ランゲルハンス島奇譚 外伝(1)「バンビとガラスの女神」

乙訓書蔵 Otokuni Kakuzoh

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παρελθόν 6(11)

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 丁子の診察をしたアスクレピオスの宣告は酷いものだった。

「……誠にお伝えし難い事実ですが、ペルセポネ様。この娘の表面上の傷は癒せても心の傷を治す事は出来ません」

 救護室で眠る丁子を抱いたペルセポネは瞳一杯に涙を溜める。

「分かっています。ですから少しでも辛い記憶から遠ざける為にも私がティコの母代わりになります」

 アスクレピオスは溜め息を吐く。母性の強いお方だ。死者の国の最高神と妃と言う立場故に子供に恵まれない。女性の機能を有してても恵まれないのに、この話を聞かせるのは酷だ。

「……誠にお伝えし辛い事ですが……」

 口籠るアスクレピオスにペルセポネは眉を下げる。

「言って下さい。私は母代わりとして知らなければなりません」

 長い溜め息を吐いたアスクレピオスはペルセポネの瞳を見据える。

「ティコは女性としての機能を有してません」

 ペルセポネはエメラルド色の瞳を見開く。

「そ……それは……それはどう言う事……ですか?」

 唇を引き結んでいたアスクレピオスは瞳を伏せる。

「心ない男達に奪われた機能でしたら、かつて死者をも甦らせた私ならば治療出来たでしょう。しかし……ティコは生まれつき、子を宿す機能を有してません。元からない物を与える事は私には出来ません」

「で、では……この子は子を生み、世代交代を出来ないと。死を許されないと……」

「左様で御座います」

「……罪を犯し、苦役に赴いたヒュプノス神の子供を預かる教育者として、多くの苦難を背負う他無いと」

「左様で御座います」

 ペルセポネの白い頬に幾筋も涙が伝う。

「……あまりにも残酷です。女性として殿方の腕に抱かれる喜びも奪われた上に、元から子を宿す機能がなかったなんて。……誰がそんな事実を……胸を痛めずに宣告出来るでしょうか」

 赤い唇を噛み締めたペルセポネは丁子を抱きしめた。

 アスクレピオスに残酷な告知をされて以来、ペルセポネは丁子を側に置いた。妃として冥府の至る所に出向いてハデスに仕える神々の意見を聞く時も、夫婦揃って床に入る時も、母デメテルの許へ帰省する時も丁子の手を繋ぎ、寂しく想わないようにした。

 ペルセポネの手を丁子は握り返さなかった。死んだ魚のような手をだらりと引っ掛けていた。彼女の魂は別の世界を漂っていた。

 じじ様に会いたい。かか様に会いたい。……だけど私、じじ様とかか様を捨てて来たんだ。それなのにペルセポネ様は優しくしてくれる。裏切り者の私は人の親切に微笑んではいけない。微笑んだらもっと優しくされる。裏切り者なのに。親切にしてくれる人が可哀想……。

 愛し信頼したニコラスに裏切られた事を想い出す度に丁子は耳を塞ぎ、床に踞った。上辺だけを見て本質を見ていなかった。じじ様とかか様の言う事を聞いていれば……。心の声や祖父の声、母の声、ニコラスの声、自分を犯した船員達の声や後悔が彼女を追いつめる。二度と会えないのならば死んでしまいたい。消えてしまいたい。幼い丁子は死を望むようになった。

 ペルセポネは丁子に手を差し伸べた。やりたい事や行きたい所はないかと問うた。しかし丁子は答えない。繋いだ手を握り返さなかったり、後悔や心的外傷に追いつめられたりする丁子を案じる他なかった。

 裁定の間に続く豪奢な廊下で踞った丁子をペルセポネが案じていると通りかかったヘカテに声を掛けられた。

「どうした?」

「想い出して苦しむようなの」眉を下げ、丁子の背を擦るペルセポネは答えた。冥府の最高神の妃と有能な臣下と言う間柄なれど、プライベートでは彼女達は善き友人であった。

 ヘカテは小刻みに震える丁子の小さな背を見下ろす。

「……ここに居るから想い出すんじゃないか? 特別扱いするのは良くない」

 ペルセポネは眉を顰めた。今まで良かれと想って母の代わりを務めたのだ。否定されるのは腹ただしい。

「ヘカテ。私の誘拐事件の際に母の味方をしてくれたあなたでも愚弄するのは許しませんよ」

 険のある視線を送られたヘカテは肩をすくめる。

「何もペルセポネの努力を悪く言ってる訳じゃないさ。……よく頑張ってるよ、他人の子供なのに面倒を見て。それも心に大きな傷を負った娘だ。並大抵の事じゃない」

 ペルセポネは瞳を伏せた。

「ただ……テーコをこのままにしていいのか? この子は死神だ。いつかはペルセポネから離れなきゃならない。それなのに心身共に傷を負ったからと過保護にしてりゃ、ひびが入ったこの子は自分の役目に気付かずに砕け散るよ。……そろそろ小さな胸も膨らむ頃だ。そんな年になっても死神の証である右腕の爛れが出ないなんて……。長い時の中で何も出来ない者として無力感に苛まれるんだ」

