ランゲルハンス島奇譚 外伝(1)「バンビとガラスの女神」

乙訓書蔵 Otokuni Kakuzoh

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 ジムで汗を流すとマルチェロはティコに明日首都へ向かう旨を伝えた。

 トレーニングを終えてトレッドミルの上で歩き、心拍と呼吸を整えるティコは寂しそうに笑う。チョーカーから下がる赤いティアドロップのガラスがちり、と揺れた。

「……そうかい。随分急だね」

「うん。急用が入ってね。首都へ向かわなければならないんだ」ミラーに凭れたマルチェロは首に掛けたタオルで顔の汗を拭うとボトルの水を飲んだ。

「寂しくなるね」走行ベルトが止まり、ティコはフロアに降りた。

 マルチェロは微笑する。

「テーちゃんが『寂しい』だなんて言ってくれるとは想わなかったよ。後ろ髪引かれるなぁ」

「社交辞令だよ。真に受けるな」ティコは鼻で笑った。

「つれないな、テーちゃんは。……ところでテーちゃんはいつまで宿泊するの?」マルチェロは新のボトルを差し出した。

 ボトルを受取ったティコはキャップを捻ると手を止める。

「……明後日発つつもりだ」

「へぇ。じゃあ明後日にしようかな」

「馬鹿。仕事だろ? さっさと行きな」

 マルチェロは苦笑した。

「……マルチェロにお礼したい。いっぱい御馳走になったし、この間は車で離れ小島に、昨日は不思議な崖までツーリングしたし……。ビーチでバーベキューしたり異種格闘戦したりとか、マリンスポーツやセイリングも楽しかった。……本当に楽しかったよ。それに介抱もして貰って……迷惑をかけた。ごめん。でも良い想い出を作れた。ありがとう」瞳を伏せたティコはボトルの水を呷った。

 恥じらうティコにマルチェロは微笑んだ。

 水を胃の腑に送るとティコは長い溜め息を吐く。

「……何がいいか分からないんだ。マルチェロは高いスーツをポンと買える金持ちだから物や食事をプレゼントしてもあまり喜ばないと想ったんだ。いつかお礼をしたいと想って今まで考えていたんだ。でも分からないんだ」

「お礼なんていいよ。そんなお葬式みたいな顔されると困るよ。俺はテーちゃんの笑顔を見たいだけだから」

 ティコは首を横に振る。

「わ……私だってマルチェロを喜ばせたい」頬を染めた彼女は外方を向いた。

 溜め息を吐いたマルチェロは両肩をすくめる。

「……本当に頑固だな、テーちゃんは。じゃあさ、俺の願い一つ聞いてくれる?」

 顔を上げたティコはマルチェロを見つめた。

「俺もテーちゃんと過ごせてとても楽しかった。いつまでも一緒に居られたらいいのにって想った程楽しかった。笑顔のテーちゃん見られて良かった。だからそんな寂しい顔をしないで欲しいんだ。今日も昨日や一昨日みたいに……笑って過ごして欲しいんだ」

「それが願い?」眉を下げたティコは問う。

「ああ。何よりも望むものだ」

 ティコは小さな溜め息を吐くと微笑する。

「分かった」

 二人はいつも通り過ごした。しかし泳いだり出掛けたりと、何かをして過ごさなかった。ビーチチェアに座して缶ビールを片手に取り留めも無い事を語り合った。それだけで良かった。過ぎ行く一秒一秒を惜しんだ。

 マルチェロの少年時代の話を聞きながらティコは水平線を眺める。

 彼は欧州のとある島で暮らしていたらしい。島の名前を問うたがマルチェロは微笑して答えてくれなかった。

 マルチェロは缶を呷ると『爺さんと二人きりで暮らしていたんだよ』と話を紡いだ。

「海も建物も美しい所だった、この島みたいにね。俺、自然に抱かれて育ったんだ。爺さん酷い奴でさ『鍛えてやる』って毎日山を登らせたり、崖昇らせたり、渓谷走らせたりするんだけど、自分は全然見てないんだよ」

 肩をすくめて微笑するマルチェロの隣でティコは微笑する。

「酷いじじいだな。見てないじじいは何をしてたんだ?」

「美女を侍らせて鼻の下伸ばしてんの」

「元気なじじいだな」ティコは笑った。

 そんな彼女を見遣ったマルチェロも笑う。

「ああ。『このクソじじい! 今に見てろよ!』って毎日限界まで走ったり登ったりしてた」

「悔しさだけじゃ努力は続かないだろ? どうして鍛えてたんだ?」ティコは問うた。

「ん? 鍛えたかったからだよ」マルチェロは微笑んだ。

「喰えない奴だな」

「背が伸びるとさ、今度は勉強を詰め込まれてさ。爺さん顔が広くて、色んな友達を呼んで俺に勉強を教えさせるの。端から見りゃ教育熱心な爺さんだろ? 俺を友人に任せて何してたと想う?」

