ランゲルハンス島奇譚(3)「シラノ・ド・ベルジュラックは眠らない(下)」

乙訓書蔵 Otokuni Kakuzoh

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四章

六節

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 アメリアを乗せたアレイオーンとシラノは南へ続く荒れ地の道を無言で歩む。アレイオーンは耳を伏せ、顔を顰め常歩する。シラノは時折くしゃみをしては手鼻をかんでいた。

 無言の男達をアメリアは気に掛けていた。

 ──ねぇ、アレイオーン。シラノから話を聞かなくてもいいの?

 眉を下げて背に跨がるアメリアを見遣ったアレイオーンは鼻を鳴らす。

「経緯を教えろ」

 肩をすくめたシラノは悪戯っぽく微笑むと事の次第を搔い摘んで説明した。

「……成る程な。俺が黒い森で暮らしている間にそんな事があったのか」アレイオーンは瞳を閉じた。

 それをシラノは横目で見遣った。

「お前、アメリアと話せるんだろ?」

「……何故分かる?」アレイオーンは更に顔を顰める。

「今までだんまりを決めていた癖に急に話しかけたからな。アメリアが配慮したんだろうってな。馬は悪魔みてぇなのに、左腕は天使みてぇだな」

 記憶を失っているとは言え、最愛の男に手放しで褒められたアメリアは頬を染めて俯いた。

 アレイオーンは得意げに鼻を鳴らす。

「当然だ。アメリアは俺の天使であり家族であり親友だ」

「家族?」

「幼いアメリアは悪魔に『まずは自立するべきだ』と荒地の家に一人暮らしをさせられた。その時世話をしたのが俺だ」

「世話された、んじゃねぇのか?」シラノは悪戯っぽく笑う。

「馬鹿言え。ちんまいアメリアに馬術を教えてやったり怪我して泣いているのを慰めてやったりしたんだ」

「そっか。家族なんだな」

「ああ家族だ」

 男達が口許に微笑を浮かべていると目前に黒い粒子が現れた。粒子は人の形をとる。

「あんだ? これ?」シラノは眉を顰める。

 警戒したアレイオーンは左右の耳を別々に動かす。

 男達が粒子を眺めていると中から異形の女が現れた。アレイオーンは目を伏せる。シラノは女の眼を見据えた。

 美しい女だった。白い肩が大胆に露出したアメリカンアームホールのドレスを纏い、布地に横皺が入る程に豊かな胸許で腕を組んでいた。上腕が逞しい。深いスリットから覗かせた白い脚が夜目に眩しい。美しい女を飾るのは手許の牛追い鞭と頭部から生えた無数の細い蛇だった。生きた蛇は緩く三つ編みにされ舌を出している。女は背からコウモリの翼を生やしていた。

「あんだぁ? メドゥーサか?」シラノは蛇を凝視した。

「メドゥーサではない。メドゥーサであればお前は既に石化している。アレは魔眼を摘出しても呪われているからな」

 アレイオーンは瞳を開いた。女は鼻を鳴らした。

はエリニュスが一柱、ティシポネ」

 シラノは唇を尖らせ想いを巡らす。

「……復讐の女神さんだったか? 親殺しや肉親殺しの犯人を罰するんだったよな、確か」

 ぬらりと輝く沼色の瞳を細め、鮮やかな唇でティシポネは微笑する。

「よく知っているな。話が早い。ここで死んで貰うぞ」

 親指と人差し指の股にグリップを挟んだティシポネは腕を一直線に振り上げて鞭を下ろした。空気を裂き、炸裂音が夜の静寂を破る。

 シラノとアレイオーンは表情を歪めると同時に駆け出した。

 同時に駆け出したとは言え、馬と人なれば当然馬の方が早い。アメリアを乗せたアレイオーンは瞬く間にシラノを引き離した。アレイオーンは耳を伏せ後方の音を聴く。牛追い鞭が空気を切り裂く音がする。

 疾駆するアレイオーンの首に体を預けたアメリアが訴える。

 ──シラノを助けなきゃ!

「馬鹿言え。このまま逃げるぞ! 俺は親殺しの覚えないからな!」

 ──いや!

「巻き込まれるぞ!」

 ──恋人が危険な目に遭ってるのに放っておけない!