 ペルセポネは眉を下げた。

「よくやったよ、ペルセポネ。だから……本当にこの子を想うのなら、今こそ手を離すべきなんだ」

 瞳を閉じたペルセポネは小さく頷く。

「……そうね。あなたの言う通りだわ。ハデスにも『いつか子別れする日が来る』と時々言われていたけど、こんな状態でなかなか踏ん切りがつかなかった。……少しの間この子の母代わりになれただけでも幸せだったわ」

「感謝するよ。聡明で優しき『母』である友人を持った事を誇りに思う」

 ヘカテは踞る丁子の背に触れた。そして術を使い、丁子共々姿を消した。



 ヘカテに預けられた丁子は暫く彼女の仕事に付き添った。多忙な彼女の働きぶりに目を見張り、冥府の最高神であるハデスを始め男神と対等に渡り合うヘカテを心の奥底で尊敬した。

 しかしヘカテに『アスクレピオスはお前の見える傷を治してくれるよ。治したらどうだ?』と胸の傷の治療を勧められても首を横に振った。

 丁子は様々な神の許で少女時代を過ごした。それは死神として生きるだけではなく、他の喜びも気付かせてやりたいというヘカテの配慮故だった。竃の女神ヘスティアの許では料理を、狩りの女神アルテミスの許では狩猟や水泳を、軍神アレスの許では武術を、知恵と戦いの女神アテナからは学問を、そして芸術を司る九柱のムーサ達の許では音楽や文学を学んだ。

 中でも、もぬけの殻のような丁子の表情が真剣になったのが武術だった。

 弱いから力で捩じ伏せられ犯された。この残酷な事実は丁子の興味を武術に向けた。

 半ばヘカテに押し切られる形で丁子を引き受けた軍神アレスは面倒ごとが嫌いなので世話をしなかった。それに人間の血で大分薄まった神の面倒を見るなんて、主神ゼウスと正妻ヘラの子である高い誇りが許さなかった。従って彼の娘達である双子のフォボスとディモスが武術を丁子に叩き込んだ。アレスは地に寝そべって耳をほじりつつ稽古を眺めていた。

 フォボスとディモスは丁子よりも幼い姿なので力は弱かった。しかし父よりは遥かに知恵が回った。アレスのような大男には正攻法では到底自分達に勝ち目はない。従って相手の力を利用したり詐術に嵌めたりと、か弱き者にはか弱き者の戦術があると丁子に教え説いた。

 初めの内、意気込んだ丁子はフォボスとディモスに体をかわされ地面に突っ伏した。自分よりも遥かに幼い双子に翻弄され、丁子は唇を噛んだ。直ぐに息があがり体の節々が痛くなる。苦痛に満ちたトレーニングだったが文句一つも垂れずに毎日こなした。その甲斐あって結果はついてきた。体の基礎を作り、体力と筋力を付け、知恵を付けると型が様になった。

 木陰で横たわり、鼻をほじりつつも稽古を眺めていたアレスは丁子の成長に気付く。すると彼は胡座をかいて稽古を眺めるようになった。なかなか気骨がある少女なので自分が面倒を見てやってもいい、とフォボスとディモスに申し出た。しかし『今更遅い。面白いおもちゃを取り上げるな』と断られた。

 時々ヘカテも丁子の成長振りを眺めにアレスの許を訪れ、木陰から見守った。丁子を案じるペルセポネに経過を報告する為でもあったが、ヘカテ自身も丁子を案じていた。

 次に双子達は頭を使う事を教えた。自分よりも大きな者と対峙すれば正攻法では太刀打ち出来ない。機転を利かせ、戦う術を教えた。

 双子達は口癖のように毎回丁子に言った。『上辺で判断するな。本質を大事にしろ。物事を見極めろ』と。丁子は毎晩その言葉の意味を考えて眠りについた。練習を重ね、やがては双子と対等に渡り合うようになった。武術を習っている内に食事の量も増え、丁子の体は急成長する。乙女のアルテミスを追い越し、高身長のアテナと肩を並べるくらいになった。しかしそれでも死神の証である右腕の爛れは出なかった。

 そんな折、フォボスとディモスは最終試験と銘打って丁子を父であり大男である軍神アレスと勝負させた。何方も得物を持たず徒手だけでの勝負だ。軍神アレスは挑戦者に一切の手加減をしなかった。体重をかけて拳を下し、丁子を翻弄させた。

 俊敏で重い攻撃を交わしつつ丁子は歯を食いしばる。真面に拳を喰らえば地に伏せるのは自分だ。しかし避けているだけでは勝負にならない。どうすればいい?

