ランゲルハンス島奇譚(3)「シラノ・ド・ベルジュラックは眠らない(下)」

乙訓書蔵 Otokuni Kakuzoh

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六章

十七節

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 水を足の甲で打ちつつイポリトは首筋のエラに触れて唇を噛む。指の股には水掻きが付いていた。

 陸に居る要領で鼻から息を吸うと口腔に海水が雪崩れ込む。エラ呼吸によって酸素を取り入れられるが如何せん塩辛い。

 魚にしてくれ、と願った覚えは無い。『水中で呼吸出来るようにしてくれ』と願った筈なのに魚にしやがった。これじゃ半魚人じゃねぇか。海水が目にしみるだろうと覚悟をしていたが視界は明瞭だった。あたかも元から水生生物だったような心地だ。

 ヒレが付いた足で水を打つ度に木材同士を打ち付けたようなくぐもった音が響く。優しい音でもあるが腹を下した際に鳴る消化器の音のようにも聞こえる。

 色彩豊かな魚と擦れ違いつつも海中を進むと眼前に渦が現れた。潮流が細かい泡沫を巻き上げ周辺の生物を飲み込まんとしている。

 渦に対峙したイポリトは唇を噛む。

 ……水中版トルネードだな。

 入り江に続く空間があるからとあの中に二人して突っ込むなんて無理だろう。あれを眼前にしてよく勇気が出たものだ。余程の阿呆か命知らずじゃなけりゃあんな所に突っ込まねぇよ。渦に弾かれたトゥットは『助けて』と声が聴こえたらしい。いつも聴く母らしき声かアメリアの声か分からなかった。アメリアを助けようとしたが幾度やっても渦に弾かれるだけだった、と言っていた。

 イポリトは渦を睨んだ。

 凄まじい勢いで巻き上がる潮流の中にはアメリアの姿はない。既に全てが終った後なのだろう。未だにあの中に居たら生存の確率は最も低くなるだろう。

 ──アメリアの許に行け。きっと答えはそこにある。

 ディーの言葉が脳裡をよぎる。

 そうだな。きっと答えは渦の中にあるな。トゥットの『渦に繋がる入り江』の話が嘘でなければアメリアはそこに居るかもしれない。

 意を決したイポリトは水を足で打ち、渦へと進む。するとアメリアが着けていたビキニのブラジャーが流れて来た。迷わず掴むとカーゴパンツの中に入れ、イポリトは渦に飲まれて行った。

 渦に飲み込まれると大小様々な屑に打ち当たり、痛みに耐える。凄まじい水圧と音に内臓と耳が潰されそうだ。音響設備が優れた映画館で戦争映画を観るよりも酷い。体の芯から揺さぶられる。それでも渦の中心を目指し薄目を開いていると白い光が見えた。眩しさに耐えきれずに瞼を閉じる。イポリトは潮流に身を任せた。

 瞼を閉じているといつの間にか空気が頬に触れた。

 意識を取り戻したイポリトは状況を確認する。どうやら入り江に辿り着いたらしい。浅瀬に打ち上げられ、岩肌に身を委ねていた。辺りを見回すと意識を失ったアメリアが打ち上げられていた。彼女は俯せで岩肌に身を委ねていた。

「おい」

 彼女に近付いたイポリトは水掻きが付いた手を伸ばす。白くて柔らかい肌に手が触れると水掻きは途端に消えた。

「おい。アメリア。起きろ」

 イポリトはアメリアを抱き起こす。すると豊かな胸が露わになった。ツンと天を仰いだ悩ましい胸を前に彼の血流が下肢に落ちる。しかし彼女の胸に咲いた翼竜の痣を見て愕然とした。

 全てを想い出した。そして全てが繋がった。

 アメリアの胸に咲いた痣はバスルームで鉢合わせた時に見た、コンラッドとの戦闘で見た、あの翼竜の痣だった。

 俺が死に際に胸の内を明かしたのはアメリアだ。俺のロクサーヌはアメリアだった。なんだってこんな所に来たんだ。

 イポリトはアメリアの言葉を想い出した。

 ──でもその先にはいつもイポリトが居る。

 畜生。愛する男を一目見るだけに、女だてらに戦場に足を踏み入れたロクサーヌと一緒じゃねぇか。悲劇になるのは俺だけで充分だ。俺がお前を想い出さなかったら、本当にロクサーヌのように泣き暮らす所だったじゃねぇか。

 俺を島へ送る為なんかに悪魔の契約を一方的に反故しやがって……。ダボ! お蔭でお前の大事な左腕が切断されたじゃねぇか。想像を絶する程に痛かっただろう。胸が破れる程に辛かっただろう。そしていつまで経ってもお前を想い出さない俺に涙を見せず、孤独を耐え抜いたんだ。酷い事をした。