 アメリアの言葉にアレイオーンの心は破れた。彼は速度を徐々に落とすと、速歩し、止まった。皮膚と言う皮膚から嫌な汗をかく。疾駆した所為ではない。

 アメリアは眉を下げて瞳に涙を浮かべる。

 ──お願い、アレイオーン。シラノを助けたいの。

 汗だらけのアレイオーンの首筋にアメリアは抱きついた。

「……人殺しでもか?」

 ──シラノは確かに父親を殺した。でも虐待を受けていたの。そして個人的な感情だけで殺した訳じゃない。父さんを守る為だったの。

「……ローレンスを守ったのか?」

 アメリアはこっくりと頷いた。

 ──父さんばかりじゃない……あたしを幾度となく守ってくれたの。シラノは……イポリトはあたしの監視役。だけどそれだけの理由じゃない。あたしを家族として扱ってくれるし恋人として愛してくれたの。だから……だから今度は彼を助けたい。でも、今のあたし、シラノにとってただの左腕だし……。

 頬に涙を伝わせるアメリアを見遣り、アレイオーンは黙した。

 夜闇に虫の鳴き声と洟をすする音が響く。

 俯き瞳を閉じていたアレイオーンは徐に首を上げるとターンする。

 ──アレイオーン?

「……お前も他者を深く愛する程に大人になったのだな。嬉しく想う一方で寂しく想うぞ」アレイオーンは悲しそうに微笑んだ。

 アメリアは洟をすする。

「しっかり掴まっておけよ。夜の静寂を切り裂く鞭よりも速く駆けてやる」

 アレイオーンは襲歩すると瞬く間に風に解け込んだ。

 シラノは鞭先のクラッカーを避けるのに必死だった。動体視力が全く役に立たない。音を聴いて見当をつけようとしてもクラッカーが腕に巻き付きそうになる。勘で体を交わすので精一杯だ。

 そんなシラノを眺め、ティシポネは沼色の瞳を細め嘲笑する。

「どうした? 図体の割に根気がないな?」

 彼女の腕が弧を描くと破裂音が響き、シラノの足許をクラッカーが叩き付ける。

 肩を上下に動かし呼吸を荒げるシラノは苦笑する。地面にクラッカーが当たるよりも先に音が鳴るって事はソニックブームだな。こりゃ勝てる相手じゃねぇわ。

「……恐ぇなぁ。玉ヒュンだわ」

「お前が殺した肉親はそれ以上の恐怖を味わって死んだのだ」

「本当に俺が殺したのか?」

「親ばかりではない! 多くの人間をお前は殺して来た!」

「多くの人間を殺して来たって……俺は戦争屋か何かかよ?」

「黙れ!」

 ティシポネは鞭を振るう。するとシラノの腕に巻き付いた。朝顔の蔓のように巻き付いた鞭をシラノは慌てて解こうとするが、ティシポネに引っ張られて解けない。

「ベラベラと喋っているからこの様だ」ティシポネは鮮やかな唇の両端を吊り上げて笑う。

 女とは到底想えぬ馬鹿力でシラノは鞭ごと手繰り寄せられる。馬のように凄まじい力だ。歯を食いしばり、下半身を落とし踏ん張ったがブーツは地面に擦り跡を刻む。

「無駄な抵抗だな! 大人しく吾の腕に抱かれて冥府に来るが良い!」

「おねーちゃん抱いても抱かれたくはねぇな!」歯を食いしばったシラノは顔を真っ赤に染め、抵抗する。

 しかし鞭を手繰り寄せるティシポネの手は止まらない。距離が縮まり、細い指がシラノに触れようとしたその時、凄まじい風圧と共にアレイオーンが割って入った。アレイオーンは前脚を上げると二人を蹴散らす。地に伏したシラノを咥えると想い切り首を振って背に乗せた。

「走るぞ!」アレイオーンは叫ぶ。

「ちったぁデリケートに扱えや!」シラノは身じろぎ体勢を立て直す。

「やかましい! たてがみを掴んでおけ!」

 アレイオーンは嘶くと駆け去った。

 道を外れ雑木林の中に入る。シラノとアメリアの左腕を乗せたアレイオーンは風になる。木の葉を撒き散らし、水溜まりを踏みつけ、木々を次々と追い越す。

 空気が轟々と唸る。圧倒的な風圧をシラノは尖った長鼻と頬で感じる。

「凄ぇ! お前風になってんぞ!」

「黙れ! 舌を噛みたいのか!」

 アレイオーンは鼻を鳴らすと呟く。

「……まったく、こんなお喋り軽薄の何処がいいのか分からん」

「あ? 何か言ったか?」

「いいから黙れ!」

 シラノは肩をすくめる。扱いづらい性格してやがるぜこの馬公。アメリアの話すりゃ機嫌が良くなるって分かっただけでも儲けモンだが。……しかし考えたもんだな。雑木林に逃げればティシポネが追って来ても、鞭は使えまい。木々の密度が高い所では振るえねぇからな。

 思考する程に余裕が生まれたシラノはたてがみに縋り付いていたアメリアの左腕に気付いた。細い指がしっかりとたてがみを握っているが風圧に屈し、腕が今にも舞い飛びそうだ。