「女と遊んでたんだな」ティコは笑った。

「そう! 村娘に手をつけてたんだよ。頑張っちゃったらしいんだ。……お蔭で村娘との間に出来た赤ん坊の世話を時々押し付けられてさ。勉強や鍛錬の合間におしめ替えたりミルク飲ませたり『俺、何してんだろう?』って何度も想った。その間、爺さん何してたと想う?」

「若い嫁さんと宜しくやってんのか?」呆れて笑うティコは問うた。

「新しい女と愛を交わしてたんだよ」マルチェロは苦笑する。

「最低だな」ティコも苦笑した。

「俺とは血が繋がってないだけどさ、婆さんの耳に入ったようで婆さんもうカンカン」

「伴侶が居たのか!」ティコは噴き出した。

「俺と暮らすにあたって爺さんと婆さん別居してたんだよ。婆さん、一緒に住むと俺が遠慮するんじゃないかって気を遣ってくれたみたいなんだ。でも『孫を連れて早く帰って来い』ってペン軸を何本も折っただろって筆圧の字で手紙を寄越してきてね。大きな体を生まれたての子鹿のように震わせる爺さんを引き連れて婆さんの許に行ったんだ」

「マルチェロ……苦労したんだな」

 マルチェロは肩をすくめるとおどけたように笑う。

「まあね。でもあの島の生活があったからこそ今の俺が居る訳だし、あの生活を通らなければテーちゃんに会えなかったとも想う」

「島で過ごさなければ会わなかった、と?」

「ああ。会えなかった」瞳を伏せたマルチェロは頷いた。

 ティコは鼻で笑う。

「まるで予定された未来……運命のように言ってくれるじゃないか。気障ったらしいな。運命だなんて」

「運命? 運命は自ら切り開く物だよ、テーちゃん。全ては自分次第……心意気が未来を変えて行く。心意気が変われば、行動も変わる。行動が変われば環境が変わる。環境が変われば運命も変わる」

 マルチェロはティコの青白く光る不思議な瞳を見つめた。ティコはマルチェロのターコイズブルーの瞳を睨む。

「運命を変えてきた、と?」

 マルチェロは頷く。

「ああ。俺、爺さんの許に引き取られる前に占い師に言われたんだ。『運命はあなたの手の中にあるわ』って。それから随分理不尽な目に遭った。大切な人に突き放されたんだ。……その人は俺の為にと想ってやった事だったけど。このままじゃもう二度と会えない、と悟ったんだ。きっとそれが運命なんだろうってね。だから自らを変えてきた。結果を変えるには原因を見つめ直さなければならない。それが本質なんだ。俺は全てを変えてきた。運命を変えてきた。……もう少年時代の面影すら残ってない。偶に自分が何者なのかも分からなくなるよ」瞳を伏せたマルチェロは溜め息を吐いた。

「……マルチェロ、お前さんは一体何者なんだ?」

 ターコイズブルーの瞳をマルチェロは上げた。

「マルチェロはマルチェロさ。ただ……それが始めから『マルチェロ』だった訳では無い。テーちゃんだって始めから『ティコ』だった訳じゃないだろ?」

「……ああ」

 ティコは瞳を伏せた。……一体私は何処で『ティコ』になったんだろう? ニコラスに裏切られた時? ノエルに死の切っ掛けを与えた時? それとも……。

「ねぇテーちゃん」

 ティコは徐にマルチェロを見上げた。

「テーちゃんさ、死を考えるのはもうやめようよ」

 青白く輝く不思議な瞳が見開く。

「ど……うして、私が死にたいって」

 ティコが言い切らぬ内にマルチェロは言葉を紡ぐ。

「瞳を見た時、分かったんだ。上辺では笑ってるけどとても悲しい瞳をしてるって。明日にも未来にも希望を見いださない瞳だった。一等星のような綺麗な瞳をしているのに。……北極星すら浮かばない暗い夜空の下、真っ黒な海に流される船みたいに寂しげだった」

 ティコは唇を噛む。父に裏切られた事や船倉で船員達に犯された事、ノエルに犯された事を見透かされているようで悔しかった。

 マルチェロは言葉を続ける。

「そりゃ誰だって身を置く境遇は違うさ。でも『幸福に生きたい』ってのは一緒だろ? 誰しもその権利を持っているし、またそうなるべきだと想うんだ。だから諦めないで挑戦し続けるべきなんだ。明日を……未来を変えようとするべきなんだ。自分が変われば……運命も変わる。死んじゃったら変えようがないんだ」