 すると視界の端に幼い師達の姿が入った。

 ──か弱き者にはか弱き者の戦術がある。

 教えを想い出し、唇を噛み締めた丁子はペースをアレスに預ける事を許さなかった。視線で騙しを掛け型で欺いた。丁子は師である双子達に習った事を復習(さら)う要領でアレスに挑んだ。

 勝負は五分と経たずに決まった。両者とも肩を上下に激しく揺らし、額から汗を流していた。地に伏したのはアレスだった。

「やった!」

「ティコが勝ったー!」幼いフォボスとディモスはハイタッチをして地を飛び跳ねる。

 頬に伝った汗が地に落ちる。息を切らした丁子は左腕で汗を拭った。

 地に尻をついたアレスは恨みがましそうに丁子を見上げる。

「畜生。負けは負けだ」

 丁子はアレスに一礼した。アレスは鼻を鳴らす。

「女だてらに……死神の末裔だてらにやるモンだな。大した奴だ。だが! ……俺が負けたって言いふらすなよ? これでも軍神だからな」

 負け惜しみを聞いた双子は容赦なくブーイングを父に浴びせた。

 苦笑を浮かべた丁子はアレスに右手を差し出した。

 アレスは勝者の手を取ろうとしたが手を引っ込める。

「……お前……体がやっと受け入れたんだな」

 寂しそうなアレスの瞳に気付いた丁子は右腕を見遣った。死神の証である爛れが現れていた。

「……それが出たんじゃ手は取れねぇな。オリュンポス十二神が一柱といえども、死神ヒュプノスの手に触れれば不幸は免れねぇ」苦笑したアレスは気怠そうに起き上がった。

 目を見開き右手を凝視する丁子を双子が案じる。

「ティコ……これからどうするの?」

「冥府に帰るの?」

 瞳を潤ませ自分を見上げる師達に丁子は微笑む。

「ああ……。フォボス師とディモス師には大変世話になった。私は何処まで行っても死神の子なんだ。死神として……生きて、死ぬ。それが運命だ」

 冥府に戻った丁子はハデスに謁見すると、彼の命通りに育て屋の許で教育を受けようと現世へ出向こうとした。

 しかしペルセポネに引き止められた。『右手に爛れが出た以上、死神として生きる事は止めません。しかし現世へ出向く前に少しだけ共に過ごしてくれませんか?』と。

 望んで止まない死を許される為、丁子は一刻も早く任に就きたかった。しかし母の代わりとして心を砕いてくれた優しき妃の想いを汲みたかった。冥府に来たばかりの頃、差し伸べてくれたペルセポネの手を取れなかったのだ。子煩悩な彼女の心を傷つけてしまっただろう。今なら少しだけでも恩返し出来る筈だ。

 七日の間、丁子はペルセポネに付き合った。ペルセポネは様々な所へ丁子を連れて行った。丁度、母であり豊穣の神であるデメテルの許へ里帰りする時期だったので丁子を同行させた。春の野で丁子は過ごした。大女神デメテルの娘であるペルセポネの帰還を聞いて、春の野には様々女神やニンフが己の務めの合間を縫って祝いに訪れた。

 ペルセポネから丁子の経緯を聞いていたデメテルは胸を痛めた。かつてゼウスやポセイドンに彼女は手篭めにされ、ペルセポネや名馬アレイオーンを産み落としていた。

 デメテルは様々な女神を招いて茶会を開いた。芸術の神である九柱のムーサの母である記憶を司る女神ムネモシュネ、姉妹であり主神ゼウスの正妻であるヘラ、愛と美の女神アプロディテ等々いずれも子を生んだ事のある母友達を招いていた。

 事前に丁子の経緯を聞いた女神達は彼女を気の毒に想い、一つだけ選ばせて贈り物をしようと企んでいた。記憶を司る女神ムネモシュネは過去の記憶の消去を、愛と美の女神アプロディテは決して衰える事のない美を、主神ゼウスの正妻である女神ヘラは死神一の権力を贈ろうとした。

 丁子は全て丁寧に断った。そこに自分が望んだ物はなかったし身に過ぎた贈り物だったからだ。しかし『死』を望んでいると正直に言えば、心優しき女神達は悲しむだろう。角を立てないよう断らなければならない。

 彼女は一礼すると丁寧に理由を述べた。おぞましい記憶もあれば家族で過ごした大切な記憶もある。それを失うのは堪え難かったし、おぞましい記憶も引っ括めて今の自分が存在しているのだ。そして色褪せる事のない美は魅力的であるが、自分には過ぎた物だし死神として生きる上で必ずしも要するものではないと首を横に振った。ペルセポネやヘカテと繋がりがあるだけで恨まれそうな若輩者なのに死神一の権力を握ったら反感を買うだけだろうと断った。

 不憫で実直な若者である丁子に何もしてやれず、女神達は眉を下げた。そんな女神達を見た丁子は申し訳御座いません、と頭を深々と下げた。女神達は互いの顔を見合わせる。

 するとムネモシュネがある贈り物を申し出た。納得した丁子は頷いた。一度きりの力なら波風を立てる事も無いし、何よりも女神達の立場を立てられる。

 ムネモシュネは丁子の唇に触れると一度きりの力を授けた。
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