 シラノは片手でシャツの裾をカーゴパンツに収める。そして冷えきった左腕を掴み、シャツの中に入れた。

「悪いな。我慢してくれ。ここが一番安全だ」

 シラノは腹を見据え微笑む。すると眼の端で灯りが見えた。背後からだ。

 振り返ったシラノは愕然とした。コウモリの翼を広げ松明を掲げたティシポネが追いかけて来る。牛追い鞭以外にも得物を持っていると言うのだろうか。

「悪い知らせだ! ティシポネが追いかけて来る!」

「知ってる! 馬の視野を舐めるな!」アレイオーンは叫んだ。

 今ここで引き離さないと危ない。雑木林を抜ければどんな土地に出るのか分からない。ここで勝負を着けなければ。シラノは顔を顰めた。

 下馬しよう。どうやらアレイオーンとアメリアは無関係だ。巻き込むのは不憫だ。俺だけで立ち向かえば良い。シラノはシャツの中に入れた左腕を外へ出そうと掴む。しかし左腕に強く掴まれた。シラノは眼を見張る。

 ──ダメ。一人で行かないで。あたしとアレイオーンはシラノの味方なんだから。

 そんな風に言っている気がした。都合がいい想像かもしれない。甘美な囁きなのかもしれない。しかし現にアメリアの左腕は自分の腕を強く掴んで離しそうにもない。

 シラノは小さな溜め息を吐くと、アメリアの左腕をシャツの中に収めた。違う方法を考えなければならない。アメリアとアレイオーン、そして自分が助かる方法を。

 眉を顰めて黙す。するとカーゴパンツのポケットの中でガチャガチャと鳴る金属音に気が付いた。キルケーのキッチンからくすねて来た缶詰や瓶詰の保存食品だ。振動によって金属と金属がぶつかり音を立てているのだろう。シラノは想い出した。誰かにえぐい悪戯してやろうと、とんでもない物を一つ盗み出したのだ。

「おい」シラノはアレイオーンの耳許で囁いた。

「なんだ!?」筋肉が付き、パンと張ったアレイオーンの青毛の馬体に汗が伝う。夜目にも眩しい。アレイオーンは苛ついていた。

「作戦がある。これなら絶対に撒ける。速度を落としてくれ」

「は!?」

「悪いようにはしねぇ。信じてくれ」

 アレイオーンは横目でシラノを見遣った。風にブロンドを踊らせるシラノは青白く光る不思議な瞳で自分を見据えていた。……同じだ。愛した女と同じ真剣な眼付きをしてやがる。

 アレイオーンは鼻を鳴らす。

「……分かった」

「ありがとよ。それと合図したら暫く呼吸止めろよ」シラノは満面の笑みを向け囁いた。

「あ!? 馬鹿言ってんじゃねぇよ!」

「いいから信じろ!」

「ああクソ!」

 襲歩していたアレイオーンは徐々に速度を緩める。すると徐々にティシポネが距離を詰め、松明に照らされ表情が視認出来る程になった。

 シラノは落馬しまいと、膝に力を入れアレイオーンの腹を押さえつけた。そしてカーゴパンツのポケットからソムリエナイフを出すと歯を使って開刃する。そして柄を咥えると今度はポケットから缶詰を取り出した。チャンスは一度きりだ。失敗は許されない。

 暗闇の中、ラベルを確認する。豚のラベルだ。違う、これじゃない。シラノは缶詰を投げ捨てた。

 そうこうしている内にティシポネが更に距離を詰める。

「早くしろ!」アレイオーンは叫ぶ。

 シラノはもう一度ポケットに手を突っ込むと缶詰を取り出しラベルを確認する。魚の絵だ。天板が不自然に膨らんでる。間違いない。これだ。

「分かった! 宜しくな!」シラノは叫ぶ。

 アレイオーンは呼吸を止めた。

 風に流され振り乱すアレイオーンの尻尾に当たりそうな程にティシポネが近付く。両手をたてがみから離したシラノは強靭な下肢の力だけで騎乗する。背後を振り向き、息を止めると、ソムリエナイフを天板が膨らんだ缶詰に想い切り突き刺した。

 一瞬の出来事だった。空気が漏れる音がした瞬間、シラノは缶詰をティシポネに投げつけた。湿度が高い炎天下で生ゴミを放置したような凄まじい臭気を放った缶詰はティシポネの胸に当たる。缶詰から溢れた汁が胸許を汚す。獣のような叫びを上げた彼女は途端に噎せ、宙に佇んだ。

「だあああああ! 臭ぇっ!」投げつける際に息を吸ってしまったシラノはアレイオーンの首筋にしがみついた。

「臭ぇ! しがみつくな!」再びトップスピードに乗ったアレイオーンは歯をむく。

「俺は鼻が長いんだよ! 人より多くを吸っちまうんだよ!」

「俺は馬だ! 人より嗅覚が優れてんだよ! 取り敢えず臭い消しに水場を目指すぞ!」

「おう!」

 シラノとアメリアの左腕を乗せて疾駆するアレイオーンは闇に消えた。
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