に当たる。そこには風に揺られて不気味な鳴き声を上げる金属製の風見鶏が刺さった背高の家があった。ランゲルハンスの家だ。
主の魔力が空の所為か、魔術が施された錠は開いていた。ドアノブを捻るとヴルツェルは玄関の側のキッチンを通り過ぎる。棚に収められていた大きな標本瓶を一瞥した。そこには左腕の標本が収められていた。
リビングの小さな本棚に向かう。天井から吊るされた呪い道具が背の高いヴルツェルの頭をかすめる。床に転がるワインの木箱を蹴散らして目的の書籍を探す。書籍を取り、乱雑に開いては床へ放る。堆積していた埃を巻き上げて書籍は床に山積した。
中身をくり抜かれた書籍を見つける。中には白い小瓶が入っていた。それを引ったくるとヴルツェルは家を飛び出て、闇に消えた。
十分後、ドアが開け放されていたランゲルハンス宅にシラノが現れた。カーゴパンツのポケットに忍ばせた食材をガチャガチャ鳴らす。海水に濡れた服を張り付かせた彼はフィールドジャケットやカーゴパンツを白砂で胡麻汚しにしていた。
「畜生! 一歩遅かったか!」息を切らすも叫ぶ。着衣のまま海を渡るのは無理があった。その上、荒れ地を駆け抜けたのだ。しんどい。
シラノはリビングを見渡す。天井から吊るされた呪い道具やテーブルに山積した製剤の道具、革のカウチの座面に山積した書籍……部屋の様子は変わりない。しかし小さな本棚に眼が留まった。本棚の周りには投げ捨てられた書籍が散乱し、頁が開いていた。シラノは本棚へ向かうと、散乱した書籍に触れる。様々な言語で頁は綴られていた。
手に取っていると不可解な書籍を見つけた。それは中身がくり抜かれた物だった。何かを隠していたに違いない。きっとヴルツェルはそれを手に入れる為にここまで走って来たのだろう。
一体何が入っていたのか。そして彼は何処へ消えたのか。
耳を澄ませようとすると、キッチンから物音が響いた。
シラノは息を潜め、足音を殺しキッチンへ向かった。
キッチンの棚では標本瓶に収められた左腕が痙攣を起こしていた。容器が揺れる程激しい痙攣だ。他の標本瓶や転倒防止のアイアンバーに当たり嫌な音を立てる。尋常ではない。
「……おい。どうした?」
幻肢痛に耐える左腕に手を貸してやろうとシラノは標本瓶に手を伸ばす。
すると激しい痙攣に耐え兼ねた左腕は標本瓶を押し倒した。標本瓶はアイアンバーから転倒する。蓋が外れ、液体と共に左腕が雪崩れ込む。リノリウムと樟脳を混ぜたような臭いの液体を頭から被りながらもシラノは左腕を抱き止めた。
落下した標本瓶は形を失い、ガラスの破片が散乱する。
シラノの胸に抱きとめられた左腕は、フィールドジャケットを固く握り締め小刻みに震える。
液体を被ったシラノは額に貼り付いた前髪を搔き上げる。左腕は依然として痙攣を起こしている。
「大丈夫だ。我慢するな。辛いなら俺にも痛みを分けろ」
しかし左腕は先日のようにシラノに爪を立てない。
遠慮してるって訳ではなさそうだな。
小さな溜め息を吐いたシラノは左腕を撫でた。
「もう大丈夫だ。よく気張ったな」
左腕は痙攣を起こしていたが、大きな手に撫でられる度に呼吸を整えるように落ち着きを取り戻した。痙攣が震えに変わり、やがて緊張していた左腕は溜め息を吐くように力を抜いた。
「……楽になったか?」
シラノの問いに答えるかのように左腕は彼の胸を一度だけ軽く叩いた。
「そうか。良かったな」シラノは微笑んだ。
しかし落ち着いたのも束の間、左腕はそわそわと動く。何かを案じているようでもあり、何かを探しているようでもある。
……もしかしたらヴルツェルの行方を知っているのか?