 イポリトは愛する女を強く抱きしめた。すると胸を圧された所為でアメリアは咳き込み、意識を取り戻した。

 アメリアを離したイポリトは背を撫でてやった。咳が落ち着いたアメリアはイポリトを見遣る。

「……どうしてイポリトがいるの? トゥットは?」

 イポリトは顔を顰める。

「浜に戻った。無事だ。……恋人よりもトゥットの心配かよ」

「だってトゥットと一緒に渦に潜」

 言葉を止めたアメリアは青白く光る瞳を見開いた。瞳は潤む。

「……こ……い、びと? ……記憶を……取り戻したの?」

 瞳を伏せたイポリトは頷く。

 アメリアは涙を頬へ伝わらせた。

 微動だにせず自分を見つめる最愛の女の顎に指を掛けると、イポリトは長い鼻が当たらぬように首を傾げキスを落とした。

 瞼を閉じ頬に涙を伝わらせたアメリアは甘い陶酔に身を委ねる。イポリトの唇がアメリアの唇をなぞる。アメリアは気恥ずかしさにもぞもぞと動く。彼は彼女の上唇を幾度となく愛しげに啄ばんだ。アメリアはされるがままになっていたが、おずおずと下唇を啄ばみ返した。

 イポリトは唇を離した。

 眉を下げ、頬を染め、顔に熱を籠らせたアメリアが彼を見上げる。

「……記憶が戻ったとか、キスだとか……突然過ぎて狡い」

「……別にいいだろ」

「……さっきから膝に何か当たってるんだけど」

「……生理現象だよ。濡れたカーゴパンツの中じゃきつくてしょうがねぇ。痛ぇからそれ以上膨らまねぇ。我慢しろ」頬を染めたイポリトは外方を向いた。

「ふうん」アメリアは訝しげな視線を送る。

「しょーがねぇだろ。俺だって男だ。惚れた女と初めてキスすりゃ勃つモンは勃つわ!」

「素人童貞でキス童貞だもんね」

「ほっとけ。今のはつまみ食いだよ」

 イポリトはアメリアを抱きしめる。更に頬を紅潮させたアメリアは彼の背に腕を回した。

「俺の為に左腕を切断されて……アメリアは本当に阿呆だな」

「イポリトだってあたしの為に幾度となく命を投げ出したじゃない。大馬鹿」

「減らず口叩くな。塞ぐぞ」

 イポリトは再びアメリアの顎に指を掛けた。眉を下げたアメリアは気恥ずかしそうに視線を横に逸らすと瞳を閉じた。

 言葉とは裏腹に従順な態度をとる彼女を鼻で笑ったイポリトは指を外す。

「……今直ぐにでも喰っちまいてぇ所だが、現世に戻ってからの楽しみにしておくわ」

 瞼を上げたアメリアは頬を膨らませる。

「……ねぇ、どうして記憶を取り戻せたの? ヘカテ様はイポリトの記憶を奪うって言ってたのに」

「どう言う事だ?」

 アメリアは魔術師の王であり贖罪の女神であるヘカテとの契約について搔い摘んで説明した。

「……そうか。俺を生かす代わりにアメリアが記憶と指輪の代償を払ってくれたんだな」

「でもどうして記憶が戻ったんだろう?」

「さあな。愛の力って奴か?」

「へぇ。イポリトでもそんな事言うんだ?」

 イポリトは鼻を鳴らす。

「……ヘカテって魔術と贖罪の女神だよな。罰を受けても罪は消えない。それと同じく記憶ってのも根本的には消えないんじゃねぇか。何かの本で読んだが記憶ってのは脳の中の引き出しに入っていて、消える事は無いらしい。ただ引き出しに鍵がかかって開かなくなる事はあるんだと。……それにむざむざ愛する者同士を引き裂くだけの事はしねぇだろ。試練も乗り越えられると踏むから与えるんだろ。それが神だ」

「そっか……。ヘカテ様、シビアに見えて本当は優しいんだ。だから記憶の代わりにイポリトが命懸けで守った指輪を取り上げたんだ。今度お会いしたらお礼言わなきゃ」

 アメリアは瞳を伏せた。すると裸の胸が見えた。悲鳴を上げたアメリアは瞬時に両手で胸を隠した。

 イポリトは舌打ちする。

「ンだよ。折角おっぱい丸出しでエロかったのによ」

「見るな!」

「見たっても減らねぇだろ? 早かれ遅かれどうせキスの後はファックだ。今見ても後で見てもそう変わらねぇよ」

「馬鹿!」

 イポリトは肩をすくめる。そして海中で取ったビキニのブラジャーをカーゴパンツの中から出すとアメリアに差し出した。それを引ったくったアメリアは文句を垂れつつも背を向けて着けた。

「……まさかとは想うけど……記憶を取り戻した切っ掛けってあたしの胸?」ビキニを着たアメリアは振り返り問うた。

「当たり前だろ。ドラゴンタトゥーのデカパイなんざ、エロさ強烈でそうそう忘れるモンじゃねぇっての。記憶が戻ったのは性愛の力ってか?」

「最低!」

 アメリアはイポリトの頬を引っ叩いた。
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