「……今更、もう遅いよ」ティコは表情を歪めた。

「遅くないよ。こうやって俺と話してるもの。テーちゃん、生きてるもの」

 ティコは首を横に振る。

「……遠い昔、大事なものをなくしたんだ。いいや……捨てたんだ」

 瞳から涙を伝わらせたティコは長い溜め息を吐く。

「忘れよう忘れようと努めたけど忘れられなかった。……いいや、忘れたくなかった。幸せに過ごしてる所を一目見たいと想って行方を探した。捨てた癖に……身勝手だけどね。でも見つからなかった」

「探せばまだ何処かにあるかもしれないよ?」眉を下げたマルチェロは問うた。

 ティコは首を横に振る。

「ほんの僅かな間、抱きしめていたものだけど……本当に大切だったんだ。それまで生きる意味を見いだせなかったのに抱いている間は心から『生きたい』と感じた。……生き甲斐だった。でももう永遠に会えないんだ」

 ティコとマルチェロは口を噤んだ。引いては押し寄せる波の音だけが二人をつなぎ止める。

 抱いた膝を見つめるティコをマルチェロは見遣る。

「ごめん。笑顔を見たいって言ったのは俺なのに……そんな顔をさせて。また……出会えるかもしれない」

「だと……いいね」

 ティコは寂しそうに笑った。



 初めて二人で食事をしたリストランテで夕食を楽しんだあと、古酒専門のバーで酒を酌み交わした。そしてマルチェロはいつものようにティコを部屋まで送った。

「じゃあ……おやすみ」ドアの前でマルチェロは微笑んだ。

「……いつも『また明日』って言っていたのにもうそれが無いんだね」ティコは瞳を伏せた。

「明日は早いからね。急いで首都に向かわないと」

 ティコは苦笑する。

「なんだい。ジムで『じゃあ明後日にしようかな』って言ってた癖に」

「そうもいかなくなったからね。こう見えても忙しい人間なんだ」

「忙しいのは良い事だよ。……余計な事を考えなくて済む」

 ティコは寂しそうに笑った。彼女をみつめたマルチェロは瞳を伏せた。

 溜め息を吐いたティコは俯く。

「……良くしてくれてありがとう。朝早いのにバーまで付き合ってくれて。マルチェロ、お前さんを忘れないよ」

「うん。俺も……ありがとう。テーちゃんと過ごせて楽しかった」

 ティコは顔を上げた。するとマルチェロと視線が合った。出っ張った眉弓の所為で影が射す眼窩でターコイズブルーの瞳が微かに潤んでいた。しかしマルチェロは直ぐに視線を逸らした。

 それでもティコはマルチェロを見つめた。切ない瞳だった。

 瞳を伏せつつもティコの首筋を見遣ったマルチェロは手を伸ばす。

 ティコは瞳を伏せる。

 ティコの首筋に触れたマルチェロの指は筋に沿って下がる。

 外方を向いたティコは紅い唇を噛み、羞恥と歓喜に堪えた。

 やがてマルチェロの指先はチョーカーの黒いベルトに触れると、赤いティアドロップガラスに触れる。

 ちり、とガラスは揺れた。

 ティコは浅い溜め息を吐いた。

「……赤いガラス、似合ってるね。ルビーなんかよりも君らしくて素敵だ」指を離したマルチェロは呟く。

「……思わせぶりな男だね」ティコは苦笑した。

「そう? 愛する女神にはいつだって紳士さ」

「今のはオオカミのする事だよ」

 二人は穏やかに微笑み合う。虫の鳴き声がよく聴こえた。

「……いつか」ティコは言葉を紡いだ。

「ん?」

「いつか……また会えるかな?」

 マルチェロは瞳を伏せるとティコの額に額を寄せた。

「笑顔で『またね』なんて大人になっても言えないものだよ。でもこれだけは言える。……運命は手の中にあるんだよ」

 瞼を見開いたマルチェロとティコの視線が合う。マルチェロは額を離すと悪戯っぽく微笑む。そして踵を返すと片手を挙げ、去った。

 遠ざかるマルチェロの背をティコは見送った。

 長い溜め息を吐いたティコは部屋に入るとシャワーを浴び、ソファに座した。バスローブに包まり膝を抱いた彼女は赤いガラスのティアドロップを弄び、別れの余韻に浸る。

 胸の奥でマルチェロと自分の声が反響する。

 ──今日も昨日や一昨日みたいに……笑って過ごして欲しいんだ。

 ──それが願い?