シラノが見つめていると、左腕は突如静止する。そしてシラノの肩へとよじ登り、開け放たれたドアを指差した。
「……お前、分かるのか?」
左腕は一度だけ肩を叩いた。
「そうか。じゃあ案内を頼むぜ」
家から出たシラノはローレンス宅に挟まれた道に佇み、くしゃみをする。今まで泳いだ上に疾走していたから気にならなかったが宵闇は漆黒に飲まれていた。夜空に星が輝く。道理で寒い訳だ。洟をすすり『あー』と唸ると、何処からか荒い息遣いが聞こえた。
生暖かい空気が首に触れる。
驚いたシラノは振り返る。
すると玉虫色の大きな瞳が夜闇に爛々と輝いていた。
思わず短い悲鳴を上げた。
「やかましい」
低い声と共に闇から姿を現したのは青毛の馬だった。
「ンだよ……馬公かよ。驚いたわ」シラノは溜め息を吐く。
馬は鼻を鳴らす。
「……呼ばれて来てみたら……鼻男も居るとはな」
「呼ばれた?」シラノは問い返した。
「ああ。アメリアに呼ばれて黒い森から駆けつけた」馬はシラノの肩に乗った左腕を見遣った。
……アメリア? シラノは眉間に皺を寄せた。何処かで聴いた事がある名だ。記憶の糸を手繰り寄せようとするが想い出せない。
苛立ったシラノが唇を噛んでいると彼の顔色を気にした左腕が肩を軽く叩いた。
シラノは左腕を見遣る。
「そういえばお前、ローレンスの知り合いの……確かアメリアの左腕だったっけな」
アメリアはシラノの肩を一度叩いた。
「……左腕?」訝しげに馬はシラノを見据えた。
「ああ。左腕だろ? まさか大人になって左と右を間違えるダボじゃねぇよ。それにしても左腕が呼んだって凄ぇな。悪魔も魔女も居りゃ、素っ裸で逃走する土の精霊も居るし左腕も動くんだな」シラノは豪快に笑う。
耳を伏せた馬はシラノを睨み、表情を緩めてアメリアの左腕を見遣った。
「土の精霊を知っているか?」シラノは問うた。
「有名な昔話だ。ヴルツェルと言う男だろう?」馬は問い返した。
「ああ。そいつを探したいんだ」
馬は左腕を暫く見つめると深く頭を下げる。
「……分かった。やってみよう」
瞳を伏せた馬は左腕を優しく咥えると裸の背に乗せ、南へと常歩する。
「待てよ」シラノは馬の尻を追いかける。
「お前は来なくて良い。俺とアメリアだけで何とかする」馬は鼻を鳴らした。
「左腕と馬公だけ行かせる訳いかねぇよ」
「俺とアメリアだけで充分だ。鼻男は戻れ」
「俺はヴルツェルの目的を知りたいんだ」
「いいから戻れ」
「戻らねぇぞ」
口論に嫌気がさし、鼻息を荒げた馬は顔を突き出しシラノに噛み付こうとする。しかしシラノは体をかわした。
一部始終を眺めていた左腕は馬の首を叩いた。
馬は瞳を伏せる。
「……叱られた」
シラノは眉を下げ微笑しつつも馬の首を撫でる。
「叱られてしょぼくれるなんざ可愛い所あんじゃねぇか」
「黙れ」
「俺はシラノだ。お前の名前教えてくれよ」
笑いかけるシラノに馬がだんまりを決めていると、左腕は馬の首を突ついた。瞳を伏せ深い鼻息をついた馬は口を開く。
「……アレイオーン」
「アレイオーンって言うのか。宜しくな」
「宜しくなんてしてやらないからな。あとアメリアを『左腕』と呼んでやるな。アメリアはアメリアだ」
「そうか。悪かったな、アメリア」
アレイオーンは鼻を鳴らす。
「行くぞ。ヴルツェルとやらの臭いが大分薄まっているな。遠くへ行ったようだ」
「追えそうか?」
「走るのは無理だ。常歩なら臭いを嗅ぎ分けられる。行くぞ」
「おう」
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