 ──ああ。何よりも望むものだ。

 マークと言う希望を失い、兄に愛車であるバイクを譲り、イポリトに想い出のピアノを託した今、自分の手中には何も無い。

 ティコはサイドテーブルの書類を見遣った。まだサインはしてない。

 希望を探して生きるよりも、このまま書類にサインして死を迎える方がどれだけ楽な事だろうか。幼少時から望んでいた死を漸く手に入れられるのだ。迷う事なんか無い。……なのにどうしてマルチェロの言葉が甦るのだろう。

 生きる……って何だろう。

 どうやって生きたらいいのだろう。

 今まで死を追いかけて、生きる事を蔑ろにしていた。

 人差し指と親指でティコは赤いガラスを擦る。

 ……生きるにしても何を望みにして生きれば良いんだ?

 するとマルチェロの言葉が脳裡をよぎった。

 ──笑顔で『またね』なんて大人になっても言えないものだよ。でもこれだけは言える。運命は手の中にあるんだよ。

 ティコは赤いガラスを握り締めた。

 よく分からないよ、マルチェロ。私はマルチェロみたいに独りでも強く生きられる程立派じゃない。マルチェロは強い。群れを離れて狩りをするオオカミみたいに。孤高と孤独は違う。独りぽっちの私は砕け散らないように強がってるだけだ。このガラスと同じで脆い……。

 でもまた会いたいな。もうお別れだなんて……さっき別れたのにもうあいつの笑顔が見たくなる。あいつが……マルチェロが笑ってると『大丈夫かもしれない』って想える。生きても大丈夫かもしれないって……。

 ティコは頬が熱くなるのを感じた。

 マルチェロを想うと胸がじんわり暖かくなる……。

 ティコは長い溜め息を吐く。

 私の夫はマークだけだ。

 腰を上げたティコはサイドテーブルに向かう。書類の上に置いたフォトフレームの中でマルチェロが笑っていた。ティコは自らを戒める為にフォトフレームを伏せる。留め金が外れたが彼女は気付かずに寝てしまった。

 翌朝、ティコは漁に出る小舟のエンジン音に起こされた。

 目を擦りつつも大窓を見遣ると茜色の朝焼けが湾に雲を映していた。

 ……マルチェロはまだ居るのかな。居るなら見送りたいな。友達だもの。

 身支度を整えようとティコはベッドから出る。するとサイドテーブルに伏せていたフォトフレームが目についた。

 フォトフレームを立てようとしたが裏板が滑り落ちた。納めていた写真が裏板と共にフローリングに落ちる。ティコは写真を拾った。写真をフレームに納めようとすると写真用紙ではない紙の手触りを感じた。

 ティコは用紙をずらす。すると黄ばんでなよやかになった紙が現れた。シミや修繕の跡があり、とても古ぼけていた。字が綴られていた。インクが濃い。最近綴られたのだろう。字体も見覚えがある。マルチェロの字だ。

『バンビとガラスの女神』

 ティコは紙を引っくり返した。すると数年前に別れたものと再会した。青白く光る瞳は見開かれ、直ぐに細まる。瞳から涙が溢れる。頬を伝い、フローリングに落ちた雫はガラスのように形を失った。

 古ぼけた紙をサイドテーブルに置いたティコは急いで着替えると、部屋を飛び出した。

 古ぼけた紙の中では、ティコとマークが互いを見つめ微笑み合っていた。

 非常階段を三段飛ばしで駆け下りマルチェロの部屋のドアをノックする。しかし反応がなかった。

 もう発ったのか。でもチェックアウトの手続きをしているかもしれない。クソ。電話番号やアドレス交換しておけば良かった!

 レセプションデスクへ向かおうと廊下を駆けると、対面から朝食を乗せたサービスワゴンを押すバトラーとぶつかりそうになった。

 咄嗟に体をかわしたティコは謝る。

「ごめんなさい」

 白いお仕着せを着たバトラーは動揺したが直ぐに穏やかな表情を作った。見知ったスタッフだった。

「お怪我は御座いませんか」バトラーは問うた。

「はい」

 マルチェロが宿泊していたフロアにティコが居たので、普段の彼女の行動を知っていたバトラーは全てを察した。

「お連れ様でしたら先程」

 ティコの瞳が見開かれた。バトラーの言葉が終り切らぬ内にぷつんと聴覚が切れる。喉や眼窩、鼻腔と言うありとあらゆる粘膜が緊張で乾く。

「そ……うですか」声を振り絞るとティコの聴覚は戻った。

「三十分程前にハイヤーで空港へ向かわれました」

 三十分。……高速に乗れば空港までは一時間掛かる。ネットでチェックインをしていなければマルチェロは足止めを喰うかもしれない。運が良ければ彼を捕まえられる。

「ハイヤーを……ハイヤーを呼んで下さい! 今直ぐ!」

 ティコの剣幕に圧されたバトラーは直様彼女をロビーへ送った。
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